礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高尚と好色を同時に満足させるもの

2017-10-03 06:35:22 | コラムと名言

◎高尚と好色を同時に満足させるもの

 先日、何気なく、岩波新書の『憲法と私たち』(一九六三)を手にとり、その中に収められていた、戒能通孝〈カイノウ・ミチタカ〉の「プライバシーの権利」という文章を読んだ。
 そこで戒能がおこなっている指摘は、半世紀たった今でも、十分に通用すると思った。というより、そこでの戒能の指摘は、半世紀たった今のほうが説得力があるのではないのか、と感じた。
 ともかく、戒能の文章の一部を引用してみよう(二〇三~二〇四ページ)。

 ところで十九世紀の前半までの新聞は、政党新聞であったといわれています。一定の政治的主張の宣伝のために作られる新聞であり、政治的評論のための新聞であったといわれているのであります。しかるにその新聞が、世紀の終りには商品に変ったのであります。つまり情報や意見が商品として売られるようになってまいりました。そこから新時代に即した新聞編集の天才があちこちに現われたのであります。たとえば『タイムス』を買ったノースクリフト卿のような人、これは平凡なことに興味が持てるという点では天才であり、男性は記事にならないけれども、女性は記事になることを発見した天才だそうであります。(笑声)こうして何人かの人が平凡なことを商品化する技術を発展させるに伴なって、日本でもイギリスでも同じことであると思いますけれども、他人のスキャンダルをのぞき見したいという欲望と、それを非難したいという欲望を同時に満足させる商品としての新聞、雑誌が発連したのであります。
『新聞と大衆』の著者キングスレー・マーチンは、次のよう述べたことがございます。「フランスの新聞は読者が大っぴらに艷種を楽しむものと考えてかかるが、清教徒の英国人に好色的な読物を提供する新聞は、常に読者はその読物に不賛成なのだと思っていなくてはならない。高尚と好色とを同時に満足させねばならないのだ。もし詳しく知らされれば、こちらが仰天するような色事について、新聞がたとえ一端を記す場合でも、新聞一般としてわれわれの道義を改善しようと努めているのだ、という印象を与えねばならない。この手法だと最大の快楽を与えること請合だ。われわれは不徳を糾弾する清教徒の楽しみと、不徳についてできるだけ細かく知ろうとする人間的な楽しみを併せ持っているからである。」私もこの言葉は真実であると信じます。それとともに重要な問題よりも、くだらない事件の方に興味が移り、それが商品化されるにしたがって、どうしてもプライバシーを法的にも保護しなければならぬという意見が登場してきたのであります。

 ここで戒能は、キングスレー・マーチンの言葉を引いている。「われわれは不徳を糾弾する清教徒の楽しみと、不徳についてできるだけ細かく知ろうとする人間的な楽しみを併せ持っている」。キングスレー・マーチンについては、よく知らないが、マーチンの指摘は、最近の日本における、テレビ、週刊誌、新聞、ネットなどの現状を、よく言い当てている。それらメディアは、著名人の「不徳」を糾弾すると同時に、その「不徳」の内容をこと細かく紹介することで、読者の要望に応えようとしている。
 本年五月には、加計学園問題にからんで、某大手新聞が、前文部科学省次官の「買春疑惑」を報ずるという事件があった。
 ここで注意しなければならないのは、この「買春疑惑」報道は、報道のタイミングなどから見て、きわめて「政治的」な報道であったということである。
 戒能によれば、新聞というのは、一九世紀の前半まで「政党新聞」であったが、一九世紀の終わりに、それが「商品」に変化したという。二一世紀の今日、新聞は、「商品」としての性格を保持しながら、一方で、再び、「政党新聞」としての性格を取り戻し、政治に対し影響力を行使しようとしているのかもしれない。
 一方、今日においては、報道の世界における「新聞」の比重は、目に見えて低下している。週刊誌、テレビ、ラジオ、ネットなどのメディアが発達し、新聞が果してきた役割を奪おうとしている。これらのメディアは、大衆における「不徳を糾弾する楽しみ」および「不徳について細かく知ろうとする楽しみ」を意識し、それらの楽しみを、ことさらに煽る傾向がある。そうして、それらのメディアもまた、新聞以上に、政治に対し影響力を行使することがある。
 その一例を、先月末、私たちは見た。女性国会議員Yさんの不倫スキャンダルが週刊誌に報じられ、同議員は所属政党を離党した。これをキッカケとして(キッカケの「ひとつ」として)、安倍晋三首相が衆議院を解散するということが起きた(いわゆる「自己都合」解散)。すると、この解散にともなって、女性議員の所属していた政党が解党してしまうという出来事が起きた。誰も予想しなかった展開であった。
 おそらく私たちは、週刊誌、テレビ、ネット等で「不徳」が報じられたことが、「政局」に発展するという事態を、今後も、しばしば目撃することになるだろう。今日、政治を動かしているものは、政治家の「不徳」であり、政治家の「不徳」を報ずるメディアであり、何よりも、政治家の「不徳」を許さない大衆の意識ということになるのだろう。

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