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勤続表彰とショック・ドクトリンの「飴と鞭」

2013年06月18日 14時43分57秒 | 職場人権レポートVol.2
  
 私の会社にも勤続表彰の制度があります。10年ないし20年の永年勤続者が皆の前で表彰されます。表彰されるのは社員だけでなく、契約社員などのバイトも対象になります。これまでも多くの人が朝礼で表彰され、表彰状と記念品が授与されてきました。この度、何とこの私が表彰される事になりました。ちょうど今年で10年勤続という事で、20年勤続の正社員の人と一緒に朝礼で表彰されました。
 私、俄かには信じられませんでした。ここに配属になってからまだ2年位しか経っていない私なんかよりも、もっと古い社員やバイトが幾らでもいるのに。それに、ここ数年は職場の労働条件を巡って、会社と争う事も多かったのに。しかし、配属先は今まで転々としつつも、雇用主はいずれも同じグループ会社なので、通算すれば私もちょうど今年で10年位になります。
 しかも、所詮はバイトなので、記念品と言ってもどうせ安物のタオルか何かだろうと思っていたのが、箱を開けてびっくり。ギフトのカタログだったのですから。贈答用の缶詰や酒や調度品や旅行券などが載ったカタログが箱の中に入っていました。いずれも注文は1回限りで、代金は会社持ちのようです。
 ギフトについては後で適当に選ぶとして、これを機に、これまでの今の会社の10年間のバイト遍歴をふり返ってみました。たかがバイトの人生でも、10年間もの歴史をふり返るとなると、そう簡単にはいきませんでした。予想外に手間取ってしまい、ようやく書き上げる事が出来ました。

 今の会社に就職したのは2003年5月28日です。当時は、それまで20年近く勤めた生協を2001年に辞めた後、特定求人(国が失業対策の一環として民間に業務委託して行っている半年~1年契約の仕事)も契約満了となり、次の新たな就職先を探している時でした。そこで今のグループ会社に採用となり、大阪市内某所の大手食品メーカーの物流センターに勤める事になりました。そこはマイナス25℃の冷凍倉庫で、そこに朝8時から午前中はバーコードで読み取り検品とフォークリフトでの格納、午後からは小口品の棚への補充の後、任意でピック(商品仕分け)作業の応援という一日でした。時給900円で当時は社会保険も交通費もなし。週2日の休みは交代で取得。
 マイナス25℃の寒さは半端ではありませんでした。厚手の防寒服に軍手も二重に装着して、それでも1時間おきに外に5分ほど出なければ身体が持ちませんでした。身体は冷え込み、手指もかじかんで大変でした。真夏でも、30分位は外にいても全然暑く感じませんでした。何かサウナにでも入っているような感じで、身体がポカポカして暖かかった。しかし、その後どっと疲れが出てくる。
 それでも結構楽しい職場でした。業務終了後にバイト同士でカラオケに行ったりもしました。人間関係も今までのバイトの中で一番良かったのではないかな。取扱い品目の主力がアイスクリーム関連だったので、夏はメチャクチャ忙しく、冬は逆にメチャメチャ暇。冬は、急な用事等で早く帰りたい人は、昼休みカットで13時まで働いて退勤。そうやって残りのメンバーの仕事を確保したりしてました。私は交通費も要るので大抵居残りのメンバーでしたが、早上がりのバイトと混同されて、計算ミスで給与が異常に低かった月もあった。そんな事があってから、毎月自分でも出退勤時刻をメモして給与の試算を始めるようになりました。翌04年1月には業務請負契約打ち切りでそこの仕事はなくなり、会社の方から従業員に次の配属先について打診がありました。
 インターネットもその少し前からやり始めていて、もうその頃には、今のこのブログの前身となるサイト・掲示板も運営していました。バイトの10年はネットの10年でもあったのです。当時は北朝鮮拉致問題やイラク戦争で世論が沸騰していて、掲示板にもそれに関する投稿が多く登場します。職場関連の投稿はまだ殆どありません。

 私の住んでいる近隣の市にあった大手ハンバーガーチェーンの物流センターが、私の次の配属先でした。そこに2004年2月9日から約4年間勤務しました。基本13時から大体5~6時間労働で、うち月4日位はフライオイルのバン出し(コンテナからの積み下ろし作業)で朝9時から勤務。短時間勤務なのでその分週休は1日だけ。時給900円の交通費なしは変わらず。但し、途中で別の業務も請負う事になり、勤務時間は大幅に増えて週休も2日に。社会保険もその頃から加入する事に。
 そこでは、これが大手のする事かと思う位、必要経費を切り詰めていました。物流センターとは名ばかりのボロ倉庫でした。元々、ただの貯蔵庫だった所を一部冷凍・冷蔵庫に改造して建て増ししただけのL字型の倉庫で、Lの底辺で荷受けした商品を、フォークリフトで縦の辺の部分に当る冷凍・冷蔵庫に格納していたのです。だから曲がり角の所でしょっちゅう渋滞していた。仕分け作業も、フォークリフトが後ろを行き交う通路の隅でやっていました。今から考えると、それでよく事故が起きなかったものだと思います。しかも手狭で、冷凍・冷蔵庫からあふれ出た分の仕分けは、真夏でも常温の倉庫でやっていました。仕分け時間そのものは約1時間位でしたが、よく食中毒を起こさなかったものだと思います。使用していたカゴ車も、今から思えばボロボロの不良品ばかりでしたが、当時はまだ「ここはこんな物だ」と諦めていました。その代り、倉庫の手狭さについては会社の社員によく愚痴っていた記憶があります。
 勿論悪い事ばかりではありません。所長が途中で交代し、前半の所長は今の所と同じ事なかれ主義のいい加減な男でしたが、後半は新任まもない所長で不手際も色々ありましたが、よく頑張ってくれました。社員もみんなの面倒をよく見てくれたし。品質管理は前述のようにムチャクチャでしたが、これはハンバーガーチェーンの体質によるもので、下請けではどうする事も出来ません。
 但し、そこも最初のマイナス25℃の冷凍倉庫と同様に、突然契約打ち切りで仕事がなくなり、次の仕事を紹介される事になります。事業所も閉鎖され、今はもうそこは更地になっていると聞きます。
 掲示板にもその頃から職場の愚痴がちらほら出てきます。その掲示板も、この時期の途中の2006年に、今のブログに切り替わります。当時は、小泉政権から第1次安倍政権に代わり、安倍首相が途中で政権を投げ出してしまった頃です。格差社会の問題が徐々に注目され出した頃で、「ワーキングプア」「蟹工船」「派遣村」などが流行語になっていました。

 3番目の配属先は、大阪市内の埋立地にある大手スーパーの物流センターです。そこには2008年3月4日から1年余り勤務しました。そこも今から考えれば結構古い倉庫でしたが、前のボロ倉庫よりは遥かにマシで、「さすが大手のスーパーだ」と逆に感動したのを覚えています。始業時間は一気に早くなり午前7時から。不便な所にある職場で、普通なら7時から出勤なぞ到底無理な場所でしたが、私の住んでいる市までわざわざ送迎用のマイクロバスが来るという事で、私の市の近隣から来ているパイト・パートも結構いました。しかし、そのマイクロバスも後半にはコスト削減で運行休止に。
 早朝出勤以外には特に職場に不満はありませんでしたが、唯一の例外が例の「森事件」。そこに出向に来ている派遣社員の森(仮名)という奴に、私が「殺すぞ」と言われていきなり羽交い絞めにされた事件です。ブログにも特別にカテゴリーを設けて記事にしました。自分は派遣だがずっと古くからそこで働いていたベテランなのに、新人の私に「タメ口」訊かれたのが癪に触ったとかで。私は別にぞんざいな態度でもなく「ごく普通に」接していただけだったのに。その森は暴行事件の後会社に来なくなりましたが、私は会社に抗議して、派遣会社の担当者に謝罪に来させました。
 その後、東京・秋葉原やマツダ広島工場でも派遣社員による無差別殺傷事件があり、同じ様な事が他でも起こっている事を知ります。同じ非正規労働者でも、会社に直接雇用されている請負の契約社員と社外の派遣社員の間にも差別があり、それに対する派遣社員の不満が会社には直接向かわず、同じ非正規の他のバイトに向けられる。企業はそうやって、同じ底辺の労働者同士をいがみ合わせて職場を支配する。そういうヒエラルキー(階層差別)の構造も徐々に見えてきました。
  

 4番目の配属先は、その大手スーパー物流センターの統廃合に伴い出来た新設の物流センターです。そこに2009年10月頃から11年2月20日まで勤務する事になります。そこで初めて「ショック・ドクトリン」に遭遇する事になります。
 「ショック・ドクトリン」と言うのは、震災復興やオリンピック開催を口実に再開発が強行されたり、オウムや911のテロを口実に監視社会化や言論統制が強められたりして、時の政権が災害・事故や犯罪対策を口実に国民を統制しようとする手法の事ですが、これは何も政治だけに限った事ではありません。企業も、事業所の統廃合やシステム変更を機に、労働者に対する統制を強めようとします。そもそも、事業所の統廃合やシステム変更自体が、企業の金儲けの為に行われるのですから、それに託けてリストラに乗り出して来るのは充分あり得る話です。
 その大手スーパーも、うちの様な下請けの請負会社同士を競わせて、一番コストの安い会社に業務を請け負わせようとして来ました。それに対してうちの会社は、仕事を切られまいと、非正規のバイトにそのしわ寄せをして来たのです。システム変更に伴うハンディ検品の導入や、今まで業者がやっていた牛乳の仕分けも我々がしなければならなくなったりと、仕事量が倍以上になったのに、時給は900円から880円に引き下げられました。仕出し弁当も、1食350円から400円に値上げされたのに、飯はメチャクチャ不味くなり、弁当持参やコンビニ弁当に切り替える人が激増しました。
 その挙句に、必要備品のドーリー(台車)も発注されなくなり、ドーリー不足の為に、カゴ車からドーリーに重い商品を積み替えなければならなくなりました。うちの会社は奴隷根性丸出しで、備品の手配もまともにスーパーに要請せず、そのしわ寄せを全てバイトに押し付けて来ました。それで私はとうとう怒って、そこにはバイトの組合もありませんでしたが、個人加盟の地域労組に加盟して、ドーリー発注を会社に要求したのです。それを職場新聞(実際はブログ記事のコピーだが)に書いて送迎バスの待ち時間に停留所で配布したりもしました。
    
 その上、2011年度からは契約時間数も減らされるに及んで、もう今の部署ではやっていけないと、契約更新面談の際に異動希望を申し出ました。それまでも手取り額では月15万円を切っていたのに、これ以上減らされたらバイトしている意味がない。それも実際に仕事がないならまだ諦めもつくが、仕事は依然として山ほどあるのに、大手スーパーからの業務委託料(人件費)削減のせいで、無理やり勤務時間も収入も減らされ、逆に仕事は余計にきつくなるわでは、もうアホらしくてやってられるか。

 という事で、5番目の配属先として、別の大手スーパーの物流センターに2011年2月21日から勤務する事になります。それが今の勤務先です。ここではもう鳴りを潜めて大人しくしておこうと思っていましたが、昨年7月の退勤まぎわに、まともな説明もなく有無を言わさず残業させられたのに頭にきて、サービス残業是正や労働条件の改善要求を他のバイトに呼びかけようとしたら、それが会社側に発覚して顛末書を書かされる破目に。そういう「すったもんだ」を経て今に至っています。
 世の中は、自民党から民主党に政権交代するも、その後も自民党政権とさして変わらず、次第に幻滅が広がっていった末に、5番目の配属先に異動して間もなく、東日本大震災と福島原発事故が起こり、反原発運動が広がったものの、世の中を変える事が出来ないまま、また元の自民党政権に逆戻り、という時代の流れの中での職場の動きでした。
 そして、今の職場でもシステム変更に伴う改修工事が進められています。この7月10日位からは作業内容がガラッと切り替わります。今の所はまだ、以前の「ショック・ドクトリン」で経験したような賃金・労働条件切下げの動きはありませんが、システム変更自身がコスト削減を目的にしている以上、その可能性は充分考えられます。せっかく10年勤続表彰して貰っておいて、こんな事を言うのも何ですが、退職金やボーナスの代わりで済ます事が出来るなら安い物です。そんな金があるなら、「軍手を支給してくれ、床の傾斜も早く直してくれ」「この前のバイト同士による労災絡みのトラブルも、元はと言えば会社側の安全管理の手落ちが原因なのに、知らん顔するような無責任な態度を取るな」と言いたいです。
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