◎国家主義の教育になるんだそうだ(1886)
家永三郎の講演記録「歴史の教訓」を紹介している。本日は、その二回目(最後)。この講演は、一九六一年(昭和三六)五月三日、「憲法記念講演会」でおこなわれたもので、その後、その講演記録が、岩波新書『憲法と私たち』(一九六三)に収められた。
昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。
そしてまた、今日と考えあわせて非常におもしろい事実でありますが、教員の活動を制約するところのさまざまの通達や法令が出ているのであります。それは末端に行けば行くほどはなはだしかったようでありまして、明治十五年〔一八八二〕四月、熊本県から文部省に出された伺いに対しまして、学校をもって政談演説、その他政党団結の集会の場所に充てることはもちろん、その他の名儀をもって集会するものといえども、その趣旨をあらかじめ問いただして、言論のわいせつ詭激〈キゲキ〉にわたるのおそれあるものは、許可してはならない、という指令が発せられております。この前年の十四年〔一八八一〕十一月、新潟県令は管下の公立学校の教員に対し、「公立学校教員たる者、公衆を集め講談演説を為し、及び雑誌の編輯をなす儀相成らず候条、この旨相〈アイ〉達し候事」という通達を出しているのでありまして、公立学校の教員である者は公衆に向って演説することはもちろん、雑誌の編集をしてもいけない、――これは政治演説をしてはいけない、あるいは政治的な雑誌の編集をしてはいけないという意味ではないのでありまして、あらゆる種類の演説及び雑誌の編集を全面的に禁止しているのですから、驚き入ったはなしと申さねばなりません。
そして、それがさらに極端に達しますと、民主主義的な傾向の強い教員を教壇から追放する、今日の言葉でいえばレッド-パージのようなものが行なわれております。すなわち、高知におきまして、十五年十一月に高知県令を更迭したのを機会に、県庁の属官〈ゾクカン〉から師範、中学、女子師範の学校教員に至るまで、いやしくも自由民権の息のかかった人たちを全部首切りまして、これにかわって政府に忠実な人々に差しかえているのであります。高知県は自由党の本拠でありまして、 自由民権運動の最も活溌に行なわれた土地でありますが、そこでこういう措置のとられたということは非常に大きな意味を持っているのであります。
憲法のいよいよ発布されようとする直前の明治二十年〔一八八七〕前後になりますと、各学校において御真影〈ゴシンエイ〉の礼拝を行なわせ、やがて教育勅語の渙発、教科書検定の強化となり、それがさらに明治後期に入りますと、一歩進んで国定教科書制定の施行となるのでありますが、このような一連の政策によりまして、国家権力による教育統制がついに動かすことのできない力となって確立するに至るのであります。このようにして、明治十年代を境といたしまして教育の方向は政府の教育政策によって大きく変化していくのでありますが、これについて、ちょうどその過渡期の時期に少年時代を送りました社会文学者木下尚江〈キノシタ・ナオエ〉は、明治の末年に著わした創作の中の作中人物の口をかりて次のように回顧しております。
《私の考〈カンガエ〉では、人の一生は生まれて始めて吸う空気の味に依て〈ヨッテ〉、決定されるものらしい。其れで私共と貴方々〈アナタガタ〉との間には、僅か十年か十何年かの間でありながら、一つの線が引いてある。貴方々は始めて小学校へ行らしつたとき、直ぐと〔すぐに〕、愛国主義の道徳を、其の白い柔かい頭脳【あたま】に打ち込まれなすつたでせう。所が、私共は遂に此の愛国主義と云ふものを知らずに育つて仕舞ひました。愛国主義と云ふやうな固陋〈コロウ〉な思想では不可【いけな】いと云ふことを、学校に於ても、社会に於ても、共に教へて呉れたのでした。
私共は明治維新と云ふ革命的意気の濃厚な空気に呱々の聞【こゑ】を上げましたので、外に対しては「広く知識を世界に求める」と云ふ例の五条の大宣誓、内に向ては「四民平等」と云ふ破天荒の階級打破、私共が小学校で始めて与へられた教科書には、忠君とか愛国とか云ふ文字は影も無くて、直に〈スグニ〉「神」を教へられたものです。(中略)自由民権の運動が始まる、是れも亦たスラスラと少年の頭に入りました。》
右の文中に「神」とあるのは、先ほど私の父親の談話を引いて申しましたキリスト教の神の意味だと思います。また、別の文章においては、これは直接木下自身の感想として、次のようなことを語っております。これは昭和になってからの懐古談でありますが、
《若き人よ。僕らのやうな古き人間、明治時代第一期の少年は、君等の受けたやうな愛国教育と云ふものを遂に知らずに過きてしまつた。明治十八年〔一八八五〕の暮、僕が中学を出て来る頃、若い教員が二、三顔を寄せて、「何でもこれから、国家主義の教育つてことになるんださうだ」、こんなことを不安げにささやき合つて居るのを聞いた。》
ということを記しております。
木下の文章の中に「愛国」という言葉が使われておりますのは、もとより広い意味での愛国ではなく、明治後半期以後盛んに学校で教えられていたところの軍国主義的な、あるいは民主主義と切り離された国家主義という意味での愛国教育を意味するものでありまして、明治十年代前半期以後に学校を巣立った世代の人々は、そうした意味での、民主主義から切り離され、軍国主義に傾斜したところの国家主義の教育を受けていなかったという事実がここに明瞭に語られているのであります。これはきわめて重要な事実ではないかと思います。木下の語っているような教育政策の大転換はやがて着々と効果を現わし、国民は次第に民主主義を忘れ、天皇制憲法を忠実に受け入れ、そのような体制の中に順応していったのでありますが、国民の気持をそうした方向に追いこんでいった最大の力が、実に教育政策であったということを私たちは忘れてならないと思うのであります。【以下略】
家永三郎は、この講演において、明治後半期以降、「教育政策の大転換」があり、これによって、国民が、軍国主義的、国家主義的に向かっていったと説いている。
家永がこの講演をおこなったのは、一九六一年(昭和三六)五月だったが、おそらく彼は、戦後の日本においても、そういった「教育政策の大転換」が起きうると言おうとしたのであろう。そういう意味をこめて、講演のタイトルを「歴史の教訓」としたのであろう。
ちなみに、中央教育審議会が「期待される人間像」と題した答申をおこない、青年に対して、愛国心や遵法精神を育成する必要があることを強調したのは、一九六六年(昭和四一)一〇月のことであった。