礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

そのとき原敬が一蓮托生という言葉を使った

2017-10-17 06:07:47 | コラムと名言

◎そのとき原敬が一蓮托生という言葉を使った

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その四回目。

ききて そうすると今のお話のように義理の固かつた時代と現在の対照的ないい例はございませんか。
芳 賀 つまりこれはやくざ者ばかりを言つてもなんですけれどもたとえばこういうことなんです。昔、中橋徳五郎という文部大臣があつた。
ききて それはいつごろですか。
芳 賀 大正の末期か昭和の初めですか、その当時、原敬〈ハラ・タカシ〉という人が総理大臣であつた。ところが中橋さんという人が何か失敗をしたわけなんです。そして議会で盛んに攻撃を食つて、内閣はある程度認めるけれども中橋はけしからぬというので辞職を勧告したんです。そのとき原総理大臣は一蓮托生という言葉を使つた有名な話です。大臣はみな、一蓮托生である。各員が失敗したことは、総理大臣みずからが失敗したことである。だからやめるときには彼一人はやめないのだ。全部がやめるんだからどうかさよう御承知願いたい、といつて議会で答弁した。ところが最近重光〔葵〕外務大臣が日ソ交渉でソ連へ行つて失敗して帰てきた。そうすると人情総理の異名のある鳩山〔一郎〕さんでも河野〔一郎〕農相でもこれに対して外務大臣の首のすげかえをしようとする。これを見ても決してやくざ者ばかりが義理人情を忘れたんでなくして、政治家あるいは国を司る〈ツカサドル〉先生共がそういうふうに変つてきているんですよ。
ききて 上から変つてしまつているわけですね。
芳 賀 だから決してやくざ者ばかりが変つてきたんじやない。それをひとつ頭に入れておいていたたきたいと思うんです。
ききて それはわかります。
芳 賀 ということは、重光さんがソ連へ行くときには鳩山さんと相談をしている。鳩山さんは御承知の通り早期妥結派なんです。重光さんは御承知の通り慎重派だつたんです。それは鳩山さんと反対なんだ。ところがようやく鳩山さんに説きつけられて締結するために行つて、その締結のために失敗して帰つてきたものを首にして、今度は自分が訪ソして、おれがやつてくるというのでは、義理も人情もない。ただ政権がほしいということだけであるということがはつきりと言えると思います。これはぜひひとつ考えてもらいたいと思います。だからやくざ者だけが義理人情を失つたんじやない。あるいは社会がそういう状態であるということが言いうると思うんです。
 まだ生存している人たちの名前を書くのは気の毒だけれども、ここでは言います。今東京では阿部重作という芝浦の一流の親分ですが、この人の親分さんは高木康太という方でして、その子分なんだ。その人は私の親分の武部さんの子分なんです。だから私とは直接の兄弟分ではないけれども、兄弟関係にあるわけなんだ。その人が芝浦というところに勢力を持つたわけなんですが、その前にまず縄張りというものをお話しますが、博奕打ちには縄張りというのがある。テキ屋にも縄張りというのがある。博徒の縄張りというのは慶応三年〔一八六七〕に小金井の小次郎という親分があつた。これが関東八州、つまり神奈川、千葉、埼玉、栃木等の八州あるそうですが、関東八州の慶応時代の親分だつた。昭和の親分は武部申策と言いうるが、この小金井の小次郎という人は、関東の親分をみんな集めてお互いにけんかをしちやいかぬ、おれがきめる縄張りをお互いに守つてくれ、そして人の場所を侵害するな。しかし実際は縄張りというものはないんだ。それは徳川家康の縄張りで、言いかえれば京都の、天皇陛下の縄張りだ。けれどもお前たちが血を流し、汗を絞つて築き上げた場所だから、それを侵害するというのは、歴史のいかんを問わず道徳を侵害するということなのだ。つまり不道徳じやないかという。これはいい言葉なんですよ。今の人にはちよつと言えない言葉なんです。【以下、次回】

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