礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

映画とはアメリカ映画のことであった

2015-03-26 05:47:32 | コラムと名言

◎映画とはアメリカ映画のことであった

 昨日に引き続き、青木茂雄氏の映画鑑賞回想記を紹介させていただく。

 記憶の中の映画(3)  青木茂雄
 映画とはアメリカ映画のことであった・2

 私が家族(主として父)に連れられて見たころには、当然のことながら見た作品名をメモするわけなど無いし、何を見たかはまったく記憶していない。なによりも、まだ幼くて内容がさっぱり理解できなかったのである。6歳年上の兄に「解ったか?」とよく聞かれた。いや解らないのがほとんどであった。私には映画の内容を理解できるようになることが即ち自分が成長して行くこと、つまり少しずつ利口になっていくことと思われた。
 それでも、カラー(「総天然色」―私はなぜ「総」の文字を冠するのかといぶかった)のスクリーン上に展開されるアメリカの生活の断片には驚嘆した。豊かなのだ。広い清潔な、内部が良く整頓された家、それにらせん形を描く階段、芝生が張り巡らされた広々とした庭。自家用車。そして、レストランで注文した料理が出てきても、用事があると殆ど手をつけないままに、そそくさと退出する、そういう生活のスタイル(当時の私たちは、一個の卵を兄弟数人で分け合っていた)。
 家に帰り、暗い一本の電灯のもとに粗末な夕食をとりながら、家族で「あの手をつけない料理はそのまま捨ててしまうのか、何と勿体ないことか」などと談じ合ったものである。 豊かなアメリカ、貧乏な日本、この抜き難い固定観念はこのころ観た幾本かのアメリカ映画によって形成されていったことは間違いない。この幾本かが何であるかは思い出せない。映画の筋は除外視されて、ただ光景だけが印象に残っていたのである。
テレビドラマを通してアメリカの生活の光景が日本の茶の間に入ってきた、という話はよく聞くが、私の家にテレビが入ったのは平均的な家庭よりもかなり遅れて東京オリンピックの開かれた1964年だったから(私は家が貧乏であると固く信じていた)、アメリカの光景は、テレビよりもまず映画からであった。
 最初の回にも書いたように、私が初めて映画の内容を理解することのできたのは、小学2年生の時に観た『海底2万マイル』であったが、このころ以降の記憶では、映画のタイトルと内容が結び付くようになる。
 思い出すままにタイトルをあげると、『スピードに命を懸ける男』(お気に入りのカーク・ダグラス主演)、『宇宙征服』、『ローンレンジャー』(テーマ音楽としてロッシーニの「ウィリアムテル序曲」が使われていた)、『誇り高き男』(ロバート・ライアン主演の西部劇の名作。内容はさっぱり理解できなかったが、あの独特の音の出る楽器を使ったテーマ音楽だけは覚えていた)、等々。
 シネマスコープの横長の画面が珍しく、とくに上映開始まえにシュルシュルという音ともにスクリーンが左右に拡大していく様には心を躍らせた。何よりも、最初の画面に登場する“CINEMASCOPE”のロゴ。私のお気に入りは20世紀FOXの、文字の下の線が横にきれいに一直線をなし、最初のCから終わりのEまでの文字の上部の線がきれいな弧状をなし、そして中央のMAがはるかに小さく奥の方に引っ込んで見え、続くSの文字が心なしにやや背伸びしているあのロゴであった。このロゴの美しさには他のいかなるロゴも比べものにならなかった。とくに、日本の“日活スコープ”や“東宝スコープ”のロゴの下品さといったらなかった。私は、この“CINEMASCOPE”のロゴを何度も何度も白紙に書き写した。

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青木茂雄氏の映画鑑賞回想記

2015-03-25 06:46:56 | コラムと名言

◎青木茂雄氏の映画鑑賞回想記

 一昨日に続いて、青木茂雄氏の映画評を紹介したい。ただし、今回のものは、映画評ではなく、映画鑑賞の回想記である。
 文章にあるように、青木氏は水戸市「上市」の生まれである。生年は記されていないが、一九四七年(昭和二二)のお生まれとお聞きしている。

 記憶の中の映画(2)  青木茂雄
 映画とはアメリカ映画のことであった・1

 小学校の頃は、家族に連れられてよく映画を見た。“映画は洋画”の不文律から、見る映画は殆ど洋画であり、洋画とはすなわちアメリカ映画のことであった。
 私の育った茨城県水戸市は、市部が東西に細長く上市〈うわいち〉と下市〈しもいち〉に二分されており、上市が旧武家屋敷と町人街とからなりたつ高台であったのに対して下市は低地で全域が町人街からなりたっていた。わが家のあった上市から見ると下市はまったく別の町に当時の私には思えたが、その上市には昭和30年頃には(記憶している限りで)映画館が全部で七館あった。そのうち五館が邦画専門で、封切り館が4館、二~三番館が一館あった。洋画専門は二館で一館が新作ではあるがいわゆる二番館、もう一館が三~四番館(当時は名画座などというしゃれた名称はなかった)であった。邦画専門の封切り館は東映・日活・松竹・大映、二~三番館は「銀映」という名称で別称「ニューパール」(小学校の友人たちはよくそこで日本映画を観ていた、新作の上映館ではないので「ニューパール」ならぬ「カスパール」と呼んでいた。洋画専門の私などからすればそこは別世界のように思えた)、封切り落ちを配給会社にかかわりなく上映した。その劇場は1980年代にはピンク映画専門館となり、そしてほどなく閉館した。これらの劇場はかなり以前に全て廃館になった。
 家族でよく観にでかけたのが二つの洋画専門館。この当時地方都市ではロードショウ劇場はなく、東京でのロードショウ(これももはや死語になったか)上映から平均して半年後に地方館にかかる。それでも地方館としては新作館(「オデオン座」が劇場名)として尊重された。二本立て上映で、子供料金で80円くらいだったと記憶している。もうひとつの三~四番館は劇場名は「水戸東宝」(なぜ「東宝」で洋画をかけるのかとやがていぶかった、東京にも「早稲田松竹」があるが)。なかでも家族で気軽にでかけたのがこの「水戸東宝」劇場であった。二本立てや三本立てで、入場料金が大人で80円、子供は30円だったかと思う。劇場近くの小さな書店では当日用の前売り券を売っており、これ買うとさらに安くなった。映画館の入場料金は大体散髪料金と同じだと思っていたが、そのうち散髪料金の方が格段に高くなってしまった、と記憶している。
家族で「オデオン座」に行くのは特別な場合で、普段は近くの安い「水戸東宝」だった。それでも日曜などは昼間の部は大入り満員で座るのがやっとだった。しかし、夜の部に入るとガラガラと空席ができたことを記憶している。日の高いうちに映画館の中に入り、出る時には外はもう真っ暗。この断層の中に、たった今しがたまで過ごしてきた映画館の中の時間の経過とは何だったのかといぶかった。帰りには、近くの目抜き通りの大工町あたりの広場で定期的に行われていた夜市で何かを買って帰ったこともあった。
 「水戸東宝」劇場は古いけれど館内は大きく、二階席まであった。もちろん木造だが、床はちゃんとコンクリートが張ってあった。スクリーンに向かって左側に「便所」があり(私がその後東京で出会った今は無き古い館、例えば「新宿昭和館」や「三軒茶屋中央」なども「便所」は決まって左側であった)、もちろん水洗ではないから、客席まで匂いがただよう時もあったが、それ以上に館内はタバコによるもうもうたる煙りか、しみついたタバコの匂いであった。  
この三番館にかかるまでには封切りから少なくとも一年以上経過しているのが当たり前であったから、フィルムもかなり痛んでいることもよくあった。縦に筋が走る、これを「スクリーンに雨が降る」と称していた。
 それでも映画館は特別な空間であった。暗闇の中にぱっさりと四方を裁断した画面。4本の線による暗闇との明確な裁断、私にはこれ以上の純粋な直線は描きえないとさえ思われた(近づいてみればただの黒いカーテンと光の影のなせる技にすぎないのだが)。そこは周囲の空間とはまったく次元を異にした「特別な」空間であり、周囲とは異なる時間と空間がそこには演じられているのである。

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日記をしたためる際の注意とその範例

2015-03-24 07:41:02 | コラムと名言

◎日記をしたためる際の注意とその範例

 三月二〇日からの続きである。中等教育会編纂『夏季鍛錬日誌』(文信社、一九四二)は、「戦時学徒自戒五条」、「休暇の心得」のすぐあとに、「日記の認め方に就ての注意」、および「日記の範例」というものを載せている。本日は、この二つを紹介してみよう。
 両方とも、改行は原文のまま。なお、「日記の範例」のほうは、手書き文字である。

 日記の認め方
 に就ての注意
 日記は、毎日の行事を唯
機械的に附けて置く丈では
意味をなさぬ。それよりも
毎日の出来事の中、一つ一
つの比較的印象の深かつた
事柄を択んで、これを短文
に作るがよい。かくすれば、
その人の生活のありのまゝ
が現れ、生きた人生が描き
出され、成人した後になつ
ても、楽しい想出ともなり、
反省の資料ともなり、ひい
ては文も熟達してきます。
 諸子は今この日記を認む
に方り、下記の範例に倣つ
つて、もつと文も上手に、文
字も奇麗にお書きなさい。

 【日記の範例】
 今日は兄が士官学校に帰る日だ。何
だか名残惜しい。でも仕方がない。次の帰
郷を楽しみに待つてゐよう。出発は午前
十時。母が駅まで見送りに行くので、僕は
留守番をする。汽笛が鳴る、汽車が出る。
家の裏に出てレールの処まで行つて待つてゐる。
汽車はだんだん近づく。兄は昇降口に立
つてゐる。僕が手を挙げると、兄も挙手
の答礼。弟は兄ちやんが見えた見えたと
言つてよろこぶ。
 午後五時頃から驟雨が降り出して、
急に涼しくなつた。
 兄の無事着京を祈る。

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青木茂雄氏の映画評『海底2万マイル』(1954)

2015-03-23 05:56:19 | コラムと名言

◎青木茂雄氏の映画評『海底2万マイル』(1954)

 先日、映画評論家の青木茂雄氏にお目にかかった。当方のブログを、ときどきご覧になっているとのことだった。
 青木氏には、以前から、未発表の映画評があったら、当方のブログで紹介させてほしい旨の要請をしており、その日も、改めてこれをお願いした。すると、昨日、以下のような映画評が送られてきたので、早速、紹介したい。「記憶の中の映画(1)」と銘打たれているところを見ると、このあとも、送っていただけるようで、大いに期待したい。。


 記憶の中の映画(1)  青木茂雄
 「初めて筋が分かった映画」 『海底2万マイル』(1954年米)

 私が生まれて初めて観た映画のことなどむろん憶えているはずはない。敗戦直後の昭和20年代、娯楽と言えばせいぜい映画を観ることぐらい以外にはなかった。そういう時代に、家族に連れられて映画を観ることはやはり大きな出来事だった。連れられて入った映画館の中で、画面いっぱいに人物が動き回る様は、やはり衝撃的だったらしい。私は画面の後ろにだれか人がいるのではないのか、といぶかった。そうではないのだ、と知ってさらに驚いた。学校に入る前、4歳か5歳の頃だったと思う。
 父が大のアメリカびいきだったせいか、わが家では“映画は洋画”が不文律だった。家族に連れられて見に行ったのもアメリカ映画が主だったようだ。入学前で、字幕はもちろん読めなかったから内容はチンプンカンプンだが、私は我慢して概しておとなしく観ていたようである。
 そういう私が、初めてストーリイの解った映画が『海底2万マイル』(1954年米、リチャード・フライシャー監督)であった。
 筋が理解できたことがよほどうれしかったらしく、私は翌日、学校で級友に得々とその映画のことを話した。小学校2年生の時である。
 衝撃を受けたのは鋭い鋼鉄製のノコギリ状の先端で黄色い2つ目を光らせながら、海上を船舶目がけて突進してくる潜水艦ノーチラス号の不気味な姿である。体当たり攻撃を受けた船舶は粉々に砕け、海上の藻くずと化してしまう。
 調査に出掛けた軍艦もまた攻撃を受け、生存者3人(教授、船員=ピーター・ローレ、水兵=カーク・ダグラス)が潜水艦の中に招待される。ネモ館長=ジェームズ・メイスンの案内のもとで潜水艦の航行に同行する。案内されて見た艦の科学技術の粋に、教授が感嘆するのに対して水兵ネッドは抵抗の意志を隠さない。その間、海底埋葬あり、巨大イカの攻撃あり、そして最後にノーチラス号は沈没するが、3人は無事生還するという、小学生にも十分に理解できる話であった。この映画がまた、生まれて初めて観たシネマスコープ作品でもあった。カーク・ダグラスは私のお気に入りの俳優となった(他に、当時の私のお気に入りは、ジェームズ・スチュアートだった)。
 ジュール・ヴェルヌという原作者の名前も覚えた。ヴェルヌ原作のSF映画は、その後映画館にかかると(2番館か3番館で)、たいてい観た。憶えているのが『地底探検』(1959年)、タイトルは忘れたが空中飛行する巨大な船が登場する映画、SFではないが『80日間世界一周』等々。
 飛行機も飛行船もない時代に空を飛び、ロケットなど考えもされなかった時代に砲弾で月に人を飛ばし、潜水艦を考案する(電気エネルギーを考えていたらしい)。ヴェルヌの構想力は大したものだ。
 さて、『海底2万マイル』はその後、1970年代の半ばごろ今はなき国立スカラ座でたまたま再見することができた。驚いたのはそのメッセージの明確さと強烈さである。ノーチラス号のネモ艦長は、欧米列強の植民地支配に抗議して軍艦のみを攻撃対象としていた、そして植民地解放のために秘密基地で新兵器(映画では多分核兵器)を製造していた。最後に基地全体が閃光(核爆発?)とともに消滅するところで映画は終わった。核エネルギー(?)は封印されるという結末だったが、何やらその後の世界史を予見するような話となった。

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教団が隠したサリンは今どうなっているのか

2015-03-22 05:19:11 | コラムと名言

◎教団が隠したサリンは今どうなっているのか

 昨日も、少し触れたが、今月二〇日に放映されたNHKスペシャル・未解決事件「新事実!地下鉄サリン」は、はなはだ不満が残る番組だった。
 当時、当時の検察幹部、警察幹部へのインタビューと、それに基づく「再現映像」に多くの時間を割いていたが、基本的に関係者の「弁解」に終始しており、「反省」を感じとることはできなかったし、今後の対応につながるような「教訓」が提示されたというわけでもなかった。
 最もガッカリしたのは、この特集番組が、一連の事件にまつわる素朴な疑問、本質的な疑問、様々な疑惑といったものに対して、ほとんど何も答えていないことであった。これは、制作関係者の感性がよほど鈍いか、あるいは、制作関係者の間に何らかの規制(自己規制含む)がはたらいていたからに違いない。
 こうしたことを論じているとキリがないが、本日は、番組に対し、特に不満が残った点七点を列挙しておこう。

1 警視庁が、一時、「坂本堤弁護士一家殺害」に対する極秘捜査をおこなっていたという新事実が紹介されていた。しかし、その極秘捜査が、いつ、どういう経緯で中止されたのかについての説明は不十分だった。
2 松本サリン事件に関して、「冤罪」が生じたことに触れず、冤罪を生んだ背景についての分析もなかった。そもそも、長野県警関係者に対する取材自体、なかったと思うが、これはどういうことなのか。
3 一九九五年一月一日の読売新聞のスクープ「上九一色村でサリン残留物検出」は、なぜ可能になったのか。このスクープによっても、地下鉄サリン事件が防げなかったのはなぜだったのか。このあたりの追究が不十分だった。
4 読売新聞のスクープのあと、教団は、上九一色村からサリンを搬出して隠したとしていたが、これは重要なことである。教団は、どこにサリンを隠したのか。そのサリンは、今でも隠した場所にあるのか。視聴者のために、こういうことは、しっかりと報じてほしかった。
5 地下鉄サリン事件の直前におこなわれとされる「リムジン謀議」は、その後の裁判の中で、その信憑性が疑われるようになったという。だとすれば、これを「再現映像」で紹介することに対しては、慎重であるべきだった。
6 警察庁、警視庁、各道府県警の関係についての説明は、比較的わかりやすかったし、重要なポイントだとも思った。だとすれば、「警察庁長官」狙撃事件の意味、その背景についても、当然、触れるべきだった。この重大事件に全く触れなかったのはなぜか。
7 麻原彰晃が、裁判の途中から「沈黙した」としていたが、なぜ沈黙したのかという説明がなかった。実は、「沈黙した」のではなく、「コワレてしまった」のだとされているが、この「真相」が紹介されることもなかった。

*このブログの人気記事 2015・3・22

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