たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

1年間お疲れさまでした

2013年12月31日 22時43分27秒 | 日記
今年もわたしなりに精一杯生き抜いた一年でした。
あっちにぶつかりこっちにぶつかり、悔しいこと納得できないことがたくさんあり、
でも旅に出たり、学びの機会をもったり、ミュージカルを観たり、心の財産もまたたくさん増えた一年でした。

先ほど偶然、乳幼児精神保健学会のW先生に偶然お目にかかりました。
一年の終わりに先生にお会いできて、すごく嬉しかったです。

本を読みながら、近くの店で軽く1人ノンアルコールと食事をいただきました。
帰り道、満天の星空に祈りました。
お父さん、お母さん、Mちゃん、わたしと弟を見守ってください。
この平和が続きますようにと・・・。

こうして無事一年の節目を迎えられることに感謝したいと思います。


写真は2007年10月に訪れたドイツ・ローテンブルクです。
(特に意味はありません。写真ないとさびしいので・・・)

『東北学/文化と震災からの復興』=4回目

2013年12月31日 14時56分44秒 | 東日本大震災
2012年秋、慶応義塾大学 日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」より

9月29日赤坂憲雄「東北学、新たなステージ」レジメより引用しています。

「コミュニティを支えているのは、神社と寺である。
 
 当たり前に過ぎることだが、地域の精神的な拠りどころでありつつ、実質的にも集会所や公民館のような役割を担ってきたのが、神社と寺であった、という現実を再確認することになった。高台にあって生き残った神社や寺はみな、ことに初期には避難所となり、救援物資の受け入れ先となって、コミュニティの中核的施設であることをさりげなく示した。

 その神社や寺のなかには、厳しい被害をこうむったケースも少なくはない。被害は当然とはいえ、津波だけではなく、地震による損壊や放射能による汚染といったものまで広がり、その詳しい被害状況はまるで明らかにされていない。その再建に関しては、宗教的施設という条件ゆえに公的な資金が導入されることはむずかしいとされ、東日本大震災復興構想会議においても議論のテーマにすることさえ拒まれたのだった。数百キロにわたる海岸沿いに点在する神社や寺のなかには、おそらく再建されずに放置されるケースが多数出現することになるだろう。

 むろん、南相馬市などでは、神道関係者たちが全国に呼びかけて、流された神社の再建のためのプロジェクトを持続的に行っており、神社が瓦礫の山の下に埋もれることだけは避けることができたようだ。それぞれの地域で、そうした地道な試みが始まっている。気仙沼ではすべてが失われた廃墟の町のなかで、鳥居を見かけて近づいてみると、流された神社の跡に粗末な鳥居やご神体などが集められ、聖地として小さな復活を遂げていた。
ここに、もう一度町を再建する、という人々の意志の結晶のように感じられた。
 
 高台移転や「仮の町」といった構想が語られているが、宅地造成をおこないインフラを整え、復興住宅を建て並べただけでは、コミュニティの再建はありえないのだということを肝に銘じておきたいと思う。」

 

祈りという沈黙_『木靴の樹』_1990年公開映画パンフレットより

2013年12月29日 22時26分04秒 | 映画『木靴の樹』
 「少年がベッドの上で祈っている。母親の祈りに合わせて祈りの言葉を繰り返している。階下では父親が息子のために木靴を削っている。削りながら、二階から聞こえる祈りに合わせて、祈りの言葉を繰り返している。

 この静かで、そして大変美しいシーンは、「木靴の樹」という奇跡的な作品を最もよく現わすシーンだろう。そこには、余計な会話はない。過剰なモノローグも訓話もない。ただ、低くつぶやくような祈りの言葉が繰り返されるばかり。あたかも、世界全体が祈りという沈黙でみたされているかのようだ。

 しかし、これはなんと豊饒な沈黙だろう。いいつくせぬ感謝と願い。家族が互いに寄せるいたわりと信頼。作為の言葉では決して語りえぬまごころのすべてが、この「祈りという沈黙」のうちにある。

 洋の東西を問わず、祈りの本質は沈黙にある。沈黙といっても、ただ口を閉じるということではない。むしろ、心の声を静めるために、口で祈りの言葉を繰り返す。そのとき、自分はもはや祈りの一部となり、祈りは沈黙となる。

 ここに登場する農民たちは、そんな沈黙のこころを暗黙のうちに知っている。種をまき収穫する、その自分たちもやはり大いなる自然の一部分であるのと同じように、朝な夕なの祈りもまた、万物の根底なる大いなる祈りに包まれてあることを、知っている。それこそ、彼ら底辺を生きる人々が千数百年来守り育ててきた。カトリシズムの原点だ。 


 ベッドの上でミネクが唱えていたのは、カトリックでも最もポピュラーな、「ロザリオの祈り」である。受胎告知の時の天使の挨拶を元にした「アヴェ・マリア」の祈りを50回から、時に100回くりかえす祈りだ。この「アヴェ・マリア」の祈りの最後の一節は「聖マリア、罪びとなる我らのために、今も臨終のときも祈りたまえ」となっている。つまり自分が祈っているようでいて、実は「我らのために祈りたまえ」なのだ。繰り返しそう祈るとき、祈る自分はそのまま大いなる祈りに包まれている。

 このような祈りの本質は、「なむあみだぶつ」をひたすら繰り返すお念仏の伝統を持つ我々にはなじみぶかい。たとえば、浄土宗系の称名念仏において、一遍が「称ふれば我も仏もなかりけり 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」とうたい、また蓬如上人が「なむあみだぶつに身をば丸めたる」というのと、こころはひとつだ。

 実際、ミネクが眠そうな目でたどたどしくアヴェ・マリアを繰り返す姿は、「となふれば我も仏もない」境地であり、大いなる祈りに包まれて、「身をば丸めたる」安らぎの境地にほかならない。よく見ると彼はまだちゃんと祈りのことばを覚えていないようすだが、それはそれで象徴的だ。祈りとは何かを語ることではなく、祈りのうちに身を丸めて黙することなのだから。

 
「木靴の樹」が、見るものの心に、ほかのどんな作品とも違う特別な深い感動を呼び起こすのは、このような「祈りという沈黙」の世界を生きる人々を映し出しているからだ。
 
 貧しい彼らが門付けの浮浪者に食事を分けるのは、単なる憐れみからではなく、浮浪者のうちに、祈りの世界と現実の世界との境界を行き来する聖性を見ているからである。

 未亡人の必死の祈りで牛がいやされるエピソードが感動的なのは、奇蹟のようなできごとに対してというよりも、彼女が祈りの世界に全面的に身をゆだねている、その姿に対してではないだろうか。
 
 そのことは、ラストのふたつの主観ショット、すなわちミネクの目から見た去りゆく我が家と、見送る農民たちの目からみた去りゆくミネクたちの馬車の、比類のない美しさに凝縮されている。この二つのショットが痛切でありながら同時に静謐な救いを秘めているのは、彼らのまなざしが家や馬車の背後の暗がりを突き抜けて、「祈りという沈黙」の世界をみつめているからだ。嘆きかなしんだとてどうなろう。人はやがて同じ様に、この世をすら去っていく存在なのだ。窓越しに見送る家族が表にも出ずに、ただひたすら繰り返すアヴェ・マリアには、我々の日常のいいかげんな慰めや励ましの言葉を恥じ入らせる、気高さがある。

 今もロンバルディア地方(イタリア)では、この映画のように、あちらこちらの教会の鐘の音がひねもす鳴り響いているのだろうか。いつか訪ねて、すべてを包み込むような鐘の音の、沈黙の響きのなかを歩いてみたいと思っている。

                           晴佐久 昌英 カトリック司教」




(1990年10月13日 東宝出版事業室 フランス映画社発行より本文、写真ともに引用しています。)



1990年の私は、大きな喪失体験もなくたぶんほとんど意味を理解できていなかったと思いますが、今こうして読み返してみると本当によくわかります。

『赤毛のアン』『大草原の小さな家』『レ・ミゼラブル』などとも根っこでつながっていきます。今わたしたちが忘れてしまっているたくさんのことを教えてくれているように思います。ストーリィなど、これからもパンフレットから書いていきたいと思っています。





 

秋のプリンス・エドワード島への旅_ビデフォードの写真など

2013年12月29日 16時03分56秒 | プリンスエドワード島への旅
秋のプリンス・エドワード島への旅_4日目に載せきれなかった写真を少しUPします。

上の写真は、モンゴメリさんが下宿した牧師館(パーソネージュ博物館)の全体。


こちらは正面からみて左側のみ。
軒下のジンジャーブレッドがよくわかるでしょうか。
  
  ↓



こちらはモンゴメリさんが歩いて通った学校跡のお手洗い。
冬の寒い時はとても大変だったのではないかと思います。
  
  ↓



写真はまだまだありますが、整理が悪くてごっちゃになっているので、また整理しながら少しずつUPしていこうと思います。

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毎日30人ぐらいの方が訪問くださっていて、ありがとうございます。
楽しいことも気楽なこともほとんど書けないので重いかな、と思いながら毎回書いています。


クリスマス狂騒曲がようやく終わってほっとしています。
25日の夜になると途端に迎春ムードが今度はつくられていって、わたしの中で何かが違う。


3連休明け、すごく体が重くてだるくって、職場に行けばいきなり大忙しなのでなんだかペースがおかしくてきついなあと思っていたところ、26日の朝出勤しようとしていて途中で気分が悪くなってきて電車を降りました。途中駅で休んでそのまま帰宅。
脱水症状を起こして、ひどく寒く外は曇り空の中で、一日中布団の中で横になっていました。
こんな時1人はほんとに心細い。このまま誰にも知られずにいなくなってしまったらどうしようなどと思ってしまいます。
ほとんど何も食べられなかったので、27日も休んでかかりつけのお医者さんと整骨院のマッサージで体調を整えました。診断はウイルス性胃腸炎。
昨日は土曜日でしたが2日分の遅れを取り戻すために出社。
だれにも話しかけられないので仕事は進みましたがその分ハイペース。
かなり疲れてしまいましたが、どうにか一応仕事納めとなりました。


先日協会に送った退会の意志を伝える手紙は受理された。
正式な退会届のフォームを送付し、未納の年会費2年分を納めて全て終了。
自分のあふれるような思いを全く表現できないまま終わった。
自分が必要とされる場所には出会えなかった。
専門家と自分の体験との間の距離は埋まらなかった。
これは別に挫折だとは思いたくない。学会は続ける。
そこにどんな意味があるのかはわからないがセミナーに参加し続けようと思う。


写真だけのつもりが徒然にあれやこれや書いてしまいました。
今日はもう1件これからタイトルを変えて書きます。
よろしかったら読んでください。

祈り-冬の空の下で

2013年12月23日 16時15分56秒 | 祈り
モノをため込むのは簡単だけれど、お別れしていくのはエネルギーが要りますね。
自分の過去と出会い、この時どうしてたかと思い出し、これは自分にとってこれからも必要かと考える。
たいていはもういい、思い切ってお別れしていこう、いずれお別れの時はくるのだから、とお別れの作業をずっと続けているとなります。
でも頭の中ではもうお別れしようと決めても、いざ手に取るとなかなかお別れできない、
そんな一頁を、重いですがまたよろしかったら一緒に読んでやってください。


自分のことなのに自分のことでないような、遠い、誰かの出来事のような、でも本当に自分に起こったことなんですね。いまでも信じられないといえば信じられない。


妹とのお別れから1カ月とちょっと、二度目の日記です。
世渡り下手、不器用人間が必死にもがいています。

「1994年10月30日(日)

ようやく秋らしく寒くなってきた。今年はなんていやな天候がつづいていたことだろう。
このむし暑かった空気と共に、一生忘れることのできない年になってしまった。ほんの少しのことでいいからクリスマスまでに明るい材料をみつけたいと思う。
今でも信じられない思いだ。わたしがまだ過ごすであろう長い時間の中であの子に会うことはもう二度とないという事実-
死の一週間前の電話の声が、今も耳元からはなれない。思い返せば、すでにあの時、あの子は死に向かって走り始めていたのだ。
自分を責めた。父と母を恨みもした。そして、あの子自身を責めた。どうして踏んばれなかったのか、・・・と、でもなにがどうまちがっていてこんなことになったのか、本当にはわからない。なにか、理屈にならないものが存在することを感じる。
わたしがこの世での旅を終える時まで消えることのない深い傷を負ってしまった。お星さまになったあの子にわたしの声は届いているのだろうか。安らかに思ってあげたい。」


自分で読み返しながら心が痛くなってしまいました。
帰り道、冬の星空を見上げながら思います。父と母と妹、お星さまになっちゃったんだなあって、見守っていてくれるかなあって、一生懸命生きていくしかないんだなあって・・・。
わたしのなぜ?の答えはどこにもない。どこかにあるに違いないはずだと思ってずっと探し続けてきたけれど、どこにもない。そのまま受けとめていくしかない。

自分のこのような体験を社会に還元できないものかという思いが心の片隅にいつもある。
思いが空回りするばかりで現実にはなにもできない自分自身への歯がゆさをこらえつつ、明日も仕事に行くしかない。
自死遺族の一人であるという自分と、派遣というドライなシステムの上にのっかって働いている自分とが心の中でバランスとれなくてすごく息苦しい。機械的なことに耐えられない。心の中はもがき続けている。年末年始の行事、できるだけ避けるようにしている。(従業員区分に関係なく、声かかる職場はまだあったかいのかあとは思いつつ・・・)。心から思っていないのに口先だけの挨拶ができないので気が重い。みんななんでもないように言っているから不思議でたまらない。

今の自分よりももっともっとはるかに一日一日命をつないでいくことに必死だった人々がいた。いや今も世界の中には日々命の危険と向き合いながら暮らしている人々がいる。(どうして日本でそういうことがもっと報道されないのだろうかと不思議に思います。)

そんな時代があって今の私たちの暮らしはある。
わたしたち日本人はモノに満たされすぎている。
いろんな命のつながりの中で今わたしは生かされている。
一生懸命生きていかねばと思います。

ガブローシュ君が歌っています。
♪毎日が戦いなのさ♪
生きていくことは難しい、大変なこと。

レミゼへの思いもまだまだ書き切れず、年末にまたいろいろと書き連ねていくと思います。

このようなブログに訪問くださり、ありがとうございます。
よろしかったらまた読んでやってください。


赤毛のアンを原書で読むセミナーのことなど徒然に

2013年12月22日 13時45分43秒 | 『赤毛のアン』
昨日は松本侑子さんの『赤毛のアン』を原書で読むセミナーに参加し、第32章「合格発表」の中から読みました。
土曜日の夕方、大混雑の新宿まで行くのはそれだけでかなりのエネルギーを要しますが、行けば心のエネルギーが満たされる時間を過ごせます。

クリスマスプレゼントに手作りのお菓子をくださった方がいらっしゃって、妹の写真の前にお供え。あとでわたしがいただきます。

最後の文章が本当に美しいので書きたいと思います。

季節は春から夏へと移り変わった頃、アンが初めてグリーン・ゲイブルズにやってきた時から4年が過ぎ、クイーン学院を受験したアンはギルバート・ブライスと同点の一位で見事合格。合格の知らせを親友のダイアナから知らされたアンの一日の終わりの場面です。


That night Anne,had would up the delightful evening with a serious little

talk with Mrs.Allan at the manse,knelt sweetly by her open window

in a great sheen of moonshine and murmured a prayer of gratiude and

aspiration that came straight from her heart.There was in it

thankfulness for the past and reverent petition for the future;

and when she slept on her white pillow her dreams were as fair and

bright and beautiful as maidenhood might desire.


「このめでたい夕べのしめくくりに、アンは牧師館に出かけて、アラン夫人と短いながらも真剣に語り合った。そして夜、アンは自分の部屋に入り、幸せに満ちたりた気持ちで窓辺にひざまずいた。開け放った窓から、月の光が煌々と射しこみ、アンを照らしていた。アンは、心の底から湧き上がる感謝と抱負をこめて、祈りの言葉をつぶやいた。過ぎ去りし日々への感謝と、未来への敬虔な願いが込められた祈りだった。そしてアンは眠りについた。真っ白な枕の上で見る夢は、乙女らしい清らかさ、輝かしさ、美しさに、満ちあふれていた。」

L.M.モンゴメリ『Anne og Green Gables』
松本侑子訳『赤毛のアン』(381-382頁、集英社文庫、2000年5月25日発行)より。

アンが感謝しているのは神様、そして孤児だった自分を引き取って育て、お金を工面してクイーン学院まで行かせてくれるマシューとマリラだという松本先生のお話でした。涙がにじみました。
この少し前、アンを心の底から愛するマシューのやさしさを垣間見る場面があります。
マシューのモデルになっているのは、モンゴメリさんのお父さんだという話もあると、初めてプリンス・エドワード島を訪れた時に現地の日本人ガイドさんからお聞きしました。
色々な思いが重なりあって心に沁み入ります。何度もかみしめていきたいと思います。


講座が終ってから向かいのホテルのティールームでお茶会があり、ケーキセットをいただきました。ありがたく幸せなことです。
同じテーブルになった方々と少し、今の私たち食べ過ぎ、贅沢し過ぎているよね、という内容の話になりました。
個人的なことに触れるので詳細は自分のことだけ書きます。
自分の生活をこの頃反省しています。

わたし、しばらく前まで夕方になると毎日職場の近くのコンビニに行ってはペットボトルとおやつを買って残業していました。たまったレシートを整理してみてびっくり。なんと無駄使いをしてきたことか。
だいだい9-10時間労働の日々、残業していることに変わりはないのですが、店員さんがマニュアル対応のコンビニはやめました。朝作ったお茶を飲み干したらあとはペットボトルにお湯か水を注いで、おやつがほしい時はお昼の帰りに近くの昔ながらの八百屋さんのようなお店で買います。ポイントありませんが、毎度ハンで押したようにポイントカードは?と聞かれるより気持ちよく買い物できます。

夜は閉店間際のお店に駆け込んで値引きになった惣菜を買いこんでは食べていましたが、これもレシートを整理してみてびっくり。売っている総菜は味が濃すぎますね。お店の人はアルバイトのマニュアル対応で気持ちよくないし、できるだけ控えるようになりました。
ごはんは休日に一週間分焚いておいて冷蔵庫へ。にんじんなど温野菜は何もつけなくてもおいしく食べられるので、あとは魚など少しとスープで十分。
なんとも情けない生活ですが、労働時間が長いので今はこれで精一杯。

できればお昼をこれまたマニュアル対応のファーストフードカフェに行って高いお金を出して、さほどおいしいわけではないパスタなど食べるのをやめたい。でもお昼は職場の建物の外に出たいので今のところ変えるのは無理かな・・・。

都心は人が集中し過ぎているし、震災前よりは暗くなったけれどあちらもこちらも煌々と電気がついていて贅沢し過ぎている感じがなんともたまらなくなるこの頃です。
パリにはコンビニがないと2008年に行った時現地の日本人ガイドさんからお聞きしました。
たしかにみかけなかった。
日本も24時間お店が開いてなくても、もういいんじゃないかなという気がします。
わたし自身まだまだ頼ってしまってはいますが・・・。


先日、専門職の協会に退会連絡の手紙を出しました。2007年に国家試験に合格して、熱い思いがあって協会に入会して、年齢が高いので気おくれしながらも研修にも一生懸命参加しました。
でも自分の居場所はわからなかった。研修と自分が当事者あるいは当事者の家族としてのたうちまわるような日々を過ごしてきたという事実との間の距離は埋まらなかった。
2010年の夏、自殺予防対策の研修に参加したのを最後に全く顔を出さないままになってしまいました。その翌月には父親との突然のお別れとなりました。

通信教育で大学を卒業した後、カウンセリングスクールに通い、それからまた専門学校の通信教育で勉強した。非正規でありながら2人分ぐらい働きながら職場には一言も言わずに小さい体をすり減らすような思いでがんばり続けた。今振り返れば信じられないような無理を自分にさせ続けた。
母の精神疾患のこと、妹の自死のことを受け入れたい、その思いで必死だった。一途だった。
それが自分の人生にとってどんな意味をもつのか。それがわたしの中に落ちてくるまでにもう少し時間が必要なのかもしれません。

妹とのお別れの後の日記、母への思い、このブログに書き切っていきたいと思っています。
まだまだわたし、自分の中に言葉がたまっています。
書きたいこといっぱい・・・。
忘れるわけではない、わたしの人生の時間にも限りがあるので、本当にわたし自身を生きていくための一歩を踏み出していきたいと思います。


よろしかったら引き続き読んでやってください。









秋のプリンス・エドワード島への旅_4日目(3回目)

2013年12月21日 22時57分12秒 | プリンスエドワード島への旅
「2012年10月16日(火)

最初の赴任地、ビデフォードのパーソネージュ博物館へ。
残念ながらclose、外観のみ。
雨が強くなる。
モンゴメリさんが下宿した家の再建にボランティアで加わったというおじさんが通りかかった。話し好き。(島の人たちの笑顔はみんな人なつっこくて話好き。)

当初三つに分けて、アヴォンリー・ビレッジに移築されようとしたらしい。
軒下のふち飾りのような模様はジンジャ―・ブレッド。幸運を呼ぶものらしい。
窓ガラス越しに来館者の名前を記入するノートと階段が見える。
復元された時、階段は最初全く違うものにつくり変えられてしまったが、当時と同じものに作り直され、ボランティアの手で6週間にわたって毎朝みがかれ、当時と同じように再現されているという。(おじさんの妻が参加したらしい。ドライバーのTさんの前の奥さんを知っているか、親戚からしいというオマケツキ。せまい田舎で油断ならないね。)
大切に保存していこうという、その村人たちの心根が嬉しい。

少し離れた丘の上の学校まで、モンゴメリさんは歩いて通っていたそうな。今は校舎はなく記念碑のみ。(車でほんの数分の距離でした。)

2号線に入って、ウエスト・ポイントを目指す。
普段は林が続いていくだけで退屈な道だそうだが、紅葉が見事だ。
遠く遠く、曇ったdark色の雲が色んな形をしてぐんぐん流れていく。
片側の車窓は時折晴れ間も見えたり、右と左の車窓で雲が違う。面白いなあ。
これがPEIだ。

途中ガソリンスタンドでトイレ休憩。
Tさんがドーナッツショップの飲み物をごちそうしてくれる。
チョコレートドリンクで元気回復。

ウエスト・ポイントは、白と黒の縞模様の灯台。写真でみていたとおりだ。
灯台の下のホテルも全て閉まっている。打ち寄せる波が浅瀬は赤土と混ざって赤くなっている。寒い。小雨が降る中、なんとも不気味で淋しい感じだ。

2号線をひた走り、サマー・サイド方面へ戻っていく。紅葉は色様々。
雨の中、しっとり感がある。言葉では言い表せないが、黄色・オレンジ色がとりわけ美しい。色鮮やかさに眠くなる暇はなかった。

サマー・サイド近く(?)の田舎だが小じゃれたレストランでおそめのお昼。
2階がB&Bになっている。
ラズベリーサラダが自然の味がして食べやすくおいしかった。店の庭にあじさい(=ハイドレンジャー)が10月だというのに咲いている。日本のものとは種類が違うようだ。
木の下に落ち葉が散った様がなんとも美しい。
店主=コックのダイアナさんは陽気で楽しい。人なつっこくて笑顔がチャーミングでPEIだなあと実感してくる。

ハロウィン・パーティの楽しそうなテーブルが目に留まったので写真を撮らせてもらう。
一般家庭だ。それぞれに楽しんでるなあ。ある物でお金をかけずに。

ロブスターの漁を終えた小舟が海からは奥まった漁師さんの家の庭先に置かれている光景もよく見かける。この島ではなんでも車で運んでしまうそうだ。面白いなあ。楽しいなあ。

3つ目のモンゴメリさんの赴任地、ロウアーベティック、ワンルームスクールに立ち寄る。雨。ここもまたなんとも淋しい所だ。蚊がたくさんいる。10月だというのに、寒いし蚊はぶんぶんくる。(日本とは種類が違うようだ)。写真を撮って早々に退散。100年前いかに大変であったことか想像に難くない。ここもまたうら淋しい所だ。思わず恋もしてしまうだろう。
モンゴメリさんの赴任地はいずれも僻地。
寒い季節は若い娘が一人でどんなに孤独であったか、想像力で感じ取ることができた。
想像の余地がないといられなかった、というアンの言葉が身にしみる。よくわかった、よかった。

ビクトリア通過。シーズンオフで閑散としているが、建物は可愛い。
B&Bだと思うが、ハロウィンの飾りつけが楽しい。写真を撮っているときりがないのだが、楽しくってどんどん撮ってしまう。灯台の可愛らしさも以前来た時と変わらない。

漁を終えた舟が庭先に置かれていたり、ハロウィンをそれぞれに楽しんでいたり、紅葉も色鮮やかだし、疲れちゃってるけど気分はすごく楽しい。

ロッキー・ポイント、半島なので対岸のシャーロットタウンが見える。
吉村さんの写真にある所なのでコースに入れてくれたのかな。
普段は行かない所だそうだ。
緑の丘に色づいたメープルが少し間隔をおいて立っているのがなんとも美しい。
寒いが気持ちいい。
カヌーが小屋にしまわれていてセキュリティカメラがついている。
他に人がいないのでゆっくりできる。

じゃがいもの収穫が終わって、赤土に次の芽が自然に出ている畑、トウモロコシ畑、緑の丘もあれば色づいた木々達がしっとりと鮮やかで言葉に言い尽くせないが楽しかった。雨だったのがよかったかな。

予定通り、17時頃、シャーロットタウン、ヘリテージハーバーハウス着。広くて清潔だ。
アメニティも家具もいい。
モンゴメリさんの淋しさを体感した一日。疲れたし部屋でお茶を飲みながら休んでいるうちに暗くなって、雨も激しくなってきたので方向がわからないし、買い物は断念。レトルトのおかゆと春雨スープで夕食をすませる。けっこうお腹いっぱい。
少し本を読んだり。インターネットをつないでみたり。
到着した時は暑かったので空調をoffにしてしまった。
冷え込んできたがあまりあたたまらない。
温度の上げ下げがわからなくって、セレクトツアーズのMさんにTELしてしまった。
12時頃には着込んでベッドに入っていた。1時半頃オーナーさんが来てくれて解決。
さらに一度目がさめたがまあまあ6時間は眠っただろうか。
空調とお風呂と乾燥は、日本人には苦労だ。

 ヘリテージ・ハーバーハウス 一泊目」


ようやく4日目が終わりました。
翌日すばらしいキャベンディシュビーチのサンセット(秋なので陽は海ではなく丘に沈みました)を見るのですが、刻々と変化していく雲を撮っている写真を整理するまでにはまだ時間がかかります。
また間があくかもしれませんが5日目も載せていこうと思います。


パーソネージュ博物館の庭









お昼のラズベリーサラダ





ビデフォードの下宿先の牧師館(現在のパーソネージュ博物館)から歩いて通った学校の跡に建てられている記念碑






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夜中と今朝と続けて地震が起こっています。
一週間ごとに起きているので、もっと大きいのがくるんじゃないか、原発は大丈夫なんだろうか、逃げるとなったら何を持って逃げればいいのか、不安と恐怖が頭をよぎります。
ほしいものは生活必需品をのぞいて何もない。旅にはまた出たい。この当たり前すぎるような平穏な日々が続いていきますように・・・。
心の中で祈り続けます。

やっと週末になりました

2013年12月20日 22時21分11秒 | 日記
わたしが更新できない平日にも、このようなブログを読んでくださりありがとうございます。

今週もよくがんばりました。やっと週末です。連休です。

都心も今かなり寒いですが、10月のプリンス・エドワード島はこれぐらいでした。
明日は久しぶりに旅日記の続きを書ければと思っています。
(なかなか終わらないですね。)

色々と思うことあれど、書きたいことあれど整理しながらちょっとずつ。
焦ってはいけませんね。

よろしかったらまた読んでやってください。


平日は坐り心地の悪い椅子にずっと坐り続けなければならないので、エコノミーシートに無理矢理ずっと坐らされているような感覚で、腰ガチガチに固まっています。ちょっとつらいです。


今のように贅沢に暖房器具がなかった時代に生きた人々は、こんなふうに寒い夜どうやって暖をとり過ごしていたんでしょうね。
毎日そんなことを思いながら暮らしているこの頃です。
レミゼの場面や音楽がぐるぐると回り続けています。
まだまだ書きたい・・・。


『クリスマス・キャロル』_岩波少年文庫版より

2013年12月15日 13時14分59秒 | ミュージカル・舞台・映画
このようなブログを読んでくださり、ありがとうございます。
水曜日は更新する時間はないけれど自分でもアクセスして読み返してエネルギーをもらいました。
いくらかでも何か伝えることができていればいいなと思います。
書きたいことが次々とあふれてきますが少しずつ・・・。

昨日もお昼すぎにまた地震があって長く揺れたので緊張しました。
今の平穏な日々が一日でも長く続いていくことを祈り続けるしかありません。
子供たちの笑顔とすれ違うと、この子たちの瞳が輝き続ける社会でありますように、希望がもてる社会でありますように、みんなに愛されてすくすくと育っていきますように・・・と心の中で祈っています。

街に出かけるとあちらもこちらもクリスマスソングが流れているこの頃ですが、ただ贅沢しているだけで、気持ちのこもっていない空騒ぎのように今の私には思えてしまって、一刻も早く逃げ出したくなります。何を思ってクリスマスツリー飾っているんだろうなあ。早く終わればいいなと思います。こんな興ざめなことを思っているの私だけでしょうか。

1987年に買った岩波少年文庫の『クリスマス・キャロル』を読み返しました。

長くなりますが訳者あとがきより引用します。

「チャールズ・ディケンズ(1812-1870)の時代の文学には、キリスト教の精神-人類愛をもとにして、社会を改善しようという気もちがつよくもられていました。イギリスという国は、宗教改革がなんどにもわたっておこなわれ、またいちばん早く社会革命を実現した国ですから、改革の伝統が、長く伝えられているのですが、18世紀の中ごろから終わりにかけて、ちょうどフランス革命がおこったころには、ウェズリ―という兄弟の牧師が、イギリスの国教の伝統にも不満をもって、メソディストという一派をはじめ、これが、ひじょうな影響を与えました。というのは、ウェズリ―は人の心を救うばかりでなく、貧しい、困っている人を救うために働いたからです。フランス革命の影響は、世界じゅうにひろがり、イギリスにも革命が起こりそうになりましたが、このウェズリ―の教えを信ずる人びとの努力が、イギリスの革命を、くいとめたとさえいわえています。

 ディケンズが生まれたころのイギリスは、これがもっとむずかしい世の中になっていました。ちょうどフランス革命前後に、イギリスにおこっていた産業上の大変化のために、イギリスの社会は、ほとんど革命といってもよいほどに変わりつつありました。人間の力で作っていたものが、機械の力で作られるようになり、自分の家で作業していたものが、機械をすえつけた大工場でやとわれて仕事をする、という形に変わってきました。景気がよい時はもう かるのですが、不景気になると工場がつぶれたり、工場の労働者の数をへらしたりしますから、労働者は不安でたまりません。労働者や失業者の暴動が、たえず、いろいろな地方でおこるようになりました。

 世の中が、こういうふうに変わったのですから、その中で生活している人間の考え方も、変わらないわけはありません。この時代に、いちばんはっきりあらわれた特長は、工場などを経営する大金持ちと、工場にやとわれている工場労働者という階級とが、はっきりできあがったことです。
昔は、他人にやとわれているといっても、個人の家庭とか、個人の経営している小さな仕事場ですから、なん百人、なん千人と一つの工場にやとわれるなどということはありませんでした。ディケンズの時代に、こういう二つの階級が社会に生まれたことは、今までの歴史にもなかったことです。そして、この二つの階級は、ことごとに利害がくいちがいますから、争いがたえずおこってきました。
工場を経営する金持ちの階級のものは、できるだけ安く労働者をはたらかせて、できるだけたくさん、もうけたいと思います。自分の利益のことだけ考えて、他人の苦しみなど少しも考えない個人主義的な考え方-それがはげしくなると利己主義となりますーが、はげしくなってゆきました。こういう考え方は、じつはお金持ちばかりでなく、国民がみなもっていました。
この「クリスマス・キャロル」の主人公のスクルージは、こういう人間の見本なのです。この時代の小説家たちは、なんとかして、社会のこういう不安をなくして、よい社会にしたいと考えていましたので、キリスト教の博愛という考えで、人間と人間との争いをなくしようとしました。お金持ちと労働者との争いというものを、個人個人が人間愛にめざめて、よくなれば、なくなると信じましたから、キリスト教の考え方でなんとか解決しようとしたのですが、どの小説をよんでも、解決できているものはありません。人間だけを変えてもよくならない原因が、ほかにもあるのですが、人間を一人一人変えることも、そうかんたんにできることではありません。
しかし、ディケンズは、その小説の中で、イギリスに伝わっているいろいろの不公平な、悪い法律や習慣や制度に批判を加えて、すこしでも社会を住みよくしようと考えました。

1967年11月 訳者 村山英太郎」


日本の高度経済成長後期に書かれた文章で、イギリスのことを言っていますが、今の日本にも同じことが言えませんか。根っこは同じ。ものすごく単純化して言ってしまえば、高度経済成長期のツケを私たちは今引き受けなければならない状況になっているように思えます。わたしなどが簡単に論じられることではないですが、高度経済成長期って日本にとってなんだったのだろう、アベノミクスの目指すところの強い日本が高度経済成長期の日本への回帰であるならば、ここで考えなすことが大事だと思います。

2-3日前労働者派遣法改正案のニュースをヤフーでみましたが内容がわたしにはあまり理解できなかった。ただ働く人が中心にいない仕組みであることには変わりなさそうです。
企業の数字がよくなって、これで誰が幸せなんでしょうね。
消費税をあげればお給料もあがるというまやかしのような話とどうリンクするのか、わたしには理解できない。日々一生懸命働いていても希望の先がわからない。



2013年5月12日に、乳幼児精神保健学会の国際シンポジウム「子どもと家族に優しい社会を造る〰いま、日本の大人はなにをすべきか〰」を聴講しました。

北欧のフィンランドから来日されたカイヤ・プーラ先生(タンベレ大学小児精神科副部長)のお話の中から(以前にも書いているかもしれませんが)、メモ書きです。

フィンランドは第二次世界大戦で敗れ、ロシアに借金を返すために男性も女性も国をあげて働く必要があった。
その結果、女性の労働力なくして社会は成り立たなくなった。
働く母親が幸せ→子供も幸せな社会になった。

フィンランド・オランダは個人の豊かさよりも社会全体として豊かさを求める社会、
だから高い税金も払う、
優先順位が日本とは異なる。



日本の弁護士の長谷川京子さんのお話もありました。

今日本では、子供の性被害、DVがうなぎ上りに増えているそうです(家の中で)。
社会の変革の流れの中で、家庭は地域とつながっている。その間で子供が犠牲になっていると考えられる。

その場で声をあげていくことが専門家に求められている。
虐待にならないようにしていくのが、今の課題。

せまい領域の中で生きてきた専門家とひとすじなわではいかない人間とがつながっていない、
窮屈なシステムの中で私たちは生きている。


日本も優先順位を変えていく時にきている。
私がこのようなシンポジウムを聴講したからといって今すぐ何かできるわけではない。
でも乳幼児精神保健学会のセミナーに参加し続けて、自分に何ができるのか、何をすべきなのか、引き続き考えていきたいと思います。


『クリスマス・キャロル』の中に、金貸しを営むスクルージの事務所で働くボブの末っ子
ティム坊や登場します。

「こつこつというまつば杖の、小さな、元気な音が床の上にきこえてきたと思うと、ちょっと話がとぎれている間に、兄や姉に助けられながら、ティム坊やがはいってきて、暖炉の前のいすに腰をおろしました。ボブはシャツの袖をまくりあげ-気のどくに、あの袖口が、まだそれ以上、すりきれるとでも思っているのでしょうかー大きなびんにジン酒と、レモンで、熱い飲み物をこしえられ、ぐるぐるかきまぜで、暖炉の火にかけました。ピータ君と、どこへでもでじゃばる、ふたりのクラチットちゃんたちは、ガチョウを取りにゆきましたが、すぐにおおはしゃぎで帰ってきました。」

「彼は、おとうさんのそばにくっついて、じぶんのいすにかけていました。ボブは、この子どもがかわいくて、いつも自分のそばにすわらせておきたいので、とられてしまっては大変だというように、その子のやせたかわいい手を、しっかり自分の手の中ににぎっていました。」

    (1950年12月25日第1刷発行 岩波少年文庫『クリスマス・キャロル』より)

第3の幽霊にティム坊や亡くなった後と自分の葬式の場面の未来をみせられたけちんぼのスクルージは生まれ変わっていきます。ティム坊やの第二の父親となり、クリスマスをお祝いし、神さま、わたしたちをおめぐみください、ほかのすべての人たちも!と祈って物語は終わります。、

ミュージカル『スクルージ』今赤坂で上演中ですが、職場はなぜか中間決算とかで、コンタクトレンズの目もボロボロで残念ですが余裕がない。ツィッターなどみて楽しむにとどめています。


今日も長くなりました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

写真はドイツのヴィース巡礼聖堂(世界遺産)、草原の中にぽつんと立っていました。
10月ですが雪の中でした。



『クリスマス・キャロル』_祈り

2013年12月08日 13時39分01秒 | ミュージカル・舞台・映画
重くなりますがよろしかったらおつき合いください。

「1994年12月6日(火)

(カトリック教会の)港のみえるクリスマス、というのに行ってきた。クリスマスソングの演奏がすばらしかったなんて間抜けなことしか書けないが、「聖しこの夜」が流れた時にはMちゃんにも届いているのかなあと思うと涙がにじんだ。
Christmas-キリスト誕生の700年前、イザヤは予言されているそうだ-神の御子が使わされる、と。
神はわたしたちに愛を与えてくださった、それがキリストを使わされた、という形で現われていると、わたしたちはその愛をうけとめ、分かち合おう、愛を与えあうのがChristmasであると、キリストが生まれたのは淋しくて暗くて寒い家畜小屋の中、その状況は、まさに人がこの世にあって出会うさまざまな苦しみであると。
わたしたちの苦しみを全部背負ってキリストは十字架にかかり、その死する時もまた他になにもない、ただ十字架の上。
神はわたしたちに命を与えてくださった。
この世での旅を終える時はこの世で得たものを全ておいていかなければならない、全てをおいて罪を許され、神のもとへ帰るのが死だとー。
こんなお話があったかな。
死して永遠の魂を得る、というのがキリスト教の考え方のようだ。まだピンとこないし、正直言ってなんとなく押しつけがましかったり、胸くその悪いものを感じないではない。
ただ慰めを求めている。
Mちゃんが神に与えられた命を全うして神のもとへ帰っていった、のだ考えるのは都合がよすぎるだろうか。
Mちゃんの肉体が二度と戻らない、という事実は消えない。そのことをしっかりと受けとめ、何を残してくれたのか、何を教えてくれたのかをみつけることがわたしのつぐないであり、唯一してあげられることなのだ。
どうすることもできない傷みがあることを知ってしまった。なんと大きな贈り物だろう。
人は愚かでちっぽけなものだ、が消えることない傷みをしっかりと受けとめ、背負っていくことができるのも人である。
どんなに悔やんでも悔やみきれないことに変わりはない。自分を責めることにようやく疲れてしまった。
頭の中でぐるぐるといろんなものがまわることはやめにして、ただあるがままになすがままに風のように生きていきたい。
でも現実には仕事もないし、目の前にあることに煩わされているのだが・・・。
いろんなことを知るようになると、つらいこと、悲しいこと、淋しいこと、くやしいこと、諸々あることがわかってしまう。それらを受けとめていくのが大人である。
わたしがわたし自身を開放していくためにこんなつらい代償が必要だった、なんてひどすぎる。」

長くなりますが続きます。

「1994年12月25日(日)

今年はまた武道館でイヴコンサートを楽しみ、今日は『スクルージ(クリスマス・キャロル)』をみてクリスマスは終わりだ。今年はこのままなにごともなく終わりだろう。
つらい一年になってしまった、同時に貴重な一年でもある。忘れることはない。
今もなお胸が苦しい。
家族に対するメッセージを一行詩にすることがあるのだそうだ、今、わたしはこう書くだろう。

自ら人生にピリオドを打ってしまった妹へ
「なんで生きようとはしなかったのか」
 どんなにあなたを責めても
「なんで力になってやろうとしなかったのか」
 どんなに自分を責めても
  もう帰ってはこないんだね、Mちゃん


心を通い合わせないまま終ってしまった、二度と会うことはない-背負っていくにはあまりに重過ぎる、でも逃げ出せない、わたしは強くなれるだろうか。Mちゃんの分も呼吸していくことが、わたしのつぐないであり責務だ。しっかり受け取めなければならない、Mちゃんの贈ってくれたかけがえのないものをー
なんで、そんな取り返しのつかないことをした?
悔いは消えない、いっぱい、いっぱい、泣いてきた、なのにまだ涙が出てくる、
いつまでも悲しんでばかりもいられないけどね・・・。
気持ち、ほんの前向きで年の瀬をむかえようとしている。
「あっちにぶつかり、こっちにぶつかりし、いっぱい傷をつくりながら生きてきた」
テレビドラマの中の台詞だ。
「自分の人生が好き」だとも―。
わたしはなんと今まで傷つくことをおそれてきたことかーあまりに大きな傷をもった今ようやく気づくなんて-
幼い時からの自信のなさをずっとひきずってきた。意固地なさをひきずってきた。
自分を守ることにばかり必死になってきた。きっと多くのものを見落としてきたにちがいない。
まだ間に合うだろうか。やり直すのにおそいことはないはずだ。今までの自分を否定してしまうのではなく―
いつも頭の中にブロックを組み立ててきた。Mちゃんの死で崩れ去った。
心の扉に鍵をかけ続けてきた。
今ようやくほんの少し開こうとしている。
気負うのではなく、肩の力を抜いて、ふわふわと風のように生きられたらいいな。
結局は自分さがしの旅なのかもしれないけれど、生きていくことはー
自意識を捨て去っていくことがわたしのテーマなのかもしれない。
ほんとにもうコンサートなどに逃げてはいられない。ぶつかることから逃げるのではない。「こんなもんだ」と割り切ることがいちばん嫌いなはずだったのに、そうした方が楽な時もいっぱいあるってわかってしまったから・・・よくわからない。
生きていくことは難しい。でもそんなに悪いことでもないはずだ。
長い時が流れたような気がしてしまうなあ。
それにしても、わたしが自分の愚かさに気づくのに、自分を解き放っていくのに、こんな大きな代償が必要だったなんてきついよ、今も信じられない、もういないなんてー
わたしは強くならなければいけない、うかつに死ねないよ、
Mちゃんにしてあげられなかったカウンセラーへの道を進んで行こうと思う

とりあえず、MerryChristmas-」


ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。
自分で読み返しながら自分のエネルギーにびっくりしています。
知る人が近くに誰もいないアパートの中でわたしはこの日記をしたためていました。
よくやっていましたよね。
お別れの直後、アパートを引き払って家に戻ろうかとかなり気持ちがぐらつきました。
でも母との関係を考えると家には戻らず、結果的にそれでよかったなと今は思います。
物理的に距離を置くことで母の病気にダイレクトに巻き込まれなかった。知らない人には誤解されてしまいそうな言い方ですが、家族だからこそ、親子だからこそ離れていることが必要だった、このことではその後もずいぶんと自分の中で後ろめたさのようなものを感じ続けることにはなりますが、中井久夫さんの『看護のための精神医学』という本の中の記述によって気持ちが救われました。このことはまた別の機会に書きたいと思っています。


この時から20年経っても自分の進む道がわからず迷子の私がいます。
経済状況もあるので仕方ないですよね。


若かりし頃買った『クリスマス・キャロル』を読み返しました。
今だから深く理解することができる。『レ・ミゼラブル』と同じ19世紀のヨーロッパ。今の日本と通じているものがあるように思います。
長くなるのでまたあらためます。


ドイツ・ローテンブルクの街並み。
携帯で撮っているので解像度が低いですが、歩いてて楽しかったです。
10月ですが寒かった。日本の12月ぐらい。

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