◎五反野駅で萩原詮秋駅員に末広旅館を教えられた
大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その四回目。
下山総裁は、生きた人間として七月五日午後一時四十分過ぎから夕方まで、五反野の末広旅館で休憩し、堤防付近のカラス麦が生い茂る草叢〈クサムラ〉を放浪していた、と私は信じる。
そして、D51651機関車に轢断された六日午前零時過ぎから逆算して、東大法医学教室の推定死亡時間の午後九時ないし十時ごろに誰かに殺害された、他殺説はそういうことになろう。
となると、大津秘書が目撃した「車中の下山総裁」が、どこか都内の某ビル内で殴打されて、血を抜かれて五反野に運ばれたとする線には矛盾が出てくるので、そうではなくて、都内某所で誰かと会わされた後、いったん釈放されて、自分で電車に乗り、東武線五反野駅に午後一時四十三分に着いた。駅員の萩原詮秋に末広旅館を教えられて、同旅館で休憩し、主婦・山崎タケが目撃した夕方六時四十分ごろ、草叢の中でカラス麦をいじくりながら、堤防を下りて行ったことになるだろう。
それから、推定死亡時間まで二時間ないし三時間の空白があって、その空白時間内に下腹部に強烈な打撃を受けて殺された。では殺害集団はなぜ血を抜いたか、また同じ疑問が出る。血を抜くと生活反応が出なくなるので、科学捜査でいずれ解明されることを考慮に入れると、「偽装自殺」というプロットは成立しなくなる。
私は頭を抱えてしまうのであるが、もし、下山総裁の殺害者が占領軍の誰かであったと仮定するとして、あえて私が推理をするとすれば、次のようなストーリーを組み立て得るかもしれない。
【一行アキ】
大津正秘書が、自民党本部付近ですれ違った車に乗っていた下山総裁を囲んでいた三人は、共産党の国鉄労組フラクションではなかったか。下山総裁は、その朝、「佐藤さんに会うんだ」と言ったそうだが、三越百貨店内で国鉄労組の誰かと会う約束があったと推定する。三越では話し合いができないので、彼らの車でどこかへ行った。これは秘密を要したので、大西運転手は待ちぼうけにされた。
二・一ゼネスト前の四六年九月闘争のときも、国鉄は七万五千人の首切り通告を出していた。国鉄労組は宇治山田で臨時大会を開き、ゼネスト体制に入ろうとしたが、切り崩され、このとき東京に帰った共闘〔全官公庁労組拡大共同闘争委員会〕議長の伊井弥四郎が、産別〔全日本産業別労働組合会議〕の聴濤克巳〈キクナミ・カツミ〉や共産党の徳田球一〈トクダ・キュウイチ〉、伊藤律〈イトウ・リツ〉などに吊るし上げられた「擂り鉢事件」を私は思い出す。
原宿駅近くのある道場内で、青年行動隊に囲まれた伊井弥四郎が、擂り鉢の底に座らされた形になって吊るし上げられたというケースだ。
あの「擂り鉢事件」のとき、国鉄労組は再びスト突入の構えを見せたが、ここで七万五千人首切りを突然撤回したのが、当時、鉄道総局長だった佐藤栄作であった。
志賀義雄は、私とのインタビューで、「あれは全く不思議な佐藤君の撤回だったが、徳田球一や私はGHQを甘く見て、二・一ゼネストもいけると読んだ」と語っていた。
下山総裁が、擂り鉢型の道場の密会ではないにしても、共産党首脳部やフラクションに囲まれて、少なくとも三万七百人の解雇通告の撤回を迫られたとしよう。彼はこれを佐藤栄作に電話報告できたが、下山はそれをしなかった。
下山は回答の時間と場所を指定されていたが、それが五反野付近であったか、あるいは思案にくれて五反野を彷徨した。その間、占領軍側にこのディールの事実を通報したスパイがいたことも推理できないことはない。
密告がなかった、としても尾行されていた可能性だって否定できまい。推理ではあるが、そこで首切り通告を撤回させてはならないとして、急遽、下山総裁殺害プロットができた、とすると、五反野付近で、下山総裁をハイジャックし、急所を殴打し、さらに死を確定するため血を抜く。注射器を使ったか、頸動脈を切ったか。それで国鉄労組と共産党に殺害容疑をかぶせる、というよりは下山と国鉄を結びつけてレール上に死体を横たえた。
私はスリラー作家ではないので、こんな推理しかできないが、関連したケース・スタディとして、私が取材した「鹿地亘ハイジャック事件」(下山事件より二年半後に発生)を、被害者の鹿地亘〈カジ・ワタル〉と、鹿地を救出したキャノン機関の住みこみコック、山田善次郎のインタビューに基づいて考えてみることにしたい。〈253~258ページ〉
大森実『日本はなぜ戦争に二度負けたか』(中央公論社、1998)から、「国鉄総裁下山事件のミステリー Ⅱ」を紹介している。本日は、その四回目。
下山総裁は、生きた人間として七月五日午後一時四十分過ぎから夕方まで、五反野の末広旅館で休憩し、堤防付近のカラス麦が生い茂る草叢〈クサムラ〉を放浪していた、と私は信じる。
そして、D51651機関車に轢断された六日午前零時過ぎから逆算して、東大法医学教室の推定死亡時間の午後九時ないし十時ごろに誰かに殺害された、他殺説はそういうことになろう。
となると、大津秘書が目撃した「車中の下山総裁」が、どこか都内の某ビル内で殴打されて、血を抜かれて五反野に運ばれたとする線には矛盾が出てくるので、そうではなくて、都内某所で誰かと会わされた後、いったん釈放されて、自分で電車に乗り、東武線五反野駅に午後一時四十三分に着いた。駅員の萩原詮秋に末広旅館を教えられて、同旅館で休憩し、主婦・山崎タケが目撃した夕方六時四十分ごろ、草叢の中でカラス麦をいじくりながら、堤防を下りて行ったことになるだろう。
それから、推定死亡時間まで二時間ないし三時間の空白があって、その空白時間内に下腹部に強烈な打撃を受けて殺された。では殺害集団はなぜ血を抜いたか、また同じ疑問が出る。血を抜くと生活反応が出なくなるので、科学捜査でいずれ解明されることを考慮に入れると、「偽装自殺」というプロットは成立しなくなる。
私は頭を抱えてしまうのであるが、もし、下山総裁の殺害者が占領軍の誰かであったと仮定するとして、あえて私が推理をするとすれば、次のようなストーリーを組み立て得るかもしれない。
【一行アキ】
大津正秘書が、自民党本部付近ですれ違った車に乗っていた下山総裁を囲んでいた三人は、共産党の国鉄労組フラクションではなかったか。下山総裁は、その朝、「佐藤さんに会うんだ」と言ったそうだが、三越百貨店内で国鉄労組の誰かと会う約束があったと推定する。三越では話し合いができないので、彼らの車でどこかへ行った。これは秘密を要したので、大西運転手は待ちぼうけにされた。
二・一ゼネスト前の四六年九月闘争のときも、国鉄は七万五千人の首切り通告を出していた。国鉄労組は宇治山田で臨時大会を開き、ゼネスト体制に入ろうとしたが、切り崩され、このとき東京に帰った共闘〔全官公庁労組拡大共同闘争委員会〕議長の伊井弥四郎が、産別〔全日本産業別労働組合会議〕の聴濤克巳〈キクナミ・カツミ〉や共産党の徳田球一〈トクダ・キュウイチ〉、伊藤律〈イトウ・リツ〉などに吊るし上げられた「擂り鉢事件」を私は思い出す。
原宿駅近くのある道場内で、青年行動隊に囲まれた伊井弥四郎が、擂り鉢の底に座らされた形になって吊るし上げられたというケースだ。
あの「擂り鉢事件」のとき、国鉄労組は再びスト突入の構えを見せたが、ここで七万五千人首切りを突然撤回したのが、当時、鉄道総局長だった佐藤栄作であった。
志賀義雄は、私とのインタビューで、「あれは全く不思議な佐藤君の撤回だったが、徳田球一や私はGHQを甘く見て、二・一ゼネストもいけると読んだ」と語っていた。
下山総裁が、擂り鉢型の道場の密会ではないにしても、共産党首脳部やフラクションに囲まれて、少なくとも三万七百人の解雇通告の撤回を迫られたとしよう。彼はこれを佐藤栄作に電話報告できたが、下山はそれをしなかった。
下山は回答の時間と場所を指定されていたが、それが五反野付近であったか、あるいは思案にくれて五反野を彷徨した。その間、占領軍側にこのディールの事実を通報したスパイがいたことも推理できないことはない。
密告がなかった、としても尾行されていた可能性だって否定できまい。推理ではあるが、そこで首切り通告を撤回させてはならないとして、急遽、下山総裁殺害プロットができた、とすると、五反野付近で、下山総裁をハイジャックし、急所を殴打し、さらに死を確定するため血を抜く。注射器を使ったか、頸動脈を切ったか。それで国鉄労組と共産党に殺害容疑をかぶせる、というよりは下山と国鉄を結びつけてレール上に死体を横たえた。
私はスリラー作家ではないので、こんな推理しかできないが、関連したケース・スタディとして、私が取材した「鹿地亘ハイジャック事件」(下山事件より二年半後に発生)を、被害者の鹿地亘〈カジ・ワタル〉と、鹿地を救出したキャノン機関の住みこみコック、山田善次郎のインタビューに基づいて考えてみることにしたい。〈253~258ページ〉
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