礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本語はどう研究されてきたか(三浦つとむ)

2020-12-26 03:12:13 | コラムと名言

◎日本語はどう研究されてきたか(三浦つとむ)

 本日は、ミリオン・ブックス版『日本語はどういう言語か』から、第二部第一章「日本語はどう研究されてきたか」を引用してみたい。
 引用は、一九六一年(昭和三六)五月二五日に、株式会社講談社から発行された同書の第二刷から。ちなみに、同書の第一刷は、一九五六年(昭和三一)九月二五日に、「大日本雄弁会講談社」から発行されている。

 第一章 日本語はどう研究されてきたか

   1 明治までの日本語の研究 
 古代の日本人の言語観では、われわれの言語表現が霊力を持っていて、表現された内容が現実化するものと考えました。それでこれを「言霊【コトタマ】」とよんでいます。これに似た考えは、外国でもひろく行われていたようです。言語がすべての事物の生みの親であるとか、「はじめに言語ありき」とか考えられていたようです。現在でも、新興宗教では次のように主張しています。
 「われわれの運命を支配するものには、言葉に出したものが形に現れてくるといふ法則があります。それを生長の家では『言葉の力』といつてゐるのであります。……口実にでも悪い言葉を使つてはならない。休暇を貰ふ口実に『病気』と云つてゐると本当に病気になつた人は沢山あります。」(谷口雅春「真理」第一巻)
 これは古代の「言霊」説とまったく同一です。みなさんはこれを読んで笑われるでしょうが、このような主張がうまれてくる認識論的な根拠をしらべてみると、笑っただけではすまされないものがあります。多くの人は音声や文字そのものが「意味」を持つものと考えています。この考えは正しいのです。ところが「意味」とは何かときくと、これらの人は話し手の認識であり概念であると答えます。唯物論の立場に立って芸術理論を説く学者でさえ、芸術は形式と内容との統一で、 その内容は作者の思想であると説明しています。これでは、暗黙のうちに、話し手の概念や作者の思想が頭からぬけだして音声や作品の上にまい下り、そこに腰をおちつけている、と主張していることになります。このようにして言語や芸術は霊を持っていることになります。たとえ唯物論という看板をかけていても、これは「言霊」説と本質的に同じものです。
 明治以前に行われた日本語の研究を、現在の言語学者が無視し、あるいは神がかりであると排撃する理由は、一つにはこの「言霊」説によって日本語を解釈する学者があったためです。古代のこの信仰は、江戸時代のおわり近くになってから、学問的なかたちをとって また復活してきました。日本語の研究が発展し、そこに法則性が発見され、体系的な理論が 育ってくると、このような法則性が存在するのは日本語に霊力があることの証明である、という解釈が出てきたのです。この解釈が不当なことはいうまでもありませんし、また学者たちが時代の制約から封建的な思想の持ち主であったことも事実ですが、だからと云って一部の進歩的な学者の云うように、江戸時代の研究はすべて神がかりでありナンセンスであったということにはなりません。「言霊」説を否定するのあまり昔の研究のすべてを排撃するのは、湯ぶねの湯と一しょに中にいる赤ん坊まで捨ててしまうようなものです。
 昔から日本語の研究は、古文の研究や、和歌の創作や、外国語(漢語・梵語)の学習などに伴って次第に発展してきました。これらの言語的な実践が日本語の構造をあきらかにし、また日本語についての研究が言語的な実践をおしすすめるという、緊密な交互関係において進められてきたのです。いいかえれば、日本語そのものを対象とする研究が独立して行われたのではなく、言語的な実践に従属したものとしてすすめられてきたのでした。そして江戸時代に入ると、やがて国学がおこり、これが日本語の研究に大きな発展をもたらしました。国学は、古典を通して古代日本の精神を学ぼうとするのですから、古典を正しく理解するための古語の研究が必要欠くべからざるものとなります。本居宣長に見るように、国学の大家は同時にまたすぐれた日本語学者でもあったのです。こうして、富士谷成章【ナリアキラ】、鈴木朖【アキラ】、本居春庭、東条義門などの学者があらわれて、日本語の一つの特徴であるテニヲハの研究が進められまた現在の文法書に示されているような活用についての体系的な説明が完成しました。
日本語の研究が国学に依存して発展したことは、一面からは弱点ともなり、また他面では長所ともなっています。それが古典の解釈や和歌の創作のための研究であったこと、学者たちが大衆の言語を俗語として軽蔑し古典の言語にのみあこがれたことは、その研究を偏狭な一面的なものにしました。国学者のイデオロギーは、日本語の性格について神がかり的な解釈を与えずにはすみませんでした。しかしながら国学者たちは、たとえ思想的に歪められていたにせよ日本人としての自覚を持ち、日本に独自の精神を学ぶために古典ととりくんだのであって、外国から輸入した借りものの思想や原理にたよって古典に解釈を加えたのではありませんでした。日本語の研究もやはりこのような態度において行われたものでした。彼らの日本語研究には、素朴ながらも日本語の持つ重要な特徴がとらえられており、言語の本質についても注意すべき考えが見られます。彼らののこした文献を見ると、現在わたしたちが学ばなければならない貴重な真理の粒が、ここかしこに存在しているのです。
 江戸時代も終りに近くなりますと、日本語の研究にもようやく国学から独立する傾向が見えてきました。これまでは、国学の研究を目的とする者がそのためにやむなく通らねばならぬ道として日本語の研究を考えていたのでしたが、その発展につれてそれ自体として興味あり価値あるものとして理解するようになったのです。こうして日本語研究の専門家「語学家」が多くあらわれるようになりました。またこの頃ヨーロッパの文法書が輸入され、これが日本語の研究に彩響をおよぼすことになります。江戸時代に交渉のあった唯一のヨーロッパの国はオランダですが、文法書もオランダから入ってきました。この文法書の構成を、言語を扱う原則であると見、これを基準として日本語の文法を論じたのが、天保四年に鶴峯戊申【シゲノブ】の著した「語学新書」です。この書物は、ヨーロッパの理論をとりいれたはじめてのものであるというだけでなく、明治になって学制がしかれたとき学校の文法教科書に大きな影響を及ぼしたという点で、注目すべき存在であるといえましょう。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・12・26(9位の「ミソラ事件」は久しぶり)

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