礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大衆小説の特長はやさしい文体にある(鶴見俊輔)

2015-09-14 04:03:44 | コラムと名言

◎大衆小説の特長はやさしい文体にある(鶴見俊輔)

 書棚を整理していたら、鶴見俊輔さん(一九二二~二〇一五)の『大衆芸術』(河出新書、一九五四年三月)が出てきた。最後のページに、「書簏 田中書店」という浦和市の古書店のシールが貼られている。当時、おつきあいがあった古本屋さんであって、『歴史民俗学』の13号に、「古本屋と陶豆屋」というエッセイを書かれた保利當志屋主人〈フルホンノホリダシヤ〉さんが経営されていたと記憶する。しかし、この本を買い求めたことについては、まったく記憶がない。いずれにせよ、十数年前に入手したものの、ほとんど読んでこなかった本である。
 評論家の佐藤忠男さんの名著『独学でよかった』(チクマ秀版社、二〇〇七)によれば、佐藤さんは、鶴見さんのこの本から、多大な影響を受けたという。佐藤さんの出世作とも言える映画論「任侠について」は、雑誌『思想の科学』の一九五四年八月号に掲載された。おそらく佐藤さんは、鶴見さんの『大衆芸術』を読み、それに刺激される形で、「任侠について」を書いたのだと推測する。
 それはともかく、本日は、鶴見さんの同書から、「大衆小誕について」というエッセイを紹介してみたいと思う。文中、傍点が施されている部分は、下線で代用する。

 大衆小誕について
   一
 子供のころ、大衆小説ばかりに読みふけっているので良くないといわれ夜おそくまで読んでいるとしかられて電燈を消されてしまった。しかし、今考えてみても、小学校でならった教科書よりも、大衆小説の方が、心に残っている。
 大衆小説を読むことは、子供の頃の僕にとっては、本職だった。毎日四冊よまなければ気がすまなかった。学校からの帰り途に神保町の三省堂に寄って、二冊ばかり立ち読みし、家に帰っておやつを食べてから、また飛び出して行って近くの本屋で二冊ばかり立ち読みした。家に帰ってからまた、講談社や何かゝら父の所に送られてきている大衆雑誌の類を読んだ。
 この頃ほど、本に対して情熟をもったことはない。その後、目を悪くしてしまったので、一日四冊よむということも継続できなくなって、今では、一年に数えるほどしか本を読まない。だから、僕が今までに読んだ本のことをふりかえってみると、その中の九五%は、大衆小説なのである。
 教科書よりもむしろ大衆小論によって心を養われるということは、その頃の僕の友人達の間では、珍らしくなかった。
 五年化のときに、僕たちは、級のなかで、三種類から四種類の廻覧雑誌を発行したが、其処では、みんなが腕をふるって、大衆小論を書いた。
《ベリン国第一の都会といわれるC市に突然起ったくゎい事件。それはと言うと、大ふごうベタルス氏てい内へおし入ったなんともしれぬくゎい人がベタルス氏夫さいをさしころし、当家のひほうむらさき色のダイヤをぬすみさったとのことである。大たんていウルソン氏は、そのくゎい人をとらえるのためにこつぜんとして家を出て行った。(傍点ツルミ)》
 それは、現在中央公論社社長の島中鵬二君の大衆小説「怪盗X団」である。この文章のなかで、かなで残されている所に注意して欲しい。たとえかなで書かざるを得ない程度の学力しかもたない場合でも、幼い大衆小説家は、やはり漢字語を用いなくてはならないのだ。漢字語を、ある一定の間隔を重ねて、反復して行くことは、日本の大衆小誰として欠くべからざる特長なのであって、こういう特長は、予供の書いた大衆小読いくつかをぬいて調べてみると、大人の書いた大衆小論におけるよりも、はっきりと浮き上ってくる。(時代物映画の新聞広告が、どう発音してよいかわからぬ漢字語をまじえてかゝれていることゝ対応する。)
《ところが、この右近をこころよく思わぬ一人の男がいた。それは佐田利勝というやはり三百石の馬廻りであった。いつか右近をなきものにせんものと、同類の春佐六平政家、秋川春太平太、山川三雄等をさそって今日ころそうと思ったのである。》
 これは、戦争いらい行方不明になっている小学校の同級生橋本重三郎君の大衆小設「青空はほほえむ」である。此処にも大衆小説特有の言いまわし(傍点で示した所)とリズムとが、はっきり出ている。僕も自慢の力作「憧れの錦絵」を書いた。僕達だけが書いていたのではない。男女四十名から成る僕達の組には、多い時には五種類の競争誌が、流布していたから、それらに寄稿する大衆作家の数も極めて多かった。
 こういう文献から逆に考えていくと、大衆小説の特長は、子供にでも真似できるようなやさしい文体にあると思う。そういうやさしい文体を日本語において作ったことは、大正中期以後の大衆作家達の重大な功績であると思う。
 この文体は、やさしいけれども、日常つかわぬ特別の漢字ことばを含み、そして、一つ一つの文章の息が長いのである。そして文章が長く続くにもかゝわらず、丁度具合のよい所でぽつんぽつんと切れ、むずかしい漢字が使ってありながらもそれらは文の要所に使ってないために、それらを知らなくても、文を了解できる。「大衆映画の広告にかぎって、絢爛・凄惨などと漢字をちりばめてあるのと同じだ。」したがって、漢字言葉は、大衆小説の文体の所々に、意味をはっきり聞いておかなくてもよいイキヌキの場所を作るのに役に立つことゝなる。それ故に、大衆小説は、寝ころんでうつらうつら聞いていても、大体ついて行けるのだ。注意を散漫にはらっているだけで、ずっと読み続けていける。だからこそ、七百頁、八百頁の本を、少しも苦にせずに、二時間くらいで読了できるのである。他の本では、とてもこれだけのことは、できない。【後略】

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