礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

木柄の作り方は留公だけに教えた(小町若狭匠)

2019-07-23 04:14:51 | コラムと名言

◎木柄の作り方は留公だけに教えた(小町若狭匠)

 昨日、紹介した田中紀子さんの文章のなかに、小町和義さんのお名前が出てきた。小町さんは、八王子の宮大工棟梁の家に生まれている。この宮大工棟梁のことが、尾股惣司さんの本『鳶職【とび】のうた』(丸ノ内出版、一九七四)に出てきたような記憶があったので、引っぱり出してみた。
 やはり出てくる。同書中の一篇〝「つん留【とめ】」の話〟の中に、出ていた。この一篇は珠玉のような名篇であって、全文を紹介したいところだが、著作権の関係があるので、その一部のみを紹介する。まずは、最初の部分。

 昔といっても、今より六、七十年ぐらい前のことである。甲州街道八王子の八木町に三年坂【さんねんざか】というだらだら坂がある。この南側の通りあたりに木柄【きがら】大工留吉が住んでいた。
「木柄【きがら】」とは、土蔵の入口(「戸前」という)や窓のどっしりとした「観音開き」の土の扉の心骨になる、栗材【くりざい】または檜材【ひのき】をもって作られた木枠のことで、鍛冶屋の作った頑丈な肘金【ひじがね】をつけた、一見あらけずりの不細工な代物で、「木柄大工」などと、お世辞にも言えた代物には見えない……が、何十年という歳月を一枚の木枠の作り方で、四、五十貫の土や漆喰【しつくい】をがっちりと受けとめて、いまだに開【あ】け閉【た】てのできることは、まさにお見事というよりほかはない。
「つん留」とは、老母を抱えたつんぼの留吉のあだ名で、愚鈍ながらも親孝行な少年であった。普通では承知してくれないところを、寺の和尚が口ききで、寺町の宮大工棟梁の小町に弟子入りすることができた。

 ここに、「寺町の宮大工棟梁の小町」と出てくる。「今より六、七十年ぐらい前のこと」とあるので、明治後期の話であろう。当時の棟梁は、たぶん、小町小三郎(一八六二~一九四五)。小町和義さんの祖父に当たる人である。
 尾股惣司さんの一篇の中ほどを割愛し、最後の部分を紹介する。

 本当に血のにじむ苦労の末にやっと物になった時は、一年の礼奉公もいつのまにか、二年近くの歳月がたっていた。辛抱した留吉もえらいが、棟梁がまたえらかった。ある晩に家の職人や弟子たちを全部集めて、
「木柄の作り方は留公だけに教えた。他【ほか】の者には教えぬ。手前達【てめえたち】に教えたら、留公が喰えねえ。留公一代は家【うち】でも木柄は作らぬ。必要な時は留公から買う。みなもそれでなっとくしてくれ」
と言ったと……さすがに当時の高尾山薬王院出入りの大棟梁小町若狭匠【わかさのかみ】である。
 その後、留吉は三年坂に住み、注文があるたびに木柄を作り、ない時は脚立〈キャタツ〉や梯子〈ハシゴ〉や炬燵櫓〈コタツヤグラ〉などを作っていたという。その櫓はいくら火の上にあっても、ガタがこないので名人芸といわれた。
 これは今日叫ばれている身体障害者職能教育をすでに六、七十年ぐらい前に一人の棟梁がやったことだ。自分の家で仕込んだ職人や弟子たちに、錣【しころ】を下げて「留公を喰えるようにしてやってくれ」と、神社仏閣、山車【だし】、住宅【すまい】、蔵【くら】の建築にかけては、八王子でも有名【ゆびおり】な親方が、不幸【ふしあわせ】な一人の弟子のために、自らの権威も面子【メンツ】もさしおいて皆中【みんな】にたのみ、一人の人間を救い上げ世に出した。
 私も戦後、元本郷の横山さんの土蔵をこわした時に観音開きの木柄をばらしたら、「武州八王子木柄大工留吉」と墨さしで書いてあるのを見た。なんとも、まのぬけた字で、しかし味のある書き方であったとおぼえている。
 市川留吉の墓は現在八王子市元本郷町善龍寺境内にある。

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