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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山の子供は猿の如き敏捷さで峻路を先行する

2019-07-03 02:56:56 | コラムと名言

◎山の子供は猿の如き敏捷さで峻路を先行する

 昨日の続きである。昨日は、『国民教育〔初六〕』第三巻第四号(一九四三年七月)の巻頭にあった「熾烈なる責任感」という文章を紹介した。いかにも戦時色の強い文章だったが、本日は、同じ号に載っていた別の文章を紹介したい。
「山の饗宴」と題するエッセイで、「教壇余滴」というページにある。筆者は、国民学校訓導の土屋正明。こちらは全く戦時色がない。

    山 の 饗 宴     土 屋 正 明

 私が学校出て間もなく赴任したのは山深い甲州の、わけても山嶽重畳〈チョウジョウ〉せる一山村国民学校であつた。分校本校と別れてゐて、分教場は深い高原上の谷合にあつた。初四〔初等科四年〕迄は此の校舎に学び、初五から一里有余の山道を本校へ通ふのであつた。分教場は唯一人の老練訓導が十年一日の如く、黙々と勤務されてゐた。そして月例職員会議には、あの山道をテクテクと下つて来た。季節々々の山幸〈ヤマサチ〉を縞の布呂敷一杯かゝえこみ、会議後の茶席を賑はした、年中行事の一つに、年一回分教場研究授業を参観に及ぶことになつてゐた。その日ともなれば山道歩行に都合のよい、いでたちで分教場出身の高学年生に案内されて、子供達の遠足時に気分にも似て、山嶽行となる。我々喘ぎ喘ぎ登る峻路も山の子供は猿〈マシラ〉の如き敏捷さを以て間道、近道を先行し、遥か彼方で手など振る。彼等はじめじめした叢〈クサムラ〉を睨みつゝによろによろ這出す長い奴をふ器用な手付で捉まへる。手に巻き付かうが懐〈フトコロ〉へ入らうが一向おかまひなし。若い女先生青い悲鳴をあげつゝ分教場へといそぐ。やがて分教場へと着く。物見高い山間の子供達は人なつげによつて来る。然し何時か視祭に来られたH視学殿、県下一の複式分教場の経営と激賞しただけあつて、校舎内外の諸設備、初四とも思へぬきびきびした上級生振りほとほと感心してしまつた。やがて始業十時半一時限授業参観し、批評会を済ます頃は錆びた柱時計はは一時を告げる。愈々これより先生御自慢の手料理に舌鼓打つのである。名ばかりの職員室中央に大きな爐〈イロリ〉がきつてあり、そのかたわらに、さつき捉へた〈ツカマエタ〉、蝮〈マムシ〉の御大串に刺されて、こげこげと焼かれその蒲焼〈カバヤキ〉臭ひが空腹時の鼻をつく。やがて麓〈フモト〉のなんでも屋の婆さんから背負上げてきた御酒が廻つてくる、長い奴を順につまみ喰ひする、鰻以上の味はひに女先生迄口に運ぶ。さんしよう、山うど、たらの芽、わらび、野生の雑草、もろこし餅と出るわ出るわ正に山の豪華の饗宴だ。やがて裏の大杉に陽が傾く頃、山の分教場を辞すのである。あゝかれこれもう十年も昔の思ひ出となつてしまつた。私はあの長いのを、みるたびに温いもてなしと、山の饗宴をたまらなく懐かしく思ふのである。(山梨県白根校訓導)

 一九四三年(昭和一八)の文章だが、その「十年も昔の思ひ出」を記しているので、一九三三年(昭和八)前後の話であろう。当時の山村における初等教育の一面が、非常にいきいきと描写されている。
 文中、「ふ器用な」は原文のまま。ここは、「不器用な」の誤植だと思うが、文脈からすると「器用な」でも良いのではないかと感じた。「御大串」の読みは不明。あるいは「おんおおぐし」か。
 それにしても、この分教場は、どこにあったのだろうか。今でも存続しているのだろうか。

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