◎三十万の教育者は教室を道場とし運動場を戦場として
雑誌『国民教育〔初六〕』の第三巻第四号(一九四三年七月)から、矢野酉雄の「必勝教育の徹底的実践」という文章を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
(三) 必勝の信念を越え必勝の信仰へ
吾等は、現津神すべらめことの美手身【みたみ】、股肱として生をこの神国に享有したのである。意識するとせざるとを問はず、経験に先行して既に如上の大乗的使命をいたゞいてゐるのである。
自分さへよければよいといふ闇取引や、その他一切の醜悪な利己的所行があり得よう筈はないのだ。
自分がないのが日本である。個人的個人としての矢野の存在はゆるさるべくもない。陛下の美手身【みたみ】(御民)神国日本の神民【しんみん】(臣民)としてのみ実在するのであつて、この御民吾れが、陛下の股〈ココウ〉となり赤子〈セキシ〉となつて大乗的戦争を戦ひ抜きつつあるのである。
或は砲煙弾雨のさ中に立ちて、或は学校これ戦場、職場これ戦場として必勝の敢闘をつゞけてゐるのだ。
過般東條〔英機〕首相は、内閣、各省の全勅任官をあつめて、非常なる熱意と敬虔な態度をもつて、官吏道の本義を説き、率先躬行〈ソッセンキュウコウ〉その垂範の実〈ジツ〉を示せと訓示した。官吏は首相の官吏でもなく、大臣の官吏でもない、畏くも 天皇陛下の官吏なりと明快に指示した。
然り、 陛下の官吏、陛下の股肱、陛下の美手身即ち神国日本の指導者たる神の子である。而して天下三十万の教育者は、 天皇陛下に奉行する教育者である。この自覚が信念と信仰に純化強化されてこそ大乗的戦争を勝ち抜く真の大教育者になれるのである。それ以外には道はない。この信仰に生きるこそたゞ一すぢの道なのだ。
神の国の神の子が神の子を育成練磨することが皇道教育の真実の相【すがた】であつて、この皇道教育に挺身することこそ必勝の教育である。筆者は需め〈モトメ〉らるゝまゝに、昨年五月号の本誌に「皇道教育の本義とその実践」なる一文を寄せたのであるが、その際、皇道教育は帰するところ忠一元の教育であると結んでおいた。
然り万古 天皇を仰ぐこの忠一元の信仰に生き切ることが必勝の教育の実践者である。
こゝに、吾れにして吾ならざる敬虔にして犯すべからざる実感が湧く。相対有限に見ゆる生物的人間観が否定され、その否定の底から絶対にして無限なる神の子としての人間観が止揚されて来る。よくぞ生れけりすめらみくにに、といふ純粋感情が湧く。
大乗的戦争に参加する光栄に勇み立つのである。大東亜護持、世界新秩序創造への聖戦……道の戦〈タタカイ〉である以上、天津神、皇祖皇崇の神霊、上にありて照覧し加護し給ふ。既に勝利の栄冠は神国日本の頭上にある。「勝つであらう」これは必勝の信念ではない。道のいくさ、神慮にもとづくいくさ、こゝに吾れ既に勝てりとの不抜の信仰が起つてくるのである。
断じて敗けじ、断じて勝つ、いな勝利は既に吾が頭上に輝くといふ信仰こそ、必勝の信念より更に強い。今こそ必勝の信仰に生き切らなくてはならぬ。
剣を握り、銃をもつつわものは、これすべて陛下の股肱たる神兵である。 天皇陛下万歳とて散華〈サンゲ〉する神兵は、久遠〈クオン〉 天皇の大生命に帰一〈キイツ〉して護国の神と生くるのだ。肉体の衣を捧げて、生死無き無窮の生命に生くる。人間死んでも死せず。これこそ日本人のみ味ふことの出来る違大なる宗教的信仰だ。白面の少年航空兵さへ莞爾として挺身してゐる。尊きかな讃ふ〈タタウ〉べきかな。
天下三十万の教育者は、教室を道場とし、運動場を戦場として、乏しき待遇に焦慮せザ勇往邁進してゐる。教育塔にまつられたる多くの先達〈センダツ〉、同輩、これ等しく、日本教育道を死守して、久遠に生きる護国の英霊でなくて何ぞ。
吾等が師恩感謝の国民運動を、日満両国に渉つて展開したのも故きに非ず。(未完)(大日本文教報国会理事)
文中、「天皇陛下に奉行する」の「奉行」の読みは、ブギョウまたはホウコウ。この時代、どちらが一般的だったのかは不明。筆者の肩書に「大日本文教報国会理事」とあるが、この「大日本文教報国会」については不詳。