礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「テイル形」の出現(浅利誠先生の講演より)

2017-10-27 01:21:03 | コラムと名言

◎「テイル形」の出現(浅利誠先生の講演より)

 一昨二五日(水)、東京・神田の晶文社イベントスペースで開かれた、浅利誠先生の講演会に参加した。テーマは、「日本語の論理と思考:文法の誤りを解く」であった。
 熱弁二時間、非常に刺激的、示唆的、かつ高度に論争的な講演で、学問という世界の厳しさ、奥の深さ、楽しさを改めて認識させられた。と同時に、どの世界にもあるイカガワシサが、いわゆる「学界」にもあるということを教えられた。
 講演の内容は、テーマの通りだが、話のトッカカリは、現代日本語における「テイル形」であり、結局、ほとんど最後まで、この「テイル形」の文法をめぐる説明が続いた。
 この講演の内容を、適切に要約する自信がない。しかし、浅利誠先生の新刊『非対象の文法――「他者」としての日本語』(二〇一七年一一月、文化科学高等研究院出版局)の③章の内容は、この日の講演の内容と、ほとんど重なっている。とりあえず、同書五九ページから、二段落分を引用させていただこう。

 現代日本語の「テイル形」は、言文一致体成立時に出現した動詞形であり、近代日本が国民国家としての骨格を整え始めた時期の産物であった。つまり、ネーション成立のための基本条件の一つである俗語(俗語としての標準語)の成立と時を同じくして登場した動詞形であった。「テイル形」は、従来の文法システムに対するあからさまな切断を示す代表的存在の一つとして、日本語の劇的に一新された共時的均衡空間の中で、ある特異な場所を占めることになった動詞形であった。私の見るところ、同時期にしかるべき位置を占めることになった他の助詞形に比べても、これまでの文法論がその定義に大きな困難を覚えてきた動詞形である。現在、ほとんど確固とした位置を得ているかのように見える他の三つの動詞形(ル形、タ形、テイタ形)に比べても、定義を与えるのに、はるかに難渋してきた動詞形である。
「テイル形」の成立を通時論的に跡づけようとする、起源への遡行の試みは、数々なされてはきたが、「テイル形」の先行形を言い当てる試みが成功しているようには見えない。それにはそれ相応の理由があるにちがいない。その試みはある程度は可能であろうが、必然的に一つの不可能性の壁にぶつかるように私には思える。「テイル形」成立過程の解明に迫る遡行的試みに対しては一定の敬意を表しつつも、私としては、次の問いを立てることの方をより重視したい。時間表現システムというレベルで、テイル形は、いかなる新均衡システム(新共時態)の中で、いかなる位置を占めることになったのか。この問いを立てることの方をより重視したい。言文一致という事件は、テイル形の成立過程を確実に跡づけることをゆるすような緩やかな異変ではなかったからである。

 ハッキリ言って、これまで「テイル形」という動詞形について意識したことはなかった。この動詞形が、明治の言文一致体の成立時に出現した俗語(俗語としての標準語)だということも知らなかった。この動詞形をめぐって、文法上の議論がおこなわれてきたことも知らなかった。
 今回、浅利誠先生の講演をお聴きしたのを機会に、先生の新刊『非対象の文法――「他者」としての日本語』を読みはじめた。講演と同様、刺激的、示唆的、かつ高度に論争的である。「日本語」に関心をお持ちの皆さんに、ぜひとも、お薦めしたい一冊である。
 なお、引用部分で浅利誠先生は、「テイル形」成立過程の解明に迫る遡行的試みは、「必然的に一つの不可能性の壁にぶつかる」と述べておられる。そう述べられた理由は不明だが、私にとっては、「テイル形」の成立過程を遡ることは、興味深く、かつ魅力的な研究課題である。また、この成立過程を把握することは、「テイル形」についての文法上の論争においても、重要な意味を持つのではないか、と愚考した。

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