礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本の近代出版業界は、雑誌がベース(小田光雄)

2020-12-06 02:21:32 | コラムと名言

◎日本の近代出版業界は、雑誌がベース(小田光雄)

 井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を紹介している。本日は、その六回目(最後)で、「48 書評文化の不在」のところを紹介する。
 ここでは、インタビュアーの小田光雄氏が持論を展開し、井出彰氏は、聞き役に回っている。

   48 書評文化の不在

 井出 それにもっと実感するのは書評文化が成立していないということだね。
 ―― それを最も長く書評紙に携わっている井出さんの口からいわれると返す言葉がありませんが。
書評紙というものは編集者が一度は手がけてみたいと夢見るし、かつて岩波書店が『読む』という書評雑誌を出したが、すぐに廃刊になってしまつた。安原顯〈ヤスハラ・ケン〉はそれを九〇年代に『リテレール』で実践した。ところが実売は五、六千部だったようで、定価が千五百円の季刊書評誌でも成立しないのかと思いました。そして安原も亡くなり、版元のメタローグも破産してしまつた。
 でもその後、日本の近代出版史をたどってみて、日本は出版先進国で日本人も読書好き と喧伝〈ケンデン〉されているのに、どうして書評誌が成立しないのかの一端もつかめたように思えた。そして現在の出版危機もそれがひとつの原因ではないかと考えるに至った。
 井出 それは私のほうが聞き役に回るからぜひ話して下さい。
 ――日本の近代出版業界は明治二十年代に雑誌王国の博文館が創業しそれを中心にし て、出版社・取次・書店という近代出版流通システムが成長していくのですが、これは生産、流通、販売のすべてにわたって雑誌をベースとするもので、書籍はそれに相乗りすることによって、同じく生産、流通、販売も保たれていた。また書籍の過剰生産の象徴とでもいえる円本〈エンポン〉も、流通や販売は雑誌システムに依拠するもので、戦前にあっては単行本を売る書店は圧倒的に少なく、大半が雑誌店だったと見なせる。
 そのために雑誌の読者は増えても、書籍の読者は少なく、新刊の単行本の書評紙は生まれなかった。もちろん様々な書物趣味誌は出されていったのですが、それはジェネラルな書評紙とはいえなかった。その代わりに出版業界内の情報誌として、『出版月報』や『東京堂月報』が出され、これらが戦後の取次各社の『週報』の前身ですが、『日本読書新聞』のルーツ、範であったとも考えられる。そこに『帝大新聞』のメンバーが合流し、日本にも欧米の書評文化を移植させようとした。そうした試みが戦後の『日本読書新聞』の出発にこめられていた。
 井出 それは読者好きな日本人といわれながらも、実は雑誌が主で、必ずしも書籍を意味しておらず、出版市場もそれに対応するもので、新刊の単行本の書評紙を支える読者層は確立されていなかったということになるのかな。だから最初から無理があったと。
 ―― そう考えていいんじゃないでしょうか。欧米の場合、雑誌と書籍は流通販売ルートは別で、書籍だけで成立しているのが出版業界であるのに、日本の場合は混在し、そこにコミックも加わり、三本立てであることが特質となっている。一応書籍は八万点近く出されているけれど、専門書評紙としては『図書新聞』と『週刊読書人』があるだけで、『ダ・ヴィンチ』は書評紙ではなく、広告誌でしょう。他の週刊誌にも書評は掲裁されているが、それは新聞と同様にあくまでメニューの一環としてで、オリジナリティに乏しく、確かに書評文化が成立しているといえない。同じことは各種の月刊誌にもいえる。

 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2020・12・6(8位になぜか免田栄さん)

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