礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

「八王子の三奇人」でなく「多摩の三奇人」

2019-07-26 03:38:57 | コラムと名言

◎「八王子の三奇人」でなく「多摩の三奇人」

 今月二一日のコラム「あの三人は八王子の奇人といわれる人達だから……」で、松井翠次郎、須田松兵衛、橋本義夫の三人について、「さしずめ、八王子の三奇人といったところか」と書いた。これは、訂正されなければならない。彼ら三人は、当時、「八王子の三奇人」ではなく、「多摩の三奇人」と呼ばれていたらしい。
 以下に、その典拠を示す。「三奇人」と題するこの文章は、橋本義夫著『砂漠に木を』(揺籃社、一九八五)に載っていたものである。

   三奇人
 戦後、北京で崇貞学園をやっていた清水安三氏が内地へ引きあげてこられ、南多摩の忠生村の軍需工場の寄宿舎を利用して、桜美林学園というのを始めた。北京の清水氏の事業は、教科研の集会のときに、留岡〔清男〕先生が度々紹介したのでよく知り、その著書などもみんなに読ませていた。
 或る日松井翠次郎君が、写真で見た清水氏の風采と同じ人が、桜美林高等女学校の入学募集の手製ポスターを町で貼っている姿を見たので「清水先生ですか」「そうです……」。これがきっかけで、この学校の創立当初、われわれが盛んに住来した。
 この清水安三氏が筆者〔橋本義夫〕に
「松井〔翠次郎〕さんと、須田松兵衛さんとかいう歯医者さんと、あんたとは『多摩の三奇人』とされているんですってね」「ウーン、そうですかーァ」とうなってしまったが。
 こんな話も、教育科学研究会当時の幹部あたりから流れたものかも知れない。
 奇人の活躍も今は昔話になった。みんな年老い、ハゲ頭の須田君は敗戦翌年の春に死んでしまった。【以下、割愛】

 当時、「多摩の三奇人」という言葉があったことがわかる。橋本は、「教育科学研究会当時の幹部あたり」が言いだしたと書いているが、これは暗に、留岡清男を指しているように思われる。
 なお、この文章を読み、須田松兵衛の没年が一九四六年(昭和二一)であることを知った。

※都合により、このあとしばらく、ブログをお休みするか、もしくは手抜きの更新になるかと存じます。

*このブログの人気記事 2019・7・26

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おほめの言葉に調子づいて原稿用紙に初めて手を出した

2019-07-25 05:08:36 | コラムと名言

◎おほめの言葉に調子づいて原稿用紙に初めて手を出した

 昨日は、尾股惣司さんの『鳶職のうた』(丸ノ内出版、一九七四)から、「にぎりめし」という小エッセイを紹介した。本日は、その「あとがき」を紹介する。これは、「あとがき」と題したエッセイである。もちろん名文である。

   あ と が き

 今更あとがき面もねえんですが、何かなけりゃあかっこうがっかねえと言われたので図々しくも書かせて戴きます。
 井戸の蛙がはるか上の空を吹く春の風にさそわれてついついつぶやいたねごとみたいな語を、御辛抱強くお読み下さった皆様に先ずもって厚く御礼を申し上げます。
 だいたい仕事師がものを書いたなんて事じたいがおかしな話で、こんな奴にいい仕事が出来るはずがねえ、というのが世間の通り相場です。お察しの通りの半パ野郎が人様のお情けで、どうにか家業の鳶職を継ぎ、道楽の祭囃子まで御援助を戴きながら曲りなりにも喰わしてもらえてた、そんな時、町内の大野聖二氏御夫妻から何か書いてみろ、と来た。何も分らねえでチラシの裏へなんかずらずら書いちまった変てこな話を『ふだん記【ぎ】』の橋本義夫先生が取り上げて下さった。御面倒下さるグループの皆様からの励ましのお便りやら、おほめの言葉に調子づいて原稿用紙に初めて手を出した。仕様がねえもんで半パな紙にばかり書いていたもんですから原稿用紙ではどうにも書けない、こいつには大弱り。とうとう子供の半パ帳面に下書きをして原稿用紙に移すなんて七めんどうな事を今の今までやってる訳です。もともとが蛙のガキなんですから誤字も当字もおかまいなし、文語も口語もあればこそで、手前よがりの話が書ける度に忙しい中を見てくれた松岡喬一氏、野末孝雄氏、まったく人様に迷惑の掛けっ放し。皆様の御芳情に対し改めて厚く御礼を申し上げます。
 家業の鳶職人としても、また祭囃子のなかにいても、また、へたくそな文を書いている時も忘れなかったのは、人間は一人では生きてはゆかれない、何かしらのおかげ様で今がある、有り難てえと思わなければいけねえ、と己の心にいい聞かせる事でした。人間、泣いても一生笑っても一生と申します。同じ一生なら苦しみも楽しみにして笑った方がいいと考えた呑気な私の様な貧乏職人の話を取り上げて下さった御寛大なお心にもそえず、手前勝手な話ばかりで申訳けなく思っております。その上御苦労の何分の一にも応えられない私に終始お付合い下さった堀川博氏の御努力と中央公論事業出版の皆様の御好意に心より御礼申し上げます。鳶職【わたくし】一代の良い思い出になりそうです。末筆ながら御迷惑をお掛けした丸ノ内出版に衷心より厚く御礼を申し上げます。有り難う御座いました。
     昭和四十九年仲秋  尾股惣司

 文中、「大野聖二氏」とあるが、元・八王子学会理事長で、八王子ではよく知られた文化人である(故人)。「『ふだん記』の橋本義夫先生」という名前も出ている。もともと、この『鳶職のうた』という本は、『ある鳶職の記録』というタイトルで、一九七二年に「ふだん記全国グループ」から出版されたものである(ふだん記本25)。橋本義夫が始めた「ふだん記」活動がなければ、尾股惣司さんの名エッセイが世に出ることはなかったであろう。

*このブログの人気記事 2019・7・25(8位の緑十字機は久しぶり)

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この仕掛け、湯炊きといって早炊きの一つである

2019-07-24 04:50:03 | コラムと名言

◎この仕掛け、湯炊きといって早炊きの一つである

 昨日は、尾股惣司さんの『鳶職のうた』(丸ノ内出版、一九七四)という本を紹介した。この本のことを初めて知ったのは、今から四〇年ほど前のことだったと思う。たまたま、車のなかでラジオをかけていると、落語家の柳家小三治師匠が、何かエッセイのような文章を朗読していた。これが、えらく調子がよい。番組の最後に、アナウンサーが「とびのうた」という書名を紹介していたので、記憶にとどめた。
 あとで調べてみると、これが、尾股惣司さんの『鳶職【とび】のうた』であった。小三治師匠が朗読していたのは、そのうちの「おむすびづくし」と題されたエッセイであった。
 このエッセイは、さらに六つの小エッセイに分かれている。このとき小三治師匠は、「おむすびづくし」の全篇を朗読されていたように記憶するが、いまでもハッキリと思い出せるのは、「にぎりめし」という小エッセイである。以下に、引用させていただく。

   にぎりめし
 にぎりめしとなると、その呼び方からして子供言葉のおむすびや、女言葉のおにぎりと違ったふんいきを持つ。その代表格はなんといっても火事場に炊出しをするにぎりめしだ。ボヤや物置程度の小火災ではこんな必要もないが、二、三軒くらい焼けたとなると残火の始末までの時間が長いから、消防署や消防団の現場指揮所が設置され、所の町会の受付けもその付近にできてくるから御近所の方は大変だ。これも年季のはいった芸当で、なによりも先にいくつもの釜に湯をわかす。米を磨ぐのはその次。ザルにあげて水を切って置きながら沢庵をキザンだり入れ物を惜り集めたり、握るまでの段取りをテキパキと付け始める。やがて、「おばさん、おかま、お湯がわきました」。「ハイよ、あたしに見せておくれ、ちょいと御免よ」と釜の中をのぞき、余分なお湯をヒシャクでカシ桶に移し取り、頃合いにみはからった湯の分量にザルの米がザーッと入る。次の釜も同じことである。この仕掛け、湯炊きといって早炊きの一つである。すばしっこいそのやり口が全部見当なんだから恐れ入る。若い人などは手も足も出ない。見る間に炊き上った熱い飯はフワッと竹のスダレを敷いた、そばか、うどんの切溜【きりだめ】にあけられる。「手のあいてる人はみんな団扇〈ウチワ〉であおいでおくれ」。パタパタ団扇にあおられた湯気の立つかげでは、木のお椀に大きめのシャモジでキュッと盛りつけて、うどんやそば打に使う伸板【のしいた】の上にパンパンと置いていく。瀬戸物の茶碗ではこれはできない芸当だ。だいいち瀬戸物では熱くなって持っていられなくなる。廻りで見ている若い人たちが「もう握ってもいいんですか?」。「まだまだ、一側【ひとかわ】か二側【ふたかわ】並んだらお塩を打つからそれからだよ。それまでは取っておいたお湯で手をよく洗ってあっためておきな、あとが楽だよ」。あとが楽より何より手のひらや指の消毒になることと、クリーム臭が消えることは請合いだ。「さあみんな、どんどん握って頂戴」と声が掛かる。五十や百のにぎりめしはまたたく間なのである。

*このブログの人気記事 2019・7・24

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木柄の作り方は留公だけに教えた(小町若狭匠)

2019-07-23 04:14:51 | コラムと名言

◎木柄の作り方は留公だけに教えた(小町若狭匠)

 昨日、紹介した田中紀子さんの文章のなかに、小町和義さんのお名前が出てきた。小町さんは、八王子の宮大工棟梁の家に生まれている。この宮大工棟梁のことが、尾股惣司さんの本『鳶職【とび】のうた』(丸ノ内出版、一九七四)に出てきたような記憶があったので、引っぱり出してみた。
 やはり出てくる。同書中の一篇〝「つん留【とめ】」の話〟の中に、出ていた。この一篇は珠玉のような名篇であって、全文を紹介したいところだが、著作権の関係があるので、その一部のみを紹介する。まずは、最初の部分。

 昔といっても、今より六、七十年ぐらい前のことである。甲州街道八王子の八木町に三年坂【さんねんざか】というだらだら坂がある。この南側の通りあたりに木柄【きがら】大工留吉が住んでいた。
「木柄【きがら】」とは、土蔵の入口(「戸前」という)や窓のどっしりとした「観音開き」の土の扉の心骨になる、栗材【くりざい】または檜材【ひのき】をもって作られた木枠のことで、鍛冶屋の作った頑丈な肘金【ひじがね】をつけた、一見あらけずりの不細工な代物で、「木柄大工」などと、お世辞にも言えた代物には見えない……が、何十年という歳月を一枚の木枠の作り方で、四、五十貫の土や漆喰【しつくい】をがっちりと受けとめて、いまだに開【あ】け閉【た】てのできることは、まさにお見事というよりほかはない。
「つん留」とは、老母を抱えたつんぼの留吉のあだ名で、愚鈍ながらも親孝行な少年であった。普通では承知してくれないところを、寺の和尚が口ききで、寺町の宮大工棟梁の小町に弟子入りすることができた。

 ここに、「寺町の宮大工棟梁の小町」と出てくる。「今より六、七十年ぐらい前のこと」とあるので、明治後期の話であろう。当時の棟梁は、たぶん、小町小三郎(一八六二~一九四五)。小町和義さんの祖父に当たる人である。
 尾股惣司さんの一篇の中ほどを割愛し、最後の部分を紹介する。

 本当に血のにじむ苦労の末にやっと物になった時は、一年の礼奉公もいつのまにか、二年近くの歳月がたっていた。辛抱した留吉もえらいが、棟梁がまたえらかった。ある晩に家の職人や弟子たちを全部集めて、
「木柄の作り方は留公だけに教えた。他【ほか】の者には教えぬ。手前達【てめえたち】に教えたら、留公が喰えねえ。留公一代は家【うち】でも木柄は作らぬ。必要な時は留公から買う。みなもそれでなっとくしてくれ」
と言ったと……さすがに当時の高尾山薬王院出入りの大棟梁小町若狭匠【わかさのかみ】である。
 その後、留吉は三年坂に住み、注文があるたびに木柄を作り、ない時は脚立〈キャタツ〉や梯子〈ハシゴ〉や炬燵櫓〈コタツヤグラ〉などを作っていたという。その櫓はいくら火の上にあっても、ガタがこないので名人芸といわれた。
 これは今日叫ばれている身体障害者職能教育をすでに六、七十年ぐらい前に一人の棟梁がやったことだ。自分の家で仕込んだ職人や弟子たちに、錣【しころ】を下げて「留公を喰えるようにしてやってくれ」と、神社仏閣、山車【だし】、住宅【すまい】、蔵【くら】の建築にかけては、八王子でも有名【ゆびおり】な親方が、不幸【ふしあわせ】な一人の弟子のために、自らの権威も面子【メンツ】もさしおいて皆中【みんな】にたのみ、一人の人間を救い上げ世に出した。
 私も戦後、元本郷の横山さんの土蔵をこわした時に観音開きの木柄をばらしたら、「武州八王子木柄大工留吉」と墨さしで書いてあるのを見た。なんとも、まのぬけた字で、しかし味のある書き方であったとおぼえている。
 市川留吉の墓は現在八王子市元本郷町善龍寺境内にある。

*このブログの人気記事 2019・7・23

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この時の教え子の一人が小町和義さんでした

2019-07-22 04:31:49 | コラムと名言

◎この時の教え子の一人が小町和義さんでした

『丘もゆる』(『暴風雨の中で』の出版を祝う会、一九九七)から、田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 わたしは第三小学校の期間代用教員(これは当時、男子師範の卒業生は、卒業後直ちに三ヶ月間、軍隊で軍事訓練を受けるために、その期間だけの教員制度)として勤務しておりました。この時の教え子の一人が小町和義さん(番匠設計)でした。私はこの一学期が終わると東京府立代用八王子盲学校に勤務することとなり、校長は深沢〔洋治郎〕先生、給料は四十円のうち五円を学校基金として寄付し、その代りに寮生と一緒に暮し、生徒の面倒を見ることで、寮費は無料でした。当時の私は給料の半分を郷里へ送金(学費返済のため)しておりましたから大へんありがたいことでした。
 その頃の盲学校は台町〈ダイマチ〉の広い広い原っぱの中にぽつんと建っており、寮といっても校舎の一部にあり、生徒の部屋とは襖一つで仕切られており、寮生も十名足らずでしたから、当時十九歳の私と寮生とは家族のような感じでした。生徒達は私の旧姓の曲田(まがりた)が難しいらしくて、歌を唄うことが好きだった私に、「うぐいす先生」と仇名をつけて呼びました。廊下で逢うと、皆がよって来て、私の身体中を撫で廻し、私がなけなしの給料で購入した香水の香りを、いい匂いがするといって、よろこんでくれました。
 毎朝五時には起きて、小使(用務員)のおばさんと二人で朝の食事を造って食べさせたあと、教室へ出ました。放課後は三時から小学一、二、三、四年の子供の入浴を一緒にしましたから四、五人の子供を洗ったあとは、のぼせ上がる程でした。生徒達の一番好きなのは音楽でした。殊に低学年はよく唄いました。私も古びたオルガンを弾きながらとても楽しい毎日でした。
 生徒は小学一年生から、五十歳代の鍼灸〈シンキュウ〉を学ぶ学生、高等部、中等部の生徒達それぞれ一人一人別々に教えるという感じでした。若い私には総てが初めての経験であり、楽しみでした。殊に高学年の女生徒達には冬休み前に、短か編みの足袋の編み方を教えたので、冬休みには一足ずつ家へのお土産が出来たとおおよろこびで、中には二足編んで、一足は自分用に、他の一足はお母さん用にと編んだ生徒もおりました。三学期になって、その一人の母親から、「娘が他にもおりますが、盲の娘から手編みの足袋を貰い、ありがたくて、ありがたくて、神棚に供えました」といわれ、ほんとに嬉しかった記憶があります。【以下、略】

 文中、「期間代用教員」について触れているが、こういう制度のあることは知らなかった。調べて、何かわかったら、このブログで紹介してみたい。
 番匠設計の小町和義さん(一九二七~)は、著名な建築家である。八王子の宮大工棟梁の家に生まれている。インターネット情報多数。
 東京府立代用八王子盲学校は、現在の東京都立八王子盲学校の前身。一九三〇年(昭和五)三月、「八王子盲学校」として、文部省から開校認可。一九三一年(昭和六)三月、「東京府立代用八王子盲学校」に指定。一九四一年(昭和一六)一二月、「財団法人八王子盲学校」として設立認可。田中紀子さんの文章に、「給料は四十円のうち五円を学校基金として寄付し」とあるが、この「学校基金」というのは、財団法人化のため基金だったのであろう。財団法人八王子盲学校は、戦後の一九五〇年(昭和二五)二月、東京都に移管され、「東京都立八王子盲学校」となって、今日にいたっている。
 田中紀子さんの「『暴風雨の中で』の出版記念会によせて」は、ここまでで約半分だが、以下は、割愛させていただく。

*このブログの人気記事 2019・7・22(10位の乳バンドは久しぶり)

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