礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

まるで潜水艦の中のやうですね(『主婦之友』記者)

2020-12-14 02:40:47 | コラムと名言

◎まるで潜水艦の中のやうですね(『主婦之友』記者)

『主婦之友』一九四五年六月号から、「灰燼の中に起ち上る人々」という記事を紹介している。本日は、その三回目。
 原文は、総ルビに近いが、ここでは、その一部のみを、【  】によって示した。

 田中さんはなほ言葉をつゞけて、『壕の内部は、体をゆつくり休められるやうにといふことを第一に考へました。休養がよく取れないと、仕事の能率が挙【あが】りませんからね。それから雨が降つても炊事に困らないやうにとも考へました。南を開【あ】ければ一日中明るいですし、夏冬共に風通しもいゝやうです。あちらが南ですよ。』と後【うしろ】を指【ゆびさ】された。振り返つてみると、さつきの小さい窓には針金入【はりがねいり】の厚いガラスが嵌【は】められ、前後へ回転式になつてゐるらしく斜め前方に開【あ】いてゐた。
『窓の外に青い物を植ゑたから、こゝにゐても眺められるでせう。なかなか風情がありますよ。アゝゝゝゝ。』田中さんは戦災を受けた人とは思へないほど明るく笑はれた。『雨の降る日は、あすこで炊事をするんです。』と指【ゆびさ】される方に行つてみると、こゝは鳩尾【みづおち】の高さほどの台になつてゐて、横に一畳敷ほどもあらうか。その上には筵【むしろ】が敷かれ、囲炉裏【ゐろり】も切つてある。枝を落した生木【なまき】が丁度自在鈎【じざいかぎ】のやうに天井から下つてゐる。
 通路を戻つてくると、その両側の壁が、これはまた殆ど一寸の無駄もなく利用されてゐるのに驚いた。まづ左側の押入のやうに刳【く】つたところに竈【かまど】が据ゑられ、この煙突は戸外へ突抜けてゐる。これがために家の中は少しも煙らないといふことである。次には小さい刳棚【くりだな】、右側の壁には針金を張つて手拭、布巾などが干してある。立つて丁度よい高さのところには小さい鏡が古針金【ふるはりがね】でくるくると結【ゆは】へつけてある。一つところに立つて前後左右に手を伸ばせば万事用が足りてしまふのである。
『まるで潜水艦の中のやうですね。』記者が思はず嘆声を洩らすと、
『なあに家財道具といふものがないんですから、棚さへ工合【ぐあひ】よく吊つてゆけば結構整理がついてゆくもんですよ。北側は全部塞ぎましたが、通風のため土管を一本通してあります。平常【ふだん】はかう して古綿【ふるわた】を布【きれ】で包んだ栓をしておきますが、夜は窓も入口も締めるから栓を抜いておくんです。するといつでもいゝ空気を吸つて寝てゐられます』
『金具類も皆【みん】な焼けたものゝやうですが‥‥』
『さうです。皆なこの焼跡から掘り出したものばかりですよ。あの火で焼かれたんですから少し見場【みば】は悪いですが、性【しよう】さへ抜けてゐなけば充分役に立ちますよ。それには表面のざらざらしたのを削り落して、油の布でよく拭くんです。』
『本当に御器用なんですね。もともと大工さんのやうなご経験‥‥』
『いやあ全然素人です。たゞ好きでやつただけなんです。』田中さんは始終にこにこしながら、
『皆【みんな】どつしりと腰を据ゑて働かなけりやならんときですからね――。一日も早く飛行機を作りに行かなきやならないので、自分の家が焼け落ちたあの明方【あけがた】の三時半から始めたんです‥‥
 何でも人に言う前にまづ自分がやつてみせるですよ。それで、一人殖え二人殖えしてゆけばいいんです。‥‥近所の人も大分【だいぶ】ぼつぼつ帰つて来るやうですよ。』
 黙々と率先垂範する実行の人、半ば伏目【ふしめ】がちに終始朴訥な態度で語られるのであつた。【以下、次回】

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