◎在野の書き手がいなくなった(井出彰)
井出彰氏の『書評紙と共に歩んだ五〇年』(論創社、二〇一二)を紹介している。本日は、その五回目で、「47 肉声が聞こえてこない書評」のところを紹介する。
47 肉声が聞こえてこない書評
井出 それは書評の問題もあるけれど、今の編集者のこともものすごく反映されていると思う。昔に比べて考えられないようなトラブルが書評をめぐって起きていることも事実だ。
最初に『日本読書新聞』も在野の書き手に支えられていたといいましたが、今では大学に籍を置いている人たちが著者でも執筆者でも圧倒的に多くなってしまった。以前には作家でも大学教授を兼ねていた人は少なかったが、今ではかなりの人が兼業している。逆に食えないこともあるが、在野の書き手は本当に少数派になってしまった。
―― しかもこの十数年に及ぶ出版危機のあおりを喰らって、さらに減っていく一方ですね。ひょっとすると絶滅に向かっているのかもしれない。そうか、近年井出さんも大学の講師をしていますものね。
井出 お恥ずかしい話だが、私も七、八冊は本を出しているけれど、まともな印税を手にしたのは一冊だけだし、公私にわたって資金繰りに追われているから、何でも引き受けざるを得ないところまできている。
それだからあまり批判もできないのだが、大学という場から出されている本から、それがいかなる研究書であれ、社会科学や理論書であれ、肉声が聞こえなくなってしまったことが最も大きな問題であるように思える。私は理論がわからない人間だと認識しているが、廣松渉〈ヒロマツ・ワタル〉さんなどにしてもその肉声の部分を嗅ぎとり、それを読むことによって、彼の思想構造の根幹を学ぶことができたような気がする。またそのようにして社会科学の本も読んできた。しかし今は最初からその肉声が聞こえてこないし、いきなり研究と論理で迫ってきたら、面白くもないし、取りつく島がない。
―― それはまったく同感です。先ほど二冊の書評の話をしましたが、そのような典型だと考えざるをえませんでした。一冊は研究のモチベーションのよってきたるところが伝わってこないし、著者と研究のミスマッチすらも感じた。もう一冊も同様で、対象となる人物への愛着が感じられず、調べたことを全部書きこんでしまっているので、かえってその人物の光と陰が明白に浮かび上がってこない。両書とも井出さんが今いわれた研究と論理で一貫し、しかも自分の業績となることに対する執着だけはよく伝わってくる。するとこういった本の編集者はどのようなスタンスで関わっているのかなという気にもさせられる。
井出 それもよくわかるけど、まだいいほうじゃないかな。あなたもよく知っていると思うけど、大学の教師の翻訳の問題もいくつも挙げられる。
先日も私もうかつだったんだが、ある古典に属する翻訳書が出された。よく知られた大学教授の訳だったので、よく確かめもせずに私の親しい専門を同じくする先生に書評を頼んだ。そうしたら全文が批判で終始する書評が寄せられてきた。とても掲載できるものではないので、泣いてくれないか、書き直してくれと頼んだ。そうしたら、私は書評を頼まれ、一度もたたいたことはないし、それは井出さんも知っているだろう。でもこれはあまりにもひどい。訳者もひどいし、出版社もひどいといって絶対に譲らないので、没〈ボツ〉にするしかなかった。没にした私もひどい。もう本の側に立つた編集者ではなく、ただの経営者、まあ経営者としても成りそこないですが、に過ぎないと情なくしばらく呆然としているしかなかった。それまでその評者とは親父さんの代から世話になっていたのに。
だから訳者にも書評はできないと伝え、ちょっとひどすぎる、これを本にするのはといったら、彼はそれはすみません、院生にやらせたんですけど、忙しくてチェックしなかったものでとの弁解が返ってきた。でも訳者のあとがきにそんなことは一言も書かれていない。
それであらためて出版社の方にしても営利が中心になるので、編集者はデータをもらい、割り付けして、出すだけの運び屋になっている。そのことを反省しなければ本当はいけない。しかし、みな自転車操業どころか、プロペラ操業になっていてそれどころではない。
だから在野の書き手がいなくなったように、編集者もいなくなってしまったのではないかとも実感した。もうこの歳になって今さら嘆いても始まらないけど。
―― それは失われた出版業界の十数年間において、書き手も編集者も書店員も育てられなかったし、育ってこなかったことも意味しているのかもしれない。それに読者を含めても。