礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

吉本隆明「そうだ、用事を思い出した」

2020-12-04 03:06:53 | コラムと名言

◎吉本隆明「そうだ、用事を思い出した」

 井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を紹介している。本日は、その四回目で、「44 吉本隆明の位置」のところを紹介する。

   44 吉本隆明の位置

 井出 でもそうした半面を持つ消費社会化を絶賛したとまではいわないにしても、明らかに肯定していたのは吉本さんだった。
 一九八八年の『いま、吉本隆明25時』(弓立社)のイベントには『図書新聞』としても協力した。吉本さんにはそれだけの思い入れがあったからね。でも八二年の『「反核」異論』(深夜叢書)以来、何となく科学者としての論理はわかるけど、思想家としては命の問題だから踏みとどまるべきだと私は思った。
 そこら辺から異議もあったけれども、吉本さんと疎遠になった。それで『図書新聞』で吉本さんの追悼特集を組んだ時、そのことを少しだけ書いた。それは吉本さんの『擬制の終焉』から『共同幻想論』の延長線上につながる目標は『「反核」異論』のような著作に向かうものではなかったという主旨だった。そうしたら反響がすごかった。
 その前、いつだったか例の事故(海水浴場で溺れそうになった)後に御茶ノ水で偶然に出会ったことがあった。それでお茶でも飲もうかといって、今はもうなくなってしまった「世界」という喫茶店に入ったけれど、やっぱりお互いに何となく気まずいんだよね。それで吉本さんも、そうだ、用事を思い出したといって出ていこうとした。それで御茶ノ水駅まで見送り、また、よろしくといって別れた。それ以後、全然会っていないし、何か頼むという気も起こらなかった。でも寂しかった。今でもその寂しさは続いている。
 吉本さんのほうも、『「反核」異論』後には、コム・デ・ギャルソンを着て、『アンアン』 のグラビアに出たり、何でもいい、もう全部認めようという感じで、すっかり消費社会の側の人間になってしまったと思っていたから。それと同じ頃から、全国紙にも書くようになり、私も含めてかつての編集者たちが行かなくなった代わりに出てきたのが糸井重里〈イトイ・シゲサト〉で、吉本さんの取り巻きも様変わりしてしまった。
 ―― 確か数年前の吉本さんのNHKテレビ出演の司会も糸井だったし、最後の著作とDVDも彼のところから出ましたから、その事実を物語っていますね。
 吉本さんの動向はともかく、井出さんも『図書新聞』もそのような八〇年代以後の社会を進んでいかざるを得なかった。
 ところで中上健次〈ナカガミ・ケンジ〉じゃないけれど、これも後に芥川賞を受賞することになる藤沢周〈フジサワ・シュウ〉が入社されていますよね。

 吉本隆明(よしもと・たかあき)が亡くなったのは、二〇一二年三月一六日である。文中、「『図書新聞』で吉本さんの追悼特集を組んだ」とあるが、この特集号は、同年四月一四日付の第3058号である。
 一面のトップに、「追悼特集 吉本隆明/さらば! 吉本隆明」とある。「さらば! 吉本隆明」は赤字である。
 井出彰さんの追悼文は、「吉本隆明が逝った。身体のどこかにぽっかりと空洞が出来たような、寂しさに襲われた。同時に、不遜だが、ほっとした気がした。」という言葉で始まっている。
 本書『書評紙と共に歩んだ五〇年』のカバーのデザインには、その特集号の一面が使われている。井出さんの追悼文の冒頭も、このカバーから引いた次第である。

*このブログの人気記事 2020・12・4(9位の「ミソラ事件」は久しぶり)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする