礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

星亨の名前を忘れないため日生講を作る

2017-10-16 01:39:14 | コラムと名言

◎星亨の名前を忘れないため日生講を作る

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その三回目。

 後にお妻に愛僧づかしをされて帰つて来た古賀吉は、武部を呼んで、余計なことをして呉れたが、俺れも最早星〔亨〕先生の所へは行けない、就てはお前は俺れの代りに星先生を御護り申し上げてくれとのことで、武部申策は星先生宅にその時から書生となつて往込むことになつた。当時の星先生宅には横田千之助、伊藤仁太郎(痴遊)、中野虎次郎、胎中楠右衛門〈タイナカ・クスエモン〉等の有名人が居たのだ。だからこの人達は武部と最後まで兄弟分の付合をして居た。
 古賀吉の不始末はだれいうとなく世間に評判となり人気もだんだん下火になつて経済的にも困難を来たすようになつた、その後武部は深川の洲崎に住んで居た。
 古賀吉は益々人気が落ちて武部の所へ相談に行つたのは明治の末期であつたろう。
 武部、手前が余計なことをしたから貧乏してしまつた。何とかして助けてくれというの
で、それじや何とか助けましようということになつた。そこで深川須崎の甲子という女郎屋の主人に女の若後家〈ワカゴケ〉で居たので、武部は自分が博奕が好きだから、ひいきの新喜多川という女郎屋のおかみさんに頼んで、甲子【キノイネ】のおかみさんと新喜多のおかみさん、武部申策と古河吉の四人で熱海に遊蕩しに行くわけですよ。それで毎日毎晩花〔花札〕を引いた。そして古河吉がいつしか甲子【キノイネ】のおかみさんと仲よくなつてしまつて、甲子に婿に入つてしまつた。そして今の深川銀行の前身で前沢銀行というのが僕らの若い時分にあつたんですが、それは武部親分の甲子【キノイネ】の旦那が前沢といつて入婿しましたから。そこの頭取に古河吉がなつた。それで恩を返したという話があります。今は古河吉のような不始末をしても人気が悪くならない。ということは一般の社会が悪というものに対して敏感でなくなつたんです。今はそういうことはないが、その当時は博奕打ちでも、人の女房を取つたり、めかけを取つたりすると、不義理になつて人が行かなくなつてしまう。それで武部は星亨が死んでからは前沢銀行から金をもらうので、それを東京中のゴロツキに配るものだから、いやが上にも武部申策の名は一世一代の昭和の親分になつたわけなんですよ。
ききて 義理というものを非常に大事にするわけですね。
芳 賀 しかし、義理は非常に大事にするが、一面、いわゆる後家さんをだます、ということは良くないが、そういう機会を作つて入婿〈イリムコ〉に入るなんて行為も、あまりいい行為じやないんだけども、仲間同士ではそういう義理を重んずる。いわゆる盗人〈ヌスット〉道徳というものなんですよ。
ききて いい例ですね。しかし今それだけのことを御存知の方は少いんじやないでしようか。
芳 賀 まあ少いですね。星亨が殺されたのは二十年か二十一年でしよう〔明治三四年=一九〇一年〕。ちよつと記憶ないんですが――。それがために武部申策という人は星亨の名前を忘れないために日生講という法華の講中を作つて、死ぬまで太鼓をたたいて、毎年池上の本門寺に拝みに行つた。武部申策は日蓮宗じやなかつたが、死ぬまで星先生の墓を参拝した。日生講というのは、星という字を二つにわけたのです。いまだに万灯〈マンドウ〉を立ててドンドコドンドコ行きます。昔の人はそのくらい義理が固かつた。【以下、次回】

今日の名言 2017・10・16

◎盗人はすれど、非道はせず

 芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、1956)の76ページに出てくる言葉。法律を犯すことはあっても、道にはずるようなことはしないという意味。典拠は不明で、芳賀利輔自身の言葉である可能性もある。

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非常な学者で腕力も強く、いい子分を持っていた

2017-10-15 05:34:30 | コラムと名言

◎非常な学者で腕力も強く、いい子分を持っていた

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その二回目。

ききて 大体それはいつごろですが。
芳 賀 それは大正の初年から昭和の十八、九年ごろで、東京に相当えらい人がずいぶんおりましたが、それを彼がみんなおさえておつたんですから相当なものです。武部さんの言うことは何でも聞いた。ということは、この人は暴力ばかりじやない。非常な学者であり、そして腕力も強かつた。それで子分のいいのも持つておつた。だから何かあつてもすぐ間に合う。自分が貧乏しても困る人には金を与えるというようなために絶対だつたんです。それで喧嘩がきらいというんですからまた妙です。
ききて 大親分ですね。
芳 賀 今の四十以上の人はみんな知つている。それから武部申策の人となりがちょつとおもしろい。何かの参考になると思いますから話しておきますが武部申策の人となりというものはあの人は和歌山県の人で東京に出てきて、どこにもいるところがなかつた。十二か十三のときに出てきたらしい。ところが、そのときに東京の蛎殻町〈カキガラチョウ〉に古賀のきっつあん、古賀吉さんという人がいた。その当時蛎殼町というところは、米の相場がたつていた。そしてここで話が多少さかのぼりますが、博奕打ちの一家に生井一家〈ナマイイッカ〉というのがあつた。それをどうして生井一家というかといいますと、昔逸見貞蔵〈ヘミ・テイゾウ〉という人がある。これは徳川時代に今の蔵前の国技館の所でいわゆるお米の相場がたつたんです。
ききて いわゆる礼さしですか。
芳 賀 ええ、その親分がこれは神陰流〈シンカゲリュウ〉の達人で、その人の流れなんですょ。
ききて その流れといいますと。
芳 賀 その人の子分の子分です。その、古賀吉という人がいて、その人はなりが小さくて男ぷり〈オトコップリ〉もよかつたので、昔東京市長をしていた星亨〈ホシ・トオル〉が余りの出来物〈デキブツ〉な為に敵が多かつた、一人歩きが危険な為に古賀吉をつれて歩いた。いつでも唐棧〈トウザン〉の着物で角帯〈カクオビ〉を締めて歩いているが隼さ〈ハヤブサ〉の吉ともいわれて人を斬つたり殺したりするのが早いんです。それでその寵愛をうけて居たのだ。当時東京市長をしていた星亨は大変な努力家であつたから、新橋のあらい髪のお妻という有名な芸妓を愛妾にして居た。そこへ行くにも用心棒として古賀吉を連れて行く。
 ところが星亨はドラ声で、髯むぢやらに加えて明治時代の政治家だから傲慢無礼ときて居るに反し、古賀吉は歳が若いところへもつてイキでいなせで美男子ときて居るから何時しかお妻に浮気心ができたのだろう、二人は密かに逢うせ〈オウセ〉を楽しむようになつた。
 古賀吉は蛎殼町へ帰らない晩が多くなつた。
 古賀吉の妻君が焼餅をやくるようになつて、子分共にも当り散らすようになつた。
 当時博奕が好きで遊びに来る武部申策という小僧が居た。
 近頃の姉さん(古賀吉の妻)がヒステリーを起して子分共に辛く当るのを見て武部は子分の者に聞いて見ると、古賀吉親分が大先生の妾とおかしくなつたとの話に、何か機会があれば出世の糸口を見出だそうとして居た際だから、その足で新橋の洗い髪のお妻の処を訪ねた。
 古賀吉の子分だというふれこみだからお妻は早速会つてくれた。親分古賀吉がいま名代〈ミョウダイ〉の新橋の芸妓おつまさんとおかしくなつて居るとの評判、大先生星亨に対する不義等に対し、このままでおくなれば将来古賀吉の破滅がくること、どうか諦めてくれることを頼んだ。
 お妻は利口な女だからこの名もない小僧のいうことをあつさり聞いてくれた、もつとも武部も頼みを聞いてくれない時には覚悟があつたそうで、武部の懐ろ〈フトコロ〉には匕口〈アイクチ〉がしのんで居た。土産物としておつまは金三両に半紙に包んだお妻の髪の毛も少しくれてよこした。この話を昔、伊藤痴遊という講談師がやると天下一品であつた。【以下、次回】

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やくざ者・芳賀利輔の「暴力」観

2017-10-14 03:11:04 | コラムと名言

◎やくざ者・芳賀利輔の「暴力」観

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の紹介を続ける。本日は「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介する。

芳 賀 それからこの間もちよつとお話したが、私はこういう観念を持つているんです。私は暴力団の親分だと警視庁では騒ぎ立て新聞に書いておりますが、私は暴力団の親分じやないんだ。要するに、たとえば柔道五段とか素人相撲の大関をとるというような人間とけんかをしても負けない自信を持っている。それは決して暴力じやない。いわゆる正義感の働いた場合には、人には絶対に負けるものじやないという観念を持つておるんです。
 それからもう一つは、きのうもお話した通り、国定忠治〈クニサダ・チュウジ〉が一刀流の先生を殺したとか、神陰流〈シンカゲリュウ〉の先生をしめてしまつたとかいうのは小説じやない。実際にある。ということは、剣道をする人は剣道としてきたえられておる。柔道をした人は柔道できたえられている。やくざ者はやくざできたえられている。ということなんだ。たとえば柔道はまあ六級から五級、四級、三級、二級、一級となっている。それから初段になって、二段になって、三段になってこれが十段にもなるということになる。それと同じことでやくざ者がやはりそうなんだ。けんかなんかをすると、けんかできたえられていく、喧嘩なん段とかいうふうに実践できたえ上げられている。だからやくざ者は実力的にばかにできない。つまり剣道家が柔道を知らないから、柔道家に負けるとはきまらない、柔道家が剣道を知らないから剣道家に負けるとはきまらない。そういうふうにいわゆる階級的にきたえられているから、年をとつても決して若いものに負けるようには考えられない。あるいは負けるかもしれないが、負けるように考えないと云うのは、そういう経験を数多く踏んできているからじやないかと思う。
ききて 俗にいう度胸がいいんじやございませんか。
芳 賀 もう一つやくざの掟〈オキテ〉というものがある。その掟というのは、たとえば剣道家ならば正眼に構える。正眼に構えるということが一つの技術であり掟て〈オキテ〉でもあるということは、剣道家じやないからわかりませんが、そのようにいろいろ掟があると同時にやくざにも掟がある。それはもう長い間先覚者によつて教え込まれたやつを、われわれが親分から教えられて、それで記憶しているわけなんです。
 この間もお話した通りヤクザ者が酒を呑むことを左をやろうというでしよう、酒を左で飲むというのは、右を遊ばしておくということなんです。いかなる急場があつても、右の手が遊んでいるから対談ができるということなんです。それから親分と一同に招かれた時は親分の左に坐るというのは、親分は右利きだから、当然左が効いていない、左からかかられたときに、自分が親分の犠牲になるために親分の左の方に座るということ。これも先覚が教えてくれたことなんです。その他いろいろありますが、たとえば親分と知らない人が話をしているときには、必ず雑巾がけをする。表で話しているときにもやはり掃除をしに外へ出る。これは何かあつたときには親分の手助けをするという観念を常に教えられているということです。だから人が来た時掃除をするなということは人に対して、心をゆるして居るという礼儀なのです。それから博奕〈バクチ〉をするときにもその通り態度や何かにいろいろ掟があるのですが何かの機会に御話しましよう。私は博突打ちじやありませんが、おやじ武部申策は政治家で、博突打ちで、愚連隊の親分でもあつたわけなんですが。 【以下、次回】

 途中で、ききてが、「俗にいう度胸がいいんじやございませんか。」と口をはさんでいるが、これは、芳賀の真意をつかんでいない。芳賀は、「けんか道」ともいうべき武術体系があるということを言おうとしているのだと思う。

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芳賀利輔と暴力行為取締法(1926)

2017-10-13 03:39:52 | コラムと名言

◎芳賀利輔と暴力行為取締法(1926)

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」から、一木喜徳郎襲撃事件のところを紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 その晩に殿井元助という男が吉原の君津楼という女郎屋へ上つていたところを逮捕され、それから二、三日たつて高見沢というのが帝国ホテルでつかまつた。それから二十日ぐらいたつて信田四郎というのが、巣鴨のとげ抜き地蔵というのがあつて、そのとげ抜き地蔵の縄張りを持つているテキヤの親分新井幸太郎といふ人のところに逃げているところをつかまつた。しかし私はとうとうつかまらない。二十八日間逃げた。その当時、清浦奎吾という総理大臣だつたが、その人の子経通氏の家に逃げ込んだ。そしていよいよ金もなくなつてしまつて逃げることができない。それから武部申策という私の親分が深川におりましたから、そこへ電話をかけて金もなくなつたから自首しようと思う、と言つたら、それじや麻布の「新喜楽」という待合へ行つていろというので、どうせおやじがくるからと思つて、そこで金もないのに芸者をあげて遊んでいた。それが赤羽隆次という人の縄張りなんですよ。そうすると鳥井坂警察というのが当時麻布の鳥井坂にあつた。私の遊んで居る所が麻布十番ですから、鳥井坂署の管轄なんですよ。それで全国手配をされて居た私を探知した鳥井坂署は私を捕縛に来たわけなんです。ところが昔のことで、料理屋というものは警察とみんな密通している。それがために入ろうとしたところが、芳賀さんはうちのお客様だ、けれども芳賀さんはよつぱらつているところを見ると、ふところに匕口〈アイクチ〉を持つている。だからあなた方が来て、家の中で格闘されたんでは待合がメチヤクチヤになってしまう。あしたからお客が来なくなるから、どうかひとつ芳賀さんが帰るときに知らせるから表で張つていてくれというふうに警察に頼んだ。警察では始終そこでごちそうになつているから、やむを得ず承諾したわけですよ。それで遠まわしに私を取り囲んでいたわけなんですね。そうすると、私は芸者買いをして居て、それを全然知らないから、親分のところへ自首するんだからと電話をかけたわけです、武部申策という人がそれを警視庁に電話した。「ようやく芳賀が東京へ現われたた。今までどこへ行つていたかわからない、新聞で毎日私の行く方〈ユクエ〉を探しているわけなんですがようやく現れたものだからそれつというので、警視庁から自動車七、八台連ねてきたわけです。それを私は全然知らずに一杯飲んでいる。おやじがまさか警視庁へ自首するからと連絡したとは思わない。自首の形式だけとればいいというのでおやじは自動車でやつてくる。おやじがくる前に警視庁が入ろうとした。ところがそれを鳥井坂の刑事は警視庁の刑事とは思わない。鳥井坂の刑事は私が出たらばつかまえようとしていたところが警視庁が来たものだから、よその警察に取られちやいけないというので警察同志で格闘が始まつたというわけです。そうして警視庁からの二十人の刑事と鳥井坂の刑事との戦いだから大変な騒ぎでしたよ。つまり連絡がとれなかつたのでしよう……。その当時の刑事部長は中谷さんだと思いました。おれは本庁の刑事部長だと言つたものだがら、鳥井坂は一応手を引いて、警視庁が家の中へ入つてきた、その当時第一課長か、第二課かはつきりしませんが、知能犯係の土屋米八という警視が私を逮捕したことになつているわけです。それから私は自首の形式をとつて警視庁へ行つたんです。ところがなかなか酒を飲まさせない。私は酒を若いときから飲む、そして洒を飲まないうちはしやベらない。それで土屋という人は利口な人だから私に毎日酒を飲ましては調べるんです。私は今でも警察へ行けば酒を出さないと絶対に答えませんから、その点警視庁ではよく知つているんです。
ききて 異例のことですね。(笑)
芳 賀 飲まないと口を開かない。だから私をアル中だと称しています。(笑)それからまたおもしろいことがありまして、一木喜徳郎先生が全治四週間の傷を受けた。これは大正十三年〔一九二四〕二月の十五日の夜七時に私が斬り込んだ。ところが一木喜徳郎は、宮内大臣になつたのが大正十三年の二月二十一日なんですよ。そこで牧野賤男〈シズオ〉という弁護士があつて、いよいよ検事の懲役六年の求刑があつたんです。殺人未遂傷害罪というのです。ところが法廷を開くと検事が論告をあいたわけなんですが、そうすると、裁判長と言つて弁護士が、どうも殺人未遂傷害罪というのはおかしいという。なぜならば芳賀が斬り込んだのは二月十五日の晩だ。一木喜徳郎氏が陛下に拝謁を仰せつかつたのは二月の二十一日だつた。その間わずか六日しかない。この帝国大学の何とかという医学博士の診断を見ると全治四週間の傷をうけて居る。四週間の傷を負うてるものが、しかも尊い神のごとき陛下に拝謁を仰せつかるのに、不浄な体をもつて拝謁仰せつかるはずがないと言うんです。これは何かのお間違いだろうから取り調べ直してもらいたいとポンと蹴つてしまつた。今と違いましてその当時は天皇というと神のごとく崇拝しておつた、それがために、そういう論理が成り立つわけなんですよ。今はそんなことを言つても成り立たないんですが…………。それで裁判長はそのままずつと一年間取り調べたわけなんです。だから私は一年間余分に未決監に入つておつた。それで出てきまして、芳賀は傷害を加えなかつた。ただ暴行をしただけだ、そして強迫をしただけだ、器物をこわした。それで暴行強迫器物毀棄罪という罪名になつた。これは懲役三年以上はない、その最高の三年の判決をうけたわけです。六年は帳消しになつた。それで私が保釈で出獄しました。とにかく一年以上未決でおりましたから、それと差引して結局務めるところはいくらでもなかつた。それが私の初犯です。
ききて 結局いわゆる政治犯ですね。
芳 賀 政治犯だが暴行罪ですよ。つまり暴力行為取締法違反というのに引つかかった。その当時は、傷害とか、強迫とかいう犯罪はあつたが暴力行為取締法違反という法律はなかつた。それで私が一木さんという人をやつたために、暴力をもつて政治を左右すということは危険だというので。その時の議会で初めてそれが提案されて通過したのです。それがいまの暴力行為取締法違反というのです。今の法律は私が作つたようなものなんですよ。
ききて 歴史的なものですね。

 ここで芳賀利輔の言う「暴力行為取締法」とは、「暴力行為等処罰ニ関スル法律」(大正一五年四月一〇日法律第六〇号)のことであろう。時期からすれば、「今の法律は私が作つたようなものなんですよ」という芳賀の言葉に矛盾はないが、真偽の判断は保留する。

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芳賀利輔、一木喜徳郎を斬る(1924)

2017-10-12 03:17:12 | コラムと名言

◎芳賀利輔、一木喜徳郎を斬る(1924)

 書棚を整理していたら、芳賀利輔〈ハガ・トシスケ〉著『暴力団』(飯高書房、一九五六)という本が出てきた。この本は、以前、『アウトローの近代史』(平凡社新書、二〇〇八)という本を書いたとき、ずいぶん活用させていただいた。
 しばらくぶりに手にとってみたが、やはり面白い。本日は、同書の「やくざの世界」(インタビュウ)から、一木喜徳郎〈イチキ・キトクロウ〉襲撃事件について語っているところを紹介する。

 それからまた話が逆もどりしますが、私は神田の松本亭へ行つて、その時分にはやくざ者になるという考えは毛頭なかつた。ばかに政治が好きだつたんですねえ、家が貧乏でしたから思うようにいかなかつたのと、うちのおやじが学校へ行くのを好まない。ということは僕の兄弟は頭がいいからみんな学校へやる。私は非常に頭が悪いから学校へやつてくれないんです。おやじは学校へやつてもむだだからやるな。それよりも早く筆屋の職人にしておれの跡を継がせようという。ところが私の母親は何とかして学校へ行かせなきやならないというので、父に内証で順天中学へ入れてくれた。深沢豊太郎なんかも一同で神田の順天中学をでたんですよ。元来政治が好きな私は何時しか近所の松本亭に出這入り〈デハイリ〉するようになつた。たまたま大正十三年〔一九一四〕の頃だと思う、一木喜徳郎という宮内大臣をした人がありましたがこの人はその当時枢密院顧問官かなんかでした。その人と政治的な争いから、その人が宮中改革をやると言い出した。宮中改革というのは宮内省の中を改革するということです。その当時私たちは保守的な考えを以つて居たのだから、宮中を改革するというのはけしからぬ。宮中というのはわれわれ国民と別なもののように考えて居た。それを彼ら個人の考えで改革されてはいかぬというので、大正十三年の二月の十五日の晩に一木喜徳郎の家へ乗り込みまして――それが本郷の曙町〈アケボノチョウ〉でありましたが、斬奸状〈ザンカンジョウ〉を持つて訪問したわけです。そのときはまだ二十六でしたか…………。
 もつとも当時は普通選挙運動が盛んであつた頃で、私は政友会の当時の総裁原敬〈ハラ・タカシ〉先生の説、「普通選挙は必ずやらねばならないが、国民の政治思想が未だ若い、もつと一般人の政治知識を高上せしめてから、地方自治体は勿論、婦人にも参政権を与えるべきだ」という意見に心伏して居つたものだから、単なる普通選挙速進論者で、枢密顧問官で、普通選挙精査委員長である一木喜徳郎閣下と意見があわないので、直接談判をして、場合によつては命を頂戴しようと、血気に早つて本郷曙町の一木邸へ斬奸状を持つて襲撃したわけです。
ききて そのときはもう独立していらつしやつたんですか。
芳 賀 ええ、そうです。それでその当時は子分というんじやなくて書生が四人ばかりおりましたからそれをつれて訪問した。そのとき浜口雄幸〈ハマグチ・オサチ〉さんが総理大臣だつたと思いましたが、忘れました。とにかく民政党の内閣だつたんです。政友会の内閣ではなかつた。
ききて 先生は政友会の方だったんですか。
芳 賀 そうです。そして面会をして――ちようどその当時は冬でした。その頃は政治シーズンといいまして、今はいつでも会議を開くけれども、当時は十二月二十日ごろ開いたものです。十二月の二十日に開会式をやつて、翌年正月の二十日頃まで自然休会になるわけです。それで一月の二十日かな(どうも忘れてしまいましたが)それから議会が始まるわけですが、それが三月一ぱいかかるわけですね。その期間を政治シーズンというんです。その政治シーズンにはみな制服の巡査が二人ずつ交代で大官の家の立番をして居るわけなんです。というのは封建時代ですから暴漢などがくるといけないというので護衛に常に立番をしているわけなんです。それで僕が面会を求めた。僕も暴漢なんですね(笑う)すると今日は忙しくてお目にかかるわけにはいわない、という返事です。それから、ああそうですか、それではこのお手紙を差し上げて下さい。これが斬奸状。どうかこれに対して返事を下さい。もし返事をくれなけばあなたは非国民と考えて殺してしまうんだということが書いてあるわけなんです。それを女中に渡したんですよ。そうするとそれを女中が持つて入つた。どうせ面会をしないんだからそのあとをつけて行つた。それを女中は知らずに暗い廊下を歩いていく。大官の家ですから廊下が相当長いのですがその長い廊下を忍び足で四人でつけて行つたわけです。ところが、一緒に行つたその中に高見沢という書生がおりまして、その書生が初めて人の家に斬り込みをかけるんだからあわてたんですナ。持つていた相州広光〈ソウシュウヒロミツ〉の刀を抜いてしまつた。抜くと薄暗いものですから反射するんですナ。とぎすましてありますから、ありますから、それが天井にピカピカと反射したものですから女中がヒョツとふり返つた。ところが刀を抜いているものだからびつくりして「キヤツ」と悲鳴をあげたものだから、玄関のすぐ隣に護衛の刑事が四人おつたのと。表に二人の巡査がいる、その六人が入つてきた。そこで格闘ですよ。それで僕が「危い!」とどなるとみんな逃げるんです。ところをみんな斬り込もうとする。私の手につかまつたり、腰につかまつたりする「危い!」と言つているうちに私の後にいた高見沢というのが刑事の腕を斬つちやつたんです。それで刑事が倒れてしまつた。それから一木さんの部屋に行つたところが新聞なんか散らばつておりましたが、「国賊」というので一木さんを斬りつけたわけなんです。そうすると、その部屋の一方に、高い出窓がありまして、それを越して表へ逃げようとしたら、それを袈裟がけにまた斬つた。ほかの刑事が足につかまるのでまた「危いツ」と言つたらみんな逃げちやつた。ホラ探せというので邸内をくまなく探したがどこにもおらない。便所、物置まで探したがいない。あとで調べたところが、一木さんは縁の下に入つたんだそうですけれども、それは気がつかなかつた。それからそこで、とにかくやりそこなったのだから、残念ながら此処で腹を斬つて死のうというわけなんです。高見沢千代吉、殿井元助、信田四郎、私の四人です。
「まあ待て」三月二十日に内田良平という先生の引卒する黒竜会〈コクリュウカイ〉という団体があつて、その団体が主催で芝山内〈シバサンナイ〉、いまの芝公園で、われわれと同じ意見のもとに国民大会が開かれるから同じ死ぬならばそれまで命を延ばして有功に死のうと意見が一致した。
 私が金を百円持つて居たので、二十五円づつ分配して逃げることにした。
 私共の剣幕に恐れをなしたのか、警察官は一人も居なかつたから、その場は全部無事に逃走してしまつた。【以下、次回】

「大正十三年の二月の十五日」という日付に間違いがなければ、その時の首相は、清浦奎吾である。清浦の会派は、貴族院の「研究会」。

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