◎雑誌『世界』掲載の「読書子に寄す」(1927)を復元する
今月二〇日のコラム「岩波茂雄、レクラム文庫の件でNを強く叱責」に、訂正・補足の必用が生じた。
同日のコラムで、私は次のように書いた。
ここで筆者は、雑誌『思想』昭和2年8月号に、「高踏的な刊行の辞」とは別の文章が載ったかのように書いているが、だとすると、《雑誌『思想』昭和2年8月号に載った「読書子に寄す、岩波書店」という文章》という言い方はおかしい。「読書子に寄す、岩波書店」が、まさにその「高踏的な刊行の辞」だからである。ここは、《昭和2年8月の新聞広告に載った「読者に謝す、岩波茂雄」という文章》に、というふうに訂正すべきではないのか。それとも、雑誌『思想』昭和2年8月号のほうにも、「読者に謝す、岩波茂雄」が載ったのか。
昨日、国会図書館で雑誌『思想』昭和二年八月号を閲覧したところ、次の事実が判明した。
1 雑誌『思想』昭和二年八月号(通巻第七〇号)には、見開き二ページで、「読書子に寄す 岩波書店」という文章が載っている。
2 これは、岩波文庫の巻末にある「読書子に寄す 岩波書店」とは異なる文章である。
3 これはまた、「昭和二年八月五日」の読売新聞に載った「読者に謝す 岩波茂雄」とも異なる文章である(ただし、よく似ている)。
4 雑誌『思想』の「読書子に寄す 岩波書店」には、「かのレクラム文庫にしてなほ星一つ二十五銭」という字句が含まれている。
5 雑誌『思想』昭和二年八月号の奥付によれば、同号の発行日は、「昭和二年八月一日」である(ただし、実際の発売日は不詳)。
というわけで、二〇日のコラムは誤解に基いていたことが明らかになった。特に、先ほど引用した部分は、訂正と補足が必要となった。
ともかく、雑誌『思想』の「読書子に寄す 岩波書店」の全文を紹介してみよう。改行、仮名遣いは、その当時のまま。ただし、漢字は、今日のものに変えている。太字も、原文のまま再現しておいた。途中一行あいているところは、改ページを示している。太字も、原文のまま再現しておいた。
読書子に寄す
岩波書店
真の良書は自己自らを宣伝し普及する。この文庫刊行のひとたび公にさ
れるや、社会の各方面よりの熱誠なる感激の言葉は数知れず飛来した。或は
不可能なることは遂に可能にされたと云ひ、或は日本文化史上画期的なる
事業は今まさに為されつつあると云つて、これを賞揚した。吾人は同志の
うるはしき協同の精神から発露したこれらの言葉に対して衷心より感謝す
ると共に、その恩顧に忸るることなく、賞讃に驕ることなく、むしろ
益自重努力して、もつて当初の目的の達成に向つて最も堅実なる武歩を進
めるであらう。世の読書子の鞭撻と忠告こそは吾人の最も歓迎するところ
である。けだし岩波文庫は最後究極的なる普及版たることを期する。
この目的はおのづからそれの特色を規定するであらう。嘗て単行本とし
て存しなかつたものがここでは極めて簡単に求められることとなる。従来
稀覯本絶版物に属したものがここでは何人にもつねに近づき得るものと
なる。これまで甚だ高価にして普通人の見ることの不可能であつたもの
がここでは容易に誰もの手に入ることとなる。然しながら普及の真の意義
は価値あるものの普及にあると信ずるが故に、岩波文庫は以後定本たり
得る資格あるもののみを収容する。校訂本を出すにあたつては、従来の
いづれよりも信用し得るものを特に新たに作るであらう。翻訳書を出す
にあたつては、嘗てのいづれよりも厳正にして適確なるものを採るであら
う。更に進んで単に一般の教養のためのもののみならず、純粋に学術的
研究的なるものをも含むはこの文庫の特色である。かくてそれは文芸
思想科学のあらゆる方面に亘つて、時局に対しては近来世に行はれる大量
生産予約出版物の総決算として品質に於て遥にそれに優るものを選択
の白由に委せて各箇に提供し、永遠に向つては生活の糧として万人の
日日新たに摂取すべき必需の資料を尽くることなく提供する。吾人がその
内容の精選のために致した万全の用意を思へば、この文庫の高価を訴ふる
者はないであらう。世界に販路を有するかのレクラム文庫にしてなほ
星一つ二十五銭であるに反して局限された日本語の読者のみを相手
とせねばならぬわが岩波文庫が星一つ二十銭であることを見れば、必ずや
吾人の立場をひとは諒とせられるであらう。吾人は唯吾人の使命を果すた
めにこの事業に従事するのである。切に大方の協力と後援とを希望する。
善き意志は常に自己を貫徹し成就するとは吾人の確信である。
二〇日のコラムの「訂正・補足」がまだだが、これは次回。