◎大洋を漂流して孤島を発見したような喜びを感じた(免田栄)
五日の東京新聞記事には、「生きるのを諦めかけた時、教誨師だったカナダ人神父の言葉に救われた。」とあったが、免田栄さんが、再審請求書を提出するまでの経緯は、かなり複雑である。また、免田さんが、再審請求の決意を固めたのは、多くの偶然が積み重なった結果とも言える。
本日は、『免田栄 獄中記』(社会思想社、一九八四)の第六章「最高裁で死刑確定」から、「迫る死の恐怖」の節(二二六~二三〇ページ)を紹介してみたい。
迫る死の恐怖
最高裁で死刑の判決をうけた者は、死刑台のある拘置所に移監されるのがさだめである。十二月も押しつまって死刑の確定判決が出た私は、昭和二十七年〔一九五二〕一月に福岡市西新町の藤崎拘置支所(藤崎拘置区)に移された。この支所の隣には道路をへだてて三万坪もある福岡刑務所がある。まわりには松林、お寺、墓地などが散在している。敗戦後、混乱した社会に発生した多数の犯罪者を収容するために、木材の香も新しく舎房が建っていたが、ここに私は収容された。この拘置支所の北側の塀にそって、不気味な死刑台の建物が見える。
舎内に入ると、同年輩の花田松造という死刑囚に紹介された。花田は佐賀県下で坊さん一家八名を殺した男として、極悪犯人の烙印【らくいん】をおされている人物であった。しかし彼から受けた印象は明るい。ニコニコと笑顔をたやさず、年輩の死刑囚である内田〔英雄〕さん、矢野〔正雄〕さんとも親しくつきあっていた。
この三人と私は、毎日、看守部長の引率で一緒に運動に出たり、教誨などで一緒になった。しかし私はまだ親しい気持ちになることができなかった。というのは死刑確定後でもなお私は死刑からまぬがれる方法はないものかと考えつづけていたからだ。それまで私は、無実なのだから死刑になるはずはないという確信がどこかにあった。しかし最高裁の判決が出て、その気持ちは崩されぬわけにはいかなかった。鉄格子から死刑台を見るたびに死の恐怖にもだえ苦しんだ。三人と運動や教誨に出ても、私は自分に迫ってくる死という問題に心を占領されていた。
新しい刑事訴訟法には、死刑確定後六ヵ月以内に処刑するという定めがある。花田は私たちより数ヵ月も早く死刑が確定している。処刑の日が近づくにつれて、花田は日頃の明るさもなくなって、運動や教誨にも出席せず、房内にこもって泣いていた。
その姿を隣房に見せられている私は、ますます死の恐怖にひきこまれ、寝食もろくにとれない。運動に出ても足が地についている感覚がない。まるで生きてる蠟人形のような心地だった。花田も日に日に表情が暗くなる私を見て、よけい命の危機を感じたらしい。
ある日のこと、たぶん間違って入ってきたらしいガリ版刷りのパンフレットが、食器口からほうりこまれた。なに気なく取りあげて読もうとしたが、大半の文字が消えてよく読めない。ただ『死の影の谷を旅すとも、災いを恐れず。汝、我とともにあればなり』という文字があり、その下の部分は消えて読めない。突然、私はこの短い文句に天啓を感じた。この言葉に新しい打開の道があることを悟った。私は何回も何回もくりかえして読み、畳の上に身を投げ出して日夜祈りつづけた。
すると数日後の夜中、今まで苦しみつづけた胸の中に、ぐっと光明がさしこんできた。そして死の恐怖がぬぐったように消え去った。まるで黒い密雲にとざされていた太陽が、急に雲のあいだから顔を出し、輝く光を投げかけるような感じだった。急に気分が浮き浮きしてきて、まるで別人になったように、新しい活路を見出す勇気がわいてきた。そして誰彼なく、どうしたら死の壁を突破することができるかもたずねた。
花田松造は熊本から週一度、教誨にみえる内海牧師に洗礼を受けていた。そのあと放心状態だった生活が変化して、もとの明るさがよみがえり、聖書を読み、日常会話に聖書の言葉がとび出すほどの篤信者になった。
カトリック信者の内田さんのところには九州大学神学教師のデロリー神父とウイキリンソン神父が毎土曜ごとに教誨にみえた。内田さんにともなわれて、私は二人の神父の教誨にも出席した。外国人への恐怖感があったが、ユーモアたっぷりの話がおもしろかった。
その当時、福岡には死刑囚がたくさんいて、四カ所に分散されていた。神父さんの話のなかに、
「本所の死刑囚のなかには再審請求して長い期間、生きている人がいます」という言葉があった。
そこで再審について質問してみたが、神父さんもくわしいことは知らないようだった。私はさっそく、役所から六法全書を借り出した。そして「再審」という文字をさがした。刑訴法の末尾のほうに「再審」という活字を発見したとき、大洋をひとり漂流してやっとのことで孤島を発見したような喜びを全身に感じた。溺れる者がワラを発見したような気持ちだった。
しかし、誰に聞いても再審の手続きを知っている者はいない。だが救いの神はいた。当時は朝鮮動乱中だったので、 日本は朝鮮戦争の米軍基地化してしまい、これに反対する人たちが火炎びん闘争をやっていた。そのためアメリカ軍は共産党狩りを警察に指令したので、逮捕されて拘置所に収容される人たちが多かった。
そのなかに江口という人がいた。この人が法律に明るいことを知り、許可をえて相談に行った。どんな用件で死刑囚が相談にやってきたのかと最初、江口さんはいぶかしがっていたが、何度も頼んで事件の真相を話しているうちにわかってくれた。それからは再審請求の書類の書き方を親切に指導してくれた。
私は鉛筆を借り、チリ紙に事件の顚末をせっせと書いた。そのころ東京にたびたび出向いていた潮谷〔総一郎〕先生から聖書と五百円をいただいた。私は聖書を舎房の隅に置き、五百円の金を何度も何度も手をついて拝んだ。再審の書類をつくるには、チリ紙ではなく、ちゃんとした用紙と筆記具が必要だったからである。私の一生でこのときほどお金のありがたさが身に泌みたことはない。
第一回目の再審請求書は福岡高等裁判所に提出した。忘れもしない昭和二十七年六月十日のことであった。
なお、『免田栄 獄中記』には、デロリー神父とウイキリンソン神父という名前が出てくるが、このふたりが「カナダ人」であった旨の記述はない。