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今初めて明かす、いずみ生協問題

2007年06月06日 08時12分53秒 | 当ブログと私の生い立ち
 

 このブログを運営している私が元生協職員だった事は、今までも折に触れて書いてきました。ただ、実際にどういう生協人生を歩んできたのか、という事については、今まで殆ど触れてきませんでした。今回はこの事についても、かつての生協人生のケジメをつけ、拙ブログの原点である「反戦・平和・人権・反リストラ」を問い直す意味でも、改めて触れてみたいと思います。

 実を言うと、何故今回この記事を書く気になったかというと、ある別の掲示板で、ひょんな事で生協関係の雑誌の話題が出た時に、「そう言えば社会主義者さん(注:私の当時のHN)も、以前生協に勤められていたのですねえ」という話から始まって、「生協労働の理念と実際」の話題になって、それを機に、改めて自分の経験を総括してみる気になったからです。何故今頃わざわざこんな前職の話をする気になったのか、訝しがる向きも当然あると思いますので、以上念の為に。

 私がよく自分の投稿の中で引合いに出していた「北朝鮮・スターリン生協」というのは、何を隠そう、1997年に経営私物化問題で揺れた「大阪いずみ市民生協」の事なのです。97年当時は私はまだ同生協の職員でした。但し、本部の経営幹部ではありませんでしたので、経営内部の事までは与り知りませんでしたが。それでも、同生協のヒラ職員として、当時の仲間があの事件をどう受け止めていたのか、という事は、きちんと発言しておかなければならない、とはずっと思っていました。「生協経営者論」の影響下にあった事への反省も含めて。それが、他に書く事が一杯あったので、今までついつい書きそびれてしまっていたのです。

 97年のいずみの経営私物化問題というのは、当時の理事会トップ(創立以来のワンマン経営者である名嘉清氏がその人で、長らく専務理事を歴任し、問題発覚当時の肩書きは副理事長だった)が、経営を私物化しているとして、他の幹部職員(内田・坂田・梅渓の3氏で、いずれも本部の役員室長や総務部次長などの要職に就いていた)から内部告発された問題です。当時の読売新聞や週刊実話(関西版)でも、「御殿のような狭山研修寮」「ハワイのコンドミニアム」「ゴルフ会員権」「浪費の海外交流」「副理事長のセクハラ疑惑」などが話題となり(まるで今の石原や松岡みたいw)、生協内部(いずみ生協・生協労組・日本生協連・生協労連)や周辺民主団体(共産党・民法協など)を巻き込んでの騒動となり、2chでも専用スレッドが立って話題になりました。今でもこの話題は2chの一部でくすぶり続けています。

 この私物化問題ですが、今の私に言わせれば、「告発された経営者も、告発した幹部職員も、どっちもどっち」でしかありませんでした。表向き言われているような「正義の告発」とは、ちょっと違うのでは、と思っています。その後、当時の経営者トップだけの辞任と引き換えに、両者は和解します。告発した幹部職員は生協に目出度く復職しましたが、その事についての納得いく説明も、今に至るまで職員には全然きちんと為されていません。「これ以上混乱の輪を広げない為に、聊か不本意ではあるが和解する事にした」という、「新」経営陣(理事会)による通り一遍の通達があっただけです。そして、その後に来たのが、派遣原則自由化・労働規制緩和の波に乗った大リストラです。「北朝鮮・スターリン生協」の本質も何ら変わらず、職員は訳も分らないまま、いきなり組合員やパートとの矢面に立たされ翻弄され続けた挙句に、徒に幹部間の軋轢の踏み台にされただけでした。

 この大阪いずみ市民生協の事件は、現在はもう基本的に終息しています。経営私物化を告発されたワンマン創立者は事件を機に生協を去りました。内部告発者の懲戒解雇取消し・仮処分申立についても、既に大阪地裁堺支部で原告勝訴の判決が出て、全員復職を遂げています。内部告発者の支援組織も解散し、関連のサイトも既に大半が店じまいしてしまっています。今は2chの一部と下記のいずみ生協管理職労組のHPなどで議論が継続しているだけです。
 
 内部告発の理由として挙げられた前述の問題点、例えば名嘉清氏の私邸と目された大阪狭山市の研修寮やハワイのコンドミニアム、西宮市にある生協提携医療施設の私物化疑惑、豪華接待として槍玉に挙がったゴルフ会員権取得、己の個人的好みの押し付けと陰では悪評散々だったロシア・イスラエル生協との海外交流とか、これもどこまで本当か、私には分りません。ただ、全く事実無根だとも思えません。事実、そういう話は、職場の先輩からも、大なり小なり聞かされていましたから。

 いずみ市民生協というのは、1974年の第1次オイルショックの時に、大阪府立大学や近畿大学の大学生協(いずれも民青の拠点)が中心になって出来た地域生協です。当時の大阪で地域生協と言えば、千里山生協や泉北生協(前者は関西大学、後者は大阪市立大学の、それぞれの大学生協が母体で、これらの大学は新左翼の拠点だった)しかなく、それらの生協が細々と活動しているだけでした。
 それが、70年代前半の革新勢力高揚の時代に、オイルショックによる買占め・売り惜しみに対する消費者の怒りを背景に、当時開発が進み始めた南大阪の地で活動し始めたいずみ生協は、年々規模を急速に拡大し続け、早くも80年代後半には全国の地域生協の中でもベストテンにランクインするぐらいの規模にまで到達していました。

 生協創立者の名嘉清氏は、創立当時は大阪労組生協(総評系?)の役員で、しかも生協労連の中央執行委員でもありました。そういう、どちらかというと労組畑の経歴の持ち主であったのが、時代の要請に応えて地域生協の創立に携わる事になり、いずみを10余年で巨大生協にまでしたのです。人間のキャラとしても、短髪トラ狩りで精悍な、結構アクも押しも強い、そういう人でした。話上手でもあり、専務の講演は面白いというので、職員の間でも結構人気がありました。
 その陰には当然、職員の犠牲がありました。創立当時は朝8時から深夜の1時・2時まで仕事が続いたそうです。当然それに対する職員の抵抗もありましたが、それをある時は宥めすかし、ある時は脅しつけて、職員を引っ張っていきました。良い意味でも悪い意味でも、ワンマンである事は間違いありませんでした。

 私がいずみ生協に就職したのは198×年ですが、当時は仕事はハードでしたが、まだどこか牧歌的な職場の雰囲気が残っていました。支所長や主任・グループ長は、管理職であると同時に共産党員や労組の役員でもあったのですが、あんまり現場と違和感はありませんでした。昔はキラパジュン(アジェンデ政権時代のチリのフォルクローレ・グループ)の公演に生協組織挙げて取り組んだりしたと聞いています。また、その頃は5月1日のメーデーは休日で、労組員はほぼ全員全労連系のメーデーに参加していたという事も聞いています。いずれも、今のいずみ生協からすると考えられない事です。そりゃあ中には人間的にどうしようもないスターリン官僚然とした人物もいましたが、そういう人は上からも下からも嫌われていました。

 その牧歌的な雰囲気が徐々に変化してきたのは、80年代半ばぐらいだったような気がします。当時既に南大阪全世帯の1割を組織していたのですが(組合員数約6万)、「1割の壁」を突破して3割に組織率を上げるのだ、という事が言われました。その後は80年代を通して95年ぐらいまで急速成長が続きました(そして今や年間供給高500億円、組合員数30万人の水準に到達)。古参活動家然とした職員は段々いなくなり、政治的にはノンポリでエリート然としたタイプがどんどん入協してきて、そういう人が幹部になっていきました。それにつれて牧歌的な雰囲気も徐々に消えうせ、過酷な労働実態だけが昔と変わらないまま後に残されました。職場の雰囲気も悪くなり、中にはタイムカードをコピーして労基署に告発する者まで現われました。役員も、外部から来た人が段々増えてきました。

 その一方で、いずみ生協は日本生協連(日生協)内部の「左派」生協として、原水禁世界大会や国民・市民平和大行進(毎年夏に行われる広島・長崎への労組・市民団体のパレード)にも積極的に取り組んできました。日生協中央が、平和運動を政府が許容する範囲内のものに抑えようとする中で、いずみ生協の平和活動は異彩を放ち続けました。
 経営政策についても、日生協中央やコープこうべ(旧・灘神戸生協)などが主導する「生協のスーパー化」、生協店舗大規模化構想には異を唱え続け、それに変わる一種の「左派枢軸」を志向していたような所がありました。

 1997年の内部告発の時も、いずみ生協労組や大部分の職員が内部告発に同調しなかったのも、内部告発に至る経過の不透明さ(通常総代会直前に総代・生協関係者・周辺民主団体に匿名怪文書送付で内部告発を行い、オマケにその文書の中で総代選挙のやり直し・自派の総代候補選出を呼びかけ)や、生協理事会側からの働きかけ(洗脳)も然る事ながら、いずみ生協のそういう「左派」的伝統に対する日生協側からの「右」からの攻撃に対する反発も、職員内部で一定共有されていた事があったからなのです。事実、この内部告発については、生協労連が労組としての立場から全面支援に入ったのは当然としても(それを契機に管理職労組も出来たのですが、本体のいずみ生協労組は上部団体の生協労連との間で微妙な立場に立たされる事になった)、日生協中央に連なる「右派?」生協の理事会(その中にはいずみ生協と同様に不当労働行為を行っていた生協もある)が、揃いも揃って「いずみ生協糾弾」の声を挙げた事については、「何か裏があるのではないか」という懸念は拭えませんでした。

 同様の懸念は、内部告発者の一派が中心になって作った管理職労組についても言えます。この内部告発事件は、一面では公益通報(内部告発)の正当性を認めた判決を引き出す契機ともなった事件ですが、当の管理職労組に対しては、その理念とは相容れないような非民主的な掲示板運営を指摘されたりもしています(詳しくは生協人さんのブログを参照の事)。

 では内部告発は完全なでっち上げで、いずみ生協の方に全て理があったのかというと、これも違うのではないかと思います。いずみ生協の「左派的つっぱり」も、ワンマン創立者による強権的な職場支配や残業代不払いなどの不当労働行為を伴ったもので、その犠牲の上に成り立ったものでした。所詮は日生協中央の「右派」的指導に反感を抱くワンマン「左派」独裁者による運動でしたので、その「左派」的姿勢が共感を得ているうちは一定の大衆的基盤を有していましたが、ワンマン経営自体が次第に「右派」的姿勢を強めていくに従って、僅かに残っていた共感もやがて消えうせ、実際は強権支配だけが残るようになっていったのではなかったのか。そして、職員支配の時だけ「運動」やら「平和・反戦・環境」やらのお題目を唱え、職員を黙らせてきたのではなかったのか。

 その結果はどうなったか。内部告発者は権力闘争に打ち勝ち職場復帰を果たし、職員には「不本意だが和解に応じる事にした」との通り一遍の通達だけでお茶を濁しただけで、いきなり組合員やパートの矢面に立たせた事への理事会側の謝罪も一切ありませんでした。そして、両者の和解・問題終息の後にやってきたのが、1998年からの小泉構造改革の新自由主義政策・労働規制緩和の波に乗っかった大リストラでした。今や現場の生協業務の大半は、正規職員ではなくアウトソーシング(外部委託)のパート・バイト・契約社員によって担われるようになりました。
 その中で、本来ならばこんな時こそ人民の相談相手となるべき共産党は、殆ど何も機能しませんでした。内部告発者の支援をするでもなく、かといって職員労組の側に立つでもなく、洞ヶ峠を決め込んだ挙句に、ワンマン創立者と内部告発した幹部職員の両方を党から除名するという、喧嘩両成敗に逃げ込んだだけでした。

 要するに、私にとってはこの事件は、「内部告発した方もされた方も、同等に茶番だった」というだけにしか過ぎない事件でした。この事件から私が学んだ事は、資本の論理に安直に身を委ね時流に阿るだけの「右」転落でも、「左」の言う事には何でも付き従う盲従でもなく、自分の頭でモノを考える事の重要性です。これが拙ブログの原点でもあります。


(参考記事)

・巨大生協で腐敗疑惑--いずみ市民生協の場合(アサート)
 http://www.assert.jp/data/1997/24003.htm
・大阪地裁堺支部いずみ生協事件判決について(公益通報支援センター)
 http://www006.upp.so-net.ne.jp/pisa/hanketsu030618.html
・大阪いずみ市民生協HP
 http://www.izumi.coop/
・生協管理職労組いずみ
 http://www2.odn.ne.jp/~ckm79630/
・生協管理職労組いずみの掲示板は民主主義違反(生協人さんのブログ)
 http://blog.goo.ne.jp/seikyoujin/
・共産党パンフ「生協運動 その原点と今日」(白井純一郎のお宝文書館)
 http://members.ld.infoseek.co.jp/kukchung/otakara/coopmovement.htm
・日本の生協運動の現状と今後(野村秀和)
 http://ha1.seikyou.ne.jp/home/kki/sinpo/simane/part1/japakyo.html
・「21世紀生協労働者への提言」 への問題提起(榑松佐一)
 http://ha1.seikyou.ne.jp/home/kki/kanau/kanau55/552kure.html
・「民主経営」論について―有田氏の諸論を中心に(試論)(田口朝光)
 http://www.geocities.jp/k_irouren/rouso/minsyukeieiron.pdf
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2 コメント

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世間的には評判落ちて当然 (わかもの社(国忠崇史))
2007-06-19 01:22:07
「白井純一郎のお宝文書館」にリンクいただき有難うございます。白井氏は旧・都民生協勤務で、友人の私も労協(日本労協連)に関しては告発者となりましたので、社会主義者さんの話が百二倍ぐらい(?)わかる立場であると思います。
ただ、四トロがレイプ事件で四分五裂したように、私物化事件を契機に「生協左派」的理念自体の価値がダメージを受けるのは世間的には当たり前のことです。高邁な理念が一方にあり、他方で低レベルな地点に下半身問題があり金銭問題があるわけではないのです。これは我々左派全体が戒めとしなければなりません。
「社会主義は生成期なのだから、多少の歪みは当然」なんて受け止めができたのは、1989年までのオメデタイ一部の人々だけであって、いずみ生協幹部の行動が反戦平和運動の価値自体に泥を塗ったことはあくまで断罪しなければなりません。
私は労協連幹部告発にあたって、全く「正義」などと思いませんでしたから、梅渓さん達とは違うスタンスでした。正義を言う人に限って、その人による「支配」が圧制になりがちなのはロベスピエール以来の伝統です。だから社会主義者さんの言う「茶番」論も理解できないでもないのですが、あくまで「生協理念からの逸脱はどっちだったか」が、左翼としても人民としても重要な事です。その場合は一組合員・職員としての「実感」は棚上げしなくてはいけません。
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言葉がどこまで通用したか? (修正資本主義者)
2007-06-06 10:31:10
私も某5単協の一つに80年代に勤務した経験がありまして社会主義者さんの話が普通のこのブログを閲覧している人よりは百倍ぐらい(当社比)わかる立場であると思いますが、それでも社会主義者さんのこの(既に何度も言及されているにもかかわらず)いずみ市民関連の話題はよくわからない。またそれが地域社会や日本の国政、国民生活にどう悪影響だったのか、説明が尽くされているとも思えない。そのわりに安倍政権の今現在の国民生活に直結している諸問題なんかと同列かそれ以上の熱を入れた筆致らしい。その人間配置が一体どうしたんですか? ご自身での反芻がまだこなれてないのではないか?
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