◎元死刑囚の免田栄さん、亡くなる(12月5日)
昨六日の東京新聞朝刊によれば、元死刑囚の免田栄(めんだ・さかえ)さんが、今月五日に亡くなったという。24面にあった記事(五段抜き)を引用してみる。
免田栄さん死去
95歳 元死刑囚、初の再審無罪
一九四八年に熊本県人吉【ひとよし】市で一家四人が殺傷された「免田事件」で死刑が確定し、八三年に死刑囚として初めて再審無罪になった免田栄【めんださかえ】さんが五日、老衰のため死去した。九十五歳。熊本県出身。葬儀・告別式は六日、近親者で行う。喪主は妻玉枝【たまえ】さん。
事件は人吉市の祈祷【きとう】師宅で夫婦が殺害され、娘二人も重傷を負った。免田さんは犯行を自白したとして強盗殺人罪で起訴された。熊本地裁八代支部での第三回公判からアリバイを主張し犯行を否認したが死刑が言い渡され、五二年に確定した。獄中から無実を訴え続け、六度目の再審請求で八〇年十二月、刑事裁判史上初めて死刑囚に対する再審が決定。地裁八代支部は八三年七月、事件当夜のアリバイを認め、自白は信用できないとして無罪を言い渡した。
その後、獄中で書きためた手記を出版。各地の再審請求事件を支援し、講演で冤罪【えんざい】の恐ろしさや死刑廃止を訴え続けた。
五日夜に営まれた通夜の後、玉枝さん(八四)は取材に応じ「(釈放され)出てきた時の免田は本当に目が鋭かったが、二、三年たって優しい目になった。最近は、暖かい日には車いすで、外の空気を吸いに出ることもあった」と話した。
「司法も誤る」訴え続け
「人が人を裁くことは重い。司法も間違いを犯すと知ってほしい」。免田さんは各地の再審請求を支援し、自らの過酷な体験を伝えて死刑廃止を訴え続けた。今も死刑の執行は続き、命ある間に制度をなくすという願いはかなわなかった。
免田さんは一審の公判中に否認に転じたものの「自白」を根拠に死刑が確定した。警察の取り調べを「殴る蹴るの暴行。食事を与えられない時もあって気力を奪われ、自白するしかなかった」と振り返る。
執行におびえる獄中生活。毎朝、刑務官の足音が 近づくと「自分の番ではないか。前で立ち止まらないでくれ」と、冷たい汗が体を流れ落ちた。他の死刑囚が刑場に連れられていく姿を見て、脚が震えた。
生きるのを諦めかけた時、教誨師だったカナダ人神父の言葉に救われた。「理由がある人は再審を。死ぬのはいつでもできるが、生きることは難しい」。自分の名前も片仮名でしかなかった免田さんは本を読みあさり、漢字や法律を学んだ。他の囚人に紙を工面してもらい、裁判官に無実を訴える手紙を出し続けた。
諦めない姿勢が実を結び、六回目の再審請求で無罪を勝ち取った。自由の身となってからは福岡県大牟田市で暮らした。本を執筆し、講演で各地を回って違法捜査や冤罪の恐ろしさを説いた。警察と検察に向けるまなざしは、晩年も厳しかった。「有罪にするためなら都合の悪い事実や証拠を隠す。平気で人権を踏みにじる体質は今も変わらない」
記事によれば、免田さんは、「講演で各地を回って違法捜査や冤罪の恐ろしさを説いた」とある。私も、一度だけだが、そうした免田さんの講演を聴いたことがある。
なお、上記の東京新聞記事は、大変よくまとまっているが、個人的には、ひとつ不満がある。それは、免田さんが、担当の教誨師(僧侶)から、「あなたは無実の罪で死刑になる宿命にある」と諭されたことに触れていないことである。このことで免田さんは、大きなショックを受けた。「生きるのを諦めかけた」。この窮地を救ったのが、「カナダ人神父」であったことは、記事にあるの通りである。【この話、続く】