たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より(3)

2014年10月01日 13時01分40秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「刑事告訴をするにあたっては、連絡会として基本的な姿勢があった。それは、刑事告訴をするには、個人を特定しなければならないという法律に関することだった。

 このような大事故、複合化された巨大システムの中での事故では、ミスがどこで起こったかを特定するのは、大変困難である。しかし、それでも、個人にしか刑事訴訟法は適用されない。すなわち、悪くすれば、刑事告訴をしたら、現場の整備員一人だけに罪をかぶせてしまうような”トカゲのしっぽ切り”的な方法で決着がついてしまうこともあるというのである。

 私たちは、この事故の原因を明確にするとともに、トップにある人の責任こそ問われるべきだと考えていた。国際民間航空機関(ICAO)の条約には、「経営の責任者の姿勢によって安全確保が左右され、安全性がそこなわれた場合の責任は、そのトップの経営者にある」とある。

 日航は、営利を追求するあまり、安全の確保を怠ったのではないか。この点に最もメスを入れたいと、8.12連絡会は考えていた。

 しかし、刑法は、明治時代に制定されて以来ほとんど形をかえていない。その刑法にしばられ、企業全体の責任を問うことができなかった。

 そこで、関係各機関のトップになる人たちを被告訴人としたい、と弁護士に伝えた。これは、法律上、大変困難なことだ。それでも、企業全体の責任を問わなければ、再発防止にはならないと考えた。

 弁護士は、こう説明した。
「告訴事実は、事故の原因、因果関係を特定して、はじめて成り立つ。ところが、この事故の原因は航空事故調査委員会が調査中だ。新聞紙上では隔壁の修理ミスを第一原因とする隔壁破壊説が先行し、ほぼ規定の事実として報道されていたが、これは、修理ミスを認めることで、問題を設計にまで波及させないためのボ社の戦略ではないか」

 確かに、生存者の証言などから分っている事故当時の機内の状況をみると、急減圧があったとは考えられず、隔壁破壊説先行への疑問も残っていた。

 今回の事故は、航空機が最も安全といわれる巡航飛行中に、天候等の外的な要因もないのに操作不能に陥って墜落した点に大きな特徴があった。逆に言えば、航空機の設計→製造→修理→整備の過程に問題がなければ、絶対に起こらないと思われる事故だったのである。





 事故からわずか4か月後の12月5日、米国ではNTSB(米国家運輸安全委員会)がFAA(米連邦航空局)に対し、「安全についての勧告」を行っている。NTSBは事故後ボーイング社で行った実験や解析などを参考にこの事故の原因を分析し、
①すべてのボーイング747型機に対し、尾翼にかなり大きな内部圧力がかかっても今回の事故のような致命的な破壊が起こらないように設計変更すること。
②同じくそのような場合に4系統の油圧システムのすべてが損傷を受けることのないように設計変更すること。
③ボーイング747型機だけでなく新しい機種である767型機に対しても、後部圧力隔壁が本当にフェール・セーフ性を持っているかどうか、ボーイング社に解析と実験をおこなわせ、これらの機体の圧力隔壁の設計を再評価すること。
④後部圧力隔壁に発生する可能性を持つ同時多発型の金属疲労による亀裂の大きさを調べるために通常の目視検査より高度な点検が行えるように点検の間隔を設定するよう、ボーイング747型機の点検規定を改訂すること。
 という勧告をおこなっていた。迅速かつ的確なものだと思った。

 この勧告を見る限り、実際に、機体の圧力隔壁には問題があると見られていたことが分かる。すなわち、圧力隔壁破壊説の先行はボ社の戦略として打ち出された、という見解は、必ずしも当たらないと考えられた。

 同じく1985年12月に公表された運輸省事故調の第三次中間報告で、事故前に隔壁に合計29センチに及ぶ亀裂が存在していたことも明らかにされた。結局、若干の疑問を残しながらも、告訴の基本となる事実関係としては、圧力隔壁破壊説以外の選択肢はなかった。

 誰を告訴するか、というのは、遺族としてなぜ告訴するのか、に深くかかわったテーマだった。結果的に、次のように落ち着いた。

 ここに、1986年2月の弁護団から連絡会あての提案文書(遺族の意向をくんだうえで、弁護団の会議で作成されたもの)がある。この中で、告訴・告発の意義は3点に整理されている。
①事故の責任追及、空の安全の確保を願う遺族の率直なアピール
②事故調、捜査機関による事故原因究明を促進させ、安易な幕引きを許さない
③仮に不起訴となったとき、検察審査会に申し立てることができる。
そして被告人については、裁かれるべきは、営利追求姿勢にあることを明らかにするため、被告人は責任者に限定し、パイロット・乗務員・整備士等は対象としないのが相当であると考える。

 今から考えれば不思議なことであるが、誰を被告人にするかについて、私たちは、ほとんど迷いがなかった。事故機を最後に整備した人とか、圧力隔壁を間違って取り付けた人を告訴しようと考えてもおかしくなかったと思う。当時の告訴事実の構成からすれば、隔壁の亀裂の発見ができなかった整備員に刑事責任の追及を行うことは十分可能であった。後に群馬県警によって送検された被疑者のなかにも、現場の整備員が一名含まれている。

 しかし、整備にしても修理にしても、訓練やマニュアルが行き届き、きちんとした計画の元に十分な時間が保証され、労働条件が整っていれば、現場の人はいい仕事ができる。それを最終的に左右する力があるのは、経営陣である。いや、そう整理して考えたのは、もっと後になってからだったような気もする。他の人たちも同じだと思うが、告訴した当時は、個人ではなく何か大きな壁に立ち向かっているという感覚だった。

 事務局に集まりみんなで話し合った。連絡会結成時のアピールに書いたように、「蟷螂の斧ともいわれようとも」という気概と、でも亡くなった人は帰ってこないという気持ちで、押し潰されそうになってしまうこともあった。

 大きな会社が、どんなに揺らぎのないものであるか。何百人と死んでも、会社は、時間が過ぎればまた、元の通りとなるかもしれない。だからこそ、この事故が起きるに至った真相を知りたい。私たちが告訴した人たちが、誰一人として送検されることもなく起訴されることもなく、たとえ告訴が無駄に終わったとしても、最も真実に近付けそうな方法をとりたい。そして、できるだけ多くの人達に真実を知らせない。そういう気持がどんどん高まった。

 告訴状の作成と並行して、事務局では、告訴や告発を呼び掛けるパンフレットや委任状の作成にはいった。昼間は会社勤めで参加できない遺族は、私の家にに泊まり、夜を徹して準備にあたった。日付が変わってしばらくたった頃にやっと作業を終え頭が冴えてしまった男の人は、なかなか寝付けず、お酒の力を借りることもあった。そんなときにふと、それぞれの人の抱える重いものの、あまりにも重くて言葉にもならないようなものを見る気がした。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年新潮社発行、52-56頁より引用させていただきました。)
 




『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より(2)

2014年08月23日 20時34分10秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「2013年1月15日(火)

人が生きていく営みーそれは、先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめて命なんだと思う。」


6月30日付で紹介させていただいた頁と流れが前後してしまいますが、紹介させていただきます。

「1986年の1月29日に開かれた、東京地区の集会でのこと。
「社長室の前で灯油を被って死にたい」と、子供を二人亡くした女の人が、泣き笑いのような、投げ出したような表情で語った。

 集会の席でそういう発言をすることは少しも不自然ではなく、むしろ、そういう声をうけとめあうために集まっている、とも言えた。誰かが励ましの言葉をかける。普段の生活では周りに遠慮して言えないようなことを正直に言える貴重な場所だった。その同じ集会で、刑事告訴の話も持ち出された。

 そして、翌月の2月15日、大阪市立勤労会館で、遺族の集まりを持った。242名が参加し、椅子が足りなくなるほどだった。東京で少人数が集まり、顔をつき合わせて話しているのとは、勝手が違う。とにかく身を寄せ合おう、と会を結成した時の雰囲気とも違う。

 どの人も、あの事故以来、何ごとにも疑い深くなって、身を固くしている感じだった。そんな人が大勢集まって、一つのことを話し合おうとしている。集会の後半では日航幹部が出席し、遺族の質問に応じることになっていた。

 集会で話し合う内容は、遺族へのアンケートの結果に添ったものだった。

 アンケートを発送したのが、1月19日。「連絡会でやっていきたいことはなんですか」という質問をした。結果は、「刑事責任の追及」が一番多かった。父を亡くした26歳の女性は、「亡くなった人たちの声をこの世の人たちに届けられるのは私たちしかいない」と書いていた。

 午後1時に始まった集会は、最初から独特の緊張した雰囲気に覆われた。はたして、話し合いがスムースに進み、今後の会の活動指針が固まるのか、私は不安だった。

 しかし、それは取り越し苦労におわった。事前に作成した告訴状の原案を配布する。たくさんの真剣なまなざしがあった。うれしかった。

 その後の日航の社長らとの話し合いでは、遺族側の振り絞るような訴えに、彼らは、「社会の常識、通年というものに基づきまして」、「お気持ちは分かっておりますので、考えさせていただきます」、「誠心誠意・・・」といった決まり文句に終始した。この言葉を聞きながら、出席した多くの遺族が、「この事故は人災であったのだ」という思いを強くしていった。そして、ますます、事故の悲惨さ、死んだ人たちが味わった苦しみ、それを招いたことの重大さにふさわしい形で責任をとってもらいたい、と思ったのではないか。刑事告訴をするという提案は、そんな遺族の気持ちと一致したのだと思う。




 全国にちらばった遺族は、たまたま家族が同じ飛行機に乗り合わせた、同じように愛する人を失ったというだけの縁である。顔も知らなかったし、もちろん、者の考え方も様々のはずだ。その遺族たちが、何か一つのことをしようとしているのである。何かできる。そんな気がした。

 会には、遺族に寄り添う弁護士たちがいた。まさに、手弁当での支援をしてくれた。なかでも、海渡雄一弁護士と梓澤和幸弁護士は、遺族と同一の目線で話をし、8・12連絡会の集会に毎回来てくれた。詳細は後述するが、事故原因を究明する目的で作られた8・12連絡会の原因究明部会も引っ張ってくれた。

 遺族にとって、支援してくれる弁護士たちは、多くの「なぜ」を共に考え、解決していくために有難い存在だった。不安な遺族を元気にしてくれた。事故にあうまでは、弁護士という特別な存在と考えていた。だが、彼らは、多くの支援をしてくれ、いつもこころよく相談にのってくれた。会を無償で支援するこの弁護士たちがいなかったら、何事も前には進まなかっただろう。

 今、様々な事故で、被害者に寄り添う若い弁護士に出会う。民事訴訟に至らない段階で支援をしてくれる弁護士は、経済的にも負担が大変だと思う。私たちのように刑事訴訟となると、さらに長い時間お世話になる。彼らは、本当の意味での遺族支援をしている。

 2月15日の大阪集会の日から4月12日の第一回刑事告訴の日まで、事務局は、弁護士を交え、その準備に追われることになる。告訴状は、連絡会の顧問弁護士4人と遺族が夜を徹して作成にあたった。

 事務局ではこんな話をしていた。
「あれだけの人が死んでいる事故でしょう。普通、交通事故でも刑事事件でしょう。あれが刑事事件じゃないってことのほうが不自然」と、父を亡くした若い女性。「この問題が刑事事件にならないはずがない、絶対やりましょう」と、娘一家を亡くした初老の男性。「刑事事件になれば、多少でも真相がはっきりして、再発防止につながるんじゃないか」と言った人は多かった。また、父を亡くした大学生は、「刑事事件にするという認識、概念が、僕はなかったですよ」。夫を亡くし、小学生の子供がいる女性は、「刑事事件と民事事件の違いをはじめて知りました」と話す。

 私たちは、新聞やテレビで聞きかじった言葉の意味を弁護士に説明してもらったり、すでに告訴をしていた羽田沖事故の遺族会の例を聞いたりするうちに、誰でもが使える方法が準備されていることを知った。もう二度と同じ事を起こさないため、誰かが、苦しい、悲しい思いをしないためにも、使える方法を使い切ることが、私たちに与えられた責任のような気がした。

 この告訴について、後に海渡弁護士は、「群警が捜査をやっていたが、このまま放っておいたら起訴までいくかなという不安はあった。だから、遺族がバックアップ、つまり告訴をしないと前に進まないんじゃないか、と思い、勧めた」と話す。梓澤弁護士は、「事故原因を究明するためには、一番いい方法だとおもいましたね」と言う一方で、「乗員組合などが一貫して、刑事責任の追及に反対していることが気になっていた」という。

 米国などでは、事故原因の追及を優先するために、航空機事故の関係者に限っては刑事責任が免責される。決して責任を問わないから、本当のことを言いなさいというわけである。当時、私たちはまだそういったことを知らなかった。また、日本では制度も違う。被害者と航空関係者、事故の再発防止という願いは同じでも、そこに至るまでの道が互いを邪魔することもある。

 しかし、このとき告訴・告発をしたことは間違っていなかったと思う。この件について、会では折にふれて論議した。最終的に、「刑を与えるのが目的ではない。捜査機関、事故調にたいするプレッシャーになる、黙って見ているのではなく、これだけの遺族が見張っているという、意見表明としての告訴である」と、この告訴を位置づけた。

 刑事告訴をするにあたり、遺族は、告訴に賛同する周囲の人々に、告発人という形で参加をよびかけた。よびかけ文にはこうあった。

「わたしたちは、真実が明らかにされ、正当な裁きのもとに世界の空が安全になることを望みます。520の御霊が安らかなるために」

 告発人として署名をいただくことは、遺族にとってつらい作業でもあった。しかし、全国各地で、遺族は、告発人の署名集めに奔走した。激励の言葉をいただく一方で、「権力に盾つくと後で損をする」と言ってペンをとってくれない方もいて、少し悲しかった。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、49-52頁より引用しています。)



心を大きく揺さぶられた一文を紹介させていただきます。


「そして、私は、悲しみは乗り越えるのではないと思っている。亡き人を思う苦しみが、かき消せない炎のようにあるからこそ、亡き人と共に生きていけるのだと思う。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、238頁より引用しています。)

『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より

2014年06月30日 09時45分51秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「2013年1月22日(水)日航機墜落で9歳の男の子を亡くしたお母さんの本をむさぼるように読む。涙があふれて仕方ない。」

「2013年1月27日(日)『日航機墜落事故 朝日新聞の24時』を息を呑むようにして読む。」


今あらためて共鳴し、また考えさせられるところを少しずつ紹介させていただきたいと思います。

「(「この事故の実態と真相を公開の法廷で明らかにしたい」という遺族の要望書に賛同する)署名活動をしている最中の1989年8月12日、8.12連絡会は、前橋地方検察庁検事正宛と東京地方検察庁検事正宛に、要望書を提出した。

 単独機として、航空機史上最多である520人という犠牲者をだし、世界中の人々を震撼させた事故の公訴時効まで、1年を残すだけとなった。こんな大事故がどうして起きたのか、520人の命を取り戻すことができないのなら、せめて、再び同じ原因によって尊い命を犠牲にさせたくないという気持ちだった。事故から4年目のこの夏は、多くの仲間と気力をふりしぼって、忙しい日々を過ごした。

 しかし、マスコミは、この年の9月には、一斉に検察の不起訴処分が決定したとの報道を流した。そんな状況下、検察庁では9月29日に高検、地検の合同捜査会議が開かれ、米国への検事2名の派遣を決めている。

 私はさらに、「この事故の真の原因を、公開の法廷で明白にしてほしい」という内容の投稿を1989年10月19日の毎日新聞にした。

 万人に公開される裁判という場で、事実関係と責任の所在が明らかにされ、再発防止につながることを望んだ。起訴はあくまで「真相と責任を明らかにする入り口」と思っていた。そして、前橋・東京両地検が、事件の真相の解明に向けて、適正かつ迅速な捜査をされるよう望んだ。

 修理を担当したボーイング関係者については、氏名不詳ということだったが、修理指示書の上では明らかになっている。社内では人物は特定されているはずだ。それなのに、何故、その4人に直接話を聞いて事件の真相を明らかにすることができないのか。国が違うという理由で真実に手が届かないことに、私はあせりを感じていた。遺族からは、「できるかぎり真実にせまってほしい」、「検察は、起訴した以上、有罪にならなければ検察の権威に関わると思っているかもしれない。しかし、日本の検察が有罪率99パーセントを誇っているのが変だ」の声が寄せられる。

 ボ社の修理作業員からの事情聴取は、数次にわたる検事の派遣によっても実現していないようだった。

 捜査は、1207日に及んだ。

 1989年11月22日、検察の下した結論は、全員不起訴だった。

 事故の責任は、誰も問われなかった。だが、現実に何らかが原因で520人は死んでいったのだ。捜査が不起訴になったことについて、県警特捜の品川正光さんは、「不起訴理由は嫌疑不十分で、過失がまったくなかったということではない。航空関係者は、この事故が防ぎ得た事故たっだということを十分認識し、航空機の整備、点検に限りない努力をして事故防止を図ってほしい」と話した。

 しかし、たとえ事故を捜査した警察がそう言っても、不起訴になってしまったら、安全のために論議を交わす機会がなくなってしまう。企業は人命軽視の思想を温存させてしまうのではないかと危惧し、やりきれない思いがした。法律っていったい、誰のためにあるのだろうと思った。ごく普通の市民の生活や命が守られるためにあるはずなのに。法律を守り日々生活している善良な人たちの暮らしを守るためにあるはずなのに。市民の感覚をもっと取り入れて行く司法の仕組みが必要だと思った。

 時代は、変わりつつある。技術も産業も、そこで起こる事故も、今までのものとは違う。個人の責任だけを問い、組織の責任を問うことができない業務上過失致死罪には、限界がある。個人の責任は、肥大した組織の中に埋没してしまっているのだから。法は、時代の変化に追いつかなければならないのに、法と現実が遠ざかっていると感じた。また、航空機産業に国境の壁はないはずなのに、事故の責任だけは、国境の壁に阻まれて問えない。国家間の法体系の違いも、責任追及における限界を生んでいた。

 このまま不起訴になると、群馬県警や前橋地検が、これまで蓄積したキャビネット30個に及ぶ膨大な調書・写真・証拠品などの捜査資料が生かされない。何としても、事故調査の膨大な資料を生かしたいと思った。

「安全」は、どうしたら守れるのだろうか。事故原因の真相究明は、刑事責任を追及する公開の法廷では無理なのだろうか。事故調査と刑事捜査の区分を明確にすることへの議論を高めたいと思った。」

(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』2010年6月25日新潮社発行、115-118頁より引用しています。)