礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

メルシエ将軍、軍法会議で偽証(1895)

2015-12-16 06:22:35 | コラムと名言

◎メルシエ将軍、軍法会議で偽証(1895)

 昨日の続きである。英語研究雑誌『青年』の第二巻第一一号(一八九九年一二月)に載っている英文「ドレフュス事件」(THE DREYFUS CASE)を紹介している。昨日は、「Ⅰ.」を紹介したが、本日は、「Ⅱ.」を紹介する。
 昨日と同様、英文、その拙訳、『青年』誌による註の順に紹介する。英語の原文に、若干、史実とことなる部分があるようだが、注記や訂正はしていない。

  Ⅱ.
 In December the court martial took place. Lieutenant-Colonel du Paty de Clam, Colonel Henry and various experts testified that the bordereau was in Dreyfus's handwriting; but other experts disagreed. The case against Dreyfus looked shaky.
Then in secret session, without the knowledge of either the prisoner or his councel, General Mercier, the minister of war, read the judges a simple sentence from a cipher letter that he said had come into possession of the ministry. "Dccidedly," he quoted, "this scoundrel of a Dreyfus is becoming too exacting."
 The minister of war, like some othor witnesses, perjured himself. It has since been shown that the name " Dreyfus " did not occur in the letter he pretended to read, and that the letter was not even remotely connected with the alleged selling of army secrets to the Germans.
 But the pejury swayed the court martial, already influenced by the anti-Semite crusade which was then waging in France. Dreyfus was sentenced to military degradution and imprisonment for life.
 How tho first part of the sentence was carried out has been briefly told. In February, 1895, forbidden even to bid farewell to his wife and children, Dreyfus was deported to the Ile du Diabte,―"Devil's Island,"―a pestilential place off the coast of French Guiana; and here he remained for more than four years, shut up in a high stockade that enclosed an iron hut, forbidden to speak, watched contiually by armed guards, chained to his bed at night, not permitted even to receive hie wife's letters until they had been so rewritten, the order of the sentences so altered, as to make secret communication itnpossible.
 To a man of thirty-five, wbo had been rich, ambitious, happy in his family life, the years that stretched away before him might have seemed to promise worse things than death; but Dreyfue, it seems, did not despair. His wife believed in him and was working for him; and although he did not know it, an important step toward his vindication was taken in the spring of 1896, when Lieutenant-Colonel Picquart succeeded Colonel Sandherr at the head of the French army's " intelligence department," the spy bureau.

 その二
〔一八九五年〕一二月、軍法会議(court martial)が開かれた。デュ・パティ・ド・クラン陸軍中佐、アンリ大佐、そして様々な鑑定人が、「明細書」の筆跡は、ドレフューのものであると証言した。しかし、それを否定する鑑定人もいた。ドレフューに対する申し立ては、根拠が薄弱のように見えた。
 その後、裁判は秘密会(secret session)となり、被告も弁護士も知らないうちに、陸軍大臣(the minister of war)のメルシエ将軍が、裁判官に対し、ひとつの暗号書状(a cipher letter)から、ある一文を読みあげた。将軍によれば、その書状は、陸軍省で入手したものだという。将軍が引用したのは、「たしかに、ドレフューという悪党は、あまりに増長してきた」という一文である。
 陸軍大臣は、他の数人の証人たち(some othor witnesses)と同じく、偽証をおこなったのである(perjured himself)。すなわち、その書状には、「ドレフュー」という名前は、存在しなかったにもかかわらず、将軍は、これを偽って読んだのである。また、この書状は、ドイツ人に軍機を売った疑いとは、ほとんど何の関係もないものだったのである。
 しかし、この偽証(pejury)が、軍法会議を左右した。軍法会議は、当時、フランスで展開されていた反ユダヤ主義運動(the anti-Semite crusade)の影響を、すでに受けていた。ドレフューは、軍事上の屈辱(military degradution)、および終身禁錮(imprisonment for life)の刑を宣告された(was sentenced)。
 処罰の一部が、どのように執行されたかについては、すでに短く述べた〔その一の「位階剝奪式」〕。一八九五年二月、ドレフューは、妻子に別れを告げることも許されないまま、ディアブル島(Ile du Diable)、すなわち「悪魔の島」(Devil's Island)に流された。その島は、フランス領ガイアナの沖にあり、瘴癘の地(a pestilential place)であった。高い柵に取り囲まれた鉄製の小屋に、ドレフューは四か年とどまった。話すことを禁じられ、常に武装した監視員に見張られた。就寝時は、足かせでベッドにつながれた。妻からの手紙も、そのまま、受け取ることはできなかった。秘密の通信を防ぐため、手紙は、文章の順序を入れ替え、書き直されたものが手渡された。
 かつて裕福に暮らし、大望を抱き、幸せな家庭生活を送っていた三十五歳の男にとって、自分の前に伸びている年月は、死よりもつらいものと思えたことであろう。しかし、ドレフューは、絶望しなかったように見える。彼の妻は、夫を信じており、夫のために努力を続けていた。もちろん、ドレフューは、知るよしもなかったが、彼の無実を証明する上で、ひとつの重要な一歩が生じた。それは、一八九六年の春のことで、このとき、ピカール中佐(Lieutenant-Colonel Picquart)が、サンデール大佐(Colonel Sandherr)の後任として、フランス陸軍情報部諜報局長となるということがあったのである。

〔「Ⅱ.」のあとの註の一部〕 that he said had come into possession of the ministry 同省(即ち陸軍省)にて得たりといふ/crusade は元と十字軍の義なれども転じて衆人協力して攻撃するの意に用ゆ/was deported 遠島せらる/chained to his bed at night 夜は寝所に鎖がれ/as to make secret communication itnpossible 秘密の通信の出来ざる様に(西洋には手紙を一行置きに読むとか又は縦に読むとかして秘密の通信を受くる方あり)/the spy bureau 即ち間諜局

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英語雑誌『青年』、「ドレフユー事件」を紹介(1899)

2015-12-15 08:22:52 | コラムと名言

◎英語雑誌『青年』、「ドレフユー事件」を紹介(1899)

 今月五日のブログで、英語研究雑誌『青年』の第二巻第一一号(一八九九年一二月)に載っていた記事を、ひとつ紹介した。実はこの号には、いわゆる「ドレフュス事件」の梗概を記した英文(THE DREYFUS CASE)も掲載されていた。同号の表紙には、「ドレフユー事件の梗概を載録す」という大きな文字がある。出典は、アメリカの子ども向け雑誌「The Youth's Companion」のようである。
 フランスの陸軍大尉アルフレッド・ドレフュス(Alfred Dreyfus)が、敵国に軍事機密を漏洩した罪を問われ、軍法会議によって終身禁錮とされたのは、一八九四年の一二月のことであった。その後、一八九九年の六月に、フランスの破棄院が、軍法会議の再審を命じ、レンヌの軍法会議が再度、ドレフュスに有罪の判決を下した。これが同年九月のことである。雑誌『青年』は、同年一二月の段階で、早くも、この事件の梗概を記す英文をを紹介している(この英文記事は、レンヌの軍法会議が有罪判決を下したところまで紹介している)。

 同誌の記事THE DREYFUS CASEは、ⅠからⅣまで、計四節からなる英文で、各節ごとに、同誌編集者による、かなり詳しい「註」(Notes)が施されている。とりあえず、ⅠとⅡを和訳してみたが、英語力が乏しい上に、ドレフュス事件の経緯についての基礎知識を欠いていたので、かなりこれは、困難な作業であった。
 本日は、「Ⅰ.」について、原文、その拙訳(文字通り)、「註」の一部の順に、紹介してみたい。英語の原文に、若干、史実とことなる部分があるようだが、注記や訂正はしていない。

 近 体 英 文 抄 (2)
 THE DREYFUS CASE.
(The Youth's Companion.)
  Ⅰ.
 On the morning of January 6, 1895, three thousand Parisians gathared in the Square of the Military School to witness the degradation of' an officer who had been declared guilty of selling military secrets to a foreign government. A stalwart guardsman tore f'rom tho prisoner's coat the insignia of rank and snapped the prisoner's sword across his knee. Then prisoner was marched around the square, as a final mark of disgrace, drums rolling to drown his cry, "You are degrading an innocent man ! Long live France !"
 The man thus dishonored was Alfred Dreyfus, an Alsation Jew, captain in the 14th regiment of artillery, and attached to the general staff-the only Jew who held a prominent place at the army headquarters. He had bean "star pupil" at the military school. He was talented, ambitious, perhaps a little conceited, and he did not put himself out of gain friend. Moreover, he had a rich father-in-law, and did not have to live on the beggarly salary allowed to officers in the French army.
 In the minds of his associates these were good reasons for hatred. They invited conspiracy. When a French spy found the famous bordereauor-memorandum list-in a waste-basket at the German embassy. Dreyfus's office-mates promptly affirmed that he was the writer of the document, which mentioned five items of secret, information that had been treasonbly tansmitted to the Germans.
 Dreyfus was arrested, charged with its authorship, on October 14, 1895, and kept in prison for two manths, where he was constantly tormented to "confess" and tempted to admit gult by committing suicide.

 ドレフュー事件(The Youth's Companion誌より)
 その一
 一八九五年一月六日の朝、陸軍兵学校の校庭(the square)には、三千人ものパリ市民が集まっていた。軍事上の秘密を外国政府に売ったとされる、ある士官の位階剝奪式(the degradation)を、目撃せんがためであった。ひとりの剛勇なる近衛兵が、その罪人の上着から、位階の徽章を剥ぎ取った。また、罪人の剣を自分の膝に当てて(across his knee)、ポキンとへし折った。最後に、罪人は校庭を歩き回させられた。とどろく太鼓(drums rolling)のために、罪人の叫び声は、搔き消されたが、彼は「あなたたちは、無実の人間を貶めようとしている! フランス万歳!」と叫んでいた。
 このようにして辱められた男は、アルフレッド・ドレフューという。アルザス出身のユダヤ人(an Alsation Jew)で、砲兵第十四連隊の大尉で、参謀本部(the general staff)に配属されていた。彼は、陸軍司令部(the army headquarters)という重要な地位に就いている唯一のユダヤ人であった。彼は、陸軍兵学校時代は、「すぐれた生徒」(star pupil)であった。才能があり、野心家であり、おそらくは、少し自負するところがあった。友人を得ようとして、みずから譲ることはなかった。さらに彼は、裕福な義父〔妻の父〕持っていた。したがって、フランス陸軍から与えられる小額の給与(the beggarly salary)に頼って生活するという必要はなかった。
 こうしたことは、その同僚たちの意識において、彼を憎悪する恰好の理由となった。彼らが、陰謀を挑発したのである。フランスのスパイが、ドイツ大使館のくずかごの中から、有名な「明細書」(bordereau)、つまり覚書(memorandum list)を発見したとき、ドレフューの同僚たち(office-mates)は、五件の秘密情報をドイツ人に漏洩した、その書類(documen)の書き手が、ドレフューであることを、ただちに肯定した。
 その書類の書き手(authorship)であったと見なされたドレフューは、一八九五年一〇月一四日に逮捕され、二か月間、牢獄に置かれた。そこで彼は、絶えず、「自白」するよう痛めつけられ、また、罪を認めて自殺するよう誘導された。

〔「Ⅰ.」のあとの註の一部〕degradation 貶辱/roll=to beat with rapid strokes/talented, ambitious, perhaps a little conceited 才幹あり大望を抱き恐くは少しく自負心強かりき/beggarly=poor/They invited conspiracy 彼等は陰謀を挑発せり/treasonbly 国に裏切て/authorship 張本人/confess にinverted commas〔引用符〕のあるは自ら犯したるにあらざれば白状の致し様なきも先にてはしかいふの意

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文部大臣みずから教科書原稿をいじくりまわす

2015-12-14 05:15:00 | コラムと名言

◎文部大臣みずから教科書原稿をいじくりまわす

 昨日の続きである。国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に収録されている、井上赳「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」から、その第六節「国民学校教科書事情」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 
 ところで、いよいよ編纂を実行に移しでみると、私が予想した以上に困難が続出した。ます編修方針が出来上ると、待っていたといわぬばかりに、数百項にわたる教材細目を整然と並べ立てた大きな紙片幾枚が、軍の教育総監部本部長の名に於いて図書局へ移諜されて来た。軍はこれによって国民学校の教科書を軍事教科書にぬりつぶす計画かと、疑えば疑えるのであった。なかんずく国語読本には、そのもっともめぼしいものが割り当てられている。私はこれに目を通し、監修官諸君をも集め一応会議をした形にして、「この要求は技術上到底実現し得る見込なし」という趣を、局長を通じて総監部へ送り返すことにした。
 後で聞くと、これは大変な事であったらしい。もし、その時本部長が今村〔均〕大将でなかったら、私はとうの昔、進退問題うけあいであったろう。い誉り立つ着い将校連を放淀めた今村大将は、「技術上むすかしいというなら、軍から出かけて協力しようじゃないか。」ということで一応おさまったと聞いている。その緒果か、総監部附の佐官数名が文部省の嘱託という名義で、図書局へつめることになった。
 軍のいちばんねらっているのは国語読本である。――そこで私は、国語の教材は、低学年では童謡、童話、児童の遊戯生活の表現の中心であること、上級に進むに従って文学でなければならぬことを説き始めたのである。けだし、軍にとってそれらがいちばん苦手であり、また軽べつする処でもあったからである。そしてこの事は、結果において成功だったと私は思っている。私にもっとも親しんで来た高橋少佐が、まず次第に私のいうところに耳を傾けるようになり、書いて来るものも書いて来るものも、恥ずかしそうに「これじゃ文学じゃありませんな。」と自ら頭をかく始末である。もちろんその間、断片的によく出来たもの、質のよさそうなものは、採り上げなければならない場合もあったけれど、軍が最初に考えたように、「そもそも総力戦とは……」といった正面切った軍事教材は、国語はもちろん、国民学校のあらゆる教科書にのせられない結果になった。かれらのめざした教材系統も、めちゃめちゃになったらしい。それというのも、高橋少佐が次第に教育に共鳴するようになったからである。――教育総監部は軟化した。高橋なんかだめじゃないかという声が、軍の他の方面では起りつつあり、高橋少佐も、この板ばさみに大分苦労したように後で聞いたことである。
 いちばんひどい見幕であったのは、海軍である。海軍は、早くから笈田光吉〈オイダ・コウキチ〉の絶対音感教育を支持し、それを軍に実際やってみて、国防上大いに役立つというところから、国民学校の音楽を、絶対音感教育に改むべしという意見である。この問題について、海軍と文部省との交渉には長い経緯もあったようであるが、いよいよ図書局に移って来たのは、戦争直前であったと記憶する。そこで、一度図書局の音楽教科書委員と、海軍の将校、それに防空関係から陸軍の将校も参加して、会談をしたことがある。海軍といえばこれまでどこか文化的で、やさしいものがあるように考えていたが、この時の海軍将校は実に猛烈で、ほとんど乱暴に近いものがあった。教科書委員の小松耕輔〈コマツ・コウスケ〉氏など、ちょっと質問したために、のっけから悪罵され、散々の攻撃を蒙った。何でもこのために、小松氏には当分尾行がついたと聞いている。この会談の後始末をするため、図書局内に「音名に関する委員会」を作り、委員として、大学教授、音楽学校教授、それに図書局側の音楽教科書委員を主軸とした研究会を、毎週開くことになった。私も毎回この会に出席したが、世の中に、学者というもの程調法なものはないという印象を受けた。一般に音楽教育者は教育を考えてなかなか動かぬが、これを正当に理論づけてくれそうな学者や音楽家になると、どうも態度そのものがはっきりしない。音楽教育の立場を支持するような口振であるかと思うと、いざという場合にげを打つような理論が出る。学者がすべてああいうわけでもあるまいが、ああいうのは実に困ったものである。幸いにこの長い会議の結論も、音楽の聴音練習を少しばかり行うこと、音名は日本名を用いることぐらいでおさまり、国民学校の音楽は、絶対音感におもやを取られないですむことになった。
 こういうことを、一々書いていてはきりがないから、この辺でやめにするが、要するに戦争が苛烈になるとともに、私の周囲にも、雲行〈クモユキ〉があやしくなりだした。昭和十八年〔一九四三〕岡部長景〈オカベ・ナガカゲ〉氏が文部大臣となるに及んで、私は次第に覚悟をきめる方向に事態が進んできた。まず尺貫法で、じりじりと在来の編修のメートル法を改めさせられる。新大臣を通じて、右翼や軍の圧迫がひしひしと感じられる。果して国民科国語の教科書が槍玉にあげられた。十八年〔一九四三〕十一月には、二十三年続いた図書局が廃止されて、普通局に合併される。以来大臣自身、丹念に教科書原稿をいじくり回わすことになり、その修正は底止するところがない。編修課長もこれではやりきれたものでない。とうとう意を決して、十九年〔一九四四〕三月に辞表を提出し、以後病〈ヤマイ〉と称して出勤しなかった。この辞表は、六月一日に至って聴許となった。
 かえりみれば二十三年の国定教科書編修生活――それはからず私のほとんど一生の生存意義を打ち込んだものであったが、やめるに際しては一片の未練もなかったほど、時勢は悪化の一路をたどっていたのであった。

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井上赳が語る、戦中における教科書編修事情

2015-12-13 08:01:45 | コラムと名言

◎井上赳が語る、戦中における教科書編修事情

 本日は、話題を転じようと思ったが、尾崎光弘さんから、「太郎花子国語の本」について、あるいは井上赳について、関心を抱いた旨のコメントをいただいたので、もう少し、同じ話題でゆきたい。
 昨日、紹介したように、国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に、井上赳の「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」という文章が収録されている。この文章は、次の八節からなる。
 一 恩師に叱られる
 二 そのころの読本編修
 三 読本編修の史的展望
 四 新編纂法を求めて
 五 サクラ読本成る
 六 国民学校教科書事情
 七 国語教育の行くえ
 八 太郎花子国語の本作成
 どの節にも興味深い記述が盛られているが、本日は、第六節を紹介してみよう。

 六 国民学校教科書事情
 サクラ読本の編修が尋常科だけ終ったころから、私どもはそろそろ国民学校の教科書を考えざるを得なくなった。実はサクラ読本の高等科にかかることが差当りの問題であり、それに一年おくれて出た「画期的」な「小学算術」の編修もまた高等科をめざしていた。ところで一方に教育審議会の国民学校案が次第に具体化しその実施も間近いことが予想され、その実施と共にその教科書がなくてはならぬというわれわれにはおもしろくない事態が差し迫った。
 元来図書局の編修者は、あの「皇国の道に帰一する」といった国民学校の根本方針に大きな疑惑を持っていた。この根本方針から国語修身地理歴史が統合されて国民科となり、算術理科が統合されて理数科となり、そうして各教科がそれぞれ皇国の道に帰一するというのは、どこまでも一個の理念であって、これまでの教育の実際に於いて築き上げられた具体的方法もなければ理論もないのである。昭和十四年の夏普通局長を中心に、督学官・図書監修官が約一ヵ月論戦したのは、実にこの点である。そしてわれわれ図書局員が最も否定的な態度を取ったので、そろそろ自由主義だと言われ始めた。私はすでにこの時北京にある大岡〔保三〕氏に代って〔編修〕課長代理を勤めており、最も責任を感じるが故に、ほとんど最後まで肯定できなかったのであるが、長い論戦の間には錯覚も起り易く、まず理数科の統合に理窟がつけられそうになり、以来私は局の内外から矢を受けそうな形になった。
 いよいよ編修方針を定めるに当って、監修官の協議が長く続いたが、教科書は教科別に作らず科目別に作ること、サクラ読本の編修方針に従って児童を四期に分け、各科目教材を発生的に排列すること、各科目の横の連関を密接にすることにわれわれは根本方針を決定した。科目別に作ることには上層部はもとより、早く聞き伝えた世間までが不満で、せめて国語と修身の一つにせよとか、何と何は一緒にせよとか横槍が出たが、われわれはこの方針を最後まで変えなかった。それどころか、この国民学校令を機として、国語にば「話方」が分科としておかれることになったのに乗じ、私は皮肉にも在来の読本の外〈ホカ〉に「ことばのおけいこ」というものを編纂し、国語教科書を二本建〈ニホンダテ〉にする計画をさえ立てた。これがために用紙を乱費するものだという上層部の叱責的な非難もあったが、私は強引に押し進めた。戦後の言語教育といえばわが事のように論じたがる現在の人も、戦前すでにこうした考え方か実行に移されたこと――もちろんあわただしい時機に際してのきわめてお粗末な出来ばえでばあったが――について先輩のなめた苦労だけは汲んでほしいと思う。そして記憶しておいてもらいたいことは、あの神がかりの極端な国粋圭義の権化〈ゴンゲ〉と見られがちな国民学校の方針を具体化すべき教科書の編修方針が、その実、根本的に児童中心の自由教育をまもりぬくべき仕組みにできていたことである。国定教科書始まって以来初めて用いた「よみかた」「ことばのおけいこ」「よいこども」「かずのほん」「ゑのほん」「うたのほん」といった書名だけを見ても、それがわかってもらいたいのである。【以下、次回】

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井上赳と「太郎花子国語の本」

2015-12-12 05:11:23 | コラムと名言

◎井上赳と「太郎花子国語の本」

 昨日の続きである。昨日、国語研究所長の初代所長をつとめた西尾実が、「太郎花子国語の本」について論評している文章を紹介した。この文章は、同教科書に深く関与した井上赳〈イノウエ・タケシ〉が、ある文章のなかで引用しているものであって、西尾実の文章のタイトル、発表誌、発表年代などは不明である。
 井上赳の、その文章というのは、国語教育講座編集委員会編『国語教育問題史』(刀江書院、一九五一)に収録されている、井上赳「国語教育の回顧と展望 二 ――読本編修三十年――」である。井上の同文章は、全部で八節からなるが、最後の第八節で井上は、「太郎花子国語の本」について回顧している。
 本日は、その第八節を紹介してみよう。

 八 太郎花子国語の本作成
 作家坪田譲治、斎田喬〈サイダ・タカシ〉、私の旧友文博〔文学博士〕島津久基、新進の実際教壇者松尾〔弥太郎〕、竹内〔良助〕、本間〔平安子〕、それに社〔日本書籍株式会社〕を代表する私〔井上赳〕、高橋〔武馬〕、服部〔直人〕――つまり作家、学者、実際教育家、編修者のチームワークにおいて、新しく計画し作成したのが、「太郎花子国語の本」十三巻である。今その方針を簡単に簡条書にすると、
一、新日本の児童を象徴する太郎花子兄弟、および幾多の友人郷党の人々の群像をえがき出し、望ましい民主社会の展開の間に、心ゆたかに成育させる。――これによって在来の読本が、かって企て〈クワダテ〉及ばなかった児童の読書興味を喚起し、読書力を健全に育てる。
一、言語は、児童の精神発達と社会生活の展開に注目して表出・表現の系列を立てる。
一、興味ある生活の話題を中心とする話題単元を設定し、これを手がかりとして、言語の諸活動を追求させるよように仕組む。
一、人物の主体的また客観的叙述の間に、あいさつ、対話、話し会い、会議等話しかたに関するもの、日記・手紙・記録・報告・作文等ひろく作文に関するもの、詩、童話、児童文学、科学文学、伝説、物語、事実談、逸話、伝記――それらの散文的、詩的、劇的な表現――等に関する文学教材を、あるいは書中の人物の活動と直結し、あるいはエピソードとしてさしはさむ。――これによって題材が常に前後関連をますと共に、興味ある排列の変化と、文種のほとんどあらゆるものを掲げることを期する。
一、各巻末に「問題」(上級では「研究と問題」)の単元をおき、本文の言語活動の展開として、言語教育の実質的な教材を排列する。ことば遊び、ことば集め、ことば入れ、絵日記、日記、かるた作り、紙しばい、劇化、はがぎ文、手紙、とどけ書、記録、報告文、かるた作り、電話のことば、かべ新聞、読書ノート、男と女のことば、方言と標準語、語法一般、文字・言語・文章・文学の由来、表現の考察鑑質、事実と創作、ことばつかいと敬語等、これらを集成すれば少くとも言語教科書の骨子が成り立つように仕組む。
一、各巻末には、アメリカ教科書に学び厳密な語い表を附ける。語いは、低学年においてもっとも制限し、反復叙述を巧みに利用して同語の頻出を期し、言語のドリルに適応させる。
【一行アキ】
 以上が、いわば私の長い編修の帰結として考え得た新方針であり、これによって「太郎花子国語の本」は多くの検定国語の一本として世に出ることとなった。
 検定教科書は営利会社によって発行される一種の商品であるので、ここで私がこれ以上に自分の信するところを主張すれば、いたずらに宣伝がましく聞こえる。幸い、今日百花咲乱れるように出そろった数ある小学国語の中にも、とくに本書のため国語研究所長西尾実氏の書かれた批評の一文がある。これを左に転載させていただいて、私の編修三十年の結尾としたいと思う。
【一行アキのあと、西尾実の文章が引用される】

 井上赳(一八八九~一九六五)は、国定教科書『小学国語読本』(サクラ読本)の編集にあたった文部官僚として知られているが、戦後の一九四六年(昭和二一)から翌年にかけたは、衆議院議員をつとめたという(ウィキペディア)。
 上記の文章によると、「太郎花子国語の本」の作成にあたっては、日本書籍株式会社を代表する立場にあったようだ。同教科書の編集の実質的な中心人物であったと見てよいだろう。ただし、当時の井上の、同社における役職名などは、まだ調べていない。

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