礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「読本の神様」井上赳が書いた「月光の曲」

2015-12-21 05:04:55 | コラムと名言

◎「読本の神様」井上赳が書いた「月光の曲」

 部屋の片づけをしていたところ、高木市之助〈タカギ・イチノスケ〉述・深萱和男〈フカガヤ・カズオ〉録の『尋常小学国語読本』(中公新書、一九七六)が出てきた。
 むかし読んだことのある本である。あらためて目次を見てみると、「十五 井上赳君のこと」とあるのが目にとまった。「サクラ読本」で知られる井上赳〈イノウエ・タケシ〉のことである。実は、井上赳を教科書編修の仕事に誘ったのは、国文学者の高木市之助であった。
 この章において高木は、井上赳が「読本の神様」と呼ばれていたことなどを紹介しながら、井上の見識と力量を高く評価している。そればかりではない。同書の「附録」の2では、「読本の神様」と題して、再び、井上赳との交流を語っている。
 高木は、「井上君が書いた白表紙本の中の傑作」として、巻十二に載っている「月光の曲」が挙げらている。そして、「月光の曲」の全文を引用するのである(第十五章)。当コラムでも、以下に、その全文を引用してみたいと思う。
 高木の引用では、改行の一字サゲがないが、以下の引用でも、そのままにしておいた。また、若干の漢字にルビが施されていたが、これは省略した。

ドイツの有名な音楽家べートーベンがまだ若い時分のことであつた。月のさえた冬の夜友人と二人町へ散歩に出て、薄暗い小脇を通り、或小さいみすぼらしい家の前まで来ると、中からピヤノの音が聞える。
「あゝ、あれは僕の作つた曲だ。聴き給へ。なかなかうまいではないか。」
彼は突然かういつて足を止めた。
二人は戸外にたゝずんでしばらく耳をすましてゐたが、やがてピヤノの音がはたと止んで、
「にいさん、まあ何といふよい曲なんでせう。私にはもうとてもひけません。ほんたうに一度でもよいから、演奏会へ行つて聴いてみたい。」
と、情ないやうにいつてゐるのは若い女の声である。
「そんなことをいつたつて仕方がない。家賃さへも払へない今の身の上ではないか。」
と兄の声。
「はいつてみよう。さうして一曲ひいてやらう。」
べートーベンは急に戸をあけてはいつて行つた。友人も続いてはいつた。
薄暗いらふそくの火のもとで、色の青い元気のなささうな若い男が靴を縫つてゐる。其のそばにある旧式のピヤノによりかゝつてゐるのは妹であらう。二人は不意の来客にさも驚いたらしい様子。
「御免下さい。私は音楽家ですが、面白さについつり込まれて参りました。」
とべートーベンがいつた。妹の顔はさつと赤くなつた。兄はむつつりとしてやゝ当惑の体である。
べートーベンも我ながら余りだしぬけだと思つたらしく、口ごもりながら、
「実はその、今ちよつと門口で聞いたのすが、――あなたは演奏会へ行つてみたいとかい
 ふお話でしたね。まあ一曲ひかせていたゞきませう。」
其の言方が如何にもをかしかつたので、言つた者も聞いた者も思はずにつこりした。
「有難うございます。しかし誠に粗末なピヤノで。それに楽譜もございませんが。」
と兄がいふ。ベートーベンは、
「え、楽譜がない。それでどうして。」
といひさして、ふと見ると、かはいさうに妹はめくらである。
「いや、これでたくさんです。」
といひながから、べートーベンは、ピヤノの前に腰を掛けて直にひき始めた。其の最初の一音が既にきやうだいの耳には不思議にひゞいた。べートーベンの両眼は異様に輝いて、彼の身には俄に何者かが乗移つたやう。一音は一音より妙を加へ神に入つて、何をひいてゐるか彼自らも覚えないやうである。きやうだいは唯うつとりとして感に打たれてゐる。べートーベンの友人も全く我を忘れて、一同夢見る心地。
折から燈がぱつと明るくなつたと思ふと、ゆらゆらと動いて消えてしまつた。
ベートーベンはひく手を止めた。友人がそつと立つて窓の戸をあけると、清い月の光が流れるやうに入込んで、ピヤノとひき手の顔を照らした。しかしベートーベンは唯だまつてうなだれてゐる。しばらくして兄は恐る恐る近寄つて、力のこもつた、しかも低い声で、
「一体あなたはどういふ御方でございますか。」
「まあ待つて下さい。」
ベートーベンはかういつて、さつき娘がひいてゐた曲を又ひき始めた。
「あゝ、あなたはベートーベン先生ですか。」
きようだいは思はず叫んだ。
ひき終るとベートーベンは、つと立ち上つた。三人は「どうかもう一曲。」としきりに頼んだ。
彼は再びピヤノの前に腰を下した。月は益々さえわたつて来る。「それでは此の月の光を題に一曲。」といつて、彼はしばらくすみきつた空を眺めてゐたが、やがて指がピヤノの鍵にふれたと思ふと、やさしい沈んだ調は、ちやうど東の空に上る月が次第々々にやみの世界を照らすやう、一転すると、今度は如何にもものすごい、いはば奇怪な物の精が寄集つて、夜の芝生にをどるやう、最後は又急流の岩に激し、荒波の岸にくだけるやうな調に、三人の心はもう驚と感激で一ぱいになつて、唯ぼうつとして、ひき終つたのも気附かぬくらゐ。
「さやうなら。」
ベートーベンは立つて出かけた。
「先生、又お出で下さいませうか。」
きやうだいは口を揃えていつた。
「参りませう。」
ベートーベンは、ちよつとふりかへつてめくらの娘を見た。
彼は急いで家に帰つた。さうして其の夜はまんじりともせず机に向つて、かの曲を譜に書きあげた。べートーベンの「月光の曲」といつて、不朽の名声を博したのは此の曲である。

 若干、注釈する。「彼は再びピヤノの前に腰を下した。」のところは、改行すべきところかどうか、判断が難しかったが、一応、改行しておいた。
「直にひき始めた」の「直に」は、〈スグニ〉とも〈タダチニ〉とも読める。
「急流の岩に激し」の「激し」の読みは、〈ゲキシ〉であろう(「ぶつかり」という意味)。

*このブログの人気記事 2015・12・21

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源頼義、集めてきた戦死者の片耳を埋める

2015-12-20 08:30:17 | コラムと名言

◎源頼義、集めてきた戦死者の片耳を埋める

「藤子不二雄」というのは、かつて、マンガ家の藤本弘氏(のちのペンネーム 藤子・F・不二雄)と、同じくマンガ家の安孫子素雄氏( 藤子不二雄Ⓐ)が使用していた共同ペンネームである。おふたりは、先輩のマンガ家・手塚治虫にあこがれ、「足塚治虫」、あるいは「足塚不二雄」というペンネームを名乗った時期があるという(手塚氏の足元にも及ばないという意味をこめて)。
「足塚」という苗字が実在するか否かは知らないが、「足塚」という言葉はある。それは、死者の足を葬った「塚」のことである。同様に、「首塚」、「胴塚」、「耳塚」といった言葉もある。いずれも死者(戦死者や刑死者)の首や胴や耳を葬った塚である。 
 本年一一月、民俗史家の室井康成〈ムロイ・コウセイ〉氏が、『首塚・胴塚・千人塚』(洋泉社)という本を出された。実に興味深い本である。読みながら、読み終えるのがモッタイナイと思えるような本には、めったに出会えないが、この本は、そうした魅力のある本である。本日の東京新聞に、同書の拙評を載せていただいたが、この本の面白さを、十分に表現できなかった点があるので、ここで補足させていただく次第である。
 同書の書評を書いたのは、一か月ほど前だが、その後、たまたま、笠原一男編著の『近世往生伝の世界』(教育社歴史新書、一九七八)という本を読んだ。その序章「往生伝の世界」(笠原一男執筆)に、源頼義〈ミナモト・ノ・ヨリヨシ〉の話が出てきた。
 源頼義といえば、前九年の役〈ゼンクネンノエキ〉(一〇五一~一〇六二)を戦った源氏の猛将として知られるが、彼は、戦死した敵兵の片耳を持ち帰り、干して保存するということを続けていた。
 晩年にいたって、これまでの罪障を深く悔いて浄土信仰に帰依した。河内の通法寺に、等身の阿弥陀仏を安置した御堂〈ミドウ〉を建て、ここに箱ふたつ分の片耳を埋めて供養したという。その後、多年にわたって念仏し、最後には出家した(出典は、『続本朝往生伝』という)。
 室井氏の本を読んでいなかったら、読み飛ばしてしまった記述である。河内の通法寺は、現在、羽曳野市壷井に、山門と鐘楼などのみを残している(明治初年の廃仏毀釈運動で廃寺になったという)。しかし、御堂(阿弥陀堂)があった場所は、特定できるのではないだろうか。そして、こんなことを考えた。頼義が、大量の片耳を埋めた場所が、もし寺院の境内でなかったら、その場所は「耳塚」と呼ばれ、地元の住民によって供養され続けて、今日にいたったのではないか。

*このブログの人気記事 2015・12・20

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映画『ゾラの生涯』(1937)を観る

2015-12-19 05:07:53 | コラムと名言

◎映画『ゾラの生涯』(1937)を観る

 今月一六日、DVDで、アメリカ映画『ゾラの生涯』(ワーナーブラザーズ、一九三七)を観た。この映画は、文字通り、フランスの文豪エミール・ゾラ(一八四〇~一九〇二)の生涯を描いたものだが、上映時間一一六分のうち、最初の約三〇分を除けば、ほとんど、「ドレフュス事件」についての映画だといってもよい。
 軍機を漏洩したと見なされたドレフュス大尉の「位階剥奪式」の場面も、詳細に再現されている。驚いたのは、これを担当した軍人が、ドレフュスの剣をへし折る場面である。なんと、彼は、素手で刃身を握って、へし折っていた。手が傷つかないのかと、心配になった。その後、ドレフュスは、兵学校の校庭を一周しながら、見物の群衆に向かって「私は無実だ!」と叫ぶ。しかし、群集はそれに耳を貸すことなく、逆に彼をヤジリたおす。
 映画では、その群衆の中に、作家のアナトール・フランスがいたことになっている。ドレフュスの真剣な訴えを聞いた彼は、ドレフュスは無実だと信ずるのである(あとになってアナトール・フランスは、ゾラにそれを伝える)。
 ガイアナのディアブル島(悪魔の島)で、ドレフュスが服役生活を送る場面も、なかなかリアルに描かれていた。就寝に際しては、ドレフュスの両足は、足枷で寝台に固定されていた。一六日朝に書いたブログで、chained to his bedを、「鎖で寝台につながれた」と訳した。「鎖」には、カギという意味もあるようなので、映画を観たあと、「足かせで寝台につながれた」と訂正した。
 獄中のドレフュスが、妻からの手紙を読む場面もある。映画では、手紙は、検閲の結果、あちこちが黒く塗りつぶされていたが、妻の手紙そのものであった。史実としては、「書き直された」手紙だったと思う(秘密通信対策として)。
 ドレフュスの冤罪を確信するにいたったゾラが、「私は弾劾する」("J'accuse")で始まる大統領あての公開状を書き、それを新聞社オーロールに持ち込む場面は、個人的には、この映画で最も印象に残る場面であった。新聞社までやってきて、いきなり公開状を読みあげるゾラ。次第にそれは、熱気あふれる演説と化してゆく。それに耳を傾ける編集長や記者、あるいは印刷工たち。それにしても、ゾラ役のポール・ムニの演技は大したものである。

*このブログの人気記事 2015・9・19(10位に珍しいものが入っています)

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嵐を越えてきた社会学者・森岡清美先生

2015-12-18 05:37:53 | コラムと名言

◎嵐を越えてきた社会学者・森岡清美先生

 昨日、家永三郎の「名誉教授」号問題について触れたところ、思いのほか、アクセスが多かった。そこで、本日は、その続きである。
 昨日は、森岡清美さんの自伝『ある社会学者の自己形成』(ミネルヴァ書房、二〇一二)を引用させていただいたわけだが、引用しながら、森岡清美先生の誠実なお人柄というものが、ヒシヒシと伝わってきた。
 私はまだ、この本自体も、通読したわけではないし、また森岡先生の著作も、たぶん、これまで読んだことはないと思う。かつて、農村キリスト教会や真宗教団の調査にあたられ、また、神社合祀や新宗教についても研究されている先生の業績に、これまで注目してこなかったことを慙悸したのである。
 本日は、『ある社会学者の自己形成』の「はしがき」を引用することで、森岡清美先生の研究歴あるいは人生の一端を、紹介させていただきたいと思う。

 はしがき
 私が研究者を志したのは、敗戦直後の一九四〇年代後半であった。その頃は日本の学校制度の大きな改革期であったが、意識としてはなお旧制度的なものが色濃く残存していて、彼は傍系だ、といったことが、本流に棹さす年配の研究者の間で囁かれた。本流とは旧制中学校から旧制高校や大学予科をへて旧制大学を出たエリートたちであり、とくに帝国大学を卒業した研究者がエリート中のエリートと自他ともに認めていた。「傍系」の語は、エリート官僚に対比される叩きあげの役人に似た響きをもった。一九五〇年代以降、戦後の学制改革などに因って傍系の語を耳にすることがなくなったことは、学界の空気の歓迎するべき変化であるが、研究機会へのアクセスにはなお格差があり、専門的訓練環境の優劣意識として密かに息づいているのではないだろうか。
 私は小学校高等科をへて師範学校に学んだ文字通りの傍系出身である。かつての女性研究者と男性研究者の格差ほどではないにせよ、同じ男性研究者の間でも、傍系出身者には始めから本流にあった人たちにはないストーリィ、訓練環境の不備を自己練磨によって補うほかない者のストーリィがある。まことに貧弱であるが、自分自身を例として本流育ちの人にはないストーリィを書いてみたいと思った。
 私の小学校入学から高等師範学校修了までの一五年は一五年戦争期に重なった。私たちは天皇制国家主義の教育環境のなかで育ち、自己の置かれた運命に誠実に応えようとする態度を養われたのではなかったか。敗戦後、人格・人権・民主圭義の理念を軸に自己を再形成するさい、旧理念との葛藤を経験しなかったばかりか、むしろ解放の感覚さえあったのは、そのゆえかもしれない。いずれにせよこのストーリィは、けだし私たちの世代を特色づけるものであろう。
 ある高名な評論家は、一八歳からの数年間にどのくらい本を読んだかが決定的に重要だと言い放った。私も同感であるが、戦中派と呼ばれる私の世代の研究者たちは、二〇歳前後の数年間、勤労動員や学徒出陣でろくに本を読む時間がなかつた。教養不足で視野が狭い欠陥商品のようなわれわれが、戦後どのような自己研鑽の歩みを辿ったか。これは前段と表裏するストーリィを織りなしている。その一つの事例を書き残しておくのも、意義なしとしないであろう。
 われわれの世代の研究者は、一九七〇年前後数年間、大学紛争に際会し、教員として使い勝手のよい年頃であったためか、多かれ少なかれ紛争から強いインパクトを受けた。これが研究者としての姿勢にも、深いところで影響しないはずはない。私の勤務校で起きた筑波紛争は、学生蜂起による並の大学紛争にはない破局的な展開をみせたので、そのインパクトは計り知れない。大学解体という特異例であるが、そのなかで私がどのように変わっていったかも、語るに値することだと思った。
 われわれの世代の研究者が経験した主な時代的難局を挙げて、これらを嵐に見立てた。それに加えるに値する嵐として、私が幼少期に経験した家庭内のいじめにも、いじめから私を守ってくれた抱擁とともに、言及しなければならない。幼少期にはミクロレベルの家庭の嵐、青年期にはマクロレベルの国民的嵐、壮年期にはメゾンレベルの職場の嵐といえようか。副題に「幾たびか嵐を越えて」と付したゆえんである。【以下、略】

*このブログの人気記事 2015・12・18(3・8位に珍しいものが入っています)

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家永三郎教授に、遡って名誉教授を発令

2015-12-17 05:00:32 | コラムと名言

◎家永三郎教授に、遡って名誉教授を発令

 歴史家の家永三郎は、「東京教育大学名誉教授」として知られているが、彼が東京教育大学から名誉教授を発令されるに際しては、かなり複雑な経緯があったようである。
 昨日、研究上の先輩である林聰〈ハヤシ・サトシ〉さんから、その「経緯」についての資料を拝受した。先日、拙著『独学の冒険』を謹呈したところ、そこに、「家永三郎名誉教授」について言及があるのに目をとめられ、「資料」を送付してくださったのである。ちなみに、林さんは、東京教育大学在学中、家永三郎教授の講義を受講されたという。
 その資料というのは、森岡清美さん(東京教育大学名誉教授・成城大学名誉教授)の『ある社会学者の自己形成――幾たびか嵐を越えて』〔シリーズ「自伝」my life my world〕(ミネルヴァ書房、二〇一二)からのコピー、具体的には、同書の第八章「母校廃滅」のコピーのことである。
 森岡さんは、東京教育大学が廃校になったときの文学部長、つまり最後の文学部長を務められたが、この本を読むと、当時、家永三郎教授の「名誉教授発令」の当否をめぐって、同大学の評議委員会の内部で、厳しい意見の対立があったことがわかる。
 さっそく、引用させていただこう。

名誉教授問題 一九七七年度最初の評議会で名誉教授の選考が行われ、文学部から定年退官四氏、他大学転出三氏を推薦し、定年退官の家永三郎さんだけが保留となった。家永さんは教授歴二七年余で、教授として二〇年以上という大学が定める資格要件を充足しているうえに、若くして日本学士院恩賜賞を授与された高名の日本史家であるから、名誉教授ごときなんの問題もないはずであるが、「辞職勧告」というケチがついていたのである。
 先に教官選考規準を決議した評議会は、紛争責任検討委員会なるものの報告に基づいて、一九七〇年九月、文学部教授会に紛争の主要な責任ありとし、指導的役割を果たした入江勇起男〈イリエ・ユキオ〉・星野慎一・家永三郎の三教授はその責任を負って辞職すべきである、との辞職勧告を決議した。紛争初期の文学部長であった入江・星野両氏は、「大学の管理上および実質上の指導を誤った責任」を問われ、管理職に選ばれたことがない平〈ヒラ〉教授の家永氏は、「その行動により紛争を激化させた責任」を問われた。
 家永さんは先の教授会出席率が九八%というきわめて忠実な構成員で、常に誠実に協議に参加し、整然とした議論で指導的な役割を果たしてきた。ただ、時により議論が尖鋭になりすぎることがあるので、学部長などの管理職に選出されなかったが、誰しも家永さんを信頼し尊敬し、辞職勧告に憤らぬ者はなかった。教科書裁判で文部省と戦っている家永氏を攻撃することは、文部省への援護射撃になる。意図はどうであれ、効果はそうであった。
 星野・入江両氏が一九七一年度末をもって退官したとき、文学部からの名誉教授推薦にかかわらず、辞職勧告を理由に否決され、以後連年両氏を推薦しては、否決されつづけた。そして家永さんが定年退職となるや、名誉教授案件として連鎖的に保留となったのである。〔大山信郎〕学長は家永さんを名誉教授にすることに賛成であった、他学部長が同意を渋るのは、先に辞職勧告を決議しいま筑波大を牛耳っている人たちから、筑波大へ移行するさい、あるいは移行後、不利益な処遇を受けるのではないかという、危惧ゆえであった。
 私は家永案件を夏休み前に解決したいと考えた。それには、辞職勧告とできるだけ結びつかないアプローチを選ばねばならぬ。その最終の手は、星野・入江案件を断念することを条件に、家永案件の合意を求めるということであった。これはどうにか成功して、六月下旬の評議会では全会一致で承認され、遡って他の六人と同じ四月二日付けで名誉教授の件が発令された。夏休み後の案件解決であれば、いくらなんでも四月の発令にはできない。
 名誉教授の辞令は大学へ出頭して学長から渡されるものであるが、こんなに遅れたのに家永先生のような偉い方を呼びつけるわけにはいかないから、貴君がお宅まで届けてくれまいか、という学長の指示により、西武池袋線大泉学園駅に近いお宅に先生を訪ねたのは、七月中旬のことであった。四月二日の日付と、辞職勧告が自然消滅になったと言って称号授与の効果を喜んでくれた。家永さんに辞令をお渡ししたとき、これで生前叙勲の候補となりますね、筑波大がどう出るか見ているだけの価値はあります、と言ったら、先生は微苦笑されただけでとくに応答がなかった。
 教科書裁判で正しい歴史認識のために闘った家永さんこそ、文化勲章にも値する功労者であるが、紫綬褒章すら授与されず、八九歳まで存命されたが、生前叙勲の予報があったとは、ついぞ聞いたことがない。政府がとりしきる栄典制度は、国民のためというよりは政府のために役だった人を顕彰することで、政府に批判的な言動を自主規制させ、迎合的な言動を奨励する潜在機能をもつ制度であることを、家永さんの一件が示唆している。
 家永さんは退職後中央大学に職を得られたが、七〇歳で退職された後、旧教育大文学部の会などでお会いすると、肩書きがなくなった今、あなたのお蔭で名誉教授の肩書きを使えるので有難いと、何度も礼を言ってくださった。生前叙勲では空振りであったが、意外なところでお役にたっていたのである。【以下、略】

 東京教育大学名誉教授・家永三郎という呼称の背後に、こうした「ドラマ」があったことを、この資料を読んで初めて知った。森岡清美さんの尽力がなければ、家永三郎は、「東京教育大学名誉教授」の称号は得られなかったであろう。また、その陰で、入江勇起男(英文学)・星野慎一(ドイツ文学)両教授は、ついに、名誉教授の称号を得ることできなかったのである。
 なお、閉学直前の一九七八年二月の評議会で、森岡清美さんは、入江・星野両教授の名誉教授の件を再審議するように要望し、実際、この件は、三月の部局長懇談会の議題となった。しかし、やはり、「阻まれた」とあった。

*このブログの人気記事 2015・12・18(7・8・9位に珍しいものが入っています)

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