たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

年の暮

2015年12月31日 22時21分34秒 | 日記
28日に高速バスで帰省してから引きこもりの生活をしています。少し歩けば駅周辺にフランチャイズのカフェがあるという都会の生活とは違う環境で車がなければ身動きとれずです。行きたい所もないし、会いたい人もいないのでまあいいかな。弟にごはん作ってもらっています。隣の生活の音が聞こえてしまう、生活時間帯がわかってしまう狭い集合住宅の部屋からしばし解放されて、音漏れとか気にすることなく広い部屋で眠れるのが嬉しいです。(自分の部屋は無事かな。ちょっと気になります。)

 帰省してもせっせと断捨離です。捨てていくしかありません。捨てていかないと前にはすすめません。色々なモノをまだまだ捨てたくていっぱいいっぱいな感じです。クソ大会社での苦しさも忘れていきたいです。こっちから棄ててやるっていう感じです。社会の仕組みの上では会社は完全無傷、完全勝利ですがたぶんここまできたら私の方が勝ちです。私が記者会見や取材で実際のことを話し続けていることを会社が知っているのか知らないのか知りませんが、組織は生き物で人が変わっていくので結局会社にとって誰の責任でもないし、根本的な体質は変わっていかないだろうと思います。

 明日から私どうやって生きていけばいいのかわかりません。何も予定を決められないまま、何も予定のないまま、手帳を買うことができないまま、年の瀬を迎えました。4日から社会は始動するようです。保留にしていることを返事しないといけないのですが決められません。気が進まないのならやめた方がいいのか。でもそうするとまた時間かけて別の場所を探さねばならず、貯金はさらに減っていくばかりだし、望まれるところがあるのなら、とりあえずやってみた方がいいのか。ただなあ、マンションの一室で仕事するなんて狭すぎるし、私がこの一年余りで経験したことが話のでかいことなので、なんだかやはり自分がすごーくはみ出てしまっているような感じがあります。事実を黙ったまま、何事もなかったかのようにやれるのでしょうか。自信がありません。

 一年前の今頃は陳述書のドラフトを何とか書きあげて、年明けに和解できるかどうか、緊張の中で過ごしていたように思います。かつて経験したことのないことの連続でもっとずっと長い時が流れたような気がします。旅日記や美術館めぐりをなかなか書けず、まだまだ書いて吐き出してしまいたいこともありますが、夜更かしはきついので今日はこれでおしまいにします。目がさめれば明日になっているだけのことです。先のことは誰にもわかりません。一日一日を大切に生きていくこと、それしかできません。毎日新聞に掲載された若松英輔さんとライフリンクの清水さんの対談記事について書きたいですが明日以降にします。おやすみなさい。

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若松英輔 @yomutokaku · 12月26日
人生を勝ち負けで語るな。そんな世界からは悲嘆がなくならないばかりか、減ることすらないだろう。苦しまない者が苦しむ者より優れているかのように語るな。真に立ち上がることの意味を知るのは、倒れたことのある者ではないか。他者の人生を簡単に断ずるな。誰も自分以外の生を知らないのである。

『ラブ・ネバー・ダイ』_狂おしい男女の愛とオペラへの愛_扇田昭彦(2)

2015年12月31日 10時45分44秒 | ミュージカル・舞台・映画
「舞台をパリ・オペラ座からニューヨーク郊外のキッチュな遊園地コニー・アイランドに映すことによって、物語が相当輝きを失ったように思われたのだ。ロンドンの新聞の劇評も脚本の弱さを指摘する辛口の評が目立ち、公演は約半年で幕を下した。巨匠ロイド=ウエーバーの新作にしては短命に終わった公演だった。

 だが、その後、サイモン・フィリップス演出によるオーストラリア公演(2011年、メルボルン。2012年、シドニー)の評判がよく、その舞台はDVD化されて、日本でも発売された。今回の日本語版も、フィリップスなど豪州公演のスタッフを起用した舞台である。

 主要な役は実力派の俳優たちによるダブルキャスト。初日は市村正親の怪人、濱田めぐみのクリスティーヌ。鹿賀丈史の怪人を観ようと、私は3月25日夜に出かけたが、あいにく鹿賀が体調不良で休演し、市村と平原綾香(クリスティーヌ)のコンビを観た。鹿賀の怪人を観たのは、彼が復帰した28日のマチネーだった。

 物語は前作から10年後、20世紀はじめのニューヨーク。有名な歌手になったクリスティーヌは、マンハッタンのオペラ劇場に招かれ、ニューヨーク港に到着。だが、待ち受けていたのは、コニー・アイランドの経営者になった怪人だった。こうして歌姫は、夫のラウル子爵(田代万里生、橘慶太のダブルキャスト)と幼い息子グスタフとともに、見世物、サーカス、ボードピープルなどの大衆芸能の世界に導き入れられる。

『オペラ座の怪人』が典型的に示すように、ロイド=ウェー、kぁバーの音楽は、19世紀のオペラのように、過剰なまでに華麗で甘美で陶酔的な旋律で観客をとりこにする。いわば、19世紀型オペラをより大衆化したような優雅な響き。

 だが、『ラブ・ネバー・ダイ』の舞台は、アメリカの世俗的な大衆芸能の世界で、ロイド=ウェーバーのヨーロッパ風の音楽とは肌合いが違う。ロンドンの初演が成功しなかった理由の一つもそこにあり、ベテランのボブ・クローリーの、大掛かりだがやや安っぽい遊園地の装置は物語自体を寒々しいものにした。

 その点、フィリップスの演出は巧みだ。特にチェコ出身のガブリエラ・ティルzォーヴァの美術は驚くほどスケールが大きく、官能的な曲線を多用し、サーカス、見世物などの怪奇な美しさとオペラ座風の豪奢な美しさを兼ね備えた独創的な装置を作り出した。『オペラ座の怪人』の故マリア・ビヨルソンの豪奢な美術に一脈通じる美術である。」

(『ミュージカル』2014年5月-6月号より引用しています。)

『ラブ・ネバー・ダイ』_狂おしい男女の愛とオペラへの愛_扇田昭彦(1)

2015年12月29日 11時05分53秒 | ミュージカル・舞台・映画
 2014年3月から4月にかけて日生劇場で上演された作品。振り返れば労働紛争の前兆戦となる頃の観劇でした。あの言葉に言いようのないモヤモヤは二度と経験したくありません。サーカスのような、おとぎの国のような舞台装置に辛さを忘れさせてくれたひとときでした。
携帯で撮った写真をいまだアップロードできていません。

『ミュージカル』2014年5月-6月号より、今年他界された扇田昭彦さんの書評を引用します。

「今春のミュージカル界の一番の注目作は何と言っても、アンドリュー・ロイド=ウェーバー作曲の傑作『オペラ座の怪人』の続編『ラブ・ネバー・ダイ』(ベン・エルトンなど脚本、グレン・スレイター歌詞)の日本初演である。ホリプロ制作の日本語版が日生劇場に登場したのだ。(竜真知子訳・訳詩、塩田明弘・指揮。3月12日-4月27日)

 この作品は2010年にロンドンのアデルフィ劇場で初演された(ジャック・オブライエン演出つ)

 私はその舞台を観て、ロイド=ウエーバーの華麗な音楽と、ヒロイン役のシェラ・ボージェスの歌唱力に感心したが、舞台にはあまり心を動かされなかった。」

シルクロード_カシュガルの子どもたち

2015年12月27日 23時15分18秒 | シルクロードへの旅
「カシュガルは民族のるつぼ さまざまな民族の子どもたちが一緒に遊ぶ」

(司馬遼太郎・NHK取材班『シルクロード第6巻『民族の十字路イリ・カシュガル』より)

 『シルクロード』の放映から30年の歳月が流れ、世界はますます混沌としてきています。この写真の子どもたちはどんな大人になり、今どんな暮らしを営んでいるのでしょうか。本当に世界はますます難しくなってきています。


「世界中の子どもたちが平和でありますように」とちひろさんは願い続けました。大人たちの勝手な都合で子どもたちの命が脅かされることのない世界が訪れることを祈りたいと思います。

 

クリスマスの翌日

2015年12月26日 23時35分53秒 | 日記
 毎年のことですが、26日になると見事にあちらもこちらもお正月モードに切り替わっていますね。昨日までうんざりするほどクリスマスソングが流れていたのに、クリスマスの気配はどこにもありません。年末年始にモントリオールを訪れたとき、クリスマスが終わっても一カ月ぐらいは飾り付けをそのままにしておく習慣とのことで、あちらもこちらもイルミネーションに彩られていたことを思い出します。根っこにあるものが違うからどちらがどうとか言えないですが、日本は商業主義が行き過ぎだと感じざるを得ません。コンビニの売れ残ったケーキをアルバイトが買わされたりするんでしょうね。なんだか違うなあって言う感じです。

 病院のボランティアは、当事者、家族、ケースワーカー、ボランティアが同じテーブルに着き腹を割って話をする場に参加させていただきました。当事者主体のクリスマスお楽しみ会が12月の半ばに行われており、その反省会ということでしたが話はどんどん広がっていきました。私は自分の母が統合失調症だったことと労働紛争の経験、弱者切り捨てがどんどん進んでいこうとしている社会の中で、弱い者同士がつながって声をあげていかないと、何も変わっていかない、メディアの人たちにもどんな問題があるかを知って発信していただくために一生懸命伝えていく必要があると思うという話をさせていただきました。世の中は理不尽なことだらけであることを知った上で小さな所から少しでも社会をよくしていこうという意識をもって動いていくのが本当のワーカーの仕事だという話を、ファシリテータのワーカーさんがされました。精神障害者を家族だけで抱え込むことはできない。地域の中でいかに生活していけるかが大切なこと。病院の都合に患者が一生懸命合わせなければならないことが多かったけれど、本当はそれは違う。だれのための援助なのかを考えなおさなければならない時。こんなふうに話は広がっていきました。こんな病院他にないそうです。ないでしょうね。

 時給千円のパーチタイムの仕事は安過ぎるようです。法人にお金なさすぎ。福祉の実態を知ってがっかりしたり、社会の理不尽さを知ってしまった自分とのギャップを感じる場面が多くなりそうです。でもとっかかりとしては悪くないのかな、どうなんでしょう。まだ決められないでいます。

 今年の活動はこれでおしまい。明日は荷物出したり、トランクを準備をしたり。荷物多過ぎだと弟に叱られそうですが、特に本が減っていくまでにはまだまだ果てしない時間がかかりそうなので仕方ないです。旅日記、美術館めぐり、書き残している観劇日記等、それに卒業論文も書いていきたいですが、今日はここまでにします。連日の長文を読んだくださり、ありがとうございます。

クリスマスの夜

2015年12月25日 23時18分22秒 | 日記
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/6d80f4fab67c271ec961010ddbea1eec

二年前の記事を読み返してみました。たった二年前のことですが、その後思いがけないことの連続でずうっと前の事のように感じられます。クリスマスの夜、今年一年ほんとうによくがんばった自分へのご褒美に甘くなくておいしいイチゴのショートケーキをいただいています。お値段高めなのでちょっと贅沢です。昨日の午後から治療中の左上の奥歯がずきんずきんといたんでちょっと大変なことになっています。鎮痛剤を6時間おきにのんでいます。今日の夕方歯医者さんで抗生物質と鎮痛剤を処方で出してもらいました。年末年始の休みの間帰省するし、大丈夫かな。

 昨日新しい居場所探しで出向いていったK市の精神障害者施設を運営する社会福祉法人からさっそく連絡がありました。人手が足りず本当に困っているみたいですが、住宅マンションの2KLDの部屋が相談センター兼事務所で逃げ場がありません。時給千円、週三日のパートタイマー。パートタイマーは専業主婦を想定した働き方なのでこうなっちゃいます。医療・福祉分野はお金がいちばんまわらない世界なのでなおさらこうなっちゃいます。基本的生活を維持できず、人間らしい生活を送ることはできませんが、そこはとりあえずなんとかクリアできそうな手立てを見つけたのでいいとします。どのみちボーナスどっちゃりとか稼げる人になることはできないし、この身が擦り減っていくような働き方はもうしたくないので時給と勤務日数、勤務時間はよしとします。断捨離を続けたいし、病院のボランティアもしばらくやってみたいです。だからスローなペースから社会復帰したいです。

 ただ、マンションの一室という、人との距離が近すぎる環境で私仕事できるのでしょうか。大きな組織、大きな会社は、人がたくさんいるのでまぎれることができるし、逃げ場があります。2-3人だけの密室では息つけない感じがしてしまいますがどうなんでしょうか。精神保健福祉士を生かせる入口に立つことができそうだし、とりあえず社会保険の負担が発生しない範囲で私が勤務時間帯を決めてもいいようだし、ケースワーカーが合間合間にやっているのでとにかく事務の専任がほしいのできてほしいという、私にとって悪くない話な感じではあります。パートタイマーなんだし、いやだったら辞めればいいだけのことかな。

 わけのわからない派遣会社と関わることなく、社会からの孤立感とお別れできるし生活費の一部を稼がなければならないし、期待はせずにやってみるしかないのかな。決められず保留にしています。労働紛争のことは言っていません。敢えて言うこともないですがさりとてなんか正直ベースじゃない感じもあり、自分の中ですごく微妙です。もし知ったとしても普通は経験しない、知らないことづくしの話なので理解できないだろうと思います。別にバラれないようにびくつく必要もないですが、ニュースや新聞にも出たことを知ったらひるむでしょうね。まだまだ収まりきらない怒りと悔しさを抱えながら、新しい世界に踏み出していって大会社の社員番号とか名前とかやっていたこととか体に染みついていることを少しずつ忘れていかなければなりません。「お世話させていただきました」と区切りの挨拶ができていないのがとても心残りですが忘れていかなければなりません。

 大切な人生のやり直しの時。まだまだやれると信じたいです。時間はあると信じたいです。来年はいい年になりますように・・・。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 20 時間20 時間前
クリスマスは、イエスの誕生日ではないが、その生誕を祝う日である。彼の誕生を祝うのに私たちは無理して神に感謝することも、笑顔になる必要もない。差し出すなら偽りなき、切実なるものを捧げよ。悲しみを、苦しみを、嘆きを彼に届けてよい。イエスは、それらに光をもたらすために生まれたのである。

(写真は東京新聞のツィッターからお借りしました。)

『木靴の樹』シナリオ(8)

2015年12月25日 16時54分22秒 | 映画『木靴の樹』
1990年フランス映画社発行のパンフレットより引用します。


*製粉場(朝)

 ペピーノは、ブレナと共に荷馬車に積んできた粉トウモロコシの袋を降ろし、製粉場の中に運びこむ。

ペピーノ「どこに?」

主人「そこに。(手を休め)ルンクの息子か?死んだルンクの?いい奴だったよ。立派な男だった」

ブレナ「子供を6人残して・・・・。気の毒に、後家さんは洗濯女をしている」

 粉砕機械のトウモロコシがなくなり、カラカラ音をたてている。

主人「(トウモロコシをふるいにかけ、ペピーノに向かって)年はいくつだ?」

ペピーノ「15才です」

主人「人手がほしい。ここで働くかね」

ペピーノ「はい、喜んで」

主人「母さんに相談してごらん。来なさい、明日にでも」

 嬉しそうなペピーノ。ブレナも我が事のように喜んでいる。



*冬の夜・農村の外

 ステファノと2人の若者が暗闇を行く。

ステファノ「だれが先にはいる?」

若者1「先に入れよ。犬は心配ない」

 不審な人影に、犬が吠えたてる。

ステファノ「静かに!吠えるな。この小屋だよ、どうする?」

若者1「はいれ!」

 ステファノは畜舎の中の様子をうかがいながら、扉をそっと開ける。

*畜舎

アネッタの声「だれ?」
 
 いっせいに戸口に向けられる全員の目。

フィナルダ「臆病な若者達よ」

 若者達はおずおずと中に入る。はっと目を上げるマッダレーナ。そんな彼女を見て、視線を合わせる彼女の両親。すぐに何事もなかった様な、和やかな雰囲気が戻る。男達はタバコを吸い、女達は編み物に励む。ステファノの視線を感じ、編み物の手を休めて優しい目で見つめるマッダレーナ。

バティスティ「(耳をすまして)しずかに!」

 静まりかえった夜のしじまに、風笛が響いてくる。





木靴の樹 [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社

立ち直っていけるのかな

2015年12月24日 15時46分27秒 | 日記
 自分の中にまだまだ行政への怒りと悔しさ、弁護士への怒りと悔しさ、会社への怒り悔しさ、最終的には社会への怒りと悔しさのマグマが沈殿していることを感じるたびに辛くなります。すり減っていることを感じるたびに辛くなります。一年余りの、結果的に闘いとなった日々はひとつひとつのプロセスが初めてのことばかりで異常な緊張感の中にいました。ひとつひとつを理解し、自分の中で消化しながら進んでいくのは大変でした。私を弱らせるために弁護士が粗さがしと話のねつ造をしていくるのに負けまいと歯を食いしばっていました。心身がすり減ってしまいました。まだまだすり減っているところにさらにエネルギーを消耗することをがんばりました。緊張しながら初めての場所を、地図を見ながら訪ねていく、それだけでも自分がすり減っていく感じがあります。

 土曜日にまた病院のボランティアにお邪魔したら今年は終わりです。28日の高速バスで家に帰ります。27日にいつもそばにおいておきたい本やDVDをたっぷりつめた段ボール箱を発送し、着替えなどをトランクにつめます。家を離れると部屋に残す荷物のことが気になって仕方なくなります。困ったもんです。

 来年私の力を必要としてくれる場所と出会うことができるのか。かかりつけの内科の先生が、「せっかくボランティア始めたんだから家でゆっくりしたら、こっちに戻ってきなさい」と言ってくれました。なにも予定がないので、いつまた戻ってくるのか決めていませんが戻ってくるつもりです。自分の中に新しい風を入れていくには、過去を忘れていかなければなりません。さみしさもありますが、体にしみついた大会社の色々なことを、苦労を共にした人たちに挨拶できていないですが忘れていきます。大変な一年でした。来年は新しい風が自分に吹いてくることを祈りたいと思います。沈殿しているものを吐き出すようにブログを書いています。読んでくださり、ありがとうございます。

モネ展_最晩年の作品群

2015年12月24日 09時09分09秒 | 美術館めぐり
「咲き乱れる美しい花々、目が覚めるような鮮やかな色彩の乱舞、息を呑むような光景-。いたるところ、花、また、花、あふれるばかりの色、また、色。まぶしいくらいの色彩だった。雨あがりのなかで光を浴びた花々は、一段と美しかった。私はそこで、洗い出されたような光り輝く色彩を全身に浴び、絵画的な光景によって包みこまれたのである。

 ときは四月の初め、ところはイール=ド=フランスの一地点。セーヌの流れにほど近い美しい田園風景の土地だったが、セーヌ河に注ぐ支流であるエプト川のほとりに、その花園は姿を見せていた。私たち家族はパリ、セーヌ右岸にあるサン=ラザール駅から乗車して、河畔の田園風景を楽しみながらセーヌ河の流れを下り、ヴェルノン駅で下車してこの地を訪れたのである。

1993年春、クロード=モネゆかりのジベェルニーを訪れた日のことが、昨日のことのように思い出される。バスがジベェルニーに到着したときには、まだいくらか雨が残っていたように思われる。モネの屋敷の庭に入った時には幸い雨があがり、日が射しはじめ、咲き誇る花々とあふれるばかりの美しい色彩は、光を浴びながら、浮かび上がってきたのである。

 空がしだいに明るくなり、生まれたばかりの光といいたくなるような気
か持ちのよい、おだやかな陽光のなかで、モネの花畑が目の前に開けたのである。感激の眺めだった。最高の条件で、夢かと思われるほどすばらしい花園を目のあたりにすることができたといえるだろう。(略)

 かなり手入れがゆきとどいているように思われたが、花壇を目にしたわけではない。私たちの視野に広がったのは色とりどりの花が咲き乱れている花畑だった。花々はきちんと種類ごとに植えられていたから、無秩序な色の広がりが見られたわけではないが、花壇の花々よりもはるかにのびやかで開放的な姿で、親しみやすい花がいたるところに姿を見せていたのである。

 あたり一面花畑といった景色であり、広大な庭園ではないものの、堂々とした花の庭だった。さまざまな花のなかを散策し、色彩と花々の匂いや香気に包み込まれながらも花から花へと花園をたどるときには、楽園に遊ぶ気分だった。夢見心地での楽園の散策だった。パラダイスがあるとしたら、ジヴェルニーのモネの庭こそ、その名に値するものといえるだろう。

 
 豪華というよりは清楚で彩り鮮やかな花畑だった。モネ自身が生活していた当時の庭とはいくらかの変化がみられるのかもしれないが、モネの当時を容易に思い浮かべることができるような心くばりが行われていたのではないかと思われる。あくまでもモネの庭、モネの花畑といった趣が漂っていた。

 
 イール=ド=フランスという言葉があるが、これはパリを首都とする革命以前からのフランスの州名である。今日でも用いられている名称だが、パリを中心として、セーヌの流れとともにあるような地名である。モネゆかりのジヴェルニーは、イール=ド=フランスの土地であり、エプト川とセーヌ河が目に入ってくるような、ただしセーヌ河とはごくわずかの距離がある風光明媚な地である。モネがこのジヴェルニーの地に家を購入したのは1890年のことである。3年後の1893年、睡蓮の池を造成するために、庭に隣接する土地を手に入れ、やがてエプト川から水を導き入れて、念願の池を完成させたのである。

 フランス語のイマージュという言葉には、水や鏡に映った姿・映像、虚像・実像、作品に見られる姿・像、さらには絵、などといった意味があるが、モネはこのジヴェルニーで、視覚混合(セザンヌの言葉)ともいうべき印象派独自のスタイルで、イマージュに肉迫し、光と色と形のなかに、みごとな花を咲かせたのである。その絵は、あふれるばかりの光と影の、色彩の、大気の開花なのである。一日のさまざまな時間帯において、さまざまな太陽の光のもとで、いろいろな光と影のなかから、モネの色彩と形が、モネの目に<まなざし>と手が、彼の絵筆とパレットが、彼の世界体験が姿を見せたのである。

 モネの選択に誤りはなかった。あまりにも広々とした大地、しかも平坦な広がりのまっただなかにあっては、落ち着き場所を手に入れることは難しいだろう。ジヴェルニーは生活する人びとを手を広げて温かく迎え入れてくれるような、目にやさしい、穏やかな風景を体験させる田園だった。

(山岸健『絵画を見るということ』NHKブックス、1997年発行、172-178頁より、抜粋して引用しています。

 

モネ_最晩年の作品群の展示室より。

≪しだれ柳≫1918-19年、油彩、カンヴァス

≪しだれ柳≫1918-19年、油彩、カンヴァス

≪しだれ柳≫1918-19年、油彩、カンヴァス

≪しだれ柳≫1921-22年、油彩、カンヴァス

 しだれ柳はジヴェルニーの庭の日本の橋の近くに、モネ自らが植えたものだそうです。しだれ柳の輪郭はどんどんわからなくなっていきました。

≪日本の橋≫1918-24年、油彩、カンヴァス

≪日本の橋≫1918-24年、油彩、カンヴァス

≪日本の橋≫1918-24年、油彩、カンヴァス

≪日本の橋≫1918-19年、油彩、カンヴァス

≪日本の橋≫1918-24年、油彩、カンヴァス

≪日本の橋≫1918-24年、油彩、カンヴァス

 モネが浮世絵をみてジヴェルニーの庭につくった太鼓橋と藤棚が描かれていましたが、どこが橋で、どこが藤棚なのか、どんどんわからなくなっていきました。

≪バラの庭から見た家≫1922-24年、油彩、カンヴァス

≪バラの庭から見た家≫1922-24年、油彩、カンヴァス


 家の煙突はわかりましたが、その他は輪郭がはっきりしません。

 1926年に86歳で自宅にて逝去。86歳まで描き続けたモネ最晩年の作品群は、光のゆらめきの一瞬をとらえることを追い求め続けたモネのパレットがそのままキャンバスにのったような絵の一群でした。輪郭はほとんど描かれていないのになぜか不思議と遠くからみると輪郭がくっきりとわかりました。白内障と70代で診断され、ようやく右目だけ手術を受けたモネ。同じ景色なのに、季節、時間によって光のゆらめき、色合いが全く違っているので何枚も描き続けました。作品群からモネの生命の息吹を感じました。モネがそこにいるような、モネと対話しているような、ゆるやかな時間を過ごすことができました。







絵画を見るということ―私の美術手帖から (NHKブックス)
山岸 健
日本放送出版協会

明日はまた・・・

2015年12月23日 20時34分44秒 | 祈り
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151222-00010001-nishinp-soci

 朝こんなニュースを見てはとてもやりきれない気持ちになり、また社会への怒りと悔しさが湧き上がってきてしまいました。明日あらたな居場所さがしのために出かけますが、すごくエネルギーを削がれます。どうやって立ち向かっていけばいいのか、すり減っている自分の、どこから削がれるためのエネルギーを絞り出せばいいのか、という感じになっています。

 まだまだ心のエネルギーが涸渇していることを感じないわけにはいきません。まずは書類審査ということで、送ってみたところ通ったらしく、電話がすぐにかかってきました。電話で上から目線を感じてしまい、なんだか行きたくなくなってしまいました。巨大組織ほど複雑ではなさそうですが、それなりに複雑みたいで頭に入っていきそうにありません。なにか見つけないわけにはいかないという気持ちがあって応募したのですが、本当にそこに出向くことが自分にとっていいのかどうかわからなくなりました。行ってみないとわからないので行くしかないのですが、人の足元を見るような視線を感じればこちらからお断りです。

 なんか行く前から敵陣に乗り込み喧嘩売りに行くような感じに私の中でなってしまっていますが、使用者側と労働者側は対等ではなく、また対立するものであることを思い知らされたので仕方ありません。会社の弁護士との闘いですり減ってしまいました。弱い立場の人間をおとしめることを金儲けの手段にしている弁護士が、弱い立場の労働者を見下す時の人をばかにした顔つきが放つマイナスエネルギーの力は半端ではなかったです。負けまいとして全身でエネルギーを振り絞り続けました。おかげで上から目線にすっかり敏感になってしまいました。少しでも上から目線を感じることがあれば、怒りが湧いてきてしまい許せなくなってしまいました。こんな人間がどっかで雇われようなんて無理なんでしょうね。自分がすり減っていくような働き方はもうしたくありません。あんまり難しい人間関係の中を耐え抜いていくのはもう無理だと思います。とりあえず家賃分の目途は来月からたっていきそうです。ボランティアしながらどうやってごはんを食べつつ生きていけばいいのか、迷いの日々は続いていきます。

 長く居過ぎました。ストレスまみれでした。お昼を一緒にとって安心して愚痴をこぼせる相手はいなくなり、ひとりぼっちでした。ひとりぼっちの昼休み、手帳に書かないではいられませんでした。組織の意味のない都合に振り回されるだけ振り回されながらこらえるだけこらえていました。そんな日々にまた立ち返ってみようと思います。言葉が悪いので誤解されるのを承知でまた書きます。母と突然のお別れが訪れる三か月前、父が亡くなってぐらぐら、大きく揺れ動きながら身動きとれないでいました。毎回読んでくださる方、ありがとうございます。

「2011年11月29日(火) お昼 at プロント

とにかくやりにくくて、やりにくくてなにかがすごくヘンでヘンで気持ち
悪くって、ギャーッと叫びだしたい。
私は私が今やるべきであろうことを粛々とやっているだけだ。やれば
お金になる。それでいい。
社員だからといって、仕事ができるわけでもよくわかっているわけでもない
おばちゃんたちがウルさい!あつくるしい!
だったら代わりに全部やってくれ、やってみろ!
それぞれのやり方と事情があるんだ、
ウるせー!っつうの。
全く矛盾に気づかない人たちと一緒に仕事をするのはこれ以上
いやだなあ、今の席の配置、なんとかならないか。

救急車が通るたびに自分には他にやるべきことがあるのではないかと思ってしまう。
でもどこからもお呼びはかからないし、どこに向かっていけばいいのかわからない。
どこに私の本当の居場所と役割はあるのだろうか。わからない・・・。」


 『赤毛のアン』の中から元気がもらえる文章を、原文と一緒に手帳に書きとめていました。

「でも雨の朝も好きよ。どんな朝でもわくわくするわ。今日の一日、これから何が起きるか、想像の余地があるでしょう。でも今日が雨ふりでなくて良かった。だって晴れた日の方がつらいことも我慢して元気になれるでしょう。私には我慢しなければならないことがたくさんあるもの」。

(松本侑子訳『赤毛のアン』集英社文庫、第四章、グリーンゲイブルズの朝より)
 

But I like rainy mornings real well too.

All sorts of mornings are interesting,don,t you think?

You don,t know what,s going to happen through the day,

and there,s so much scope for imagination.

But I,m glad it,s not rainy today

because it,s easier to be cheeful and bear up under

afficition on a sunshiny day.

I feel that I have a good deal to bear up under.

(『Anne of Green Gables』Chapter 4 「Morning at Green Gables」)


来年の手帳をまだ買うことができません。
明日は晴れるでしょうか。
アンの言うように晴れた日の方がエネルギー削がれることに耐えられそうです。