◎日本は一日も早く蘭印を占領した方がいい(オット大使)
須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)の紹介に戻る。
本日は、「いきりたつ軍部」の章(一六四~一六九ページ)を紹介する。この章以降、しばらく、米内光政(よない・みつまさ)内閣の時代(1940・1・16~1940・7・16)に起きたことが語られる。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。
い き り 立 つ 軍 部
米内内閣の誕生
阿部〔信行〕内閣の後に、杉山〔元〕か寺内〔寿一〕の内閣でもできそうだという噂を裏切って、米内〔光政〕海軍大将の内閣が生まれた。陸軍部内は呆気〈アッケ〉にとられた。そして初めからようない内閣だといいふらした。
有田八郎外相が登場して、僕を情報部長のままで置くことになった。首相とは、僕の中国 時代から、上海でも、南京でも事を共にはかったこともあって、気心がわかっていた。何時 いかなる時でも、しゃきんと身体を真直にしているところが気に入った。それに酒の飲みっぷりがとてもよかったのも記憶に深い。
米内、有田の外交は、まったく欧州戦争不介入であった。そしてあくまで平和で押し通そうと決心していた。その点で僕は内外への宣伝は従来通りの方針で行けばいいのであった。
ところが、ドイツの電撃戦、イタリアの参戦、フランスの単独講和とヨーロッパの情勢は飛ぶように変って行った。それに伴って、日本の軍部はいよいよいきり立って来た。阿部内 閣当時に清算したはずの枢軸論が、むくむくともり上ってき亡。それが僕の日々の内外新聞 記者会見の裡〈ウチ〉にあらわに読まれた。
〔※「ようない内閣」の「ようない」は、原文では、傍黒丸。太字で代用した。また、有田外相が「僕を情報部長のままで置く」とあるが、この表現から、ここのでの「情報部長」は、外務省情報部長を指すと見るべきであろう。〕
正確な外国の惰報
英国大使のクレーギーと会食した時である。
「「米内、有田の外交線は、よく軍部をおさえて行けるものでしょぅか」と真向〈マッコウ〉から質問した。僕はまたはっきり答えた。
「米内首相はあれでなかなか骨のある人で、そうそう造作なくまいりませんよ。」
「そうあって欲しいですね」
グルー米国大使に至ってはもっと悲観的であった。フランシス・セイヤがフィリピンの長官をしている間に、日本にやって来た時、セイヤと使とは、ワシントン時代よく仕事をして いたので、一緒にグルー大使が午餐によんだ。
グルー大使は率直に僕を顧みて独ごと〈ヒトリゴト〉のように云った。
「米内首相も永くなさそうではありませんか。そしてその後は大変のようですね」
「そんなことはありませんよ。日本はそんなに変り易いと見えますかね?」
「日本の外交は百八十度の転換をせねばならぬとか、バスに乗りおくれぬように早手まわしな行動を出ねばならぬ、と云っているではありませんか」
僕はこうした会話で、日本にいる外国使臣の持っている情報の正確なのに、時々吃驚〈キッキョウ〉させられたものであった。
日独伊同盟を見越す
その頃である。ドイツのオット大使と会合をすると、これはまた恐ろしいことを云ったものである。
「日本は一日も早く蘭印を占領した方がいいですね。そしてまた仏印もね。できたら、南洋 に兵を進めるんですね」
僕は、日本は外交官の明けっぱなし時代だと感じた。外交官とのつき合いにも、もう日本中には疾風が吹きそめていることが読まれるのであった。
その頃、外人記者との会見でも鋭く質問してくるのに、時々驚かされた。後に憲兵隊に取 調べられて、三階から飛び降りて死んでしまったロイターのコックスもいた。彼は僕の上海 時代からの知り合いだからよけいに、あけすけなことを云い合っていたが、ある日こんな質問までしたものである。
「軍部には、もう次の内閣のリストまでできていて、ドイツやイタリアと同盟にまでもって 行こうというではありませんか」
僕はこんな質問を突っぱねるよりは、よく笑って受け流した。相手にせず、といった取扱いはしたものの、そうすると益々その主張を繰返してきたものである。ニュー・ヨーク・タイムズやロンドン・タイムズとの両特派員を兼ねて二十数年も日本に住み、在日記者団長格になっていた、ヒュー・バイアスなどは、ちょっと吃りながら、早口でえらいことを質問したものである。
「日本は日英同盟以来の政策を清算した。全く大冒険な時代に入るのではないですか」
今考えて見ると、大胆を通り越した無理なほどの質問を連発したものであった。
僕はこうした在日外国人との接触から、日本の姿がありありと読まれるように思った。日本は乱れ飛ぶ吹雪の間をかける鳥のようにも思えた。良い、悪いではない。本能的に、盲目 的に、どちらかの方向に惹きつけられて行くかも知れないとさえ見えた。
〔※ここで須磨は、コックス事件に触れている。一九四〇年(昭和一五)七月二七日に、在留英国人十一名が、軍機保護法で検挙され、そのうちのひとり、ロイター通信の東京支局長コックス(Melville James Cox)が、憲兵司令部の建物から飛び降り死亡した事件。ニューヨーク・タイムズ特派員のヒュー・バイアス(Hugh Byas,1875-1945)についても触れている。バイアスは、一九四一年(昭和一六)五月に離日し、翌年、ニューヨークで刊行した“The Japanese Enemy: His Power and His Vulnerability”で、日本を鋭く分析し、注目された。二〇〇四年四月に出た『敵国日本』(刀水書房)は、同書の翻訳である。〕
嵐の前に立つ日本
そんな見方で軍部の動きを注視すると、何とはなしに無気味なものさえ感じたこともあった。同じ荻窪に住む近衛文麿をその頃もよく訪ねた。荻窪にあった『桃山』の普茶料理を二人きりで食べながら、外人から得た印象などを話すと近衛は云った。
「何かしら、日本は気狂いじみて来たね。こんな手紙をよこすものがあるよ」
こう云って、墨で達筆に書いた長い投書を見せた。日本は運命を開拓すべき好機に今辿りついた。一刻も早くドイツと結ぶために近衛公の蹶起を願望するという趣旨を、熱誠のこもった文章で綴っていた。
「こんなことに乗る気がありますか」
「新体制の構想は面白くはあるけれども、ドイツと握手する、というところに一足跳びに進むものは考えものだね」
僕は、こうした会談から、もう米内内閣には命数が来ているようにも感じた。そして、日 本はテンポの早い国だとつくづく思えてならなかった。
ハル国務長官が、僕の離米に臨んで、日本が一歩踏みあやまらないように、くれぐれも当 局に云ってくれといった言葉が、時々顔をもたげてきた。
この頃は、嵐の日本であった。いな嵐の前であったかも知れぬが、動揺がまことにひどかった。
「いきりたつ軍部」の章は、ここまで。この章の最後で須磨は、このころの日本は、「嵐の日本」で、「動揺がまことにひどかった」と書いている。須磨自身も、そうした中で、「動揺がまことにひどかった」のではないだろうか。
次回は、この章に続く「枢軸接近を警戒」の章を紹介する。