礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

京都府立医大女子専門部放学処分事件(1949)

2019-12-14 04:51:46 | コラムと名言

◎京都府立医大女子専門部放学処分事件(1949)

 海野普吉・森川金寿『人権の法律相談』(日本評論新社、一九五三)に出てくる人権侵害事件を紹介している。
 本日は、一九四九年(昭和二四)に起きた京都府立医大女子専門部放学処分事件を紹介してみよう。

 京都府立医大女専部の例  京都府立医科大学附属女子専門部(以下、女専部と略称)では解剖学担当のA教授が右講座が廃止せられた結果同大学本科学部長兼女専部部長から辞職を勧告され、これに対し、同教授は拒絶の意思を表明していた。同教授と思想的に同調する一部の学生生徒は辞職勧告を不当として解職反対の決議などしていた。昭和二四年一一月八日、女専部の教授会が開かれ、約三〇名の男女学生が傍聴したが、開会直後公開、非公開のいずれにするかの動議が出され、A教授から「自分の一身上のことが出るようであれば公開して貰いたい」との発言がありその他でも議論がはげしく展開されたが、結局、採決の結果八対二で非公開と決した。それで議長が傍聴の学生生徒らに退場を求めたが大部分の者はこれに応ぜず、非公開の非をならしその理由をききたいと騒いだので、教授会は非公開採決後三〇分で審議不能として流会を宣し解散した。
 これに対し本科学部長兼女専部部長は、女専部教授会で満場一致の賛成を得た上、同年一一月一四日女専部生徒一三名を無期停学に処し女子インターン生四名については附属病院長から一二月三日、一ヵ月の登校停止にし、本科学生については一一月一五日の本科教授会で審議採決の結果、二二対二の多数決で八名を放学処分に付すべきものとの決議に基づき学長から放学処分に処した。これに対して処分をうけた本科学生側から、㈠学生の本分にもとる行為はない、㈢少くとも退学処分に当るような悪質な行為をしたことはない、㈢懲戒手続に瑕疵があるとの理由で、学長を相手として右退学処分の取消を求める訴を提起した。第一審京都地裁(昭和二五(行)一号、放学処分取消請求事件)では、学生に対する懲戒処分は学長の行う行政処分であるが、どのような懲戒処分(学則では戒飭〈カイチョク〉、停学、放学の三種となっている)を選択すべきかは学長の自由裁量には委〈イ〉されていないという前提の下に、学生中四名の行為は学生の本分にもとり懲戒に値するが、退学処分に値するほど悪質なものとは認められない、また他の二名については学生の本分にもとる行為もないとして、右六名の退学処分をすべて違法として取り消した。これに対し控訴審の大阪高等裁判所の判決(昭和二五(行)三八六号、二八・四・三〇言渡)では、懲戒処分は原則として学長の自由裁量に委ね〈ユダネ〉らているという立場をとり、一名を除くほか他の五名については第一審の判決を取り消し原告(被控訴人)側の請求を棄却した。この控訴審判決によると、学則第三四条に基づいて学生の本分に反するとして放学処分にするのは、その行為が学生として待遇するに値しないような最悪のものでなければならないとしているが、「学生の行為が懲戒に値するものかどうか、更に所定の懲戒処分の内そのいずれに処すべきものかは、懲戒権者が教育的見地に基く自由裁量によつてこれを定めることができる」とし、それは単に懲戒の対象となる行為のほか、平素の行状や他学生への影響等を考慮しなければ適切な措置を期し難いが、これらの事情は当該懲戒権者でなければ十分これを知ることができぬからであるとしている。しかし、それでは全く懲戒権者の勝手にできるかというと、判決によればそれには一定の限界があり、例えば極く軽い事案に対して最も重い放学処分をもって臨む等、いかに懲戒権者の教育的見地に考慮してみてもその判断が社会通念からみていちじるしく不当であることが明白であるような場合には、その懲戒は違法になるとし、ただ本件の場合では五名についての放学処分は社会通念からみていちじるしく不当であると解することはできないから、違法ではないとした。
 この事件の評価については局外者には軽々に批判できないが、ただ上記の簡単な経過だけからみると、平素愛敬〈アイギョウ〉する教授の退職問題などについて若い男女学生が同情的になるのは当然で、しかも女子学生が多数関係していることからみても、多少の行きすぎがあったにせよ、僅か一回の流会で退学処分に付するなどということはむしろ社会通念からみていちじるしく不当ではあるまいかと思われる。ことに判決によると、一名については教授会が流会後来たものであるのに初めからその場にいたものと誤認して処分したことがわかり、その処分は違法とされているが、これからみると何かしら予断偏見の下に、あわただしく処分されたという印象がなきにしもあらずである。

 この文章を読んで、いちばん驚いたのは、敗戦直後の京都府立医科大学附属女子専門部においては、教授会を学生が傍聴することが許されていたという事実であった。
 さて、インターネット情報によれば、この事件は、「京都府立医大事件」として、かなり有名なものらしい。この本『人権の法律相談』が出版されたあと、原告側は、最高裁に上告し、一九五四年(昭和二九)に判決があったもようである(最三判昭二九・七・三〇民集八巻七号一四六三頁)。

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