礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

急に巡査の態度が一変し、訊問口調をやめた

2019-07-07 04:52:28 | コラムと名言

◎急に巡査の態度が一変し、訊問口調をやめた

 二年ほど前、萩原朔太郎のエッセイをふたつ紹介した。「作文の話」と「病床生活からの一発見」である。このときは、ふたつとも、『日本への回帰』〔萩原朔太郎全集 10〕(小学館、一九四四)から引用した。その後、その底本である『日本への回帰』(白水社、一九三八年三月二六日)を入手した。あらためて読んでみたが、やはり面白い。もちろん、文章もよい。
 本日は、同書から、「学校教師の話」というエッセイを紹介してみよう。

   学 校 教 師 の 話

 明治大学の吉田甲子太郎〈キネタロウ〉氏に引つぱり出されて、一昨年から無理矢理に教壇に立たされた。初めて教壇に立つた時は心細かた。同じ大学の教壇で、室生犀星〈ムロウ・サイセイ〉君が引つくり返つたといふ話をきいたので、よけいに怖いやうな気がして、足がぶるぶるした。でもどうにかごまかして最初の一時間の授業を終つた。後で生徒に所感をきいたら、早口でわからんからもつとゆっくり言ってくれと言た。その筈である。ノートに書いて行つた教材を、ベラベラ素読したのである。自分でも何を言つたのか解らなかつた。
 大学講師なんていふもの、名前ばかり仰々しくて、何の役にも立たないものだと思つて居たが、近頃の経験から、まんざらさうでもないことを知つた。といふのは、僕がこつちへ越してから、煩さく〈ウルサク〉来た戸籍調べの巡査が、この頃来なくなつた話である。初めの中〈ウチ〉は実に巡査がよくやつて来た。著述業といふと何を書くのか、詩といふのは漢詩のことか。詩吟をするか。どんな雑誌に書くのか。稿料はいくら取るか。種属は何か。単行本を出してゐるか。どんな本か。著作の名を一々言へ。内容について話せ。等々。実に煩さく面倒である。それも一度ならいいけれども、幾度もやつて来るのである。しまひにはあんまりしつツこくて厭やになたので、ふと学校の事を思ひ出し、大学講師もして居ると言つたら、急に巡査の態度が一変し、今迄の訊問口調をやめて、すつかり丁寧におじぎをした。もうそれで一切わかつた。嫌疑は晴れました。何も問ふことはありませんといふやうな調子で、急にさつぱりした顔をして帰つたので、こつちもすつかりさつぱりした気もちになつたが、その後一向にやつて来ない。来ても一通りの人員調査をして、さつさと帰つて行くばかりである。
 こんなことだつたら、初〈ハジメ〉から著述業なんて言はずに学校教師と言へばよかつたと思つた。実際著述業といふ中には、色々な種類のヨタモノが含まれて居る。インチキの刊行物を発行して、人にゆすりたかりをしたり、イカサマ商品の押売広告を書いたり、選挙ブローカアや政治ゴロみたいな連中が、皆この「著述業」といふ看板を出してゐるのである。交番で不審尋問される時、著述業と言ふと余計に訊問がきびしくなるのを、前には不思議に思つたが、考へてみれば当然の話であるし、戸籍調べの巡査が、著述業ときいて煩さく調べるのも当然である。巡査の方は職務上のお役目なのだから、大学講師といふ立派な職業があるのだつたら、初からそれを言つてくれればよかつたのに、と腹の中で思つたのにちがひない。僕は巡査が帰つた後で、「余計な御手数をかけてすみませんでした」と口の中であやまり乍ら頭をさげた。
 も一つ都合が好いのは、旅で宿屋に泊る時である。以前は無職と書いたが、何か番頭が変な目で見るやうに思はれ、不愉快の事が多いので、その後はやはり著述業と書いた。しかし前に述べたやうな理由で、これもあまり好遇されず、多少嫌疑的の目で見られる。といつて会社員などとデタラメを書くわけにも行かんし、況んや文士だの詩人だのと宿帳に書くほど馬鹿でもないので、実に困りきつて居たのであるが、学校へ行くやうになてから、大威張りで教師と書ける。これは全くありがたい役得であり、その度毎〈タビゴト〉に吉田甲子太郎氏に感謝してゐる。

 吉田甲子太郎(一八九四~一九五七)は、児童文学者。一九三二年(昭和七)、新設された明治大学文芸科の教授となる。このときの科長は、山本有三であったという。
 吉田甲子太郎の短編「星野君の二塁打」(初出、一九四七年八月)は、近年、道徳教科書に採用された。その内容をめぐって、いろいろな議論があったことは、このブログでも紹介したことがある。

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