礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『ことわざの話』抜刷本(1930)と柳田國男の神経

2013-10-26 03:12:50 | 日記

◎『ことわざの話』抜刷本(1930)と柳田國男の神経
 
 柳田國男の「ことわざの話」の初出は、折口信夫・高浜虚子・柳田國男『歌・俳句・諺』(一九三〇年一月)である。これは、アルスの「日本児童文庫」の64にあたる。
 この『歌・俳句・諺』のうち、柳田國男の「ことわざの話」のみを製本した『ことわざの話』という本がある。「定本柳田國男」の書誌に、「児童文庫の著者贈呈用別刷本」とあるのがそれである。
 先日、国会図書館で、この「別刷本」を閲覧したところ、次のような事実がわかった。

〇表紙の上部には、横組右書き二段で、「ことわざの話」、「柳田國男著」とある。
〇表紙の下部には、「ARS」とある。
〇巻頭に、「まえがき」風の文章および正誤表が印刷された一枚の紙が貼り付けられている。
〇本文のページ付けは、『歌・俳句・諺』と同じ。
〇奥付はない。

 本日は、その「まえがき」風の文章を紹介してみよう。これは、貼り付けられた紙の右半分にある。改行、仮名遣いは、原文のままとした。

児童の為にごく簡単な俚諺論を書いて見ましたから御目
にかけます。御心付の点はどうか御教示下さい。尚少々
誤植がありましたから、御手数でも朱筆を御加へ置き下
さい。それから本文の用字法はアルス一流のものに統一
せられることを忍んだだけで、私の賛成せぬ点が甚だ多
かつたといふことを申添へたいと思ひます。
 昭和五年一月
            柳田國男

 貼り付けられた紙の左半分は、正誤表になっているが、「誤植」が二七箇所もある。この数は、とても「少々」とは言いがたい。おそらく柳田は、校正の段階で、まともに目を通さなかったのであろう。
 昨年一〇月六日のコラムで、柳田國男の『なぞとことわざ』(筑摩書房「中学生全集」86、一九五二)に挟まれていた正誤表について紹介した。そこには三九箇所の正誤訂正があった。このときも柳田は、校正の段階でまともに目を通さず、本ができてから、書肆に訂正を申し出たものと思われる。
 中学生全集『なぞとことわざ』は、ことわざに関する柳田の文章が収められているが、「ことわざの話」(アルス児童文庫が初出)も、そのうちのひとつである。今回、確認できたことだが、『なぞとことわざ』の正誤表には、「ことわざの話」別刷本における正誤訂正を、そのまま繰り返しているものが数多く含まれていた。これには唖然とした。『ことわざの話』別刷本の段階で、すでに正誤表が作られていたのであるから、『なぞとことわざ』が企画された際、柳田は、当然その「正誤表」を編集者に渡すべきであった。万一、渡しそこなった場合でも、校正の段階で、正誤表に基いて訂正を加えるべきであった。その両方の手続きを怠り、本が出たあとになって、書肆に正誤表の作成を命じた柳田國男という人物の神経を私は疑う。別刷本の正誤表(貼り付けてある紙の左半分)の紹介は、次回。

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「岩波文庫略史」の記述について再論する

2013-10-25 05:05:42 | 日記

◎「岩波文庫略史」の記述について再論する

 昨日のコラムで述べたように、岩波書店の雑誌『思想』の通巻第七〇号(一九二七年八月一日)には、見開き二ページで、「読書子に寄す 岩波書店」という文章が載っている。これは、岩波文庫の巻末にある「読書子に寄す 岩波書店」とは別の文章で、そこには、「かのレクラム文庫にしてなほ星一つ二十五銭」という字句が含まれていた。
 こうした事実が判明した以上、今月二〇日のコラム「岩波茂雄、レクラム文庫の件でNを強く叱責」で、「岩波文庫略史」についておこなったコメントは、その一部を訂正しなければならなくなった。
 以下に、訂正の必要のある部分と、それを訂正したものとを、順に掲げる。

【訂正前】ここで筆者は、雑誌『思想』昭和2年8月号に、「高踏的な刊行の辞」とは別の文章が載ったかのように書いているが、だとすると、《雑誌『思想』昭和2年8月号に載った「読書子に寄す、岩波書店」という文章》という言い方はおかしい。「読書子に寄す、岩波書店」が、まさにその「高踏的な刊行の辞」だからである。ここは、《昭和2年8月の新聞広告に載った「読者に謝す、岩波茂雄」という文章》に、というふうに訂正すべきではないのか。それとも、雑誌『思想』昭和2年8月号のほうにも、「読者に謝す、岩波茂雄」が載ったのか。このコラムが、もし岩波書店関係者の目にとまるようであれば、ご確認をお願いしたい。

【訂正後】ここで筆者は、雑誌『思想』昭和2年8月号に、「高踏的な刊行の辞」、すなわち、岩波文庫巻末の「読書子に寄す、岩波書店」とは別の文章が載ったかのように書いている。そこで同誌同号を確認すると、たしかに「読書子に寄す、岩波書店」という文章があるが、これは、岩波文庫巻末にある「読書子に寄す、岩波書店」とは別の文章であった。『思想』に載った、この「読書子に寄す、岩波書店」は、同時期の新聞に載った広告「読者に謝す、岩波茂雄」と酷似しており、「かのレクラム文庫にしてなほ星一つ二十五銭」云々という文言も含まれている。

 くどいようだが、ここで「岩波文庫略史」の関係箇所を、もう一度引用する。

 ところで「思想」の昭和2年8月号の広告欄を見ると、「読書子に寄す、岩波書店」という文章が載っている。これは文庫発売直後のことであって、文庫は発売早々大きな反響をよんだが、しかし一般の読者にはまだなじみの薄いものであったから、高踏的な刊行の辞だけでは読者がよく理解しなかったのであろう。そこで文庫についてもっと具体的なことを書きならべなくてはならなかったのである。

 やはり、この文章には問題がある。記述がわかりにくく、誤解を招きやすい。せめて次のように書いてほしかったと思う。

 ところで「思想」の昭和2年8月号の広告欄を見ると、「読書子に寄す、岩波書店」という文章(岩波文庫巻末にある「読書子に寄す」とは別)が載っている。これは文庫発売の前後のことであって、文庫の創刊が発表されると大きな反響をよんだが、しかし一般の読者にはまだなじみの薄いものであったから、高踏的な刊行の辞(岩波文庫巻末にある「読書子に寄す」のこと)だけでは読者がよく理解しなかったのであろう。そこで文庫についてもっと具体的なことを書きならべなくてはならなかったのである。

「文庫発売直後」は「文庫発売の前後」に改め、「文庫は発売早々」は「文庫の創刊が発表されると」に改めておいた。これは、雑誌『思想』八月号の発売日が、奥付通り、八月一日だったのかどうかわからなかったからである(岩波文庫の創刊は、一九二七年七月一〇日)。
 岩波文庫「読書子に寄す」については、なお書きたいことが残っているが、とりあえず明日は話題を変える。

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雑誌『世界』掲載の「読書子に寄す」(1927)を復元する

2013-10-24 04:41:30 | 日記

◎雑誌『世界』掲載の「読書子に寄す」(1927)を復元する

 今月二〇日のコラム「岩波茂雄、レクラム文庫の件でNを強く叱責」に、訂正・補足の必用が生じた。
同日のコラムで、私は次のように書いた。

 ここで筆者は、雑誌『思想』昭和2年8月号に、「高踏的な刊行の辞」とは別の文章が載ったかのように書いているが、だとすると、《雑誌『思想』昭和2年8月号に載った「読書子に寄す、岩波書店」という文章》という言い方はおかしい。「読書子に寄す、岩波書店」が、まさにその「高踏的な刊行の辞」だからである。ここは、《昭和2年8月の新聞広告に載った「読者に謝す、岩波茂雄」という文章》に、というふうに訂正すべきではないのか。それとも、雑誌『思想』昭和2年8月号のほうにも、「読者に謝す、岩波茂雄」が載ったのか。

 昨日、国会図書館で雑誌『思想』昭和二年八月号を閲覧したところ、次の事実が判明した。
1 雑誌『思想』昭和二年八月号(通巻第七〇号)には、見開き二ページで、「読書子に寄す 岩波書店」という文章が載っている。
2 これは、岩波文庫の巻末にある「読書子に寄す 岩波書店」とは異なる文章である。
3 これはまた、「昭和二年八月五日」の読売新聞に載った「読者に謝す 岩波茂雄」とも異なる文章である(ただし、よく似ている)。
4 雑誌『思想』の「読書子に寄す 岩波書店」には、「かのレクラム文庫にしてなほ星一つ二十五銭」という字句が含まれている。
5 雑誌『思想』昭和二年八月号の奥付によれば、同号の発行日は、「昭和二年八月一日」である(ただし、実際の発売日は不詳)。

 というわけで、二〇日のコラムは誤解に基いていたことが明らかになった。特に、先ほど引用した部分は、訂正と補足が必要となった。
 ともかく、雑誌『思想』の「読書子に寄す 岩波書店」の全文を紹介してみよう。改行、仮名遣いは、その当時のまま。ただし、漢字は、今日のものに変えている。太字も、原文のまま再現しておいた。途中一行あいているところは、改ページを示している。太字も、原文のまま再現しておいた。

 読書子に寄す 
           岩波書店
 真の良書は自己自らを宣伝し普及する。この文庫刊行のひとたび公にさ
れるや、社会の各方面よりの熱誠なる感激の言葉は数知れず飛来した。或は
不可能なることは遂に可能にされたと云ひ、或は日本文化史上画期的なる
事業は今まさに為されつつあると云つて、これを賞揚した。吾人は同志の
うるはしき協同の精神から発露したこれらの言葉に対して衷心より感謝す
ると共に、その恩顧に忸るることなく、賞讃に驕ることなく、むしろ
益自重努力して、もつて当初の目的の達成に向つて最も堅実なる武歩を進
めるであらう。世の読書子の鞭撻と忠告こそは吾人の最も歓迎するところ
である。けだし岩波文庫は最後究極的なる普及版たることを期する。
この目的はおのづからそれの特色を規定するであらう。嘗て単行本とし
て存しなかつたものがここでは極めて簡単に求められることとなる。従来
稀覯本絶版物に属したものがここでは何人にもつねに近づき得るものと
なる。これまで甚だ高価にして普通人の見ることの不可能であつたもの
がここでは容易に誰もの手に入ることとなる。然しながら普及の真の意義

は価値あるものの普及にあると信ずるが故に、岩波文庫は以後定本たり
得る資格あるもののみを収容する。校訂本を出すにあたつては、従来の
いづれよりも信用し得るものを特に新たに作るであらう。翻訳書を出す
にあたつては、嘗てのいづれよりも厳正にして適確なるものを採るであら
う。更に進んで単に一般の教養のためのもののみならず、純粋に学術的
研究的なるものをも含むはこの文庫の特色である。かくてそれは文芸
思想科学のあらゆる方面に亘つて、時局に対しては近来世に行はれる大量
生産予約出版物の総決算として品質に於て遥にそれに優るものを選択
の白由に委せて各箇に提供し、永遠に向つては生活の糧として万人の
日日新たに摂取すべき必需の資料を尽くることなく提供する。吾人がその
内容の精選のために致した万全の用意を思へば、この文庫の高価を訴ふる
者はないであらう。世界に販路を有するかのレクラム文庫にしてなほ
星一つ二十五銭であるに反して局限された日本語の読者のみを相手
とせねばならぬわが岩波文庫が星一つ二十銭であることを見れば、必ずや
吾人の立場をひとは諒とせられるであらう。吾人は唯吾人の使命を果すた
めにこの事業に従事するのである。切に大方の協力と後援とを希望する。
善き意志は常に自己を貫徹し成就するとは吾人の確信である。

 二〇日のコラムの「訂正・補足」がまだだが、これは次回。

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森永製菓の「定価売り」とそのルーツ

2013-10-23 04:05:13 | 日記

◎森永製菓の「定価売り」とそのルーツ

 一昨日のコラム「森永ミルクキャラメルと岩波書店の意外な接点」の中で、次のように述べた。

 ただ、森永製菓が、「定価売り」の方針を特に強調していた会社だったのかどうか、その「定価売り」が、ミルクキャラメルを嚆矢としたのかどうかは、確認する必要がある。

 森永製菓が、「定価売り」の方針を特に強調してきた会社だったのかどうかについては、何とも言えない。森永太一郎の回想記「今昔の感」を読んでも、「定価売り」を強調しているような箇所はない(「定価」に言及していないわけではない)。そもそも、創業当時の森永は、「卸し」を専門としていたのである。
 とはいえ、森永の社風は、やはり、一貫して「定価売り」だったと思われる。そして、森永のそうした方針が、業界に与えた影響も少なくなかったと思う。なお、これは、大塚久雄の回想を根拠にして言うのだが、一般国民が、森永のそうした方針を知るようになったのは、紙サック入り「森永ミルクキャラメル」が発売された一九一四年(大正三)あたりからだったのではないだろうか。
 森永の社風が、一貫して「定価売り」だったことは、森永太一郎の片腕となって森永製菓の発展に尽くした松崎半三郎(一八七四~一九六一)の証言によって、ほぼ明らかである。
 松崎半三郎は、その回想記「思い出のまま」(『森永五十五年史』所収)の中で、次のように書いている。

 キリストの山上の垂訓のうちに、「神の国と神の戦〈タタカイ〉とを求めよ」といふ言葉があるが、翁〔森永太一郎〕はこの言葉の実行者でなければならないと考へて居られたのである。尤も翁はキリスト教に入られ前でも信仰の篤い浄土真宗の家で育ったのだし、その十三歳から奉公してゐた翁の叔父に当る山崎文左衛門氏といふ人は伊万里〈イマリ〉の陶器の問屋で、「商人は絶対に掛値をしてはならない、いつも正値〈マサネ〉で販売しなければならない」といふ正札〈ショウフダ〉主義の人、翁は此の人から正直一途〈イチズ〉の商法を叩き込まれて来たことであるから、さうあるべきは敢て怪しむに足りないが、キリスト教の信仰が一層その信念を固めさしたことは疑ふ徐地は無いのであって、常に事業の上に正しきを求めるといふことが翁の一生を通じての事業精神であった。
 だから翁はその頃我国の習慣であった「あげ底」式は蛇蜴〈ダカツ〉のやうに嫌はれ、苟くも〈イヤシクモ〉消費者をゴマかす様なやり方は一切うけつけなかった。森永の進物〈シンモツ〉ではフレンチメキストが一番良く売れたが、これ等も一号から五号まで種類を作り、何れも中身を一杯に詰めたものであった。得意先では「あげ底」で体裁の良いものを好むものも多かったが、翁は断乎たる信念を以て斯様な〈カヨウナ〉欺瞞的商業には一歩も妥協しなかったのである。
 また赤坂時代からウヰスキーボンボンを作って売り出し、仲々良く売れてゐたが、或日フレンド女学校の先生からアルコール分の入ったボンボンは幼少な子供の軟弱な頭脳を冒し〈オカシ〉、低能にする危険があるので英国では一切斯かる〈カカル〉お菓子の製造を禁止してゐるといふ話をきかれ、翁は人気のあったこの製品の製造を直ちに英断を以て禁止されてしまった。これは僅かの例に過ぎないが、かういふ事は凡庸の商人では到底出来難いことであり、この出来難いことを敢えてやってのけた処に森永翁の社会正義の人としての偉大さがあり、その強い信念を培った〈ツチカッタ〉ものは翁の信仰であるといふことを私は深く信じてゐるのである。

 これによって、森永製菓が、その創業当時から、「正札主義」であったであろうことが推定できるのである。
 森永太一郎は、クリスチャンであった。アメリカに修業していた間に、日本人メソジスト協会の河辺貞吉〈カワベ・テイキチ〉牧師から、洗礼を受けたのである。
 右に松崎半三郎も紹介しているように、森永太一郎は、「商人道徳」とも呼ぶべき確固たる信念(松崎半三郎の表現によれば「事業精神」)を信念を持っていた。この信念は、松崎半三郎も指摘する通り、キリスト教の信仰に基くところが大きかったはずである。
「正札主義」は、暴利を貪っていないことを示すことであり、まさにこれは、「商人道徳」に基くとものなのである(マックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理」を想起されたい)。ただし、森永太一郎の「正札主義」に関していえば、そのルーツは、陶器商の叔父・山崎文左衛門にあったと思われる。

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岩波文庫「読書子に寄す」を当初の形に復元する

2013-10-22 04:42:35 | 日記

◎岩波文庫「読書子に寄す」を当初の形に復元する

 岩波文庫の巻末には、岩波茂雄署名の「読書子に寄す――岩波文庫発刊に際して――」という文書がついている。これは、きわめてよく知られた文書であり、また閲覧が容易な文書でもある。インターネットの「青空文庫」にもはいっていているので、コピー&ペイストも簡単である。
 ところが、この文書が、その当初、「岩波書店」の署名で公表されていたこと、見開き二ページ分をとっていたこと、文章そのものも今日のものと異なる部分があったことの三点は、ご存じない読者もおられるかもしれない。ちなみに、今日、「青空文庫」にはいっている「読書子に寄す」は、岩波茂雄署名のものであって、当初のものではない。
 そこで本日は、この「読書子に寄す」を、岩波文庫創刊当時の形で、復元して見たいと思う。改行、仮名遣いは、その当時のまま。ただし、漢字は、今日のものに変えている。一行あけたところは、改ページを示す。

 読書子に寄す  岩波書店
  岩波文庫発刊に際して
 真理は万人によつて求められることを自ら欲し、芸術は万人によつて愛される
ことを自ら望む。嘗ては民を愚昧ならしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉鎖さ
れたことがあつた。今や知識と美とを特権階級の独占より奪ひ返すことはつねに
進取的なる民衆の切実なる要求である。岩波文庫はこの要求に応じそれに励まさ
れて生れた。それは生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより解放して街
頭に隈なく立たしめ民衆に伍せしめるであらう。近来流行の大量出版物を見る
に、或は唯広告と宣伝とに力を専らにして、その内容に至つては杜撰到底真面目
なる人々の渇望を満足し得ることなく、或は予約の手段によつて読者を制限する
とともに読者を緊縛し、徒らに学芸解放の美名を僭するに過ぎないのが常であ
る。この秋にあたつて、岩波書店は自己の責務の愈重大なるを思ひ、従来の方針の
徹底を期するため既に十数年以前より志して来た計画を慎重審議この際断然実行

することにした。吾人は範をかのレクラム文庫にとり、古今東西に亘って文芸哲
学社会科学自然科学等種類の如何を問はず、苛も万人の必読すべき真に古典的価
値ある書をきわめて簡易なる形式に於て逐次刊行し、あらゆる人間に須要なる生活
向上の資料、生活批判の原理を提供せんと欲する。この文庫は予約出版の方法を
排したるが故に、読者は自己の欲する時に自己の欲する書物を各個に自由に選択
することが出来る。携帯に便にして価格の低きを最主とするが故に、外観を顧み
ざるも内容に至つては厳選最も力を尽くし従来の岩波出版物の特色を益発揮せしめ
ようとする。この計画たるや世間の一時の投機的なるものと異なり、永遠の事業と
して吾人は微力を傾倒しあらゆる犠牲を忍んで今後永久に継続発展せしめ、もつ
て文庫の使命を遺憾なく果たさしめることを期する。芸術を愛し知識を求むる士の
自ら進んでこの挙に参加し、希望と忠言とを寄せられることは吾人の熱望すると
ころである。その性質上経済的には最も困難多き此事業に敢て当たらんとする吾人
の志を諒としてその達成のため世の読書子とのうるはしき共同を期待する。
  昭和二年七月

 お気づきの読者もおられたと思うが、「近来流行の大量出版物を見るに、或は唯広告と宣伝とに力を専らにして、その内容に至つては杜撰到底真面目なる人々の渇望を満足し得ることなく、或は予約の手段によつて読者を制限するとともに読者を緊縛し、徒らに学芸解放の美名を僭するに過ぎないのが常である。」の部分は、その後、書き直されて、今日にいたっている。

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