礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日本語コレバカリダとバスク語kori bakarrik da

2024-09-25 00:20:44 | コラムと名言
◎日本語コレバカリダとバスク語kori bakarrik da

 同じような話が続いたので、いったん、話題を変える。
 山中襄太著『国語語源辞典』(校倉書房、1976)を拾い読みしていたところ、「こればかりだ」という項目があった。まず、これを引用してみる。

こればかりだ [考]かつて藤岡勝二氏が,パリでの実察経験として,コレバカリダ (此許りだ)という日本語がバスク人にすぐ通じたといっているということを読んだ記憶がある。それはたしか安逹常正氏の「漢字の研究」という本の巻頭だったと思う。これとほとんど同じ話が,岡田峻氏の「マヤの文化」の「バスク族の国々」(p.153)にでている。すなわち,――以前,フランス・バスクの大司教Mugabure〈ミュガビュール〉が話されたバスク語と日本語との類似点について,彼が東京について日本人との会話の中に,偶然にも80余りの日常の文句を発見したことを述べている。ある日大司教が手紙を書こうと思って,下男に紙を持って来させた時,その下男はkore bakari daといって一枚の便箋を渡した。大司教はバスク語でkori bakarrik daという,全く同意味の言葉と,後でわかってから,偶然の類似から分らない日本語の研究の手を染められた。日本語とバスク語との発音と文の構造が似ている点から,日本に来るバスクの僧侶や尼僧について,日本語の発音をきいても,ほとんど我々と異ならないのに驚いている。あるいはバスクと日本人との関係も「コレバカリ」ではないのかも分らない。 Gora Euskadi !(バスク族に光栄あれ!)と。ピレネー山地に,民族や言語の孤島的存在とみられているバスク族,また中南米のマヤやインカの民族や言語が,日本の民族や言語と似ているということは,そもそも何を物語るか。現在の段階では何ともいえないあるものが,その間に伏在しているのではなかろうか。それを調査研究してみる必要が,大いにあると考えられる。

〝安逹常正氏の「漢字の研究」〟というのは、安逹常正編『漢字の研究』(六合館、1909年11月)、安逹常正編『訂正再版 漢字ノ研究』(六合館、1910年2月)、安逹常正編著『増補 漢字の研究』(六合館、1910年12月)のいずれかを指すのであろう。三冊とも、国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧できたので、それぞれの巻頭部分に目を通してみたが、「コレバカリダ」の話は見つからなかった。
〝岡田峻氏の「マヤの文化」〟とあるのは、岡田峻著『マヤの文化』(育成社弘道閣、1942)のことである。国立国会図書館のデジタルコレクションで閲覧したところ、「バスク族の国々」という章があり(111~156ページ)、その末尾に、次のようにあった。

 以前,フランス・バスクの大司教ムガブールMugabure〈ミュガビュール〉が話されたバスク・日本語との類似点について、彼が東京について日本人との会話の中に偶然にも八十余りの日常の文句を発見した事を述べてゐる。
 或る日、大司教が手紙を書かうと思つて下男に紙を持つて来させた時、その下男はkore bakari daといつて一葉の便箋を渡した。ムガブール大司教はバスク語でkori bakarrik daといふ全然同意味の言葉と後で分つてから,偶然の類似から分らない日本語の研究の手を染められた。日本語とバスク語との発音と文の構造が似てゐる点から、日本に来るバスクの僧侶や尼僧について、日本語の発音をきいても、殆ど我々と異らないのに驚いてゐる。或はバスクと日本人との関係も『こればかりでないのかも分らない。』
    Gora Euskadi !――バスク族に光栄あれ!―― 〈153~154ページ〉

 岡田峻(おかだ・たかし、1904~1966)というスペイン語学者のことは、まったく知らなかった。その著書『マヤの文化』のことも、もちろん知らなかった。『マヤの文化』という本は、まだ拾い読みした程度だが、貴重な労作であることは間違いない。こういう学者、こういう本を教えてくれた『国語語源辞典』に感謝したい。


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模造碑はニューヨークの芸術博物館に陳列された

2024-09-24 01:45:12 | コラムと名言
◎模造碑はニューヨークの芸術博物館に陳列された

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その八回目(最後)。
 文中、【 】は原ルビ、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 私は明治四十二年〔1909〕の春に帰朝して、京都帝国大学に奉職することゝなり、同年の秋に同僚の上田〔敏〕教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小冊があった(42)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の関係した景教碑事件の顚末を書いてあるから、私にとって中々棄て難い。殊にこの書によって、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事実を確め得て、二年来の景教碑に関する疑団も始めて氷解した。
 このホルム氏はデネマルク人で、千八百八十一年にコペンハーゲンCopenhagenで生れた。父は外交官であつた関係もあろうが、彼は早く海外生活を営み、義和団の乱の直後に、支那や日本で新聞記者となった。日本では横浜の Japan Daily Advertiser に勤務して居ったという。千九百五年に欧洲に帰って、暫く倫敦〈ロンドン〉で記者生活を続けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買収するか、若くばその原碑を模造する計画を建てた。かくて彼は米国を経て支那に渡り、その年の五月二日に天津を発し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて金勝寺を訪い〈オトナイ〉、景教碑を親閲し、原碑の買収に尽力したが、到底成功覚束なし〈オボツカナシ〉と見て、更にその模造に取り掛った。彼は石匠を招いて、原碑と同大同質同量の模造碑の製作を請負わせた。石匠は西安の北九十支那里の富平県から、同質の石材を切り出して西安に運び、金勝寺の境内で、七月から九月にかけて、模造碑の製作に従事した。仕上った模造碑と原碑とは、一見しては区別つかぬ程の出来栄えであると、ホルム氏は自慢して居る。
 ホルム氏は十月三日にこの模造碑を西安から搬出する予定で、その前日の十月二日に、準備の為め金勝寺に出掛けると、境内が何時になく騒々しい。何事かと聞き質すと、この日意外にも、景教碑は官命で碑林に移転されることになり、碑石はすでに持ち出されて居ったという。景教碑の移転は、十月の二日から四日まで、前後三日間に跨ったと見える。私が渭北踏査の帰途に、亀趺の運搬されるのを目撃したのは、この最終日の出来事である。兎に角私とホルム氏とは、外国人にして、金勝寺に安置された景教碑の実見者として、最後のものであり、又碑林に移転された景教碑の実見者として、最初の人であらねばならぬ。同年の夏、私より一二月前に、フランスのシャヴァンヌChavannes教授や、ロシアのアレキシェーフAlexieff教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移転という大事件に遭遇し得なかった訳である(43)。
 ホルム氏は十月三日に、重量二噸【トン】の模造碑を特別製の馬車に載せて、金勝寺から鄭州へ送り出した。ホルム氏自身は三日後くれて、十月六日に西安を出発し、模造碑を追うて鄭州に向った。私はホルム氏より更に三日後くれて、十月九日に西安を出発して、同氏の後を鄭州に向った次第である。模造碑は鄭州から京漢鉄道で漢口まで運び去られたが、漢口の税関で差押へられた。ホルム氏自身北京に出掛け、総税務司のハートRobert Hart(=赫徳)氏に談判して、差押えを解除して貰い、漢口から上海へ、上海から米国に送り、千九百八年(明治四十一)六月から、この模造碑はニューヨークの芸術博物館Metropolitan Museum of Artに附託品として陳列された。ニューヨークに陳列されること満八年にして、千九百十六年(大正五)に、然るべき買手が出来、この模造碑を羅馬〈ローマ〉教皇ベネディクト十五世Benedict XVの手許に献送することになった(44)。ホルム氏自身この碑を護送して羅馬に往き、献上の手続を果した。かくて千九百十七年(大正六)以後、この模造碑はローマ教皇庁所属の博物館 Lateran Palace に安置されて居る。約三十年前から唱え出された、景教碑を英国博物館に移すべしといふ議論は、遂にその模造碑をローマの博物館に蔵するという結果を生んだ。
 この模造碑が紐育〈ニューヨーク〉の博物館に附託されて居る時から、ホルム氏は、その同大の石膏模型を、各国の大学や博物館へ、希望に応じて{実費で?}配附したが、今日までにその配附を受けた国は十三国に及ぶといふ。欧洲では英国・仏蘭西・独逸・以太利・西班牙・デネマルク・希臘〈ギリシャ〉・土耳古〈トルコ〉等があり、亜細亜では我が京都帝国大学と印度のカルカッタCalcuttaに在る博物館Indian Museumとである。この模型は台石に当る亀趺を欠くが、その他はすべて原碑を髣髴せしむるに足ると思う。
 序〈ツイデ〉に申添えるが、我が帝国大学所蔵のこの模型の外に、高野山の奧院〈オクノイン〉にも景教碑の模造碑がある。こは千九百十一年(明治四十四)九月二十一日に、愛蘭土【アイルランド】出身で仏教研究者である、ゴルドンGordon夫人の出資によって建設されたという(45)。多分景教碑文の撰者たる景浄は、曽て弘法大師の師匠の般若三蔵を助けて、密教の飜経に従事したという縁故から、この模造碑を我が国の密教の霊場たる高野山に建設したものと想う。但〈タダ〉この模造碑は、原碑と余り似寄って居らぬのが遺憾である。〈308~311ページ〉

(42) Holm; The Nestorian Monument.
(43) Holm; My Nestorian Adventure. p. 251.
(44) Holm; Ibid. pp. 319-320.
(45) 水原堯栄〈ギョウエイ〉『高野山金石図説』巻中、頁一七三以下。

*このブログの人気記事 2024・9・24(9位の隠語は久しぶり、8位に極めて珍しいものが)
  • 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある
  • 景教碑は、大秦寺の境内に埋められた
  • 桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む
  • 景教碑は、風雨の剥蝕に放任されていた
  • 支那の金石学者たちは碑の真物たるを疑わず
  • 碑のシリア文字は、エストランゲロという古体字
  • その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した
  • 行政法といふ名の下に憲法を教へてくれ(伊藤博文)
  • 隠語の分類あるいは隠語の作り方
  • 書中の迷信的記事には註解を施さなかった



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金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある

2024-09-23 01:51:55 | コラムと名言
◎金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その七回目。
 文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 私は明治四十年〔1907〕の秋に、宇野文学士――今の東京帝国大学教授文学博士宇野哲人〈ウノ・テツト〉君――と同伴で、洛関の游歴を試みることになり、歳の九月三日に北京を出発し、長駅短亭の間に半個月を過ごし、月の十九日に西安に入り、越えて七日、九月の二十六日に、金勝寺に出掛けて景教碑を実検した。
 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の処にある。寺は同治年間のマホメット教徒の乱に、兵燹〈ヘイセン〉に罹って、今は実に荒廃を極めて居る。併し境内は流石に広く、南北二町半、東西一町半の間、頽墻〈タイショウ〉断続という有様で、幾分往昔の面影を偲ばしめる。今の仏殿は兵燹後の再建で、見る影もないが、その後庭には、もと本殿の在った所と見え、廃磚残甓〈ハイフザンペキ〉累々たる間に、明の万暦十二年(西暦一五八四)に建てた、精巧な一架の石坊が遺って、祇園真境と題してある。その前面に明の成化・嘉靖頃の碑石三四方、何れも寺の由来を誌したものがある。石坊の後すなわち北方約半町ばかりに、隴畝〈ロウホ〉の間に五方の石碑が並立して居るが、東より第二番目がいわゆる景教碑である。その他は大抵乾隆以後の建立で、やはり寺の由来を誌したものが多い。景教碑には碑亭がない。自然人為の迫害に対して、全然無防禦である。この碑を世界無二の至宝と尊重し居る欧米人が、かゝる現状を見れば、碑の将来に就いて心を傷め、果ては之をその本国に移して保護を加えたいと騒ぐのも、強ち〈アナガチ〉無理でないと思われた。
 私は景教碑探望の翌々日に、咸陽〈カンヨウ〉・乾州〈ケンシュウ〉・醴泉〈レイセン〉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に帰着する時、西郭で十数の苦力〈クーリー〉が、一大亀趺〈キフ〉を城内に運び行くのに出遇った。帰途を急いだ故、別に問い質しもせず、その侭寓居に帰着した。所がその当夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千両に買収して、之をロンドンの博物館に売り込む計画に着手したのを、巡撫が聞き知って大いに驚き、俄に〈ニワカニ〉景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る厳重を加えたと聞いて、途中で目撃した亀趺は、その古さといい、その大きさといい、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思い当るまゝ、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事実で、景教碑は碑林中に据え付け最中であった。私は兎に角千年来の所在地であった、西安と景教碑との因縁のまだ銷尽〈ショウジン〉せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになった結着に満足して帰寓した。
 私は十月九日に西安を出発して帰途に就いたが、十月十二日の午後、敷水鎮附近で、道の彼方に特別製の大車を目撃した。趕車的【バシヤノギヨシヤ】に問い質すと、何でも洋人の偽造した石碑を、西安から鄭州まで運搬する所で、その運搬を引き受けたのが、彼の朋友であるという。私の脳裏に直に、西安の景教碑と関係ある様な疑惑が浮び上った。果して然りとせば、此の如き石碑をいつの間に模造したか、又その模造の石碑は、如何なる程度まで原碑に似寄って居るかと、種々好奇心が起ったけれども、生憎〈アイニク〉連日の降雨で、淤泥〈オデイ〉膝をも没し、その上運搬の石碑は蓆包堅固で、実物を験べることは到底困難の様に見受けたから、遺憾ながら割愛して前程を急ぎ、鄭州で宇野君と南北に袂〈タモト〉をわかち、私は十月の二十八日に北京に帰着した。
 その翌明治四十一年〔1908〕の一月に、在上海の宇野君から書状が来て、その中に『漢口日報』Hankou Daily Newsに拠ると、西安の景教碑買収に尽力した洋人というは、Danish Journalist と称するホルムFritz von Holm其人であると書き添えてあった。私達が西安旅行の途次、九月十四日に、閺【ブン】郷県の公館の大王廟に投宿した所が、廟主の曹永森という道士が、二片の名刺を見せた。一は日本陸軍歩兵少佐日野強〈ツトム〉とあった。即ち『伊犁〈イリ〉紀行』の著者である。一は大丹国文士何楽模とあった。この何楽模が、疑もなくホルム氏である。大丹国文士とは、Danish Journalist の訳、何楽模は即ち Holm の訳である。
 さるにしても私の西安旅行は、景教碑の買収若しくば模造の為、西安に出掛けたホルム氏と終始したので、往路では偶然その人の名片に接し、西安滞在中はその人との因縁深い景教碑の碑林移転という、この碑にとっては明末出土以来の大事件の実際を目撃し、帰途ではその人の模造碑の運搬されつゝあるのに邂逅し、今日は又そのホルム氏から寄贈された景教碑の模型の披露に、紹介の講演〔史学研究会講演「大秦景教流行中国碑に就きて」〕をいたすとは、実に不思議の因縁と申さねばならぬ。
 さてホルム氏の景教碑の買収及び模造に関する記事は、その後ち『上海タイムス』Shanghai Timesその他にも掲載されて、広く内外の注意を惹くに至ったが、これと同時に、在留外人の間に、碑林に移転された、景教碑の真偽に就いて、疑惑を挟む者が出来た。ホルム氏が態々〈ワザワザ〉欧州三界から出掛けて、幾多の金銭と労力とを費しながら、単なる模造碑Replicaのみに満足して帰る筈がない。黄白〔金銭〕に目のない支那官吏を買収するのは容易の業である。碑林に移されたのが Replica で、ホルム氏の持ち出したのが原碑に相違ないと主張する者が尠くない。
 かゝる風説の高まるに従い、支那官憲も大分心配し出した。漢口の税関にその差押えを命じたとか、調査の為に官吏を派遣したとか、蜚語紛々〈ヒゴフンプン〉という有様を呈した。支那の学者達も不安を感じたと見え、学部の陳毅君などは、態々私の寓居に駕〈ガ〉を枉げて、私の意見を徴された。幾多の在留日本人からも、同様の質問を受けた。されど私は之に対して、何等の決答を与え難い。実をいうと、西安旅行の当時、私は後日かゝる重大な問題が発生すべしとは予期せなかった。碑林に移転された景教碑は実見したけれど、かゝる疑問に答え得る程注意して検査せなかった。ホルム氏の持ち出した石碑には出遇ったけれど、その実物は親覩せなかった。口では碑林の原物たるべきを唱えつゝ、心ではその反対説を排するだけの、積極的確信を欠いて居った。〈302~307ページ〉【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・9・23(9位の椋鳩十は久しぶり、8・10位に極めて珍しいものが)
  • 景教碑は、風雨の剥蝕に放任されていた
  • 碑のシリア文字は、エストランゲロという古体字
  • 十字架の下に「大秦景教流行中國碑」とある
  • 桑原隲蔵「大秦景教流行中国碑に就いて」を読む
  • その古碑を見物すべく、沢山の人々が雲集した
  • 支那の金石学者たちは碑の真物たるを疑わず
  • 景教碑は、大秦寺の境内に埋められた
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景教碑は、風雨の剥蝕に放任されていた

2024-09-22 02:37:56 | コラムと名言
◎景教碑は、風雨の剥蝕に放任されていた

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その六回目。
 文中、【 】は原ルビ、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を経て、十九世紀の半過ぎまで、約二百余年の間に亘った、景教碑に関する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年来、かゝる懐疑的学者が殆ど跡を絶った。これと共に、景教碑の保護保存という問題が、次第に抬頭して来た。已に西暦千八百五十二年に、米国のサリスブリSalisbury教授は、「西安のネストル教碑の真偽について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によって欧洲に紹介されて以来、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た〈ミタ〉人がない。従ってこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確〈フタシカ〉である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と真贋とを検査せしむるに在る。このことの実行される迄は、景教碑の真贋に関する絶対的断案は下し難いと述べて居る(34)。
 サリスブリ教授の主張は、亜米利加〈アメリカ〉東洋協会の容るゝ所となった。千八百五十二年十月に、同協会は次の如き決議をした(35)。
  《所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその真偽に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以来、一個の欧人もこの碑を親覩〈シント〉せざる故、我が協会は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適当と信ずる方法によって、この古碑を調べ、その現状を詳〈ツマビラカ〉にし、新にその拓本をとり、之を学界に寄与せんことを熱望する。》
この決議書は在支那の米国各宣教師の手許に発送されたが、その実行は可なり困難であった。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以来、宣教師は支那内地に踏み入ることが出来なかったからである。然るに千八百六十年の北京条約によって、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、欧米人の内地旅行が、やゝ自由になってから、千八百六十六年に、英国のウイリアムソンWilliamsonとリースLeesの二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。当時の実況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兎も角も十数年前の亜米利加東洋協会の決議の主意は、この二英国人によって、始めて実行された訳である。
 明末に景教碑が発掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廃圮〈ハイキ〉した。咸豊〈カンポウ〉九年(西暦一八五九)に韓泰崋【クワ】という者が、訪碑の機会に、重ねて碑亭を建てゝこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の来観した時には、その碑亭が依然儼存して居ったという(36)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亘るマホメット教徒の大騒乱が起って、西安の金勝寺もこの時焼き払われたから、碑亭も恐らく同様の運命に罹ったものと想われる。兎に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理学者リヒトホーフェンRichthofenが、金勝寺の景教碑を来観した時には、已に碑亭の跡形もなくなって居った(37)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縦横の間に、風雨の剥蝕に放任するという有様で、尠からず心ある欧米人を憂慮せしめた。殊に英国では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォアBalfourやラクーペリLacouperieの如き学者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英国の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英国博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(38)。中にもスティヴンソンStevensonといふ支那在住の宣教師は、実地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手厳しい書を寄せて居る(39)。
  《世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の侭に、自然の破壊と人為の毀損とに対して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、実に十九世紀の大恥辱といわねばならぬ。吾人はわが当局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英国博物館に転交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる様尽力せんことを、衷心より希望する。若しこの計画が実行し難いならば、在北京の外交団諸君の尽力により、支那官憲に勧めて、責て〈セメテ〉は一の碑亭を建てゝ、この碑の保護を図る様にさせたい。今日に当りて何等か適当な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廃圮するに至るであろう。》
 多分この気運に刺戟されて、支那在住の英国人を中心として上海に組織された、皇立亜細亜協会支部China Branch of Royal Asiatic Societyでも景教碑保護を決議し、且つその具体的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュースHughesから、北京の外国公使団の主席の独逸〈ドイツ〉公使ブランドBrandt宛に、外交団の尽力によって、景教碑の保護を支那政府に勧告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは総理衙門にも、又慶親王以下の軍機処の王大臣にも、亜細亜協会支部の希望を伝達した(40)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになった。碑亭の建設費として銀百両支出されたというが、例の支那官場特有の中飽〔不正〕の為め、千八百九十一年に出来上った碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝〈アマザラシ〉の状態となった。ベルリンのフォルケForke教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかったというて居る(41)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往観した頃まで、依然同一の状態に在った。〈296~302ページ〉【以下、次回】


(34) Salisbury; On the Genuineness of the so-called Nestorian Monument of Singan Fu. p. 410 (Journal of the American Oriental Society. III).
(35) Journal of the A. O. S. III{1853}, p. 419.
(36) Williamson; Journey to the North China. Vol. I, p. 381.
(37) Richthofen; China.Bd. I, s. 553.
(38) Lacouperie; Beginnings of Writing in Central and Eastern Asia. pp. 84-85.
(39) Lacouperie; Ibid. p. 85.
(40) Journal of China B. of R. A. S. XXIV{1889-90} pp. 136-139
(41) Forke; Von Peking nach Chang-an und Lo-yang. s. 70 (Mittheilungen des Seminar für Orient. Sprachen. I).

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碑のシリア文字は、エストランゲロという古体字

2024-09-21 01:54:50 | コラムと名言
◎碑のシリア文字は、エストランゲロという古体字

 桑原隲蔵『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)から、「大秦景教流行中国碑に就いて」という論文を紹介している。本日は、その五回目。
 文中、{ }内は著者による補足、〈 〉内は引用者による読み、〔 〕内は引用者による補足である。

 されど比較的近代の支那の学者の中には、景教碑の偽作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、銭潤道の如きも、その一人で、
  《此碑宋人金石書未著録。…………似明人儀撰、託為明時出土。》
 というて居る。また『皇朝経世文編初続』中に収めてある、闕名氏の「天主邪教入中国攷」にも、
  《且偽造大秦景教流行碑………埋西安府城外、佯掘之。以證其教由来之久。》
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那学者の多数は、この碑の当時の真物たることを疑わぬ。ワイリ・レッグ二人の言う所も、先ず正当と認めてよい。
 しかし今日では、景教碑の真偽などは最早問題でない。この碑の真物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)この碑文の書体は、明かに唐時代のもので、明時代に偽作されたものでない。
(二)この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞観十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違えずに、その侭『唐会要』巻四十九に載せられて居る。明末のキリスト教関係の人々が、『唐会要』の記事によって、この碑を偽造したなどは、種々の事情から推して、到底想像することが出来ぬ。
(三)景教碑に長安の義寧坊に大秦寺を建てたとあるが、この大秦寺は唐の玄宗の開元中(西暦七一三年乃至七四一年)に、韋述の作った『両京新記』に、長安の義寧坊の波斯胡寺と記載されてある。ネストル教の寺院は、もと波斯寺と称せられたのを、玄宗の天宝四載(西暦七四五)の詔で、爾後、大秦寺と改称したのであるから、建中二年(西暦七八一)建立の景教碑にいう義寧坊の大秦寺とは、即ち『両京新記』の義寧坊の波斯胡寺なること申す迄もない。この事実は、景教碑の当時の真物たることを支持すべき一の證拠と思う。
(四)景教碑に玄宗即位の初年(西暦七一三)のネストル教の僧の及烈(Gabriel ?)の記事があるが、この及烈のことは、『冊府元亀』巻五百四十六にも記載されて居る。両者の記事の一致は、又この碑が後世の偽造にあらざる、一證拠に資することが出来る(28)。
(五)景教碑文を作った大秦寺の僧の景浄のことは、徳宗時代に撰述された『貞元新定釈教目録』巻十七に、彌尸訶教を唱えた景浄として記載されて居る。この事実も亦、景教碑が唐時代の真物であるべき一の證拠と認めねばならぬ(29)。
(六)この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロEstrangeloという、当時のネストル教徒の慣用した古体の文字で、明末支那に布教して居ったゼスイット派の宣教師達の大多数は、全くこの文字に関する智識をもたなかった。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を読むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかった。セメドがその後ち欧洲への帰途に、印度に立ち寄り、その地に滞在して居った博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知った程である。始めてこの碑のシリア文を訳出した人は、上述の羅馬のキルヘルスであるが、今日から見ると、その訳文には間違が尠くない。現代のシリア語専門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の欧洲の学者に、エストランゲロ体のシリア文を完全に訳し得た人は、殆どなかったであろうという(30)。されば当時支那に布教したゼスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を偽造し得る筈がない。
(七)この碑のシリア文に、唐の国都の長安のことを、クムドンKumd{a}n又はクムダンKumdanと記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名称であるが、何が故に長安を爾く〈シカク〉称したかの十分なる解釈は、未だ学界に発表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通称たる京城の音訳の転訛したものと確信して居る(31)。そは兎に角、明末支那に布教して居った人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の欧洲の学者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に対してクムダンの名称を使用して居る事実は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思う。
(八)敦煌地方から発掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讃』や『一神論』の如き、唐時代に漢訳された景教の経典が世間に現はれて来た(32)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事実を裏書し、併せて景教碑の真物たることを確保する。
(九)殊にその漢訳の景教の経典中に、景教碑に見える阿羅本や景浄のことを記載してあつて(33)、経典と碑文とよく一致することは、この碑の真物たることを、保證すべき鉄案と申さねばならぬ。〈293~296ページ〉【以下、次回】

(28) 拙稿「ネストル教の僧及烈に関する逸事」(大正四年〔1915〕十一月『藝文』所収)
(29) 高楠〔順次郎〕博士 〔The Nestorian Missionary Adam, Presbyter, Papas of China, Translating a Buddhist Sûtra. p. 590 (T'oung Pao〔通報〕. 1896).
(30) Lamy et Gueluy; Le Monument Chrétien de Sin-gan-fou. p. 83.
(31) Hirth; Nachworte zur Inschrift des Tonjukuk. s, 35-36 (Radloff; Die Alttürkischen Inschriften. II).
(32) 拙稿「隋唐時代に支那に来往した西域人に就いて」頁一四(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)
(33) 羽田〔亨〕博士「景教経典序聴迷詩所経に就いて」頁三(『内藤博士還暦祝賀支那学論叢』所収)

 註(28)の文献は、「大秦景教流行中国碑に就いて」と同じく、『東洋史説苑』(弘文堂書店、1927)に収録されているが、ここでは、なぜか、その旨の断りがない。

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