◎源氏物語ほど難解で曖昧な文章は世界にない(萩原朔太郎)
萩原朔太郎『日本への回帰』(白水社、一九三八)から、「日本語の不自由さ」というエッセイを紹介している。本日は、その三回目。
この判断が文の最後に来るといふことは、日本語でエツセイする時の最も大きな阻害である。僕はかつて前著「詩人の使命」中の或る論文にもそれを書いたが、かうした日本語の特性を利用して、昔から色々な遊戯が行はれてゐる。例へば「僕の好きな人は貴女〈アナタ〉より外にないと言ふことを約束……」といふから「する」と言ふかと思ふと、意外に「しない」と言つて対手〈アイテ〉をペテンにかけるのである。「する」のか「しない」のか、ノーかイエスか、文章の最後まで来なければ解らないのだから、読者にとつてこれほど歯痒いことはなく、筆者にとつてもこれほど不満足のことはないのだ。
しかし短所は同時に長所である。かうした日本語の特色は、判断の明確性を必要としない他の文学。即ち小説や随筆に於て、却つて多くの表現的利便を持つてる。元来日本の文学は(詩でも散文でも)外国のそれに比して象徴的であり、象徴的であるところに幽玄な価値をもつと言はれて居るが、言語が象徴的であるといふことは、言語が判然性を欠くといふことの対比であるから、日本の文学がシムボリツクに発展したのは当然である。そしてかかる文学の代表は、小説としてはおそらく源氏物語が唯一者だらう。判然性といふ点から見れば、これほど難解で曖昧な文章は世界にない。そしてそれだけ一方に象徴的の含蓄性が多いのである。【以下、次回】