礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

慶応三年には芝浦はありません(高木康太)

2017-10-18 08:27:51 | コラムと名言

◎慶応三年には芝浦はありません(高木康太)

 芳賀利輔著『暴力団』(飯高書房、一九五六)の「やくざの世界」(インタビュウ)から、「やくざ者」について語っているところを紹介している。本日は、その五回目(最後)。
 前回、紹介した部分のあと、改行せず、以下のように続く。

その法律とかしきたりとか、規定とかは別として、お前たちが汗と血によつて築き上げた場所なんだから、これを侵害するということは不道徳だ。だからお互いに人のものを侵害しないで守つていこうじやないかということになつた。たとえば銀座は篠原さん芝浦は阿部さんというふうにきめた。その当時の親分の名前は記憶はありませんが、現在の名前を借りていえばそういうことなんです。ところがたまたま武部というえらい人がいて、その人の子分になつたのが高木康太という人で、この人は横浜の人足から出たと聞いていますが偉い人です。頭が良いし、度胸もあつた。いまは賢気〈カタギ〉になって立派な紳士ですが、その人が芝浦をおさえてしまつて、あそこで派振り〈ハブリ〉をきかして居た。そうすると小金井の小次郎以来親代々保つてきた住吉一家というのがある。それで今でも芝浦を住吉一家というんです。昔は住吉という人が持つていたんでしようナ。その跡目に系統を引いた倉持直吉という人があの土地の親分なわけです。ところが武部というえらい人の子分になつた高木という人があそこの場所を取つてしまつて、堂々と子分を置いて治まつて居るのはけしからんという声がだれいうとなくヤクザ社会に起つた。私たちが子供のころには船の着くところは芝浦じやなくて深川の洲崎だつた。それが今は芝浦へ東京港湾というものができたので、あそこへ船が着くようになつた。そこへ船の人足が集まる。船が着くまで一時間なり三十分なり暇があるから、皆その暇間〈ヒマ〉に博奕をしている。そのテラを子分共が取つたわけだ、そうしたらいくら武部さんでもひどいじやないか、あれは慶応三年に、小金井の小次郎がきめたおれ達の縄張りだ。いくら武部さんでも高木という人にテラを取らせるということはけしからぬ。
 小金井小次郎が慶応三年の正月に上野の山下の伊与紋という料理屋でやつた。
 私なんか若い時分にはまだその伊与紋があつたで親分を集めてきめた縄張りをけしからぬといつて、柬京中の博徒の親分から武部さんのところへ文句があつた。そうか、それは気の毒だ、おれは知らなかつた申しわけないと言つて、それでは今高木を呼ぶから待つてくれというので、すぐ高木を呼んだ、武部という人は親分ではあるがテラは取つたことはなかつた。高木は早速とんで来た。冗談言つちやいけませんよ。慶応三年には芝浦はありません。あれは最近東京市で埋立てたんです。これは実際だね。あの芝浦というのは、大正から昭和にかけて埋立てたんですから、その埋立てたところへ私〔高木〕が艱難辛苦をして築き上げた場所です。往吉の場所じやありません。親方〔武部〕そういうことは断つておいて下さい、とこういうことになつたんだ。ところがうちの武部という人は、けんかの嫌いな人で、腕力もあるし、柔道も四段くらいやりまして、また学問もあり、インテリだつたから、まあまあお前そう言うな、というわけで、それから倉持直吉さんを呼んだ。そして実は高木はこう言うんだ。あそこは慶応三年にはなかつた。最近埋立てたもんだ。だからあれは君〔倉持〕の縄張りじやないよ。しかし君もまあ相当の親分だから、君の顔も立てよう。どうか〔高木を〕客分として扱つてくれというので、そのままになつた。ところが高木という人は子供を慶応大学へ出してから教育上良くないというので、自分は賢気になつて今の阿部重作君に芝浦の場所を譲つたというわけなんです。すると阿部さんは倉持直吉の盃〈サカズキ〉を改めてもらつて(自分の親分が賢気になつてしまつたから)現在芝浦の親分になつているわけですよ。

 この「やくざの世界」というインタビュウで、芳賀利輔は、本日、紹介した箇所以外においても、やくざ者の「論理」というものを、明快に、また具体的に語っている。興味を持たれた方は、ぜひ、インタビュウの全篇を通読していただきたい。なお、礫川著『アウトローの近代史』(平凡社新書)も、できれば、ご参照いただきたい。

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