礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本は一日も早く蘭印を占領した方がいい(オット大使)

2021-09-15 00:06:33 | コラムと名言

◎日本は一日も早く蘭印を占領した方がいい(オット大使)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)の紹介に戻る。
 本日は、「いきりたつ軍部」の章(一六四~一六九ページ)を紹介する。この章以降、しばらく、米内光政(よない・みつまさ)内閣の時代(1940・1・16~1940・7・16)に起きたことが語られる。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    い き り 立 つ 軍 部

 米内内閣の誕生
 阿部〔信行〕内閣の後に、杉山〔元〕か寺内〔寿一〕の内閣でもできそうだという噂を裏切って、米内〔光政〕海軍大将の内閣が生まれた。陸軍部内は呆気〈アッケ〉にとられた。そして初めからようない内閣だといいふらした。
 有田八郎外相が登場して、僕を情報部長のままで置くことになった。首相とは、僕の中国 時代から、上海でも、南京でも事を共にはかったこともあって、気心がわかっていた。何時 いかなる時でも、しゃきんと身体を真直にしているところが気に入った。それに酒の飲みっぷりがとてもよかったのも記憶に深い。
 米内、有田の外交は、まったく欧州戦争不介入であった。そしてあくまで平和で押し通そうと決心していた。その点で僕は内外への宣伝は従来通りの方針で行けばいいのであった。
 ところが、ドイツの電撃戦、イタリアの参戦、フランスの単独講和とヨーロッパの情勢は飛ぶように変って行った。それに伴って、日本の軍部はいよいよいきり立って来た。阿部内 閣当時に清算したはずの枢軸論が、むくむくともり上ってき亡。それが僕の日々の内外新聞 記者会見の裡〈ウチ〉にあらわに読まれた。

〔※「ようない内閣」の「ようない」は、原文では、傍黒丸。太字で代用した。また、有田外相が「僕を情報部長のままで置く」とあるが、この表現から、ここのでの「情報部長」は、外務省情報部長を指すと見るべきであろう。〕

 正確な外国の惰報
 英国大使のクレーギーと会食した時である。
「「米内、有田の外交線は、よく軍部をおさえて行けるものでしょぅか」と真向〈マッコウ〉から質問した。僕はまたはっきり答えた。
「米内首相はあれでなかなか骨のある人で、そうそう造作なくまいりませんよ。」
「そうあって欲しいですね」
 グルー米国大使に至ってはもっと悲観的であった。フランシス・セイヤがフィリピンの長官をしている間に、日本にやって来た時、セイヤと使とは、ワシントン時代よく仕事をして いたので、一緒にグルー大使が午餐によんだ。
 グルー大使は率直に僕を顧みて独ごと〈ヒトリゴト〉のように云った。
「米内首相も永くなさそうではありませんか。そしてその後は大変のようですね」
「そんなことはありませんよ。日本はそんなに変り易いと見えますかね?」
「日本の外交は百八十度の転換をせねばならぬとか、バスに乗りおくれぬように早手まわしな行動を出ねばならぬ、と云っているではありませんか」
 僕はこうした会話で、日本にいる外国使臣の持っている情報の正確なのに、時々吃驚〈キッキョウ〉させられたものであった。

 日独伊同盟を見越す
 その頃である。ドイツのオット大使と会合をすると、これはまた恐ろしいことを云ったものである。
「日本は一日も早く蘭印を占領した方がいいですね。そしてまた仏印もね。できたら、南洋 に兵を進めるんですね」
 僕は、日本は外交官の明けっぱなし時代だと感じた。外交官とのつき合いにも、もう日本中には疾風が吹きそめていることが読まれるのであった。
 その頃、外人記者との会見でも鋭く質問してくるのに、時々驚かされた。後に憲兵隊に取 調べられて、三階から飛び降りて死んでしまったロイターのコックスもいた。彼は僕の上海 時代からの知り合いだからよけいに、あけすけなことを云い合っていたが、ある日こんな質問までしたものである。
「軍部には、もう次の内閣のリストまでできていて、ドイツやイタリアと同盟にまでもって 行こうというではありませんか」
 僕はこんな質問を突っぱねるよりは、よく笑って受け流した。相手にせず、といった取扱いはしたものの、そうすると益々その主張を繰返してきたものである。ニュー・ヨーク・タイムズやロンドン・タイムズとの両特派員を兼ねて二十数年も日本に住み、在日記者団長格になっていた、ヒュー・バイアスなどは、ちょっと吃りながら、早口でえらいことを質問したものである。
「日本は日英同盟以来の政策を清算した。全く大冒険な時代に入るのではないですか」
 今考えて見ると、大胆を通り越した無理なほどの質問を連発したものであった。
 僕はこうした在日外国人との接触から、日本の姿がありありと読まれるように思った。日本は乱れ飛ぶ吹雪の間をかける鳥のようにも思えた。良い、悪いではない。本能的に、盲目 的に、どちらかの方向に惹きつけられて行くかも知れないとさえ見えた。

〔※ここで須磨は、コックス事件に触れている。一九四〇年(昭和一五)七月二七日に、在留英国人十一名が、軍機保護法で検挙され、そのうちのひとり、ロイター通信の東京支局長コックス(Melville James Cox)が、憲兵司令部の建物から飛び降り死亡した事件。ニューヨーク・タイムズ特派員のヒュー・バイアス(Hugh Byas,1875-1945)についても触れている。バイアスは、一九四一年(昭和一六)五月に離日し、翌年、ニューヨークで刊行した“The Japanese Enemy: His Power and His Vulnerability”で、日本を鋭く分析し、注目された。二〇〇四年四月に出た『敵国日本』(刀水書房)は、同書の翻訳である。〕

 嵐の前に立つ日本
 そんな見方で軍部の動きを注視すると、何とはなしに無気味なものさえ感じたこともあった。同じ荻窪に住む近衛文麿をその頃もよく訪ねた。荻窪にあった『桃山』の普茶料理を二人きりで食べながら、外人から得た印象などを話すと近衛は云った。
「何かしら、日本は気狂いじみて来たね。こんな手紙をよこすものがあるよ」
 こう云って、墨で達筆に書いた長い投書を見せた。日本は運命を開拓すべき好機に今辿りついた。一刻も早くドイツと結ぶために近衛公の蹶起を願望するという趣旨を、熱誠のこもった文章で綴っていた。
「こんなことに乗る気がありますか」
「新体制の構想は面白くはあるけれども、ドイツと握手する、というところに一足跳びに進むものは考えものだね」
 僕は、こうした会談から、もう米内内閣には命数が来ているようにも感じた。そして、日 本はテンポの早い国だとつくづく思えてならなかった。
 ハル国務長官が、僕の離米に臨んで、日本が一歩踏みあやまらないように、くれぐれも当 局に云ってくれといった言葉が、時々顔をもたげてきた。
 この頃は、嵐の日本であった。いな嵐の前であったかも知れぬが、動揺がまことにひどかった。

「いきりたつ軍部」の章は、ここまで。この章の最後で須磨は、このころの日本は、「嵐の日本」で、「動揺がまことにひどかった」と書いている。須磨自身も、そうした中で、「動揺がまことにひどかった」のではないだろうか。
 次回は、この章に続く「枢軸接近を警戒」の章を紹介する。

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小説『眼の壁』は、1960年5月に改訂された

2021-09-14 00:32:12 | コラムと名言

◎小説『眼の壁』は、1960年5月に改訂された

 松本清張の小説『眼の壁』は、今日、新潮文庫版などで読むことができる。手元にある新潮文庫の奥付を見ると、「昭和四十六年三月三十日発行/平成五年一月二十日五十刷改版/平成六年十一月十日五十四刷」とある。また、その末尾には、「この作品は昭和三十三年二月光文社より刊行された。」とある(四三八ページ)。
 光文社は、昭和三三年(一九五八)二月に、ハードカバーの単行本を出している。しかし、新潮文庫版の底本は、そのハードカバー版ではない。
 たとえば、ハードカバー版の一二三ページ下段に、次のような箇所がある。

 田村は、名古屋から終着駅の瑞浪の間の駅を、一つ二つと数えて、
「全部で七つだ。七つの駅のどれかでその男が下車したわけだ。」
と言った。竜雄は微笑した。

 ところが、この箇所は、昭和三五年(一九六〇)五月に同じ光文社から刊行されたカッパ・ノベルス版では、次のようになっている(一二九ページ上段)。

 田村は、名古屋から終着駅の瑞浪の間の駅を、一つ二つと数えて、
「おもな駅は七つだ。たぶん、この七つの駅のどれかでその男が下車したんじゃないか。」
と言った。竜雄は微笑した。

 この改訂の理由は、容易に推測できる。読者などから、「定光寺、古虎渓の両駅は、どうなっているのか」という指摘があったのであろう。
 そこで、新潮文庫版(平成五年改版)の当該箇所(一九九ページ)を見ると、カッパ・ノベルス版と一字一句そのままである。
 この箇所に限らず、カッパ・ノベルス版の刊行に際しては、いろいろな箇所で改訂がおこなわれている。新潮文庫版は、そうした改訂を引き継いだものである。新潮文庫版(平成五年改版)にある「この作品は昭和三十三年二月光文社より刊行された」という注記は、もちろん誤りではない。しかし、それに加えて、「本文庫は、昭和三十五年五月刊行の光文社カッパ・ノベルス版を底本にした。」などの注記があると良かったように思う。 
 明日は、話を『外交秘録』に戻す。

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小説『眼の壁』(1957)に、古虎渓駅は出てこない

2021-09-13 00:35:27 | コラムと名言

◎小説『眼の壁』(1957)に、古虎渓駅は出てこない

 DVDで、松竹映画『眼の壁』(一九五八)を鑑賞した。佳作だと思ったが、ひとつ、気になったことがある。それは、主人公・萩崎竜雄を演じた佐田啓二(一九二六~一九六四)の演技が「暗すぎる」ことであった。そういう役柄として演じたのかもしれないが、それにしても暗すぎる。この演技が、この映画を必要以上に重苦しいものにしている。
 一方、主人公の友人、新聞記者の田村満吉を演じた高野真二さんの演技は明るい。この高野さんの明るさが、佐田の暗さを補っていた。明るいと言えば、田村記者の婚約者を演じた朝丘雪路(一九三五~二〇一八)の演技も明るかった。なお、記者の婚約者という役柄は、松本清張の原作には登場しない。
 この映画の原作は、松本清張が『週刊読売』に発表した連載小説『眼の壁』である(1957・4・14~12・29)。映画の公開は、一九五八年(昭和三三)一〇月。映画公開前の同年二月に、光文社から単行本『眼の壁』が出ている。映画のクレジットには、‶原作 松本清張/「週刊読売」連載/光文社刊〟とある。
 小説中に、中央西線の高蔵寺、多治見(たじみ)、土岐津(ときつ)、瑞浪(みずなみ)の各駅が登場する。しかし、高蔵寺―多治見間にある定光寺(じょうこうじ)、古虎渓(ここけい)の二駅は、小説では名前が登場しない。古虎渓駅は、この小説の連載がはじまる直前の、一九五七年(昭和三二)四月一日に開業したという。事件が起きたのが、古虎渓駅の開業前だったという設定ならば、古虎渓駅が出てこないのは当然である。しかし、定光寺駅の名前が出てこないのは、いったい、どういうわけか。
 ちなみに、映画のほうでは、定光寺駅、古虎渓駅とも、萩崎竜雄のセリフの中で、その名前が出てくる。また、「駅名板」が写される場面で、両駅の名前が確認できる。【この話、続く】

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ドイツとの枢軸はきっぱり清算しました(阿部信行首相)

2021-09-12 01:45:24 | コラムと名言

◎ドイツとの枢軸はきっぱり清算しました(阿部信行首相)

 須磨弥吉郎の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)を紹介している。
 本日は、「みなぎる強硬論」の章(一五九~一六四ページ)を紹介する。この章では、阿部信行内閣時代(1939・8・30~1940・1・14)に起きたことが語られる。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    み な ぎ る 強 硬 論

 日本関係の調整
 僕が太平洋を横切っている間に、平沼〔騏一郎〕内閣は倒れて、阿部信行大将の新内閣が生れた。
 内外の情勢が複雑怪奇だと声明した平沼内閣は日独枢軸外交は清算して、日本は独自の見解で外交を推進せんとして退陣したのだという。
 僕は船の上で考えてみた。ある意味では、ドイツとの提携は手が切れたともいえる。この点では、ハル長官は喜んでいるだろうと思った。
 九月十七日、太洋丸は横浜に着いた。宇治田〔直義〕総理大臣秘書官は、松本〔俊一〕人事課長、元の駐英大使と共に出迎えてくれた。秘書官は阿部首相が、僕の帰朝を首を長くして持っているから、船からとも角直ちに首相官邸に行こうと云う。
「僕は何よりも大切な松村君の遺骨を持っているのだから駄目だ」
「それは松本人事課長に渡せばいいでしょう」
「そうはなりません。遺族の手に渡さないことには気が済みません。ちょうどこれから直ちに、外務省で告別式をやるというから、それに出てから直ぐ参りましょう」
 宇治田秘書官は不服だったが、僕はその通りに運んでから官邸に出かけた。

〔※平沼騏一郎内閣の総辞職は、一九三九年(昭和一四)八月二八日、阿部信行内閣の発足は、同月三〇日。平沼内閣の総辞職で、ドイツとの提携が白紙になったことについて須磨は、「ハル長官は喜んでいるだろうと思った」と書いている。須磨自身が喜んだと書いてはいない点に注意したい。〕

 足抜けぬ日華事変
 阿部首相は、言葉の丁寧な人であった。僕のようなものにも、
「閣下」などと言ったりした。
「待ちわびてました。平沼内閣の退陣によって、ドイツとの枢軸はきっぱり清算しましたから、今度は米国との関係に主力を注ぎたいのです。そこで、その米国の対日政策の見通しは如何〈イカガ〉でしょうか。それを詳しく伺いたいのです」
僕はまず、ハル長官やカッスル元大使などの伝言を簡単に話した上、本報告に入る前に云った。
「米国の事情はこれから詳しく申上げますが、それに先だって日華事変はどうなるものです か」
 阿部首相は微笑は浮かべながらも憂情去り難い面持で言った。
「日華事変は、実に色々骨を折って見ましたが、結局泥沼同様でなかなか足が抜けません」
「それは大変です。もしその通りならば、ぼくは結局日米開戦が避けられぬと思えてなりません」
 首相はきっとそり身になった。
「本当でございますか」
「僕の偽らない結論でございますが、これをかえるには、日華事変をやめる以外には手はありますまい」
「それでは、米国はその積りでやっているのですか」
「それは、時期はわかりません。また、まだまだ色々の経緯を経ることとは思いますが、満州事変はまあ我慢し満州国不承認主義という見得を切っただけにしたのですが、日本が日華事変をこのまま続けて行くというのならば、今度は覚悟したというふうに見えてなりません」
 首相は真剣になって、僕の話を二時間以上も聴いた上で、声を低めながら、膝を進めて言った。
「もし、米国の情勢がお話の通りだとするならば、この内閣は、米国との関係を調整するこ とに専念したいのですから、今度東京に残って頂きます」
 満州国なんどにやっては置けない。直接米国のことに当らせる必要があるのだと繰返し秘退し言った。そして、僕から質問したわけではないが、不日〈フジツ〉専任外相として野村〔吉三郎〕海軍大将を任命したいつもりであることも内々で話した。
 僕の身の上に思い設けぬ変化が起りそうなのだ。けれども、人事のことはもちろん他に言えない。殊に僕を情報部長という職につかせるというならば、新外相に相談せねばならないだろうし、いくら、阿部首相がそのつもりでも、軍人側の思惑もあるのだから、決定は覚束ない〈オボツカナイ〉かも知れぬと思っていた。けれども、初めての米国報告の際に、
「満州国行きはやめにしますから」と言い切っていたのだから、むろんいかんともし難い。
 翌日〔九月一八日〕の朝である。加藤外松公使がやって来て、新京では植村〔彦之丞〕司令官も、一日千秋といった待ち佗び方だし、軍人を初めから怒らしてしまっては、仕事もやりにくくなろうしするからまた直ぐ帰京するとして、一旦明日にでも飛行機で新京向け発ってくれといった。

〔※阿部内閣の外務大臣は、九月二五日までは、首相が兼任。同日、野村吉三郎が着任。須磨は、日華事変は「泥沼同様でなかなか足が抜けません」という首相の言葉を受けて、もしその通りなら「日米開戦」は避けられぬと述べたとある。本当に、このとき、阿部と須磨との間で、そうした会話があったのかどうかは不明。また、日華事変を続けることが、日米開戦に結びつくという須磨の判断の根拠も、この文章からは読み取れない。〕

 舞戻り情報部長に
 僕は未定の人事をあかすわけにも行かず、また生憎〈アイニク〉、日頃頑健な僕が仮病をつかうこともできず、極めて不得要領な挨拶をして置いた。
 数日にして、野村新外相は発令になり、続いて僕のもそうなるわけなのだが、新外相は貿易省設置問題で手古摺らされた〈テコズラサレタ〉結果、少し遅れたが、到頭、僕が情報部長となった。ところが、新京行きの後任には困り抜いた様子であった。外務省としては色々の駒をだしてみたが受け容れられず、到頭三浦武美が行くことになった。その三浦君がまだソ連に捕われの身であり、僕の前任加藤外松〈ソトマツ〉はその後ヴィシィ政府への大使になって赴任し、仏印問題などでさんざん苦労の末、パリーの大使館楼上から、ころげ落ちて惜くも他界してしまった。生き残った僕は、憎まれっ児かも知れない。とにかく良い人は先んずるものらしい。

〔※この章でいう「情報部」とは、外務省情報部のことであろう。一九三七年(昭和一二)九月に発足した「内閣情報部」とも取れるが、あとの章の記述から判断すると、外務省情報部のことであろう。ちなみに、ウィキペディア「情報局」には、内閣情報部は、「山本五十六海軍次官と須磨弥吉郎南京総領事の肝煎り」によって発足したという記述がある。〕

 阿部内閣倒れる
 阿部内閣の下、野村外相は、厳格に欧州戦争不介入政策で一貫した。僕はその方針を体して全国を説いて回った。大阪、京都、名古屋、福岡、などの要所に外交懇談会を創設したのもそのためであった。福岡などでは、中野正剛と立会で演説まで展開した。
 米国何ものぞ。といった空気が漲っているうちに、欧州戦中不介入を唱導するのは、随分つらかった。到る処の演説会では、軟弱外交とまでいわれたりした。けれども、僕は米国の事情を卒直に述べて米国との関係を調整すること程大切なことは無いと力説した。到頭阿部内閣は、半歳にしてあっけなく倒れてしまった。

「みなぎる強硬論」の章は、ここまで。このあと、「いきりたつ軍部」の章に続くが、同章を紹介する前に、一度、別の話題を入れる。

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ドイツとの提携は、実に危険なことである(ハル国務長官)

2021-09-11 05:39:06 | コラムと名言

◎ドイツとの提携は、実に危険なことである(ハル国務長官)

 ウィキペディア「須磨弥吉郎」によれば、須磨弥吉郎は、‶1940年12月、「東機関(とうきかん)」を開設、その指揮のため自ら駐スペイン特命全権公使として赴任した〟という。
 須磨の『外交秘録』(商工財務研究会、一九五六)の記述は厳密さに欠けるが、それによれば、スペイン赴任ため横浜を出港したのが、一九四〇年(昭和一五)一二月二八日で、ハワイのホノルルに着いたのが、翌年の元旦。その後、サンフランシスコ、ニューヨーク、バミューダを経由して、ポルトガルのリスボンに着いたのは二月二八日。そこから陸路、スペインのマドリッドに到ったのも同日で、着任は三月一日だったという。
 須磨は、同書で、スペインでの情報収集活動についても語っているが、「東機関」については一言も触れていない。
 さて本日は、同書の「独との提携懸念」の章(一五四~一五九ページ)を紹介する。この章で須磨は、一九三九年(昭和一四)の八月以降に起きたことを語っている。なお、引用の途中で、引用者の注〔※〕を挿むことがある。

    独 と の 提 携 懸 念

 欧戦不介入由来
 昭和十四年二十日には、僕が満州国大使館に転勤命令を受けた。中国に転じた加藤外松〈ソトマツ〉公使の後を襲うて、新京にある日本大使館の代理大使になるためであった。谷正之の後が加藤外松であったのだ。人間にはよく縁というものがあるらしい。不思議にも加藤外松と僕とは、よく縁がある。
 僕がドィツから帰って欧米局に入ったのは、加藤外松が同局第二課長の時であった。それ から僕が北京に行ったのは、加藤外松が北京から天津の総領事になった後であった。官舎も そのまま引受けた、それがまた新京で後釜になるとは面白いものである。
 その頃、新京では植村〔彦之丞〕中将が関東軍司令官で、磯谷〈イソガイ〉〔廉介〕少将が参謀長であった。当時は不思議なことだが、満州国に行く外交官は、概して関東軍のアグレマン(同意)を得ねばならない例であった。
 日米通商航海条約は、僕の転勤命令があってから一週間で、廃棄を通告されたのだから、堀内〈ホリノウチ〉〔謙介〕駐米大使から、暫く僕を米国に留任させたいと強く電請したが、アグレマンの関係があるというので聴き入れられなかった。僕には急遽満州に行くようにと電命があった。条約廃棄通告の前後通告も急いでまとめた。八月二十八日にはワシントンを発つことに定めた。

〔※「昭和十四年二十日」とあるのは、原文のまま。文脈から、昭和十四年八月二十日のことであろう。堀内謙介駐米大使は、須磨の留任を希望したが、「聴き入れられなかった」という。これは憶測になるが、須磨自身は、満州国での新しい職務に対して、かなり「ヤル気」になっていたのではあるまいか。〕

 独接近の危険を指摘
 その一週前の二十一日、ハル国務長官を暇乞い〈イトマゴイ〉に訪問した。長官はいつにない能弁である。
「いい時機に帰朝されるのは、米国側でも嬉しく思います」
「それはどういうことですか」
「日米の関係は全く重要な段階にあるのですから、帰られたら御見聞をそのまま政府に伝えられて、両国関係の好転に努められたいのです」
 こう云って長官は中国で米国側の受けた損害について委しく陳べ、そのために米国の対日感情は、予想以上悪化していることを率直に陳べたものであった。二十五日にはサムナア・ウェールズ国務次官や、ホーンベック極東部長以下国務省の幹部から送別の宴を張られた。その席上で極東部長は云った。
「日本の最近の傾向は、英米から離れてドイツに親しむようだから、そこに危険があると思 います」
 その席に列した人々も、異口同音に、僕が日本に帰ったら、是非この点について重大な注 意を喚起すべきだという趣旨を繰返していた。
 元駐日大使もした共和党の外交界ヴェテランであるウィリアム・カッスルにその翌日〔二六日〕会うと、
「極東局のソルスベリイ書記官から昨日の会合のもようを伝聞したが、日本に帰ったら、日 本は英米側と提携することが、最も大切であることを強調して貰い度い〈タイ〉がこのことは強調し過ぎるということはないのです」と云っていた。

〔※ハル国務長官ほか、アメリカ側関係者の須磨に対する期待は大きかった。須磨の実力は、それだけ高く評価されていたのであろう。しかし、その後における須磨の動向を見ると、最終的には彼は、アメリカ側のそうした期待を裏切る形になったと言える。〕

 ハル長官再び警告
 同じ日〔二六日〕に、当時から米国随一の評論家であったウォルタア・リップマンに会うと、才媛の 名高い夫人と同席で、僕に茶をすすめながら夫妻が交々〈コモゴモ〉云った。「日本は海の国です。海では、米英と提携する外はありません。米英との海の上での諒解があったら、日本の将来は洋々たるものがあるのです」
 このことは、かって欧州からの帰途立寄った安岡正篤〈マサヒロ〉君と鼎坐して、世界の問題を論じあった時にも強調した点と同じである。
 いよいよ八月廿八日が来た。その午後にワシントンを発つというのに、その朝また特にハ ル長官の需め〈モトメ〉があって外務省に行く。
 長官は云った。
「お忙しいところ、しかも御出発の直前お目にかかりたかったのは、もう一度、東京政府へ の切なる申入れをお話し致したかったのです」
 こう前置きしてから、暫く間を置いて語をついだ。
「実は平沼〔騏一郎〕内閣では、ドイツとの提携を真剣に考えている様子ですが、これは実に危険なことであります」
「よくわかりますが、特に危険と言われるのは?」
「それははっきりしています。もしヨーロッパに戦乱が起ったら、日本はそれに参加することになる危険が無いとはいえません」
「それでは長官は、ヨーロッパには戦争が必至と思われますか」
「まず、そう見ねばなりません」
 長官のこの一言は何時にないはっきりしたものであった。それから、僕の印象に深く刻まれた他の一言は、日本は危険だということである。

〔※ハル国務長官は、日本がドイツと提携することの危険性を強く訴えている。日本がドイツと提携した場合、そのことによって日米間の戦争が起きうること、アメリカはその可能性を視野に入れていることを、ハル長官は、こうした形で「警告」したのではないだろうか。〕

 ヒトラーの開戦
 僕はその日の午後、二年半住み馴れたワシントンを出発した。九月一日サンフランシスコ に着くと、ヒトラーがいよいよポーランドに侵入して、欧州大戦の幕は切って落されたのだ。
 二十八日の会見でハル長官が、僕に対して欧州戦争開始を殆んど肯定していたのは、確か な情報を握っていたのだなと思われた。
 長官の最後の会見で二つの言明が印象され。その中の一つの欧州戦争の分は的中したとなると、さて、日本が欧州戦中に入ることに関連しての危険を背負うか、どうかが僕を深く考えさせた。
「日本の危険」も実現するのではないかと、僕は気になった。
 サンフランシスコで佐藤敏人総領事のところで松村基樹領事の遺骨を引取った。松村君は僕の南京総領事時代の右腕であった。当時僕と共に南京、上海で働いた人には、前の岡崎〔勝男〕外相、大田一郎タイ国大使、朝海〈アサカイ〉〔浩一郎〕在英公使と並んで四天王の一人といわれ、最も才腕無比で嘱望されていた。贔屓のひきだおしでもないが、ポーランドの領事になったのが因で、そこで自分で運転した自動車事故でこの世を去った。未亡人がその遺骨は是非僕に持ち帰らせたいと待っていたものであった。
 大洋丸に、その愛友松村君の遺骨と、日本の危険という長官の言葉とを抱いて僕は日本に 急いだ。欧州不介入を成し遂げたいと念ずる心で一ぱいであった。

「独との提携懸念」の章は、ここまで。次回は、この章に続く「みなぎる強硬論」の章を紹介する。

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