◎萩原朔太郎のエッセイ「日本語の不自由さ」
本日も、萩原朔太郎『日本への回帰』(白水社、一九三八)に載っているエッセイを紹介する。本日、紹介するのは、「日本語の不自由さ」。このエッセイは長いので、何回かに分けて紹介する。一行あいているところは、原文でも、そうなっている。
日本語の不自由さ
日本に生れて日本語が不自由だなどと考へるのは、日本人が日本人たることを拒絶するやうなものであり、まさしく非国民的な思想かも解らない。しかし今日の日本で、電車や自動車の走る東京の町を歩く時に、和服が不自由だと感ずることが事実ならば、そしてそれを感ずることが、必しも非国民的思想でないとすれば、僕等が今日の日本に於て、日本語を不自由と感ずることにも無理がないのだ。
かかる日本語の不自由性を、今日最も強く感じてゐる者は、僕等のエツセイストと科学者とである。なぜならこの二つの者(科学とエツセイ)は、共に近来西洋から来た舶来品で、古来の伝統日本に無かったからだ、伝統の日本文化は、本来「ことあげせぬ国」を誇りとして来た。そこで日本語には論理的な要素が殆んどない。論理的な要素とは、概念を抽象上に分析配例して、これを判然明白に説明することのシステムである。一二の例をあげよう。
音響トハ空気ノ振動ニヨツテ生ズル音波ガ、聴覚器管ノ末梢神経ニ伝達シ、中枢神経ニヨツテ知覚サレル所ノ現象デアル。
読者はこの文章を読み終つて、最後に今一度そのセンテンスを頭の中で組み建て直し、漸く初めて音響の理を了解し得る。いかにも煩瑣〈ハンサ〉で廻りくどく、しかも曖昧不明瞭の「非論理的」文章である。だが日本語では、これより外に同じことを説明する方法がない。上例はむしろ最善の文章であり、この種の者の中での、最も解り易く書かれた名文でさへある。しかもそれすらが、このやうに廻りくどく感じられるのは、「空ノ振動ニヨツテ生ズル音波」といふ如き一つのフレーズが、この観念の説明上で、順位を逆にしてゐるからである。これを仮りにもし、次のやうに書き換へて見給へ。
音響トハ音波(空気ノ振動ニヨツテ生ズル)ガ、ソレノ伝達サレル末梢神経(聴覚器官ノ)ヲ経テ、中枢神経ニヨツテ知覚サレル現象デアル。
として見給へ。ずつと直接法的に解りよくなるであらう。更らに尚次の如く書き直して見よ。
音響トハ一〈ひとつ〉ノ現象――ソレハ中枢神経ニヨリテ知覚サレル――デアル。ソノ現象ハ音波――—空気ノ振動ニヨツテ生ズル――ガ、聴覚器官ノ末梢神経ニ伝達スルコトニヨツテ生ズ。
とすれば一層説明が判然として、論理的明確性を増してくる。だがこれでは、殆んど全く日本語の文章とならないのである。読者はこの索引符号のやうなセンテンスを、普通の日本語の文章に直す為に、二重にまた骨を折らねばならなくなる。しかし仮りにさうした文章意識を離れた立場で、純粋に観念の構成上から考へて見よ。この後者の説明法に於けるシステムが、前者よりも遥かに解りよく論理的明確であることを知るであらう。つまり音響といふことを説明する為には、最初に先づそれが一〈ヒトツ〉の知覚的現象であることを説き、次にその知覚が、音波によって喚起されることと説くのが、最も解り易い論理的な説明である。そしてこの際、音波が如何にして生ずるかといふやうなこと、或は知覚がいかにして喚起されるかといふやうなことは、その音波や知覚やの主語の次へ、ダツシユとして附加すれば好いのである。然るに日本語では、「空気ノ振動ニヨツテ生ズル音波」と言ふやうに、肝心の主語(音波)がフレーズの一番最後に来て、附加のダツシユが長たらしく前口上を逆べ立てるので、前後矛盾し、支離滅裂となり、論理的に頭の中が混乱して、容易に意味の取れない難物となってしまふのである。 【以下、次回】