◎星亨の名前を忘れないため日生講を作る
芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その三回目。
後にお妻に愛僧づかしをされて帰つて来た古賀吉は、武部を呼んで、余計なことをして呉れたが、俺れも最早星〔亨〕先生の所へは行けない、就てはお前は俺れの代りに星先生を御護り申し上げてくれとのことで、武部申策は星先生宅にその時から書生となつて往込むことになつた。当時の星先生宅には横田千之助、伊藤仁太郎(痴遊)、中野虎次郎、胎中楠右衛門〈タイナカ・クスエモン〉等の有名人が居たのだ。だからこの人達は武部と最後まで兄弟分の付合をして居た。
古賀吉の不始末はだれいうとなく世間に評判となり人気もだんだん下火になつて経済的にも困難を来たすようになつた、その後武部は深川の洲崎に住んで居た。
古賀吉は益々人気が落ちて武部の所へ相談に行つたのは明治の末期であつたろう。
武部、手前が余計なことをしたから貧乏してしまつた。何とかして助けてくれというの
で、それじや何とか助けましようということになつた。そこで深川須崎の甲子という女郎屋の主人に女の若後家〈ワカゴケ〉で居たので、武部は自分が博奕が好きだから、ひいきの新喜多川という女郎屋のおかみさんに頼んで、甲子【キノイネ】のおかみさんと新喜多のおかみさん、武部申策と古河吉の四人で熱海に遊蕩しに行くわけですよ。それで毎日毎晩花〔花札〕を引いた。そして古河吉がいつしか甲子【キノイネ】のおかみさんと仲よくなつてしまつて、甲子に婿に入つてしまつた。そして今の深川銀行の前身で前沢銀行というのが僕らの若い時分にあつたんですが、それは武部親分の甲子【キノイネ】の旦那が前沢といつて入婿しましたから。そこの頭取に古河吉がなつた。それで恩を返したという話があります。今は古河吉のような不始末をしても人気が悪くならない。ということは一般の社会が悪というものに対して敏感でなくなつたんです。今はそういうことはないが、その当時は博奕打ちでも、人の女房を取つたり、めかけを取つたりすると、不義理になつて人が行かなくなつてしまう。それで武部は星亨が死んでからは前沢銀行から金をもらうので、それを東京中のゴロツキに配るものだから、いやが上にも武部申策の名は一世一代の昭和の親分になつたわけなんですよ。
ききて 義理というものを非常に大事にするわけですね。
芳 賀 しかし、義理は非常に大事にするが、一面、いわゆる後家さんをだます、ということは良くないが、そういう機会を作つて入婿〈イリムコ〉に入るなんて行為も、あまりいい行為じやないんだけども、仲間同士ではそういう義理を重んずる。いわゆる盗人〈ヌスット〉道徳というものなんですよ。
ききて いい例ですね。しかし今それだけのことを御存知の方は少いんじやないでしようか。
芳 賀 まあ少いですね。星亨が殺されたのは二十年か二十一年でしよう〔明治三四年=一九〇一年〕。ちよつと記憶ないんですが――。それがために武部申策という人は星亨の名前を忘れないために日生講という法華の講中を作つて、死ぬまで太鼓をたたいて、毎年池上の本門寺に拝みに行つた。武部申策は日蓮宗じやなかつたが、死ぬまで星先生の墓を参拝した。日生講というのは、星という字を二つにわけたのです。いまだに万灯〈マンドウ〉を立ててドンドコドンドコ行きます。昔の人はそのくらい義理が固かつた。【以下、次回】
今日の名言 2017・10・16
◎盗人はすれど、非道はせず
芳賀利輔『暴力団』(飯高書房、1956)の76ページに出てくる言葉。法律を犯すことはあっても、道にはずるようなことはしないという意味。典拠は不明で、芳賀利輔自身の言葉である可能性もある。