たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

【愛知県知事選挙の新聞報道】事実はこうです。

2023年01月31日 15時18分28秒 | 気になるニュースあれこれ
https://twitter.com/nagasi/status/1620230922493906944


◆産経新聞偏向報道を暴く❗


https://www.youtube.com/watch?app=desktop&v=uEk1E7vgnF4&feature=youtu.be



後から来て邪魔したのは大村陣営
14年議員やってますがこんな無礼な陣営は初めて。現職知事、現職大臣のやる事か?



⇒事実とは真逆

https://twitter.com/STON_JP013/status/1619554543188180992

「1/28 愛知県知事選
河野太郎デジタル担当大臣と大村秀章候補
話している最中に末永啓陣営が大音量で演説をかぶせていた

交番側にいたからあまり聞こえなかったけど、正面のほうは酷かったみたいで二人とも民主主義に反すると批判していた。」

愛知県民へ!届け!

2023年01月31日 00時54分39秒 | 気になるニュースあれこれ
愛知県知事選挙、末永けい候補

「愛知から日本をとりもどす」

https://www.instagram.com/reels/audio/1054747872583908/




1月28日(土)名古屋駅前の河野大臣への謝罪しろ!コール、

 ニコニコ動画をみると、末永陣営が街頭演説を行っていたところへ、あとからきた大村陣営がすぐそばに車をつけて、選挙活動を妨害しようとしたかのように大音量で演説を始めたようです。知事の、大臣が応援にきれくれました~で姿を現わすと、自然発生的に市民から責任とれ!謝罪しろ!コールの嵐。

愛知県民、名古屋市民、たのみます。

シャワーのように打ちまくれと言った現知事はちょっともうあかんでしょ。






https://twitter.com/hellomitz3/status/1619252363210145792より、

「厚顔無恥とはまさにこの男のためにある言葉。運び屋のデマゴーグ。市民から謝罪しろコールを受けて何を思う?」



https://twitter.com/JINKOUZOUKA_jp/status/1620008292436312066
より、

「命がかかっている。熱くなるのも分かる。」

末永候補の傍らで、知事と大臣に対して「被害者に対して謝罪してください」と叫ぶ女性の姿、

新聞でもテレビでも流れない真実。



「記念撮影のときマスク姿では世界に笑われる」

2023年01月30日 19時28分37秒 | 気になるニュースあれこれ
もう笑われています、総理大臣を筆頭に自分の頭で考えて決めることのできない姿が・・・。


https://twitter.com/YOSHIHI17950532/status/1619587622351024130より、

「マスクのルールを決めて欲しいと言ってるバカどもは根本的に頭が悪すぎる。

マスク着脱は、個人の判断に委ねる。

これがルール。

つまり、他人にマスク着用を強制してはならない、ということが、このルールにはすでに含まれている。」




https://twitter.com/naika_hashikure/status/1619499938534273024より、

「冬はマスクしてた方が暖かいとか、花粉症だからしたいとか、それは従来通りすればいい。ただしマスクをしていない人は他人を思いやれない奴だとか、デリカシーが無いとか、マスクしてない人は入店拒否だとか、そういうことをやめようという話。

マスクできない/したくない人の人権をどうなのか。抑も感染対策と称して「マスクの有無を根拠に人権侵害をしてよい」というのは無理がある。
マスクの有無だけで区別すると、感染性がないのにマスクがないから入店不可の人も、感染性があるのにマスクがあるから入店できる人も出てきてしまう。

「感染性なんて見た目でわからないから一律にマスクさせて、マスクしてない奴を社会からはじく」
そんなことがいつまで許されるのか。
「違う店に行けばいい」などと簡単に言うけど、「マスク着用のお願い」を掲げてない店なんてほぼ皆無なので、それは全くもって非現実的な詭弁でしかない。

「店にも客を選ぶ権利がある」などとも言うけど、ドレスコードのある店は限られるのに対し、マスクはほぼ全店舗で求められてしまうわけだから全く違う。
銃刀法違反にも例えられるけど、マスクしていない人は何も危害を及ぼさない可能性の方が高いわけだから全く違う。

マスクしていない人をはじく社会をいつまでも続けたいのか。そういう社会を許容していると、次はマスクとは違う基準で社会に邪魔な人たちを見つけ出し、彼らを除外しようとする。
そしていつかは自分が除外される側になる。そういう歴史を繰り返してきているから警鐘を鳴らしているわけです。

社会を正常化する、持続可能な社会にするためには、社会がこのウイルスを許容してコロナ前の生活を取り戻さないといけない。
感染リスクを常に気にして、感染対策を守らないやつは除外してもいいなんてことを続けていたら、今後甚大な被害がさらに顕在化して社会が壊れる。目を覚まして下さい。」


 劇場も含めて、マスクなしは入場・入店お断りとがちがちのカンセンショウタイサクをしまっているところはどうしていくのでしょうか。各ガイドラインの改訂、自治体の動きをみながらということになるのでしょうが、検温・アルコール消毒の強制と共に、厳しくしていくのは簡単だったけれど、緩め方はすごく難しいのではないかという気がしています。それとも、ゼロコロナをめざしてこのまま永久にカンセンショウタイサクを続けていくのか。

 3年もお互いの顔をみないままきてしまいました。なんとなく街の様子だと、日本人が体調に問題なくてもマスク外せるまでには何年もかかるようにみえます。レジの店員さんとか接客業の方々、人によってはもうこわくて永久に外すことができなくなっているのでは・・・。

 表面温度測定器を置いて、発熱患者の入室お断り、外で検査結果待ちとしてしまっている町医者もどう対応を変えていくのでしょうか。ビニールシートとアクリル板、場所によってはカンセンショウタイサクではなく防犯対策になっているように思えます。どうなっていくでしょうか・・・。

通信教育レポート-社会学史Ⅰ

2023年01月30日 14時33分37秒 | 日記
課題-
 社会学では人間をどのように理解してきたのか。テンニエス、ジムメル、マックス・ウェーバーの場合について述べよ。

「社会学」という名称は、19世紀中頃のヨーロッパにおいて用いられるようになった。初期の社会学は、経済・法律・政治学の社会諸科学を総合的に組織化しようとした総合社会学である。権威主義的な前近代社会から近代市民社会へと移行する過程で生じた様々な問題を乗り越えるためには、諸々の社会現象が相互に関連し合いながら一つの社会現象をつくり出しているという認識が重要となってきた。総合社会学は、危機状況を打開するために必然的に生まれた「市民社会の科学」であり、その基礎には”人間”の存在がある。社会学が、やがて独自の研究領域をもつ社会科学へと変わっていく中で”人間”は、どのように捉えられたか。

 1880年から1920年代にかけて、ドイツで新しい社会学の流れが起こった。先ず、テンニエスは、『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』において独自の社会学を構想した。この質的に対立する二つの概念は、あらゆる人間は「本質意志」と「選択意志」を共有する、ということが前提となっている。彼の社会学は、縦軸に人間行動の原因、又は傾向である衝動や感情の統一としての意志をおき、横軸には、生命発展の三段階を示す植物的生命、動物的生命、人間的生命をおいている。そして、縦軸の意志が、「本質意志」と「選択意志」に分けられる。「本質意志」は、根本は人間の感情(本能)の中にあり、慣習によって固定し、信仰または信頼として完成する意欲をいう。利害関係を抜きにして他者との関わりを求める自然発生的な意志である。この「本質意志」に基礎をおいた理解的・非合理的・非打算的な共同体を「ゲマインシャフト」という。これに対して「選択意志」は、目的と手段が分離し、反対意志(嫌悪や良心の呵責)があるにも関わらずこれを抑圧して目的のために手段を選択する人為的な意志。この「選択意志」に基礎をおく理知的・合理的・打算的な集合体が「ゲゼルシャフト」である。これは、近代の株式会社及び市場によって代表され、そこで人々は「選択意志」によって利害を媒介して一時的に結びついている。いわば「外見上の共同生活」である。近代化は、親族集団や村落共同体のようなゲマインシャフトを解体させ、企業や市場のようなゲゼルシャフトを発達させる。「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」への移行の図式は、有機的な構成をもつ前近代的な社会から機械的な仕組みをもつ近代市民社会への移行という、近代を社会関係の性質の変化という観点から捉えたものである。

 テンニエスに続くジムメルによって、社会学は独自の研究領域をもつ社会科学の一部として確立された。彼は、社会の本質を人間の心的相互作用という動的概念の中に求め、諸個人の間にひき起こされる相互作用が社会化の「形式」である、とした。これは、どのようなことか。先ず、彼は自然科学の命題を考えた。自然を構成している諸要素は客観的な実在だが、それらを認識する個人はそれらを結合して自然の表象をつくる。つまり、個人という主体に対する自然という客体があり、個人の主観の中で客体である自然の表象は成立する。しかし、社会の認識の場合は、客観的な諸要素を結合する主観は、諸要素そのものの中にあると考えた。認識される社会という客体が認識する主体である個人と対立しているのではなく、認識されるものも認識するものも心的相互作用という意識、つまり、社会を自然のような個人を超える客観的な実在とは考えないで、社会をはじめから個人の意識の中にあるものとした。社会という客観的な統一体があって個人の心的相互作用があるのではなく、個人の心的相互作用があってはじめて社会的統一がある。この社会化の過程における形式が、経済・政治・法律などの諸領域を含む「広義の社会」からは区別して「狭義の社会」と呼ばれる。この区別は、社会化の内容と形式との分離にもとづいている。「広義の社会」である経済・政治・法律などは社会化の内容を成す素材であり、これらが社会化において実現されるには共通の形式が必要である。つまりそこには、個人の意欲や関心という内容から抽出して得られる「社会性」による規定が貫いている。個人の間の心的相互作用が社会化の「形式」である、とはこのようなことである。ジムメルは、社会化の内容は他の諸科学にまかせて、内容とは分離した人間の心的相互作用の社会化の形式のみを社会学独自の研究領域とした。故に、形式社会学と呼ばれる。しかし、この方法は、最初から社会の内容と形式との論理的分離を行ったために、また心的動機には触れなかったために、そこにおける人間は歴史的・現実的な個人ではなく、きわめて抽象的な概念になってしまった。結果、人間の主体的意義は失われた。

 ジムメルが失ってしまった人間の主体的意義を中心にすえ、その行為の社会的経験を問うたのがウェーバーである。彼は、社会現象を生きた人間の主体的営為との関わりで捉えた。その出発点は、人間の個人の行為を分析し、その主体的な意味を理解することにある。彼によれば、社会学は人間の「社会的行為」に関する経験的科学である。経験科学においては、行為者の主観的意味や動機が重要となる。

 では「社会的行為」とはなにか。先ず、行為とは行為者が欲求・動機あるいは目的をもつことによって始まり、その欲求・動機が充足され、あるいは目的が達成されるこによって終わる過程である。ここにいう欲求・動機・目的は個人レベルのものであり、社会システムの中でいつも充足、あるいは達成されるわけでは決してない。行為者は、行為の過程の中で、外側になる社会システムという環境との関わりの中で、内側にある欲求・動機、あるいは目的の充足、達成の為に行為する。この行為を、行為者が他者に対して何らかの主観的意味を結びつけると「社会的行為」となる。「社会的行為」とは、行為者が他者と意識的に意味をもって関わる対人的行為であり、「行為の合理性」を軸に四つに分類される。

(1)目的を達成するために合理的に計算される目的合理的行為

(2)結果を顧みることなく価値ある目的に挺身する価値合理的行為

(3)感情的満足を与えるように方向づけられた感情的行為

(4)伝統によって慣習化された伝統的行為

 ウェーバーは、この中で目的合理的行為を優位においている。行為が目的達成のための過程である以上、その目的に対してより適合的な手段を探り選択していくのは合理的な行為である。社会的行為における人間は、目的を達成するために手段を選択しながら行動する主体的な人間といえる。いいかえれば、人間は一定の行為を選択するか、選択しないかを選択する主体である。

 このような主体的人間である個人の社会的行為が相互に関係づけられる時、社会関係が成立する。この社会学的な意味は、より高い満足の実現のために互いに相手を必要とすることにある。社会的行為の当事者間に、その相互関係が互いに満足をもたらした場合には反復される傾向があり、そのことを通じて相互関係を今日と同じく明日も明後日も持続したいという期待が共有されるようになり、社会関係は成立する。そして、社会的行為が繰り返されるとその内部に事実上の規則性が生まれ、人は互いにその規則性に準ずるように自分の行為を方向づける。これが社会現象であり、ウェーバーの社会学の目的は、この社会現象を解明することにある。解明するとは一定の現象を法則的な知識を頼りに、原因-結果の系列で捉えることをいう。諸個人が無数の複雑な相互関係で結ばれている社会に、自然科学のような単純な因果関係を求めることは困難である。しかし、社会科学も科学である以上、何らかの法則的な知識なしには成立しない。そこで、法則を求めるために、目的-手段という人間の目的論的関連を、因果関係のカテゴリーに組み直す必要がある。これを可能にするのが理解的方法であり、個人の生活態度、その意味を出発点とする。

 例えば、近代資本主義はなぜ西欧で発達し、他の地域では発達しなかったか。これをウェーバーは宗教倫理と結びつけて考えた。宗教改革が行われた西欧では、プロテスタンティズムが人々の心を捉えた。その倫理のもとで人々は何よりも現世の職業活動に励むことがもっとも神の声にかなうものと信じ、勤勉・質素・節約を旨として職業活動に専念した。そこで蓄積された富は、ぜいたくなどに使われてはならず、再び職業活動にふりむけられた。そうした結果、富が資本となり、近代資本主義が発達した。つまり人々は私欲から利益を追求したのではなく、キリスト教的禁欲精神から経済的営為に精を出した、と説いた。このようにウェーバーは、日常生活を営む人々の生活態度と生活様式、行動のパターンに注目し、どのようなものによって生活に一定のスタイルが与えられるかを研究した。そしてその精神的態度に注目したのである。ほかならむ日常生活において、経済的営為は行われている。西欧の人々は、世俗内的禁欲によって支えられた行動によって神による救いが得られるものと考え、そうした考えを抱きながら日常生活を営んだ。ウェーバーによれば、日常生活の中で、宗教的に資質ある者への恩恵と撰びが証明される。それは、あるがままのものではない。神への奉仕のために方法的に合理化された日常生活の行為において救済の状態にあることが証明される。ウェーバーは西欧の近代資本主義文化の担い手である人間の、合理的に秩序づけられた日常生活に目を向けた。そして、生活する人間の行為を動機づけるもの、そうした人間がよりどころとする思想に注目しながら、人間を軸として、日常生活の諸相の探究を試みたのである。

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=参考文献=

秋元律郎・石川晃弘・羽田新・柚井孝子著『社会学入門』(有斐閣新書)

富永健一著『社会学講義』(中公新書)

山岸健著『日常生活の社会学』(NHKブックス)

横山寧夫著『社会学』(通信教育教材)

平成10年に書いたレポート、評価はB。
講師評は、
「「人間」理解を考える問題ですから、もう少し構成に工夫が必要です。
ゲマインシャフト的人間・ゲゼルシャフト的人間とは、どのような人間ですか。」
でした。講師は数年前、交通事故で亡くなられた山岸美穂さん。まだ30代でした。



「二大巨頭の決起集会!福島雅典京大名誉教授の重大決心」

2023年01月29日 18時12分53秒 | 気になるニュースあれこれ
2023年1月28日(土)スペース、

https://twitter.com/i/spaces/1mrGmkWwBWQxy?s=20





福島先生、厚労省に情報開示請求を行い、2月2日地方記者クラブにて記者会見を予定。

経験にもとづいて、コロナワクチン被害者は冷静に法的手続きをふんでいくことを熱く語っています。

愛知県がんセンター時代、所属先のがんセンターではなく、原告である患者側の証人として法廷に立ったそうです、本物の侍。



【ファン必見】イケおじ福島雅典 京都大学名誉教授スペシャル!
https://ikenori.com/soudan/archives/54787




謝罪しろコールの嵐

2023年01月29日 14時14分01秒 | 気になるニュースあれこれ
https://twitter.com/hellomitz3/status/1619252363210145792より、

「厚顔無恥とはまさにこの男のためにある言葉。運び屋のデマゴーグ。市民から謝罪しろコールを受けて何を思う?」


愛知県知事選挙、大村陣営の応援にきた河野大臣に謝罪しろコールの嵐。
末永陣営には「コロナは茶番」ののぼり。

今の日本でこういうことが起こるとは、まだ希望があるということか、
それでも、高齢者票と組織票の方が勝ってしまうのか・・・、

名古屋市の河村市長はもう完全に気づいているから、愛知県から日本がまともな国になっていくという希望の灯りをともしてほしい。
マイナンバーカード義務化の暴走も止めなければならない。

ファイザー社の上級研究職?がおとりにひかかって本当のことを言ってしまった動画がアメリカから超絶拡散されていたりするし、気づき始めている人が増えていると信じたい。



太平洋戦争と同じ轍を踏んでいる日本

2023年01月29日 02時13分16秒 | 本あれこれ
ゲートルをマスクにおきかえればコロナ騒動と全く同じ、ワクチンも然り。なにも変わっていない。
戦後日本の答え。

伊丹万作「戦争責任者の問題」(『映画春秋』創刊号・昭和二十一年八月)より、全文は青空文庫に掲載。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html


「さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。

 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏ほきようにつとめていたのであろう。
 
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。」


「つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。

 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜ぼうとく、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。

「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱せいじやくな自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」


「粉砕されたバグ「添加物」がEU全域のピザ、パスタ、シリアルに含まれるようになりました」

2023年01月28日 20時06分16秒 | 気になるニュースあれこれ
粉砕されたバグ「添加物」がEU全域のピザ、パスタ、シリアルに含まれるようになりました

https://www.zerohedge.com/political/crushed-bug-additive-now-included-pizza-pasta-cereals-across-eu
より、

(グーグルにて自動翻訳)

「はい、本当に。

脱脂されたハウスコオロギは、大陸中のヨーロッパ人のメニューにありますが、大多数はそれが現在彼らの食べ物に含まれていることを知りません。

「これは、今月初めに可決された欧州委員会の判決のおかげです」とRTは報告しています。

「欧州食品安全機関の科学的意見を引用した決定によると、この添加物は、シリアルバー、ビスケット、ピザ、パスタベースの製品、ホエイパウダーなど、あらゆる製品に安全に使用できます。」

しかし、コオロギは冷凍する前に「腸の内容物を捨てる」ことを確認するために最初にチェックする必要があるので、心配しないでください。

素敵なもの。

批評家は、バグが食品添加物として広く受け入れられるようになると、その消費は全面的に正常化されることを示唆しました。

「リベラルな世界秩序は、支配階級のイデオロギーに従って、気候が変動するのを防ぐために、小さな人々は虫を食べなければならないと決定しました」とデイブ・ブラントは書いています。

「しかし、ほとんどの人がCovid政策で行ったように、専門家に無意識に従うのではなく、人々は抵抗してきました。ですから、私たちのムーンバットの大君主は、昆虫をひそかに食べ物に忍び込ませています。」

「これにより、近い将来、私たちがすでに虫を食べていることを彼らが明らかにすることができるので、彼らが農場を閉鎖し、新しい食事を課すことに反対する理由はありません。」

欧州連合はまた、最近、人間の消費のために、別名レッサーミールワームとしても知られるアルフィトビウスおむつの使用を承認しました。

私たちが徹底的に文書化したように、グローバリストのテクノクラートと気候変動活動家は、寄生虫感染に関連しているにもかかわらず、人々が地球温暖化と戦うために虫を食べ始めるように一貫してロビー活動を行ってきました。

最近ダボスを訪れたエリート主義のテクノクラートが、人為的な気候変動についてどれほど私たちを殴打したとしても、バグダイエットに切り替えるのではないかと私はやや疑っています。

11月に、ワシントンポストはアメリカ人に、今では4分の1の家族にとって手ごろな価格ではない伝統的な感謝祭のディナーの代わりに、代わりに虫を食べることに目を向けるべきだとアドバイスしました。

オランダの畜産農家は気候変動の規制を受けており、学童は虫を食べるように教え込まれており、別のドイツの学校は肉を完全に禁止しています。」



イタリア在住の日本人女性YouTubeチャンネル、

「パン、パスタ、スナック菓子、加工食品などに積極的に導入されるコオロギ粉」

https://www.youtube.com/watch?v=nDziiVforeU


「ダボス会議裏側の秘話。イタリア人ジャーナリストの話」

https://www.youtube.com/watch?v=_pYBEJKETyY



我那覇真子チャンネル、

「シュワブ財団「メンバー気候変動問題政策で”強制”の必要性を語る @WEF ダボス会議」

https://www.youtube.com/watch?v=RqwLzLHUN0Y&list=UULFCYNZu_NQIm2-PzMyHg55OQ&index=6



 地球温暖化がいつの間にか気候変動にすりかわっています。陰謀論でもなんでもなく全てつながっているという事実。世界はどんどん動いているというのに、国会議事堂の本会議場で延々とマスクを外す、外さないとやっているどこかの国は取り残されるばかり、日々刻々と沈みゆく亡国。


1998年宙組『エクスカリバー』『シトラスの風』

2023年01月28日 13時57分04秒 | 宝塚

『エクスカリバー』

ジェイムズ(アイバンの森の騎士。実は先のブリタニア国王の息子) 姿月あさと

ロザライン(サクソンの名門貴族の娘)              花總まり

クリストファー(ヘンリー王の甥)                和央ようか

ヘンリー(現ブリタニア王)                   星原美沙緒

マーリン(魔法使い)                      大峯麻友

ナネット(ロザリアの乳母)                   出雲綾

スタイン(ブリタニアの落武者)                 真中ひかる

モーガン(魔法使い)                      夏河ゆら

アンドリュー(吟遊詩人)                    湖月わたる

ケイト(スタインの娘)                     陵あきの

ポール(ジェイムズの仲間)                   朝海ひかる


-ものがたり-

 中世のイングランド。ブリタニアを統一した英雄、アーサー王が亡くなり、伝説の聖剣エクスカリバーは魔法使いマーリンの許で、新たな新の王を何百年も待った。遂にリチャード王がブリタニアを統一、国家は安泰となる。だが、そこへ妖術使いモーガンの力を借りたサクソン人ヘンリーが攻撃、マーリンは魔力を失い、リチャード王は名誉の戦士を遂げる。エクスカリバーを手に入れたヘンリーは王となり、王妃マリアンヌを幽閉。王子エドワードは混乱の最中に森でブリタニアの落ち武者スタイン卿に拾われ、ジェイムズと名付けられる。

 スタイン卿に育てられ成長したジェイムズは、アイバンの森の”騎士塾”で騎士道を学んでいた。ある日、ブリタニアの森の守り神ゴールデン・ディアと遊んでいたジェイムズは、道に迷った一人のペイジと出会う。意気投合する二人。実は、そのペイジはサクソンの名門貴族ブルーム伯の娘ロザラインであった。ロザラインは病気の父の代わりに、ヘンりー王の甥、クリストファーらに連れられ、クリムゾンパレスへ行く道中を逃げてきたのだ。心優しく伝説の聖剣エクスカリバーの夢を語るジェイムズにロザラインは惹かれる。そこへクリストファーがゴールデン・ディアを仕留めるのを見たブリタニア人のジェイムズの仲間たちが現れる。身元がばれたロザラインは乳母のナネットと共に、クリストファーらの元に返されるが、そのときすでにジェイムズもロザラインに恋心を感じていたのだ。

 宮殿でロザラインは、エクスカリバーを盾にし、ブリタニア人に対して横暴に振る舞うヘンリーやクリストファーに反発する。そして、ゴールデン・ディアの角を取り戻しにきたジェイムズに角を渡してしまう。怒った王はロザラインをクリストファーの妻にするといい、逃げたジェイムズの首に賞金を掛けた。政略結婚とはいえ、本気でロザラインをものにしたいクリストファーは、モーガンと取引をし、王の玉座の金床からエクスカリバーを引きぬけるようになる。実はヘンリーもモーガンの妖術によってエクスカリバーを引き抜いていたのだ。ヘンリーはロザラインの歓迎の祭りを催し、そこでクリストファーにエクスカリバーを引き抜かせて民衆に認めさせ、ロザラインとの婚約を発表することにした。祭の当日、ジェイムズは道化の振りをして現れる。ところが、ひょうんなことからジェイムズはエクスカリバーを抜いてしまう。雷鳴が轟き、人々は驚愕する。ジェイムズは混乱を利用しロザラインを奪い逃げようとするが、クリストファーに仲間を人質にとられ、失敗に終わった。ロザラインはジェイムズたちの安全と引き換えに、クリストファーとの結婚を承諾するのであった。

 森に帰ったジェイムズはエクスカリバーを引き抜いた真の騎士として、ブリタニア人や、ヘンリーに反対するサクソン人を集め、アイバン騎士団を結成するのだが・・・。



1998年宙組『エクスカリバー』より-「未来へ」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/61c157eb151944bfbaa6f6ca4f689e8a


宝塚歌劇の殿堂より_宙組展(1)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/910d59773d505637420b922ca66773f6




罪にとわれないの?

2023年01月27日 18時48分16秒 | 気になるニュースあれこれ
2023年1月26日KSB瀬戸内海放送、

岡山大学病院が新型コロナ補助金を約19億円過大受給

https://news.yahoo.co.jp/articles/45a8a547ed509a522ddf99c5d65fa65ff392a876

「岡山大学病院が新型コロナウイルス患者の病床確保のための補助金を約19億円多く受け取っていたことが分かりました。

岡山大学病院

 岡山大学病院が過大に受け取っていたのは「空床補償」の補助金で、新型コロナウイルスに感染して入院する患者のため、病床を空けて準備する医療機関に支払われるものです。

 岡山大学病院によりますと一般病床の補助金を申請する際、1日あたり7万4000円で申請すべきところを、高度な治療ができるICUなどの病床単価である21万1000円で申請していたということです。

 誤った金額での申請は2021年1月から2022年3月までの1年3カ月で、補助金約19億円を過大に受け取ったとしています。

 岡山大学病院は意図的な申請ではなく、過大に受け取った補助金を返還するとした上で、「チェック体制を強化するなど、再発防止に全力で取り組んでまいります」とコメントしています。」


 1床あたり、7万4000円で申請すべきところを21万1000円で申請、事務局長とかいるだろうに、最終的に決済がおりるまでにハンコを押したえらい人が何人もいるだろうに、どこかの段階で気づかなかったということがあり得るのでしょうか。謝罪してお金を返せばすむという話なのでしょうか。財務省が指摘した〇身さんのコロナ幽霊病床補助金も返すという話がきこえないどころか、社会活動を妨げることしか言わない専門家会議?の長の椅子に収まったままで表立った問題になりません。コロナといえばなんでも許されてしまう免罪符状態。こういう事態を招いてしまったのは、結局テレビと新聞のコロナ恐怖に踊らされ、自分の頭で考えることを忘れて、ワクチン接種会場の列に並び、粛々とマスクをつけ続けているわたしたちという面もあると思います。

 コロナ騒動があぶり出した日本の凋落ぶり、医療も行政も全く信じることができなくなりました。おかしいことだらけ、こんなにおかしいことだらけがまかり通っている国。30年間給料あがるどころか、社会保障費と税金が増えて、手取りは減り続けているだけある、とうに終わっていました。