たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

通信教育レポート-放送英語(ライティング)99

2022年10月21日 14時33分19秒 | イギリスへの旅
課題;9課から12課までの範囲内で、最も印象に残ったミニ・エッセイを一つ選び、その理由を1,200~1,600字で記載せよ。自らの人生における体験や哲学・思想などと自由に関連づけ、できうる限り美しい日本語で表現すること。

「5月の乾いた空気の中にCambridgeの美しい緑の街並みは広がっていた。数百年前からそこにたたずんでいるであろうCollegeが、時の流れを超えてしっくりと街の中に溶け込み、街全体がキャンパスであるかのような印象を受ける。柳が下たるおだやかなCam川の川面は、そのまま私の心の中を緩やかに流れ、緊張から解き放ってくれるようだった。Cambridgeは、私にとって懐かしささえ覚える街の一つである。

 イギリスを一人訪れたのは1992年のことだ。バブル崩壊で雇用情勢が厳しくなり始めた頃である。派遣社員として働いていた私も、契約期間満了と同時に失業状態を余儀なくされた。自分の時間はたっぷりとできた。急に羽ばたいてみたくなった。思い立ってイギリスへと飛んだ。十日間ほどの旅であったが、その当時ほとんど英語を話すことも聞き取ることもできなかった私にとっては、誰一人知る人のいない異国の地への旅は大きな冒険であった。訪れる地ごとにB&Bを探しながらの旅は不安と緊張の連続だった。列車の時間は律儀な日本のように正確ではない。バスに乗れば停留所を知らせるアナウンスなどはなく、どこで降りたらいいのかわからない。日本でのように少し歩けば公衆電話や自動販売機があるでもない。勝手の違いに戸惑いながらも、イギリスでの旅は忘れ難いものになった。ただの観光旅行である。特別な出会いがあったわけでもない。だが、あらたな自分と出会うことができた。旅のノートの一ページに私はこう書いている。「自分はなんと多くのものを抱え、せまい自分の殻に閉じこもり、肩で息をして肩の凝る生活をしてきたのだろうと思う」。旅の間、次第に肩の力が抜けていく自分を感じていた。

しかし、この時の私はまだ、本当に自分を解き放つということをわかってはいなかった。自分を閉じ込めてきたのだということをこの旅で知ることはできたが、依然として自分の中に築き上げたつもりの価値観の中に自分を閉じ込めたままであった。私が本当の意味で自分を解き放つことができたのは、この旅から数年を経て、妹が自ら死を選ぶという出来事があってからである。突然、”生と死”を目の前に突き付けられ、それまで自分を閉じ込めていた壁がいっきに崩れ落ちた。心の葛藤を続ける中で、少しずつではあるが、根本から本当の自分の姿というものが見えてくるようになった。

 イギリスへと飛び立った時から始まった自分を探す旅は、通信教育の卒業論文執筆という作業で一区切りつくのではないかと思っている。この放送英語の単位を取得することができれば、初回の指導登録に向けての準備をするつもりだ。テーマはまだ漠然としているが、現代の日常生活とカウンセリングの位置づけ・必要性を、自然と人間との関わりも織り交ぜながら探っていきたいと考えている。そして、私だからできることを見つけたい。先の見えない旅はまだ当分の間続くことになるが、旅の終わりに今度はどんな自分との出会いがあるのか、今から楽しみである。

 無事に卒業の日を迎えることができた暁には、またぶらっとイギリスを訪ねたい。Londonの広々とした公園を、Shakespeareの故郷Strafordを、そしてCambridgeの緑の街並みを、今度は心から緩やかに歩いてみたいと思う。」


 平成11年10月に書いたレポート、講師評はVeryGoodでした。

 コロナ騒動の終わりがみえない今読み返すと、バブル崩壊後、没落の一途を辿っている日本の中でまんまと罠にはまりこんだまま生きてきてんだなあと思います。でも弟に全部自分がばかなんだよ、全部自分が悪いんだよと言われれば何も言い返すことはできません。没落日本の中をここまで生きてきてただ一つの正解は、コロワクを疑えたことでしょうか。もし接種していたらすでにこの世にいなかった可能性大だと思っています。これは間違っていなかったと日々確信しています。

 労働紛争で知ったよりもはるかに社会の闇は深いのだと、コロナ騒動でわかり暗澹たる思いです。コロワクで、報告があがっているだけでも1800人余りの方が亡くなっているというのに中止するどころかさらに打て打てどんどんやって、乳幼児にまで打たせようとしている日本。8月の超過死亡30,000人、テレビと新聞にいっさい出ません。だから知らないまま、いまだお国のやることに疑問を抱かずコロワクを接種してしまう人がいる。大人はもういいですが子どもたちは本当にあかん。おそろしいことが起きているのに平和にみえる日本。陰謀論とされたことが陰謀ではなく現実なのだということが日々明るみになってきているのに平和にみえる日本。おそろしいです。

 母は統合失調症、妹は家で自死、わたしは生まれる前からの右足股関節脱臼による変形性膝関節症の末期。家を建てた場所は呪われているのか。コロナ騒動で行政も医療も信じることがほとんどできなくなったのに、信じてはいけないとわかったのに頼らざるを得ないという悔しさ。隔世遺伝とコロナ最優先だから命に関わらない整形外科の手術先送りはわたしが選んだことではない、わたしの責任ではない。こんな苦労いらん、ほんとにいらん。神様は試練を乗り越えられる人にしか与えないとか、その苦労はなにかを教えてくれている、全て意味がある、学びがあるとか、そんな美しい話は知らない。今さら親を恨むこともできませんが苦労ばっかりさせるために生んだのか、勘弁してほしいよ、ほんとうに。

 辞任表明の見出しに、日本のことかと期待したらイギリスでした。混乱していますが、自浄作業が働いているということなのでしょう。羨ましいかぎり。もう訪れること叶いませんが、ロンドンを少し離れると車窓には緑豊かな景色が広がる美しい国でした。











イギリスへの旅の思い出-ケンジントン宮殿⇒ヒースロー空港へ

2022年07月27日 12時03分05秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出-ハンプトン・コート宮殿
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/9ec1b1dc226cf02f08670ec7eae28643


「1992年5月28日(木)

昨日と同様、ちょっと涼しい。

ビートルズのレコーディングスタジオをさがして歩く。迷って迷ってやっとたどり着く。住宅街にある古い教会、ほんとにあれがそうだったのだろうか、ちょっと不安。

昼食はリンゴ一個と、チップス一袋。

午後、ケンジントン宮殿へ。コートドレスコレクション、ダイアナ妃のウエディングドレスに思わず涙がにじむ。

あまり時間がなかったので、あわただしく買い物をすませ、ケンジントンガーデンの芝生の上に坐ってしばしぼんやり。日本に帰ればこんなことできないんだろうなと思うとちょっと寂しい。
ケンジントン・ガーデン、良い所だ。また来よう、必ず。
ピーターパンの像に会って、急ぎビクトリア駅へ荷物を取りに行き、地下鉄でヒースロー空港へ。

なんとかたどりついたヒースロー空港。ここまで来ることさえわからないことがいくつかあってドキドキ、無事チェックインし、ほっ・・・。
ドンくさくってぼうっとしているので、あぶなっかしいことだらけだった。でもここまで来たよ。
英語もロクに喋れないし、知り合いもいないし、さほどのことができたわけではないし、たいして意味はなかったかもしれない。
でも来てよかった。

帰国すればまた閉鎖的なわたしに戻るだけかもしれないけど、来てよかった。
Londonを、Englandを好きになって帰ることができる。
近いうちにまたきっと来たい。
今度来るときはジーパンではなくスパッツで、もっと気軽に、もっと気ままに。
さよならLondon、さよならU.K、
楽しい時をありがとうー
ワインを飲んでほよろい気分だ。

                             7;35PM」











 ちょうど野外劇場では翌日からシェイクスピア劇が始まるというタイミングでの帰国でした。スタッフの女性に声かけてみたら、夏までやっているからまた来てねって言われたかな。

 いつかまたと思いながら手元に残している外貨をそろそろ整理していかなければと思います。老眼でもう小銭は読めません。でもあとはもう死ぬだけとなった時、まだ杖使ってなんとか歩くことがでれば最後にもう一回だけ飛び立ちたいです。お金はもう残さなくていいから使い果たします。ワクチン接種していなくても入国できる所へ。帰国前にPCR検査受けないといけないから自分で英語でやりとりして、スマホのアプリを使いこなさないと帰って来るとき大変?いやもうその時には荷物全部整理して帰ってこなくてもいいかな・・・。

旅の思い出写真_スコットランドで購入した絵葉書

2022年07月22日 15時28分42秒 | イギリスへの旅

 1992年イギリスへ旅した際、鉄道でスコットランドにも足を延ばしました。エジンバラ市内の古い教会、メアリー女王の城など、歩き回ったことをなんとなく思い出します。バグパイプが流れてきたり。この頃はモンゴメリさんがスコットランドからの移民の子孫ということも、『赤毛のアン』にはスコットランド色が色濃く反映されていることも知りませんでした。色々なことを経て『赤毛のアン』に描かれた世界が深く心に入ってくる今ならさらに心の深い旅ができそうですが、この世にいる間にもう一度訪れることはないかな。行きたいね、行きたいって念じていたら行けるかしら、限りある人生の時間・・・。


イギリスへの旅の思い出-ハンプトン・コート宮殿

2022年07月22日 14時58分40秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出-マダムタッソー人形館・『GOOD ROCKIN TONITE』観劇
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/9ec1b1dc226cf02f08670ec7eae28643

「1992年5月27日(水)晴

ウエストミンスターpierからハンプトンコートまでテムズ川を往復。
片道3時間余。
肌寒くて風邪をひいてしまったが、Londonをはなれ、おだやかな良い休日を過ごす。
なにもしない時間を楽しめる所だった。
テムズ川から眺める景色もverygood!
夕暮れ時風に吹かれながら、気がついたら童謡を口すざんでいた。

クルージング往復 £8
宮殿入場料 £4.90
Hotel £25

長かった旅の終わりが近づいている。あまり実感はないが、明日の夜帰国予定。
あっという間だった。この旅はどういう意味をもつのか。
当初考えていたことに手が届いたのか。
すぐにはわからなくていい。
英語がおぼつかないので、友達ができたわけでもなんでもなく、ひとつひとつのことに必死だった。
前半は特にぎくしゃくしてしまった。
時間的、物質的、金銭的にもいっぱい失敗し、ムダもあった。
終わってみれば、たいしたことはなかったのかもしれない。
結局、ガイドブックをみながらの旅に終始したしー
が、少なからず、自分の足で歩き、肌で感じることはたくさんあった。
結論からいうと半年か一年以内に必ずもう一度来たい。
課題がいっぱい残ったもの。
あーあ、したいことがまた増えちゃった。
もっともっと気軽に、気ままに、旅をしたい。
ここならできそうだ。
熟れれば暮らしやすそうだしー
ほどよく親切、ほどよく無関心
単語並べてるだけのヘンな英語を理解しようとしてくれて、
紳士的な国だなあとしみじみ思う。
楽しかった。
まだ明日一日ある。
無事にヒコウキに乗るまでわからないが、とりあえず今日までなんとかやってこれた。
ほめてあげてねー
よくやったって・・・
日本に帰ればまた同じことの繰り返しかもしれない。
が、なんと今まで自分は小さな殻の中に閉じこもり、人を寄せつけないできたことか。
もういいんじゃない、楽しもうよ。ひきずるのよそうよ。
肩の力を抜いてサ、身軽になってサ。
いろんなことにしばられながらも気持ちは自由でいようよ。
ね、ね、ねー
ほがらかに今思う。」

 ミュージカル『レディ・ベス』の舞台が、ハンプトン・コード宮殿の中庭にあるレディ・ベスの父王ヘンリー8世の巨大な天文時計をモチーフにした、傾斜回転舞台でした。残念ながら、当時は歴史の重さを知らず、ほとんどなにも記憶になく、ホームズ博物館と同じく写真もありません。ただ、2014年に『レディ・ベス』の初演を観劇した時、なんとなくどこか体の中には記憶として残っているような感覚がありました。『レディ・ベス』は天文時計を斜めにして回転させると同時に、天球にはリングとして輝かせるという凝った舞台装置となっていました。演者は体に負担が大きく大変だったと思いますが、音楽・衣装と相まって世界観にどっぷりひたることができました。






イギリスへの旅の思い出-マダムタッソー人形館・『GOOD ROCKIN TONITE』観劇

2022年07月19日 08時49分18秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅-ウエストミンスター寺院・ロンドン⇔グリニッジ
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/9ec1b1dc226cf02f08670ec7eae28643


「1992年5月26日(火)晴

マダム・タッソー人形館 £6.30

チャ・チャ・ハウスでえびフライ弁当 £7
特においしくはなかったが久しぶりの日本食。
ひっくりかえりそうなほど食べる。

ホームズの下宿

アビー・ロードをさがして歩く

夜8時~PLAY HOUSE THEATRにて芝居をみる。£10

人に勧められてー
ロックの曲などよくわからないけれどなかなか楽しめた。

RandRandHotel泊 £25」

 ロンドンで『GOOD ROCKIN TONITE』をみたこと、コロナ禍となった2020年7月に投稿して、いいねもいただきましたが、こちらも書き直して再投稿。当日の朝、B&Bでひとり朝食を食べていたとき、近くで同じく一人で朝食を食べていた日本人女性と話したとき、すごく楽しいからと勧められて観ました。記憶をたどると、たぶんわたしひとりで地下鉄に乗って劇場までいったのだと思います。若かったですね。客席がすごく楽しそうな笑い声にあふれていて、ほとんど英語がわからないまま一緒に笑っていた記憶があります。

 







 マダム・タッソー美術館は、ダイアナさんがまだ皇太子妃だった頃で、ご一家の人形があまりにもそっくりにできていて驚いた記憶があります。アビー・ロードをさがして歩くと書いているのはなんだったのかな、記録をたどってみるとこの日バッキンガム宮殿のギャラリーも訪れたようです。リージェント・パーク近くのホームズの下宿も訪れていたのに、興味がうすかったのでしょうね、残念ながら記憶がよみがえってきません。地下鉄に乗っていったんだったかな?街中で意外とこじんまりしていると思ったかも?今のようにスマホで気軽に撮れる時代でもなく、写真もありません。今だったらワクワクですがもう訪れることはできません。

2018年ミュージカル『ジキル&ハイド』(9)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7538748fa7bc3457a9be8a8f8ed8687e

🏠シャーロック・ホームズの家🏠

コナン・ドイルが書いた小説『シャーロック・ホームズ』で、私立探偵ホームズが住んでいた下宿の住所が”ベーカー街221B”。ジキルの事件時に住んでいたことになる。実は当時、ベーカー街は85番地までしかなく存在しない住所だったが、1930年に番地が増えて実在するように。すると世界中からホームズ宛の手紙が届くようになったという。今ではシャーロック・ホームズ博物館として、多くの人が訪れるスポットになっている。


イギリスへの旅-ウエストミンスター寺院・ロンドン⇔グリニッジ

2022年07月16日 15時42分49秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/5cbf5eb4a79de7cd4289a16d9630c48f

「1992年5月25日(月)晴

ウエストミンスター寺院 £3

テムズ川をクルージング グリニッジ往復 £5

テムズ河畔でゆるやかに一日が暮れてゆく。

おだやかな一日が今日も終わろうとしている。

今日もちょっぴりリッチな気分のホテルに泊まるよ。

ビッグベンを眺めながら、7時20分。

ぼんやりと風に吹かれながら、テムズ川を眺めていたひととき。

ロンドンにいるんだなあと実感。」


ウエストミンスター寺院、
レディ・ベスこと、エリザベス一世も眠っています。








GreetingCardを購入しました。





グリニッジは残念ながら記憶がよみがえってきません。




イギリスへの旅の思い出-ロンドン大英博物館

2022年07月15日 11時05分25秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(4)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/c/9ec1b1dc226cf02f08670ec7eae28643


2020年9月の記事ですが、時系列にそってたどり直すためにこちらも再投稿します。

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 時々思い出すイギリスへの旅、つまらない昔語りです。ロンドンの大英博物館を訪れたのは旅日記を振り返ってみると、1992年5月24日のことでした。断捨離で残した写真はこの一枚のみ。まだ断捨離ということばが一般的になる前、片付けということがいわれ始めた頃に他は処分してしまいました。こんな巨大な彫像やら石造りの神殿?やらずらりと並んだミイラが納められている棺などなど、どうやって運んだのかしら、よく運んだもんだと思った記憶があります。植民地時代の略奪品の宝庫といえばいえる?でしょうか。ロンドン、美術館と同じく入場は無料でした。日本語のガイドブックを購入しました。2.5£。たぶん人生最初で最後だった大英博物館。

 コロナで3月からクローズとなっていたのが、8月27日からようやく再開したようです。

 2週間ほどイギリスに滞在しました。わたしにとっては人生最長の旅。若い頃に戻りたいのかと聞かれるとわからないですが、とにかく若かったです。叶うことはありませんが、もし今の自分で旅をすることができるのなら、心に映る景色が全く違うように思います。

「1992年5月24日(日)晴

 一週間ぶりに戻ってきた大都会ロンドン、来たばかりの時にはあまり感じなかったが田舎街をめぐって再びきてみると、歴史と伝統を背負いながらもけん騒と慌ただしさをもった雑多な街だ。おそろしくさえ感じる、物価も高いしね。
昨夜泊まったホテルは失敗だった。一応眠れたけど落ち着かなかった。
最初にドアを叩いた25£の部屋を断ってしまったのを後悔している。
ちょっぴりリッチな気分にひたりたくて『地球の歩き方』をたよりに今夜は34£の部屋。ウッ高い、でもせっかく来たのだから一泊か二泊ぐらい、いいじゃんね。

それにつけても思い出されるのはハワース(『嵐が丘』の舞台)のB&Bの居心地のよさだ。
ツインルームに一人で泊まって二泊で25£、夜食のクッキー、昼食用のトースト、グレープフルーツ付の朝食、夕食にはサンドイッチも作ってくれて、何かあったらTELしなさいと出かけるときにはメモを渡してくれたし、十分にお礼が言えなかったのが残念だ、本当に。
バスと列車の時刻もていねいに説明してくれた。
あの寒々としたヒースの丘と重なり合って、今回の旅の中でいちばん印象に残ることになるかもしれない。
おじさまが勧めてくれたヨークにも二時間余りだけど立ち寄ってみた。ミンスター寺院の鐘をききながらぼんやりしているひとときがよかった。城壁も歩き、中世をそのまま抱えたような街の趣を少しばかり感じた。
昨日の朝もくもっていて寒かったが、昼間は本当によい天気だった。今日ももちろん快晴、さて明日はー。

明日ロンドンは休日だときいていたことを戻ってくるまで実感していなかった。大韓航空の窓口がお休みだと帰ることができない、ちょっと心配だ。ガイドブックをみてみれば行くところはいっぱいあって尽きることのないロンドン。疲れているので今日はあまり歩かないことにしている。博物館のみ。
こうしてここまでなんとか無事に過ごしてきた。後数日どうなることだろう。
ロンドンでの孤独な夜を感じたくて思い立った旅だ。まだそれは果たしていない。
ひとつひとつのことをこなしていくのに夢中ですっかり忘れていた。
観光めぐりをしているだけで結局たいしたことはしていない。
それでもやはり来てよかったのだろう。
多くの課題を残して、またいつか来たい。


夜になっても暑い。
ちょっぴりリッチな部屋に泊まって、ちょっぴりリッチな気分、
疲れているので今日は大英博物館に行ったのみ。
とても全部見きれるものではない。古代エジプトとギリシャのみ。
紀元前の世界を楽しむことができた。英文の説明が読めないのはなさけないけどねー。

帰国便の予約の再確認について心配、JTBにTELしてみたら明後日でも大丈夫だろうというのだが明日ヒースローのJALにTELしてみよう。どうにもならないかもしれないけど、いやだけど帰国日が延びてしまうぐらいの気持ちをもってー。

明後日はBakerStreetへ行こう、マダムタッソー美術館と日本料理を楽しみにして。
日本ならばどこにでもある自販機、すぐにあるコンビニ、不便している。
ジュースを一本買うのに何十分も歩きまわったりして。
わたしが方向音痴だっていうこともあるけど、そういった不便もまた楽しだ。

黒髪、どんなに西洋のマネをしても自分は日本人だとしみじみ思う。
昨夜のホテルにセーターを残してきた。ほんの少しだけ肩の荷物が軽くなった。
最後の一枚のはがきを誰に出そうかまだ決めていない。

   RuskinHotel泊、34£」

 
 大韓航空のチケットを予約したとき、三日前だったかな、帰国便を自分で航空会社に電話して確認することを忘れないよう繰り返し言われたこと、あわせてロンドンの休日に注意するよう言われたことを忘れて焦っていましたね。翌日大韓航空に電話をしたら日本語で対応してくれて事なきを得たことを思い出しました。今なら飛行機で何時間もかけて移動せずともインターネットでいくらでも写真をみることができるし、映像でバーチャル体験をすることもできますが、その場を自分の足で歩かなければわからないものがあるのは舞台・絵画との出会いも旅も同じなのだと今だから思います。

 28年前、セーター1枚ごときよりもはるかにはるかに重く、この世にいる間おろすこともできないものを背負わなければならない人生になるとは知らなかった頃の一人旅。この年月どうにかこうにか無事に生き延びてきたのか、ここまで生き延びてきたのか・・・。

 ガイドブックはまたゆっくり読み返したい。










こちらはたぶん城壁の街ヨーク。
ぼんやりとした記憶で、マクドナルドに入りました。
マクドナルドっぽくない、街全体と調和するような外観だったことを思い出します。
街並みをこわさないために法的な規制があるのかもしれません。




イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(4)

2022年07月10日 16時48分03秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(3)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/f925f0450a82ca4bf6fda4090792f352

ブロンテ博物館の日本語案内リーフレット、





入口-

 このジョージ王朝の家は、1778年にヨークシャー地方の石を使って建てられた。1世紀の後、ブロンテ師の後任のジョン・ウェイド師は、切り妻部分を増築した。この部分は、現在図書館と展示室になっている。家の、元々ブロンテ家であった部分には、一家の家具や個人の所有品が置かれてある。建物は、ハワース在住のジェームズ・ロバート卿により、1928年にブロンテ協会に寄贈された。シャーロットは、ホールと子供部屋をなくして、食堂と二階のベッドルームを広げる等、家に様々な修復を施した。家具のほとんどは、ブロンテ家のもので、装飾は当時のものである。

ブロンテ師の書斎-

 右側の部屋はブロンテ師の書斎で、主に教区に関する仕事に使われた。彼は、よくここで一人で食事をしたので、彼の食卓がサイドテーブルに設けられている。詩篇集と拡大鏡が、暖炉の前の机の上にある。小さい堅型ピアノは、子供達のもので、主にエミリーが弾いていた。



食堂-

 この部屋は、姉妹がいろいろなことをして過ごした部屋である。アンが、暖炉の囲いに足を乗せて座ったロッキングチェアーや、エミリーがその上で亡くなったというソファもある。シャーロットの伝記を書いたギャスケル夫人は、部屋の主な色調は深紅色だったと書いている。シャーロットは次のように書いている。

「食堂のカーテンができてきました。私は工場で深紅色に染めてくれるよう注文したのですが、ひどい染めで、ちっとも気に入りません。」マントルピースの上には、リッチモンドが描いたシャーロットの肖像の複製画が掛けられており、ソファの上には、レイランドによるパトリック・ブランウェル・ブロンテの円形浮き彫りの石膏像が掛かっている。他の壁には、シャーロットのの敬愛するウェリントン公爵とウィリアム・サッカレーの版画が掛かっている。部屋は、彼女が作家として成功した時に拡張された。



台所-

 この部屋は、1878年に大幅に改装され通路となった。窓はふさがれ、新しい出入口が造られ、古いかまどは取り除かれた。台所は可能な限り改造され、元々あった家具が、再び入れられた。エミリーは毎週このテーブルでドイツ語の書物を読みながらパンを作った。台所用品やここに展示されている食器類は、全てブロンテ家所有のものである。




「ブロンテ姉妹の生涯

 作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
 
 父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。

 つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
 
 寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。

 兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。

 そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
 
 しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。

 エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。

 二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。

 牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。

牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。

 四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。

 牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。

 ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。

 だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。

 独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」


(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)


イギリスへの旅の思い出 _ 小説『嵐が丘』の舞台ハワース(3)

2022年07月10日 00時47分15秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出_小説『嵐が丘』の舞台ハワース(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/d94df942550f97ee756ee232442a022d

 小説『嵐が丘』の舞台ハワースの日本語パンフレット。こちらも2014年に投稿していますが追記して再投稿。

 私が歩いたのは、1の「ブロンテの滝とトップウインズンズ」のコースだったと思います。
 今振り返ってみると、軽装で準備不十分なまま、なにも考えずに一人で歩いてしまいました。無事でよかったと思います。分岐点には日本語の標識もありました。日本ならお店など開いていそうなところですが、全く観光地化されていませんでした。B&Bのオーナーがお昼に食べなさいとパンを用意してくれて、なにかあれば連絡しなさいと電話番号を書いたメモを渡してくれました。もうこの世にはいらっしゃらないかもしれませんが本当にありがとうございました。


「はじめに-

 ハワース、ヨークシャービレッジは、サウス・ペニン・ヒルズの高台に位置し、ブロンテ・ファミリーと深い関係があり、国際的に有名な所です。ブロンテ・ファミリーの最後の子孫レブレンド・パトリック・ブロンテが1861年に亡くなってからもう何年も経過しましたが、その異色で才能のあるファミリーに対する関心は高まるばかりです。世界中から多くの人々が幾度となくハワースを訪れ、伝説に残るブロンテ姉妹が叙述した生き生きとした情景が再現できることを夢見て訪れる人もいます。

 社会が大きく変わったようにハワース・ビレッジも何年もの間にずいぶん変わりました。しかし、そこには石畳の通り、古風で趣のある商店や機織(はたおり)機の置き場専用に建てられた古い家があり、オールドワールドの魅力が今なお残されています。

 また、クロース・ニット・ハンド機織(はたおり)業界では機械化された機織機が多目的向上に設置されたように、ブロンテ・ファミリーは産業革命に直面したのです。現在、これらの工場の多くは、さらに新しい時代の産業革命の犠牲になり、廃墟と化しています。」


「遊歩コース1-ブロンテの滝とトップウィズンズ(嵐が丘)-

ハワースから11.25km-4時間の周遊コース

 メインストリートの最上部から教会内に通ずる階段を昇り、石畳の歩道を左折し、金属製のゲートを通り抜け、市民農園と駐車場を通り、登り板をたどります。舗装道路ではなくなる所で右折し、登り坂の険しい道の最上部まで進みます。そして広い荒れ地(ペニストンヒル)に面した道に出ます。

 左手のトップウィズンズへという道を進みます。およそ150m進むと道が分かれており、ここで右折れの道を選び、駐車場まで荒れ地の丘陵側に沿って整備された道を進みます。そしてそのまままっすぐ進み、次に標識のある駐車場を横切り、駐車場を離れた所で右折れの道を下ります。合流地点に近づいたらしばらくの間下り坂です。そして、ゲートと家畜用の鉄格子の所まで進みます。ゲートをくぐり抜けると、ブロンテの滝とブロンテブリッジまで2.5kmです。ブロンテブリッジの合流地点に近づいたら、何本かの整備された道の一つを選び進みます。大きな岩が連なる道を約100mほど登り、小さな木製のゲートをくぐります。ここで道が分かれ、左手にトップウィズンズへという標識が立っています。そこからトップウィズンズへは1.6kmあり、その道を最初は登り、その後、風が強い荒れ地の平坦なコースを少し進むと、遠くにトップウィズンズのくっきりとした輪郭が見え、またその前方には大きな楓の木が二本立っているのが見えます。(小道に沿って進み、小川を渡り、道を登り、農場跡を通り過ぎ、そのままさらに200m登り続けるとトップウィズンズ「嵐が丘」にたどり着きます)。


 ハワースへ引き返すには、来た道を戻って農場跡の建物まで少し下り、スタンベリーとペニンウェイへの標識がある道を進みます。そして、さらに前方にある一本の木に向かって下り続けると、そこから道がかなり広くなって歩きやすくなっています。最初は平坦でその後、下り坂で、左手にある二つの農場を通過し、そのまま進めばゲートと家畜用の鉄格子の所まで下り坂を進みます。ゲートを通り抜けて道を下り、スタンベリービレッジに着きます。そこで希望すれば、バスでハワースに戻れます。また徒歩で戻りたければメインロードを歩いてビレッジを抜け、道路が合流する地点まで下ります。合流地点のメインロードを離れた地点で右折し、オクスンホープへという標識の道へと進み、貯水池の土手を横切ります。ハワース共同墓地への急勾配の丘のちょうど手前の貯水池のはるか向こうで左折し、未整備の道を進み、左に折れた道を下り、その後二本の道路が合流します。合流地点のちょうど右側に壁に付いている狭い木製はしご(スタイル)があるので、それを通って畑を横切って進み、ハワース・パーソネッジ・ミュージアムを通過します。そのミュージアムの建物はブロンテ・ファミリーの旧宅で、その建物の見学では、数多くのブロンテ・ファミリー独特の遺産を目にすることができます。パーソネッジの向こう側はこの周遊のスタート地点のハワース教会です。」




































イギリスへの旅の思い出_小説『嵐が丘』の舞台ハワース(2)

2022年07月06日 01時36分30秒 | イギリスへの旅
イギリスへの旅の思い出 _ 小説「嵐が丘」の舞台ハワース
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/a4c1cfa8af1cedb3865f60d04588685a



 こちらも2014年の記事ですが、投稿し直します。この時どれぐらい進行していたのかわかりませんが、生まれる前からの股関節脱臼により、右足の軟骨がすり減りつつあると知っていたら、こんなに歩けなかったでしょう。そもそも旅に出ることなどしなかったかもしれません。コロナワク〇〇うっていなし、仮にお財布は可能であったとしても(可能ではないので仮定法過去)、もう飛行機に乗って飛び立つことはできないので知らずに旅できたこと、今となっては幸せだったのかもしれません。

 再読したかった岩波文庫の『ジェイン・エア』を再読中。『嵐が丘』は昨年再読しました。ブロンテ姉妹の生涯について書かれた本も読んでみたいです。


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私が4時間歩いた「嵐が丘」の舞台の写真をアップします。古い写真をスキャナーで読み取りました。よろしかったらご覧ください。


「ブロンテ姉妹の生涯

 作者エミリ・ブロンテは、荒野に囲まれた村ハワースで育った。『嵐が丘』は彼女が残した唯一の小説で、まだ若い29歳(1847)のときに出版されたものだった。
 
 父親はアイルランドの貧しい農家の息子だったが、上昇志向と世渡りのうまい一面を持ちあわせていて、ケンブリッジ大学へ入学する機会をつかみ、イングランド国教会の牧師となった。結婚して6人の子供をもうけたが、上の娘二人は夭逝し、成人したのは息子のパトリック(1817-48)、三人の娘シャーロット(1816-55)、エミリ(1820-49)、アン(1820-49)だった。母親は末娘のアンを産んだ一年後に亡くなり、伯母が一家の面倒を見た。

 つまりエミリは母をほとんど覚えていない。さらに子どものころは、息子パトリックだけを手元に残そうとした父の考えで、姉たちとともに寄宿学校に入れられた。
 
 寄宿学校は劣悪な環境で、上の姉二人が結核で死亡した。姉の者―ロッテが『ジェーン・エア』に描いた非道な寄宿学校は、ここがモデルだ。それからエミリは、ベルギーへフランス語を学ぶために留学したが、ハワースを恋しがり、ふるさとへ戻ってきた。

 兄妹は文学を志し、シャーロッテ、エミリ、アンは1846年に男三人の共著として詩集を自費出版した。女の詩人というだけで正当な評価を得られないことを恐れて、男の筆名にしたのだ。しかし、たった二部しか売れなかった。

 そこで彼女たちは詩をあきらめ、今度は競って小説を書いた。姉のシャーロッテが『ジェーン・エア』を、エミリが『嵐が丘』を、アンが『アグネス・グレイ』を書いた。
 
 しかし姉の『ジェーン・エア』だけが絶賛され、英米で大流行した。シャーロッテは、一躍、ジェーン・オースティンやジョージ・エリオットに並ぶ女流作家としてロンドンの文壇で大人気を博した。一方、『嵐が丘』は、あまりにも激情的で非常識だと黙殺された。

 エミリは深く傷つき、失望した。そこへ一家の期待を背負っていた兄が、家庭教師先の夫人と不倫騒動を起こしたあげく自暴自棄になり、酒とアヘンに逃避して自殺同然の死をとげた。

 二重のショックから、エミリは、兄の葬儀で引いた風邪の治療を拒み続け、休養もとらず、ついに肺炎にかかった。それでも安静を守らず、家事をしたり荒野を歩きまわったりして衰弱し、ついに居間の長椅子で亡くなった。生きる気力をなくした末の緩慢な自殺と言えるのではないだろうか。

 牧師館の居間には、エミリが30歳で息をひきとった長椅子が、そのままに置かれていた。輪私はそこに立ち止まり、しばらく椅子を見つめていた。キャサリンの亡霊ではないが、エミリの無念な想いに満ちた何かがそこに横たわっているような気がしたからだ。『嵐が丘』は、作者エミリの没後、高く評価されるようになり、今では世界的な名作となっている。しかし作家は、やはり生前に理解者をえることこそが無情の喜びなのではないだろうか。

牧師館には、一家の食器、シャーロッテの執筆台、ペンのほか、服や靴も残されていた。ドレスは、今どきの中学生でも着られないくらい小さかった。当時の貧しい食事がしのばれた。

 四人の兄妹は二十代から三十代にかけて次々と世を去り、最後に、頑固だった牧師の父が、ただ一人残された。

 牧師館に隣接して、墓地があった。歩いてみると、墓石は昔風の大きなものばかりで、歳月に傾いたり苔むしていたりして、いんうつな墓場だ。墓碑を一つ一つ見ていくうちに、ブロンテ姉妹が生きた19世紀初めは、早死にした若者が多かったことがわかった。1817生〰39没などという男性や女性の墓が、朽ちたり欠けたりして並んでいる。エミリの墓は、教会の中にあった。観光客がたむけたのだろうか、ヒースのささやかな花束が捧げられていた。

 ハワースは、荒野の丘にできた小さな村だった。石畳の通りを五分も歩けば、家並みは途絶えてしまう。特産の毛織物を売る店などもあったが、人影はまばらだった。秋が始まろうとしていて、ひんやりした空気には、乾いた草の匂いがした。冬になれば、さぞかし殺風景で寂しいところだろう。

 だが、エミリは『嵐が丘』に次のように書いている。
「このあたりの人たちは、都会の人間なんかよりもっと真剣に自己に忠実に生きているし、見かけや変化や、移り気な外面的な物事に動かされることが少ない」と。

 独身で恋人もいなかったエミリ、無口で神秘を好んだ彼女にも、同じことが言えるかもしれない。」


(松本侑子著『イギリス物語紀行』平成16年2月10日、幻冬舎発行より引用しています。)


遊歩道のコースを紹介した日本語のパンフレットを後日またアップしてみようと思います。