礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

エッセイは文学の中での「議論」である(萩原朔太郎)

2019-07-12 02:33:12 | コラムと名言

◎エッセイは文学の中での「議論」である(萩原朔太郎)

 萩原朔太郎『日本への回帰』(白水社、一九三八)から、「日本語の不自由さ」というエッセイを紹介している。本日は、その二回目。一行あいているところは、原文でも、そうなっている。

 僕の亡なった老祖父は、半ば笑談まじりによく言つた。日本は世界で正道と歩む唯一の国だ。なぜなら見よ。西洋の言葉でも、支那の言葉でも、皆逆さに引つくり返つて読むではないか。日本語だけが真直〈マッスグ〉であり、正しく逆立ちしない言葉だからと。しかし西洋人や支那人の方から見れば、日本語の方が逆に引つくり返しになつてるわけで、これはどつちが正しいといふ問題ではない。ただしかし言ひ得ることは、外国語(特に欧洲語)の方が、日本語に比してロヂカルであり、科学的の明確性と判然性とを、多分に持つてると言ふことである。したがつて科学論文の類は勿論、すべての文学的論文の表現には、僕等の国語がこの点で大きな負担となつて来る。今日その負担を、最も痛切に感じてるものは科学者であり、次に僕等の文学的エツセイストである。
 文学的論文、即ち所謂エツセイに於ては、もとより科学文献の如き論理性や、概念の明確性やを必須としない。エツセイは――それが文学品である限り――作者の主観的な情操表現であるからである。しかしながらエツセイは、とにかく文学の中での「議論」であるから、詩や小説の類とちがつて、思想の解説に於ける判然性や明確性やを要求する。その上に尚、最も要求されることは、文芸修辞としてのゼスチユアである。すべての文学的論文は、それが高邁な精神で書かれるほど、必然に叙事詩的のエスプリを帯びることから、言語に韻律的の節奏性が加つて来る。この点に於て、エツセイは演説と同じである。強い情熱を以て語られる演説は、必然に韻文的の言語を生み、避けがたくゼスチユアが附加してくる。
 所が日本語は、この点でまた大に不便なのである。そしてその理由は、前述べたことと同じ国語の構成法に基因してゐる。即ち主語がフレーズの最後に来ることと、判断がいつも文の終りに来ることである。特にこの後の事情――判断が文の終りに来ること――は、日本のエツセイストを常に渋難させる。次の例を見よ。

 我等はかかる環境の中にあつて、人を困難ならしめる種々の事情と戦ひながら、充分に尚自己の社会的地位を獲得する迄、現状に忍従すべきか否か知らない。

 かうした文章を読む場合、その筆者の意志する点が何所にあるかを、最後の一句に終る迄解らないのである。「我々は」といふ最初の一句は、「忍従すべきか否かを知らない」といふ最後の一句に連結して居る。そしてこの両者の中間には、長たらしい他の文句が挿入されてる。おそらく筆者は、この書き出しの最初の言葉と、最後の断定のフレーズとに、感情の力をこめて言ひたいのだらう。然るにこの中間に長たらしい幕合〈マクアイ〉がある為に、最後の肝心な言葉は、すつかり気が抜けてアクセントを無くしてゐる。これをもし外国語で書けばI don't knowとかIch kennen nichtとか言ふ工合になり、論旨の主眼である判断が先に出るから、自然そこに強い情操のアクセントがつき、文章全体が抑揚性のある真のエツセイとなるのである。【以下、次回】

 文中、誤植と思われる箇所があったが(文学品、渋難)が、そのままにしてある。

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