アフガン・イラク・北朝鮮と日本

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「石原的なモノ」をどう打ち破っていくか

2007年04月07日 11時09分13秒 | 反石原・’07東京都知事選
 昨年12月に、政府税調会長の本間正明が、「官舎売却」を主張しておきながら、自分の愛人をその官舎に住まわせていた事が発覚して、会長辞任に追い込まれるという事件がありました。庶民には日頃から「官から民へ」とか「痛みに耐えろ」とか言いながら、当の自分は官の甘い汁を吸って良い目を見ていた事が発覚して、世論から指弾を浴びたという事件ですが、このTVニュースを職場の休憩室で見ていた時に、一人のドライバーがこんな事をつぶやいていました。「愛人を官舎に囲わなかったら良かったのに」と。
 私はこれを横で聞いて「あれっ?」と思いました。普通なら、この本間やそれを庇う安倍内閣の、鼻持ちならない特権意識や、身内偏重、二枚舌に対して憤りを覚える筈なのに、このドライバーはそうならずに、寧ろ本間に対して同情的で、「出来れば自分もこんな風にして愛人を囲ってみたい」という感じでした。

 翻って4月8日投票の東京都知事選ですが、マスコミの情勢予測によると、石原の逃げ切り勝ちの気配が濃厚との事。選挙は水物なので私は最後まで石原打倒の希望は捨てませんが、恰も「憎まれっ子世に憚る」かの如く、「何でこんなに石原はしぶといのだろうか」と考えた時に頭に思い浮かんできたのが、この時の情景でした。
 石原慎太郎の強さというのは、これはまた小泉政権の強さにも相通じる側面があるのでしょうが、庶民の中にある支配欲・出世欲・英雄願望や、「他者を押しのけても自分が良い目をしたい」という、ある種のドロドロとした本音みたいなものを代弁している所にあるのではないでしょうか。

 「ババア」「三国人」「障害者に人格はあるのか?」「虐められるような弱い奴が悪い」等々のヘイトスピーチに示された石原の特異な差別思想の背景には、そういう庶民の本音に悪乗りした部分が確実にあります。私は、当初は石原の弱肉強食肯定の差別思想に頭にきて、しかもそのトンデモぶりがあんまりなので、「こんな奴の化けの皮など剥がすのは簡単だ」と思っていました。しかしその後色々調べていくうちに、前述の石原支配の強さ・巧みさも段々分かってきて、今はもう「この支配を突き崩すのはそんなに容易ではないぞ」と思い始めています。

 石原新太郎の書いた小説には、自由奔放な快男児が出世して女性をモノにするといったシチュエーションがよく出てくると言われます。そこにあるのはある種のマッチョリズムで、石原が戸塚ヨットスクールの校長を擁護するのもそういう所から来ているのでしょうが、それが案外すんなりと受け入れられる土壌は確かにあるような気がします。石原がキャリア・ウーマン(奥谷禮子の様なネオリベ女性)に意外と受けが良いのも、彼女らが肯定する「世の中は成り上がった者が勝ちよ、それを弱肉強食だ何だと批判しているのは負け犬よ」という考えが世間にも受け入れられているからではないでしょうか。

 それに加えて、何だかんだ言っても、東京が「勝ち組」都市である事も石原に有利に作用しているのではないでしょうか。経済グローバリゼーションの下では、経済の一極集中は進み、都市と地方の格差が広がります。謂わば、先進国と第三世界との間に見られるような経済格差が、国内においても見られるのです。ハリケーン・カトリーナに被災した米国ニューオーリンズとニューヨークの間に見られるような格差が。東京で言えば、ヒルズ族とホームレスやネットカフェ難民との間に典型的に見られる形で。

 勿論、東京に住んでいるのは「勝ち組」ばかりではありません。以前のテレビ番組で、六本木ヒルズ族が億ションでホームパーティーに耽っているその同じ港区内で、一人暮らしの高齢者が年間数万円の年金だけを頼りにどうにか生きながらえている姿を映し出していました。しかし、東京都全体で言えば前者の「勝ち組」が全都民の62%を占めるのです(「反石原・都政革新の戦いは第二ラウンドへ」参照)。その62%が石原(ひいては小泉・安倍)支配の根幹を為し、「負け組」の中からも彼らに同調する事で日頃の鬱憤晴らしをする人たちが現れます。それ以外の残り20~30%の「負け組」は、「物言わぬ民」として、今の保守二大政党制の下では完全に疎外・排除されているのです。小泉政権が先の郵政民営化選挙でキャンペーンを張った時に、そういう「負け組」についてはA・B・C層のどれにも含めず、完全に視野の埒外に置いた様に。

 この石原支配の政治構造をどう打ち破っていけば良いか。「ただ何となく、気分だけの反石原」の立場で、石原のあれこれの差別発言を面白おかしく茶化しているだけでは不十分なのは間違いないでしょう。ではどうすれば良いか。簡単に結論が出る様な問題ではありませんが、若しその手がかりがあるとするならば、「如何に自分の問題として捉えられるか」という所に、そのヒントがあるかも知れません。

 石原の例で言えば、石原を支持する人は、自分を石原の側に置いているのです。ヒルズ族やネオリベ女性にとっては、年金でどうにか生きながらえている独居老人や、ワーキングプアや生活保護世帯や、ホームレスやネットカフェ難民や、ババアや三国人などと言った人たちは、全て自分とは関わりの無い、下手すれば自分の今の豊かな生活を脅かしかねない、「得体の知れない、向こう側の人たち」なのです。だから、平気でこれらの人たちにバッシングを加え、石原を支持する事が出来るのです。
 今までのバッシングが全てそうでした。イラクの日本人人質、拉致被害者家族会、公務員、労組、高齢者、農民、地方住民・・・これらの「抵抗勢力」は、全て自分とは関わりの無い、「得体の知れない、向こう側の人たち」なのだと。

 しかし、その中でも例外があります。JR福知山線事故の被害者やホワイトカラー・エグゼンプション(WE)に反対する声に対しては、不思議とバッシングは起こっていません。ひょっとしたらバッシングされているのかも知れませんが、少なくともイラク人質や抵抗勢力に対する様な露骨なバッシングは起こっていない筈です。それは何故か。通勤災害もサービス残業も、ともに身近にあって、直ぐに自分の生活に跳ね返ってくる事柄だからです。
 或いは、かつての売上税・消費税反対闘争の中で、参院選の与党過半数割れを生み出し、「山が動いた」と形容されるような政治変化が生まれた例も挙げられるのではないでしょうか。たとえ数円・数十円でも、誰しも自分の財布の中からお金を吸い取られるのは嫌です。そういう身近で、自分の生活に直接関係する場合は、「あちら側」ではなく「こちら側」の話として、政治が捉えられるのです。
 如何に、「こちら側」の、自分の身に迫った問題として捉えられるか。「石原的なモノ」をどう打ち破っていくかという事のヒントも、そこに隠されている様な気がします。
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