この前、損保マン時代の対アメリカ人の取引の思い出を書きました。その続編です。
その事だけに触発されたわけではなく、気がつけばそうだったという感じなのですが、私自身の中にもプチアメリカかぶれのところがあって、損保社内での営業成績は良かったものの、余計な飲み会などの人づきいには目もくれませんでしたので、上司からも「君はアメリカ人みたいにツンケンしてやりづらい」なんて言われました。
別の上司からは「仕事を出来るようになるには遊びがなきゃダメだよ。沢山遊ぶ中で人間関係が出来て、そこから仕事に発展するんだ」
バカなことを、と私は思いました。「遊ぶ」とは、この場合飲み会に参加するとかゴルフコンペにも出るとか、社内旅行にも進んで参加するとか、そういうことなのはわかっていましたが、だったらなおのことバカなことを、と思いました。
私は仕事をしに会社に行っているのであって、成績も常に上位を維持していました。つまり、会社に利益をもたらす社員であって、ことさら無駄な遊びなどせず、自分が決めた、しかも社内ルールに則り、上司の承認を得た方法を用いて、社外においても商法その他法令を遵守して営業活動をしていますので、昔ながらの宴会や接待重視のスタイルや、みんなで手を繋いでワイワイガヤガヤはこの際あまり必要なかったのです(これらが全く無意味で不要と言っているのではなく)。
私としては、アメリカ人とのやり取りは骨が折れることばかりで好きではなかったのですが、彼らは実益にしか興味がなく、しかもそれを得るための方策がいかにも狩猟民族的だった部分だけは確かに私の好むところではありました。彼らに情実など不要でした。必要なのは、何を与えたら何を得られるかという、大きくも小さくも、常にgive and takeの考え方でした。
学習塾の仕事を始めた頃から、私の中のどこかが発動して、この時の経験をよく思い出ました。そしてこの時同時に、私は私自身が教わった小中学校の先生達がほぼこれと同じことを言っていたことを思い出しました。中でも中学の時の副担任だった梅津先生の「勉強はな、一人でやるものなんだ。友だちと教え合い?勉強会? それは勉強ごっこであって本当の意味での勉強ではない」という言葉と、斎藤校長の「沈黙は金」という言葉はその時も今も、私がなにかを勉強したり子供たちに教えたりする時の基本になっています。
これは、塾において子供たちが実益を得る、つまり、彼らが具体的な成績アップを実現するために必要なことは、そこに至る過程で余計なものを極力省き、戦力(この場合は指導方法の全て)の逐次投入をせず、企業でいうところの経営資源を最大限に投入すること、決めたことから逃げようとする自分自身の弱さに言い訳や後追いの理屈をくっつけたりせず、少なくとも1年や2年はそれに邁進するということです。ここに情実は要りません。情実。これが発動されるきっかけには色々なもの、色々な意味があります。
以下、次回。