たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

福島第一原子力発電所-3月11日の対応(2)

2023年02月24日 12時43分32秒 | 東日本大震災
福島第一原子力発電所-3月11日の対応
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/3c3fdb9cceaee844f523c2df81da4640




『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島第一原子力発電所の被災直後からの対応

-3月11日の対応-1、2号機の炉心注水状況の確認

 直流電源喪失の結果、1、2号機では原子炉の運転に必要な水位等のパラメータが監視できなくなり、原子炉に注水が行われているか否かも確認できなくなった。そのため、16時45分頃、原災法第15条第1項の規定に基づく特定事象(非常用炉心冷却装置注水不能)が発生したとして報告が行われる。(水位計は、16時42分から14分間だけ表示が回復したが、その後再度表示が消えてしまった)

 大事な局面でプラントパラメータを参照できなかったことは、現場での対応を非常に難しくした。吉田昌郎発電所長は、17時10分頃、1/2号機を確実に冷却するために、事前にアクシデント・マネジメントの一環として備えられていたラインを使い、ディーゼル駆動消防ポンプか消防車を動力として、原子炉へ外部から注水できるよう準備するよう指示した。当直は、1号機の原子炉建屋内で、ディーゼル駆動消防ポンプの起動を確認し(17時30分頃)、注水ラインを構成した(18時30頃)。また、1号機のIC(非常用復水器)と2号機のRCIC(原子炉隔離時冷却系)の運転状況を把握するための努力も継続された。
 
 1号機のIC(非常用復水器)については、18時18分から21時30分にかけて、表示灯の一部のみが回復したことから、当直によって操作が試みられた。しかし、ICの機能はほぼ喪失しており、原子炉への注水能力はほどんとなかった。当直は、18時25分頃、1/2号機の中央制御室のある建物の非常階段からICから発生する蒸気の観測を試みることによって、ICの熱交換能力が十分でないことを示す兆候を得ていた。しかし、当直の懸念は、発電所対策本部へ正しく伝達されなかった。この作業における問題は後述する。こうして、1号機の冷却に関する状況がつかめない中で、原子炉水位が低下して、核燃料が露出し、炉心損傷に至ったと見られている。

 21時19分、1号機の原子炉水位計の表示が復旧した。その結果、1号機の水位は低下しており、有効燃料頂部より200mm上部であることが判明した。(もっとも、この数値の信用性は低い。ひとたび著しく不安定な状態になってしまうと、圧力を利用した水位計は校正が必要になるのである。その点を当直も認識していたことは、11日深夜に1号機の中央制御室のホワイトボードを撮影した写真から示されている)。

 21時50分、2号機の原子炉水位計の表示が復旧した。水位計の値は、有効燃料頂部から、+3400mmの値を示していた。つまり、1号機よりも高い水位を維持していた。(この時点では2号機は安定であったことが後に明らかになっており、この時点での2号機原子炉水位計の信頼性は高い)。

 ドライウェル圧力計は、2号機で23:25ごろに、1号機で23:50頃に、それぞれ復旧した。その結果、2号機では圧力が低いのに対し、1号機では最高使用圧力を超えていることが判明した。1号機は直ちに原子炉格納容器ベントが必要な状況であった。」


                                   ⇒続く

福島第一原子力発電所-3月11日の対応

2022年04月03日 15時36分28秒 | 東日本大震災
福島第一原子力発電所
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/de4eefbe155a7890934ca58979c59c57



『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島第一原子力発電所の被災直後からの対応

-3月11日の対応-地震発生直後の対応

 2011年3月11日14時46分、東北地方太平洋沖地震が発生した。このとき、1~3号機は運転中、4~6号機は、定期点検中であった。また4号機は全燃料を使用済み燃料プールへ取り出して、原子炉内の炉心シュラウドの交換工事を実施中であった。

 1~3号機では、地震を検知して原子炉が自動停止し、全制御棒が挿入された。14時54分~15時02分の間に、1~3号機全てで原子炉未臨界が確認された。

 1~6号機では、地震直後に外部電源を喪失した。このため、1~3号機ではフェイルセーフの機能が働き、主蒸気隔離弁が自動閉止して、原子炉がタービン系から隔離された。全てのプラントでは、ディーゼル発電機が直ちに自動起動し、電源はいったん回復している。

 制御棒が挿入され、主蒸気隔離弁が閉止した後、1~3号機すべては原子炉への注水を開始した。原子炉の注水には、1号機で非常用復水器(IC)が、2、3号機では原子炉隔離時冷却系(RCIC)が、それぞれ用いられた。ここで、ICとは原子炉内の蒸気を原子炉格納容器の外へ導いて、熱交換器を通して水に戻し、再循環系配管から再び原子炉内へ注入する系統である。また、RCICとは原子炉内の蒸気を原子炉格納容器外に導いてタービンの動力とし、その動力でポンプを動かして、原子炉へ冷却水を注入する系統である。

 1,2号機の中央制御室では、崩壊熱を最終ヒートシンクである海へと導くための操作も行われた。1号機では15時04分から15時11分にかけて原子炉格納容器冷却系を圧力制御室冷却モードで起動した。3号機では、津波の引き波から海水ポンプを保護する観点から、残留熱除去系を直ちに起動することをしなかった。


-3月11日の対応-津波の来襲

 15時27分、最初に大きな津波が福島第一原子力発電所に来襲した(水位は高さ4m)。次に大きな波は15時35分で、波高計(7.5mまで測定可能)を破壊し、高さ10mの防波堤を超えて、主要建屋設置敷地内へと押し寄せた。1~6号機すべてにおいて非常用海水系ポンプが被水して機能喪失し、崩壊熱を導いて海で排熱することができなくなった。また、主要建屋設置敷地もほとんど冠水した。水は、主要建屋内にも浸水し、安全上重要な設備の多くが被水することになった。

 15時37分から15時42分にかけて、1~5号機では全交流電源喪失状態となった。また、1、2,4号機では直流電源も喪失した。原子力災害対策特別措置法(原災法)第10条第1項の規定に基づく特定事象(全交流電源喪失)が発生したことが、15時42分に報告された。

-3月11日の対応-人的な被害

 被災後、4号機タービン建屋において現場調査中の東京電力社員2人が行方不明となり、後に浸水した同建屋地下1階から遺体で発見された。津波に巻き込まれて亡くなったと見られている。また、福島第二原子力発電所でも、排気筒クレーン操縦室で作業中の協力社員1人が、地震により亡くなった。」

                                   ⇒続く

 

 


福島第一原子力発電所

2022年04月02日 12時05分13秒 | 東日本大震災
原子力コミュニティ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/df829381d84ac47200eed43cb57fc816





『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島第一原子力発電所の被災直後からの対応

-福島第一原子力発電所-

 福島第一原子力発電所は、福島県双葉郡大熊町と双葉町に位置する。敷地面積約350haに、1号機から6号機までの6基の沸騰水型軽水炉(総発電量469.6万kw)が設置されている。1960年代から建設が開始されており、1号機は日本で3番目に古い商用発電用軽水炉として、1971年3月に運転を開始した。その後、1979年10月までに2-6号機が相次いで運転を開始した。

 通常、福島第一原子力発電所で勤務する東京電力の従業員は約1100人であり、このほかにプラントメーカーや防火・警備等を担当する多数の協力企業の社員が常駐しており、その数は約2000人である。地震発生時には、東京電力の従業員約750人が構内に勤務していた。また、4~6号機の定期検査に携わっていた従業員を含めて、5600人の協力企業の従業員が構内に勤務していた。」

                                    ⇒続く

原子力コミュニティ

2022年04月01日 16時18分19秒 | 東日本大震災
日本の原子力安全維持体制の形骸化
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/8f7b621e4a4b48377d39b55321ba26d1




『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島原発事故独立検証委員会 北澤宏一委員長メッセージ
 不幸な事故の背景を明らかにし、安全な国を目指す教訓に

「-原子力コミュニティ-

 私たちのヒアリングでの元経済産業省高官の言葉は、原子力産業を規制する側の経済産業省と規制される側の事業者との関係を如実に物語っています。「東京電力はですね、自家発電事業者が東京電力の電線を用いて送電させてくれといってもことごとくたたき落とす。そのために利用するのが国の規制。つまり、東電は『我々はいいんですけど、国の規制で出来ませんから』と言って独占体制を固めてきた。我々、手取り足取りね、要するに指導、規制していることになっている。90年代の中頃に規制改革をやった。東京電力によって支配されている資源エネルギー庁っていう様態を改善するためにやるんだっていう見方が・・・。規制しているようで、道具にされている。保安院というのは東電に頭が上がらないとは言わないんですけど」。安全規制は、本質的に推進側と対立することができる存在でなければなりません。なれ合い体質を打破できる抜本的な法的・組織的改革が行なわれない限り、原子力の安全性の確保は非常に困難だと言えます。

 さらに、「原子力ムラ」は多種多様な癒着構造を持っていることもわかりました。与野党双方の政治家への電力会社からの巨大な広告費、原子力関連研究者への電力会社からの多額の寄付、電力会社や原子力関連財団への官庁からの天下り、電力会社から官庁や原子力関連財団への出向、子供たちの原子力親和教育を支援する文化財団や教員グループへの国からの支援、自治体への国からの交付金の支給、電力会社による自治体への文化施設などインフラの寄付など、様々な形で「ムラ」は結びついています。この「原子力ムラ」というコミュニティは、空気を読み合いつつ惰性によって動く利益共有型の集団と言えます。したがって、このような集団の中に規制機関や安全に関する評価委員会を設置しても、それらが馴れ合いになってしまうことは明白です。法律・制度や組織体制の抜本的改革が必須で、かつ、シビリアン・コントロールの精神、すなわち、ムラの外側からも主要な人材を連続的に取り入れていくことのできる組織変革が必須の条件です。」

                                     ⇒続く

日本の原子力安全維持体制の形骸化

2022年03月30日 16時15分26秒 | 東日本大震災
東京電力・福島第一原子力発電所事故の特徴
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/b167f2d9cb993c57954ff0cafec64029




『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島原発事故独立検証委員会 北澤宏一委員長メッセージ
 不幸な事故の背景を明らかにし、安全な国を目指す教訓に

-日本の原子力安全維持体制の形骸化-

 この検証の中で、日本の原発の安全性維持の仕組みが制度的に形骸化し、張子のトラ状態になっていることが明らかになりました。その象徴は「安全神話」です。安全神話はもととも立地地域住民の納得のために作られていったとされますが、いつの間にか原子力推進側の人々自身が安全神話に縛られる状態となり、「安全性をより高める」といった言葉を使ってはならない雰囲気が醸成されていました。電力会社も原子炉メーカーも「絶対に安全なものにさらに安全性を高めるなどといいうことは論理的にあり得ない」として彼ら自身の中で「安全性向上」といった観点からの改善や新規対策をとることができなくなっていったのです。メーカーから電力会社への書類でも「安全性向上」といった言葉は削除され、「安全のため」という理由では仕様の変更もできなくなっていました。

 原子力安全委員会が「長期間にわたる全交流動力電源喪失は、送電線の復旧股は非常用交流電源設備の修復が期待できるので考慮する必要はない」とする指針を有していたという事実がその好例です。なぜ高い安全性を実現しなければならないはずの原子力安全委員会がこのような内容を盛り込んだ指針を作らなければならないのでしょうか。この指針があることで、電気事業者は過酷事故への備えを怠った面があります。安全を犠牲にして電力事業者の負担をなるべく減らそうとするご機嫌とりにしか見えません。原子力推進側にいたことのある、ある政府高官は「当時は原子力安全委員会において、東電の発言権が大きかったことは確かです。そして一旦このような指針が決められると「間違っていた」として訂正することはほぼ不可能でした」と語っています。

 米国や欧州では1979年のスリーマイルアイランド事故や2001年9月11日の同時多発テロ事件の後、センサー類やベントのためのバルブの改善を含むいくつかの過酷事故対策が実施されました。しかし当時の日本政府や電気事業者はこうした対策の多くを無視し、その結果、過酷事故への備えが不十分となっていました。世界平均の数十倍もの高い確率で巨大地震が発生する国である日本が過酷事故対策についてこのような態度をとってきたこは国際社会に対しても恥ずべきことと言わねばなりません。

 この調査中、政府の原子力安全関係の元高官や東京電力元経営陣は異口同音に「安全対策が不十分であることの問題意識は存在した。しかし、自分一人が流れに棹をさしても変わらなかったであろう」と述べていました。じょじょに作り上げられた「安全神話」の舞台の上で、すべての関係者が「その場の空気を読んで、組織が困るかもしれないことは発言せず、流れに沿って行動する」態度をとるようになったということです。これは日本社会独特の特性であると解説する人もいます。しかし、もしも「空気を読む」ことが日本社会では不可避であるとすれば、そのような社会は原子力のようなリスクの高い大型で複雑な技術を安全に運営する資格はありません。」

                                     ⇒続く

東京電力・福島第一原子力発電所事故の特徴

2022年03月30日 00時46分03秒 | 東日本大震災


 分厚い一冊、10年越しでようやく一通りなんとか読み終わりました。先週気温が低下した時の首都圏の電力逼迫、ロシアのウクライナ侵攻、海外へのエネルギー依存度をさげるために資源のない日本は、停止中の原発を今すぐ再稼働させるべきなのか、むずかしくてわかりません。一人一人が考えるべき時なのでしょう。当時就労していた大会社で、決算期の業務をやっつけながらもパソコンの画面に、放水する様子を流すニュース映像を立ち上げ、気もそぞろに緊張感をもって見守っていたことを思い出します。せめて、あの時なにが起っていたのかをたどっていきたいと思います。

 現在日本で稼働中の原発は、四国電力伊方発電所3号機、九州電力玄海原子力発電所4号機、九州電力川内原子力発電所1号機。

原子力規制委員会HPより、

https://www.nsr.go.jp/jimusho/unten_jokyo.html?msclkid=39c82ff3af7411ec94ac46f507c5e83e

『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書 』より、

「福島原発事故独立検証委員会 北澤宏一委員長メッセージ
 不幸な事故の背景を明らかにし、安全な国を目指す教訓に

-東京電力・福島第一原子力発電所事故の特徴-

 福島第一原子力発電所の事故の最大の特徴は、「過密な配置と危機の増幅」でした。福島第一原発には、6つの原子炉と7つの使用済み燃料プールが接近して配置されていました。現場の運転員たちは、水位や圧力を示すセンサーなどの表示が信頼できないという絶望的な状況の中で、危険な状態に陥った多数の炉や使用済み核燃料プールに同時に注意を払わなければならなくなりました。ある炉の状態の悪化による放射線量レベルの上昇や、爆発による瓦礫の飛散、設備の損傷などによって、他の炉や使用済み燃料貯蔵プールに対する対策が妨げられたことで、危機は次々に拡大していきました。

 国民に対してはっきりとは知らされていなかった今回の事故の最大の危機が、この検証の中で明らかになりました。2号機などの格納容器の圧力が上がり爆発により大量の放射能が一挙に放出される可能性があったことと、運転休止中の4号機の使用済み燃料プールが建屋の水素爆発で大気中にむき出しの状態となったことについて、政府上層部が長期にわたり強い危機感を抱いていたことがわかりました。事態が悪化すると住民避難区域は半径200km以上にも及び、首都圏を含む3000万人の避難が必要になる可能性もありました。原子力委員会の近藤駿介委員長らはこうした見通しを「最悪のシナリオ」として検討し、菅首相に報告していました。」

                                         ⇒続く

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(12)

2020年03月26日 19時25分01秒 | 東日本大震災
「石巻市に足を運んで

  人間科学専攻Aさん

 9月14日から9月16日にかけてわたしたち〇〇〇〇ゼミ計8名で宮城県石巻市を訪れた。震災以後、一度も被災地を訪れたことがなかった私にとって、今回こうして足を運ぶきっかけを頂けたことはとても幸いなことであり、大いに意義があることだった。東日本大震災から約2年半が経った今、最近では原発関連のニュースが大半になり、被災地の復興に関する、実際に目にして現状を知ることができることは、大変貴重なことだと感じた。

 新幹線で仙台駅に到着し、そこからバスに乗って一時間、私たちは石巻市のイオンモールの駐車場に着いた。私がここに来るまでの道のりで感じたことは、案外地震の被害は市街地にはなかったのかな、というぼんやりとした印象だった。イオンモールで今回案内をしてくださるAさんと合流をし、石巻市の一番被害の大きかった場所まで連れて行って頂いた。Aさんは緊張感のない私たちの空気を感じ取ってか、「被害があった地域はこの先だよ。衝撃を受けるかもしれないから、心の準備をしておいてね。」とおっしゃった。被災地に到着してわたしはびっくりした。真っ白な更地だったからだ。ここはもともとそういう土地だったのかと勘違いしてしまうほど何もなかった。家も、瓦礫もきれいにない更地だった。そこはとても静かで穏やかで、本当に二年前に大津波に襲われたところなのか疑ってしまうくらいだった。きれいに片付いた土地、その横には錆びれてつぶれた車が整列していた。こんな瓦礫がここにはたくさんあったのだろうなと、ぼんやりと想像することしかできず、私は恥ずかしかった。もっと早くに訪れていれば、何か私でも力になれたことがあったはずなのに、なぜ私は動かなかったのかと後悔の念を抱いた。私がこれまでに被災地のためにしたことと言えば、冬に服の寄付やご飯の寄付、募金をしたくらいだ。テレビで観た人や建物が津波で流されていく風景や、被災後の瓦礫の山となった風景や、人々の混乱を、このきれいに片づけられた更地に当てはめて想像力を働かせてみても、想像だけでは限界があった。ニュースでしか情報を知らない私が、本当にここまで来て良かったのか、不安に感じてしまった。そんな私たちに対し、Aさんは一つずつ丁寧に当時の状況を語ってくださった。津波の様子、逃げ惑う人々の様子、車で逃げようとした人たちが震災当時大勢いたが、その大半が津波に飲まれた土砂が車の中に入り逃げられず窒息死していたという事実に私は衝撃を受けた。地面にはもちろんん、そういった死体がいたるところに目の前にあった。Aさんの話を聞くうちに、Aさんを含め、この地震の被害にあった方々は、私が到底想像もできないほどの深い傷と、絶望や悲しみ、困難、苦労を乗り越えて今ここに生きているのだということを改めて実感した。それと共に、困難を生き抜いてきたからこその「強さ」というものがAさんから伝わってきた。

 一番被害があった地域からバスにまた乗り30分程度、漁師をされているAさんが住んでいる漁村に向かった。その場所は海の近くということで、先の場所と同様に被害は大きかったことは想像できた。着いたところは山と海に囲まれたきれいな場所だった。ここもきれいに片づけられてぱっと見は被災地だとはわからなかったが、村の片隅にフェンスで囲まれた地域があった。その中には片づけられた瓦礫の山がそのまま手つかずで放置されていた。市内部はきれいに片づけられているけれども、市内を少し離れると復興が途中で止まってしまっている現実を知ってほしいとAさんはおっしゃっていた。散歩がてら旅館の周りを歩いていると、よく見ると草も伸びっぱなしのところがあり、ここにはかつて住宅があったのではないかと、当時の被害が窺えた。一番まざまざと津波の被害を知れたのはAさんの元あったご自宅だ。被災した当時のまま立つその家は私にはあまりにも衝撃だった。雨ざらしにならないようにふさいだ壁、家の中は骨格しか残っていなかった。床もない壁もない天井もない風景は、よくリフォーム番組で見かけることはあっても、実際にこうして目にするのは初めてで、それは家丸ごとさらっていく津波の脅威を物語っていた。Aさんはそこで改めてご自分の被災時の体験を語ってくださった。家の前はすぐ海なので、Aさんは文字通り津波を目の前で体験した方だ。こういった方のお話を聞けることは大変貴重だった。家の2階より上まで津波が来たこと、ロープにつかまり必死で流されないように踏ん張ったこと、家に何かを取りに行ってしまった親戚お二方は今も行方不明なこと、目の前で津波に流される人を何人も見たこと、被災したその日は山の中で一晩過ごしたこと。3月という寒い中で一晩外で生き延びるのも大変なことだ。その一晩は恐怖心というより、生き延びることで精いっぱいだったこと。次の日に10時間以上もかけて瓦礫の山死体の山をよけながら道なき道を歩いてお子さんを探しに街の方に歩いたこと。Aさんがたくさんお話してくださった中で一番心に残った言葉は「とにかく生きてほしい」ということだ。「死にたくなくてもなくなった人たちがたくさんこの市にはいる。だから命を無駄にしてほしくはない。自殺などは絶対にしてほしくない行為だ。」とおっしゃっていた。そして、いざもし関東に地震が起き津波が来たとしても、大事なことは「生き延びること。」たとえ隣で津波に流されそうな人がいて、自分がその人より10センチ前にいたなら、その人を置いて逃げなさい、とにかく高いところに逃げなさい、引き返したりはせず逃げなさい、というのが津波を体験したAさんの教えだった。どうしようもない自然の驚異に対しては逆らうことが出来ないのだから自分の命を守ることが精いっぱいなのが現実だとAさんは語った。Aさんが語る言葉は一つ一つがとても重く忘れてはいけないことだらけだと感じた。

 気になることは2年半たった現状だ。漁師であるAさんは帰り道に海でとれたアワビとウニを食べさせてくださった。福島第一原発の汚染水問題で気になるセシウムだが、漁師の方々はきちんと検査を一匹一匹されていることを教えて頂いた。それでも風評被害がどうしても絶えないとAさんは嘆いており、私はウニもアワビも頂き、とても美味しくて感動したので、以前と変わらず東北には美味しい魚介がたくさんあるのだということを知ってもらいたい、風評に流されるのではなく、たくさんの人たちにまず食べてもらいたいと、心から感じた。また、Aさんがその他にも強く訴えていたのは、復興支援が十分に行き届いていないことだった。たくさん被災された方がいる中で、震災前からいろんな暮らしをされていた方々全員が同じように満足のいく支援をするのは難しいことではある。しかしそういうことではなくもっと政府には被災地の人の生活に寄り添ってもらいたいという思いが伝わってきた。メディアもちいさな漁村にはいまや取材は入ってこず、きれいに片付いた石巻市内にばかり目を向け、一般的に復興が進んでいるようにメディアに映して終わらせてしまっているのが現実で、まだまだ復興が進んでいない地域、震災前の生活を取り戻せている人はほとんどいないことを教えてくださった。未だに仮設住宅の方もたくさんいらっしゃるので、少しずつ暮らしが改善されることを祈るばかりだ。

 今回の研修で私が感じたのは、もう一度被災地の方々のことを日本にいるたくさんの人に考えて行動してほしいということである。どんな事件でも、メディアで報道の数が少なくなるにつれ、つい人々の頭の中からは徐々に薄れていくものだが、被災された方は今でもなお戦っているということを忘れてはいけない。「絆」「がんばろう日本」と日本中でこういった言葉が掲げられているがAさんは言葉できれいにまとめられてしまっているのが現実だとおっしゃっていた。いくらどんなに遠くから東北の復興を願っても、言葉、想いだけでは当たり前だが全く現状は変わらないのだ。もちろん祈ることが無駄だと言っているのではない。しかし、本当に「絆」を作るためには、行動が伴わないとそれは生まれないのだと今回の研修で強く感じた。なぜなら、私もこうして被災地に足を運びAさんに出会うことで初めて、ただ「被災地」であったものが、「行ったことのある、知っている町」になり、「Aさんがいる町」になり、「私も何か力になりたいと思える町」に変わったからだ。これが「絆」なのではないか。「がんばろう」と言葉だけになる前に、そして風評に流される前に、まずたくさんの人に被災地にぜひ足を運んで頂きたい。そうすることでより被災地を近く感じることができ、他人とは異なる自分なりの被災地に対する考え、想いも生まれるだろう。そこから自分はいったい彼らのために何が出来るのか、今一度多くの人に考えてほしいと感じた。」

(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(11)

2020年03月20日 21時11分34秒 | 東日本大震災
「「死」ということについて

 教育学専攻Sさん

 震災から二年半がたち、世間でもあの地震や津波は「過去」のものとなりつつある。当時自分は家のなかであの地震を体験し、テレビのニュースで津波の様子を見ていた。停電が起こったことや携帯電話がつながらなくなったことも、耳にの凍るCMしか放送しなくなったあの状況も、正直ひとつの「大イベント」でしかあり得ず、記憶は薄くなってきた。簡単に言えば他人事、切実に「自分じゃなくて良かった」と思った。同情しなかったわけではない。ただ本当の痛み悲しみは当事者にしか分からず、それにも関わらず下手な同情をしてしまうことは、被災者にとって失礼なことだ、偽善だと思った。テレビで「絆」だとか、みんなで助け合いましょうとかいうのが、正直大嫌いである。だからボランティアに行くことも考えたが、自分がそうすることをせき止める物があり、結局何もしなかった。極端な話、地震の被害に遭うのも、津波で流されてしまうのも、(原発に限っては人災だが)原発によって生活を脅かされるのも、そこに住んでいたのが悪いのだと主張する人がいてもおかしくないと思った。日本に住む以上天災を免れることはできない。それは歴史が証明している。ただそんな自分はこのままでいいのだろうかという不安もあった。周りの人間、社会はみんなで手を取り合いましょうと言っていることに、不快感を感じる自分や他人事に感じてしまう自分には、もしかしたら大きな欠陥があるのではないかとまで思ってもいた。

 そんな中で夏休みの合宿で石巻に行くという話が持ち上がった。自分は是非行きたかった。ボランティアがしたいとかそんな大それた物ではなく、ただ知りたいと、被災者の人々は何を思っているのか感じたいと望んだからだ。そこの人々は災害を肌で感じ、「死」を感じたにもかかわらず、そして日本に住む以上必ずまたやってくると知りながら、何故「ここ」に残っているのか知りたかった。おそらくその土地で生きてきて、その土地が好きだからだという答えが返ってくるのであろう。しかしそのことを生の声で聞いてみたかったのだ。

 合宿初日、まずは津波が住宅街を直撃した場所へ行った。そこは広大な住宅街だったが一面見通せるくらい、ほとんどのものが流されてしまっていた。その後、リアス式の海岸沿いを小一時間ほどバスに乗りながら海をしばなく眺めていた。当初自分は被災地に行ったら、おそらくひどくつらい気持ちになるんだろうなと思っていたが、実際そうではなかった。こんなことを言ったら亡くなった方に失礼かもしれないが、石巻の広大な山や自然そして巨大な海を見たとき、なんて美しいのだろう、そう思ってしまった。もちろん家々を飲み込んだ海は非常に怖く、「死にたくない」と感じさせるものがあった。しかしそれ以上に、この海に囲まれて生きていることはとても素敵なことだと強く感じたのだ。畏怖の念とはまさにこのことであると実感した。

 二日目に、今回石巻を案内してくださったAさんに、海に連れて行ってもらった。普段海を仕事にしていて、震災を体験し、津波で親戚を一人亡くしている方だった。船を出してくださり。石巻の海で泳がせてくれた。その夜にはAさんに質問する機会が設けられた。そこで自分は当初からしようと決めていた質問をした。「何故ここに残るのか」と。そして石巻の海を見て、肌で感じ体験した率直な感想をAさんに伝えた。その質問に対してAさんは、「生きる術だから」と答えてくれた。「今日何故泳いでもらったかというと、被災のもとをつくったのも海、今日たのしかったそこも同じ海、海がないと生きていけない」「津波が悪いと言えば悪いのだけど、悪いのは自分たち、津波は今だけあったのではなく昔からあった。それをいかさなかった我々が悪い。」そうAさんは言った。

 このとき、自分はなんて馬鹿なことを聞いてしまったのだろうかと恥ずかしくなった。Aさんは東京の大学生のためにわざわざ時間を割いてまで自分の土地を案内してくれて、生の震災を教えてくれ、石巻の海を肌で体験させてくれた。それだけでAさんが石巻で生きているのだという根拠として十分であった。身近な人を亡くし、自分も被災者である人の口から「悪いのは自分たち」だというようなことをまさか聞けるとは思ってもみなかった。自分のアイデンティティはその国、その土地の歴史、伝統文化と連続しているのだ。そういう認識は以前からあった。しかし本当にそれを体現している方を目の前にして、その認識は甘かったのだと痛感させられた。

 またAさんは、何故このような大学生の企画を手伝ってくれたのかという理由に、「命」の大切さを知ってほしいのだと言っていた。海の美しさと怖さを知っている人から、聞かされた言葉には、今までテレビから聞かされていたものから感じられた偽善のようなものは、当たり前だが感じられなかった。実際Aさんは「絆」という言葉を嫌いだと言っていた。そしてこれらの言葉を聞いて、自分は石巻に来る前の悩みが晴れたような気がした。自分は津波があったとき、素直に「自分じゃなくて良かった」と思った。テレビのニュースで津波を見たときも、「死にたくない」と思った。それで良かったのだと。Aさんの言葉通り、「命」の大切さを知るのは少し自分にとっては難しいかもしれない。やはり命は存在しているからこそ認識でき、命が「存在している」を改めて感じるのは難しい。しかし、「死」を感じることはできるのではないか。「命」の存在を感じることは難しいけれど、「命」が失われていくこと=「死」を感じることは誰にでもできる。「本当に自分じゃなくて良かった」と他人事になったとしてもいい。純粋に「死にたくない」と思うこと、それはAさんの望んでいたことと共通しているのではないのだろうか。

「人生は一回きりだから大切に生きなさい」などとよく言われる。しかし本当に大切に生きられる人間は、たった一つの「命」を感じられる人間ではなく、たった一つの「死」を感じられる人間ではないか。ほんとうに大切な、一度きりの「死」を感じられる人間になりたいなと、それが石巻に行って自分が一番強く感じられたことである。

 最終日に、大川小学校というところへ行った。108名の児童の内、74人が命を落とした。そこにはその近辺でなくなった方々の名前や年齢が刻まれた石碑があった。自分はその石碑を観ながら、自然と自分と同い年くらいの年齢をさがしてしまった。「この人たちのぶんまで・・・」などという素晴らしいことを思うことはできなかった。ただその名前を見て、ただ純粋に「死」を感じ、涙を流しそうになった。自然とそう行動し、そう感じていた。」

(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)




「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(10)

2020年03月12日 19時13分46秒 | 東日本大震災
「合宿で得た答え、そして課題 Sさん

「見たままを伝えたら良いんだよ。」

 この言葉は、今回現地を案内してくださったAさんの言葉である。

 私は、祈念ゼミ合宿で初めて被災地を訪ねた。今回の合宿で被災地を訪ねるまで、私は被災地を訪問することに少なからず抵抗があった。それには2つ理由がある。

 1点目は、あるボランティア募集の広告を見て、本来の目的から少しずれている印象を受けたからである。もちろん、ボランティアの企画に参加する人は、「例え微力でも力になれれば」というボランティア精神から参加を決める人が大半だと思う。ところが、最近あまりにも被災地のボランティアツァーや企画が増え、気軽に・お手軽感を推すような宣伝文句が目に付く。多少不謹慎かもしれないが、私はボランティアがある種のブームになってしまっているような印象を受けた。気軽に参加してもらうことが、果たして被災地や大震災の爪痕を見て、知り、命について考えることに繋がるのだろうか・・・と首を傾けてしまう。

 そして2点目は、被災者の方々の反応が分からないという点である。専門的な知識や技術を持たない私達は、お手伝い出来ることが限られている。ましてや観光気分で活動に参加されたら、被災者はどう思うだろうか。これも1点目と同様、参加者の参加理由や企画側の意図に疑問を覚えたことが抵抗を覚えた根底にあると考えられる。さらに、これらの理由には、実際に自分が被災していないという意識も要因であるように感じている。

 こうした思いから、私は今回の合宿にあたってどのような姿勢で臨むべきなのか戸惑っている。また、私用で合宿を途中参加させていただくことになっていたため、Aさんには事前に個別に連絡をとっていたこともあり、より一層「どう参加したら向こうの方に嫌な思いをさせないだろうか」と考えこんでしまった。余談だが、この事前連絡で、Aさんに、「宿泊先までのバスがない場合はタクシー等を利用することも考えている」と伝えた際の会話である。Aさんは私の提案に対し、こう言った。「震災後、私たちも知らない人が町に増えた。だから、いくらタクシーとはいえ何が起こるかわからないから、私が迎えに行くようにする。」この話を受け、私はAさんの心遣いに対して感謝の念と共に、被災地の変化をそこに感じた。人が増えた、ということは必ずしも喜ばしいことではなく、そこに暮らす人々の懸念事項になることもあるのだと実感した。これは、私たち日本人が外国人に対して抱きがちな“よそ者”というイメージに通じる部分があるのかもしれない。

 こうした何気ない会話から、震災の前と後の変化についても少し考えながら私は現地に赴いた。仙台駅から石巻イオンモールに向かい、そこから石巻市内をバスで回った。そこで目にしたのは、至る所に残存する被害の爪痕であった。市内や人々が多く利用するであろう中心部から少し奥まった場所に移動するにつれ、その跡を目にする頻度は高くなった。優先順位の高いところから復旧作業が行われるのは当然のことと思う。しかしながら、まだ修復作業途中の場所に掲げられた「がんばろう東北」の文字が、私の眼には実に寂しく映った。そして、この寂しさが完全に取っ払われるのは何時頃のことになるだろうかと考えた。

 さて、ここで「復興」について少し言及して行きたい。私は前述したように、まだ復興は途中の段階であると思っていた。ところが、民宿のご主人のお話でそれは全くもって甘い考え出会ったことを痛感した。これはどういうことかというと、「復興」が帰路に立たされているということである。彼の話には「これからの」復興という言葉が多く出てきた。この「これから」には「本当の復興」という意味、そして願いが込められていた。震災から2年半以上が経った今だからこそ、考えていかなければならない現状がそこにはあった。

「貰い病」という言葉を耳にしたことがある人はいるだろうか。私は初耳だったのだが、少しこの言葉を聞いてショックを受けた。支援をする人が良かれと思ってしていた支援が、実は被災者の自立心を妨げるきっかけになり得るということだったからである。被災のショックやあまりに変わり果てた地元・故郷の姿に、働く意欲や前向きな気持ちを忘れてしまった人々がいるという現状を指している。勿論、支援の手は必要だろう。しかい、被災者がいつまでも被災者のままではいけないのだ。そこに「これからの」復興の本質があるといえるだろう。「がんばろう東北」のスローガンに見られるように、私たちが「がんばってね東北」から「がんばれ東北」という立場に少しずつシフトしていかなければならないのだ。傍らに寄り添うのではなく、少し離れた所から見守る。これが「これからの」復興に繋がるのではないだろうか。

 また、この合宿を通して、私が現地を訪ねるまでに感じていた何かしらの抵抗がどうなったかについての話にも少し触れておこうと思う。この抵抗に、やはり合宿の随所で少なからず影響を受けた。顕著だったのは、実際に被害を受けた小学校や港近くを訪ね、持っていたカメラのシャッターを切ろうとした時である。その時、一瞬シャッターボタンを押すのを躊躇った。写真を撮ることに満足してしまったら、私も疑問を覚えた側と何ら変わりない。という考えがふっと脳裏に浮かんだのだ。そして、ここで感じたことをどう話せばいよいのかと出発以前にも増して戸惑ってしまった。ところが、有難いことにこの自分勝手な戸惑いは、この合宿中にある一言で払拭される。それが、冒頭のAさんの言葉である。私はこのとてつもなくシンプルな一言に、がーんと頭を打たれた。そして、これが私の求めていた答えであり、課題なのではないかと感じている。

 余計な言葉で飾らず、見たままを伝えること。これは、簡単なようだで一番難しいのかもしれない。しかし、合宿で出会ったこの答えに「がんばれ東北」という思いと共に、私は真正面から向き合っていきたいと思う。」

(慶応義塾大学文学部 3.11石巻復興祈念ゼミ合宿報告書より)

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(9)

2014年06月24日 13時18分44秒 | 東日本大震災
「向き合うということ Iさん

6月12日からの続き

 何も無くなってしまった川下から、北上川を上って行くように、市内へと向かう。少しずつ残された建物が見えてきて、休憩する道の駅に着いた頃には、内地の穏やかな景色に戻っていた。ショッピングモールから、市内バスに乗り換え仙台駅へ向かう。また、傷痕が遠ざかって行く。市内に向かうバスからの景色は、どんどんと建物が増え、街が復興しているかのように錯覚してしまいそうだった。傷は、浅いものから少しずつ癒えて行ったのだな、とわかった。しかし、擦り傷と切り傷では何もかもが違う。表面をかするような傷と、肉をえぐりとるような傷・・・極端なその2つが、津波がここまで来た、という一線で分かたれていたのだ。僕はそんなことすら知らずにいたんだったな、震災の傷跡をどこも一緒くだに考えていたんだよな、と石巻に来る前のことを思い出していた。そんなことを考えながら、石巻での合宿は終わった。

 人のために、今度こそ動こう。そう思って石巻にやってきた。しかし、僕に何が出来たどいうのだろうか。物理的な話をしてしまえば、僕が行っても行かなくても、石巻は何も変わらず、少しずつ復興の道を歩むだけである。何をしてきた訳ではない。確かなことである。僕のおかげで被災地に家が建つとか、船が大漁で帰ってくるとか、そういうことはない。嘘をついても仕方ない。しかし、それでも石巻に行ったことは見えないところで僕を変えてくれた。空撮でしかなかったガレキを、目の前で見て、臭いを嗅いだ。日常の風景が、常識が、いかにして裏切られ、壊されていったかを直接教わった。そして、海の美しさと、その広さに身を委ねた。海が与えてくれる生きる力、そして海から生き残る力・・・それを感じた。こうして変わった僕は、石巻をこれから陰ながら応援することができる。石巻に起こったことを、あの地震で何が起こったのかをリアルに伝えることができる。そのことがいつかどこかで、未来の大川小学校を、家族を救うことになるかもしれない。これまでとはきっと見える世界が違う。日常の生き方が違う。僕はそういう力を貰えたと思う。きっと、余計な気負い無く、かつ親身に災害と向き合って行けるだろう。支える力になろうと思う。石巻の日常は壊れてしまった。しかし、日常とはなんだったのか。日々向かう風景こそが日常ではないのか。地震が来る前の僕達や石巻の姿も、地震が来たことも、復興のために立ち上がったこともすべて日常だったのである。被災地の人々は、今まっすぐに進んでいこうとしている。海から視線などを背けること無く、自然と向き合い、日々の生と対峙している。そのすがたを僕は見てきたのだ。石巻の人々は、日常がいつかの姿に回帰することも、新たな喜びが生まれることもすべて希望として前に進んでいた。僕も、自分の日常から、目をそらさずにいよう。これからは、日常が失われたなどと泣き言は言わない。何が起きたとしても、見てきたもの、今見ているものから逃げたりはしない。それが、僕が石巻の人々から受け継いだ力である。

 安藤さん、遊佐さんをはじめとする石巻の人々への感謝とともに、この文を結びたい。」


(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)