たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

あれやこれやと片付かないまま

2016年12月31日 23時44分57秒 | 日記
 あっという間に6連休の半分が終わろうとしています。あれやこれやと片付かないまま、実感ないまま、今年が終わろうとしています。業務時間はやたらと長かったのに休みはあっという間。疲れが出ているなあって思います。でも断捨離やりたいのでがんばってしまって、これで4日からまた新しい職場と仕事。辛いなあ。大丈夫かなあ。社会から孤立していた一年前の辛さを思えばなんとかやるしかありませんが辛いなあ。その時は必要だと思って購入したけれど、今は必要なくなったモノがほんとにたくさんあって、少しずつお別れしてはいますが、休みに入ってからは少しまとまってお別れしてはいますがまだまだあります。部屋の中のあっちもこっちもほこりだらけ、って気にし始めたらきりがなく終わらないし、2016年のほこりと不用品をかなりもちこしたまま2017年を迎えることになります。普段手が回らないものを洗濯したりしているとそれだけで時間かかるし、仕方ないね。明日以降も少しずつ、少しずつ、断捨離は続いていきます。少しずつ、少しずつ・・・。

 ニコニコ動画のチケット購入して、『スマイルマーメイド』の大阪楽日、昼の部を視聴。魅入ってしまし、パソコンの前でさらにひきこもり状態になってしまいました。昨日のお昼のタイムシフト視聴スタートから24時間視聴できるので、特に清史郎君の登場場面は時間の許す限りなんどもリピート。生で観劇して結末を知ってからみると、パブロとケント王子が海辺で遊ぶ場面や一幕のラストがぐっときてしまって涙。パブロの最期の場面はさらに涙、涙。ケント王子とドーフィンがパブロに言う「お前面白い顔しているな、でも耳はいい、幸せになれる耳をしている」とか、ケント王子が言う「ずっと僕と一緒にいてくれるか」が結末へとつながっていることに気がついてまた切なくなり涙。ケント王子はパブロが自分の命を魔女スネイキアに差し出したことを知らないけれど、船が沈没したあとパブロとケント王子は現世では二度と会えなかったけれどお星さまになってから再会できたかな、パブロは自分が納得できる生き方をして幸せだったかなとかつらつら考え始めると止まらないですね。ケント王子と再会した時のマリナはまだなにかにとりつかれたような表情をしたまま愛への執着心をみせていてこわくなりました。ラストの、ケント王子の遺骸を抱いて、子守歌を歌うような優しい、歌詞と歌声。生で観劇した時には気づかなかった細かい表情をみることができたのは映像のなせる技。原田さんと清史郎君のガブローシュコンビはスキルが高く息もあっていて最高。レミゼ、ミス・サイゴンの大舞台を経験した原田さんの歌と演技はほんとにさすがなもので、舞台全体を安定させているとあらためて感じました。たぶん原田さんの力がなかったら成り立たない舞台ともいえるぐらい、客席に安心感を与えていてくれました。二幕はかなりせつないですが幸せオーラに満ちた幸せな舞台。今年はほんとに舞台からたくさんのエネルギーをもらいながらここまで生き延びてきました。観劇日記を書き切れないまま、2017年の観劇は、エリザベートのガラコンサートからスタートします。

 写真は『スマイルマーメイド』のパブロとケント王子。ステージナタリーから転用しています。一人と一匹ではしゃぐ場面、ほんとに可愛くて結末を知ってみると胸あつ。

 除夜の鐘がきこえてきます、お風呂入ってやすまねばね・・・。

長い一年でした

2016年12月29日 23時39分09秒 | 日記
 ほとんど実感がありませんが年末なんですね。今年はあと2日。なのに片付けていないことだらけ、整理がついていないことだらけ、断捨離はまだまだで、今年のお別れ作業が終わりません。終われないまま新しい年を迎えることになりそうです。次の就労開始に向けて態勢を立て直していくのに十分な時間はありません。いやあ心配。片付けること片付けていかないと落ち着かないし、10年前の今頃国家試験受験に向けてかつかつと勉強していた内容を振り返る時間もほしいですが無理かなあ。時間があまりないことに気がついて気持ち焦りつつも、今年の疲れがきている感じもあるし、でも昨夜は大きな地震があってまた不安におそわれ、なんだか落ち着きません。すごく揺れた感じがするのに震度2。ががっと突然揺れると何もできませんね。茫然と揺れがおさまるのを待つことしかできませんでした。もっと大きな揺れがきたときはさらになにもできないんだろうなと思います。何を持って逃げるんだろう。何が必要なんだろう。とっさの判断はできないとあらためて感じました。今日は、あのキイキイ声を我慢する必要はもうないんだと気づいてほっとした一日でした。ずいぶん言葉で傷つけられたし、よく辞めなかったなあと思います。年始には実家にひきこもっていたことがすごく遠いことのように感じる、長い一年でした。ほんとよくがんばったさ、わたし。

 次のアルバイト先のことは最後まで公に言いませんでした。キイキイ声の方から朝餞別を個別に渡されたとき、ほんとは言いたくなかったですが言わないことで嫌味を言われてもいやだと思い、一応4日から〇〇所の〇〇課でアルバイトをすることになりまし、って言いました。正式な契約書を受け取っていないし、これ以上言葉で傷つけられなくなかったのでこれだけ。「エッ、あ、そう」みたいな反応でしたが、口きいてもらったわけではないし、もう関係なくなるのでこれでよかったと思います。協調性がないとやっていけません、ってさんざん言ってきた御本人に協調性があるとはとても思えない、信頼関係なんて持てなかったのでこれで十分です。わたしたちの前で、他の役職者や職員のことをあれこれと悪く言うのもほんとによくないと思いました。いやでも聞こえてしまう、聞かなければならない。それに同調して同じ立場の人がさらにあれこれと言う。言っている内容はたしかにそのとおりなのかもしれませんが、期間限定の雇用形態の職員たちに言うべきことではないと思いました。もう少し謹んでいただきたかった。何度もここにグチをこぼしてきたように、イライラをずいぶんとぶつけられたし、もう忘れたい。他の方にもきかれたら答えましたがきかれない限りは自分から何も言いませんでした。「ここで学んだことを生かして次の道へ・・・」とか最後に挨拶しましたが、この雰囲気はもう忘れたい。

 明日以降またあれやこれやと少しでも書ければと思います。久しぶりに掛布団カバーを洗い、お布団をおひさまにあてました。陽射しはありがたいです。明日もまた断捨離、今年までのあかを少しでも洗い流したいので頑張ろうと思います。タブレット端末と来年の手帳の購入を検討するのも明日の目標。ネットで予約しているロミジュリとフランケンシュタインのチケットの引き換えも忘れないようにしなければ・・・。明日もあれやこれやの一日になりそうです。休みつつもあれやこれやの一日。なんとか生き延びていかねばね。今年いただいた年賀状のお返事をまだできていません。くださった方はブログを読んでいないですが、この場をお借りしてほんとにごめんなさい。今年も一枚も書く予定なしです。ほんとにごめんなさい。

 年の瀬。実感はなくてもせこせこ・・・。

長い道のりでした

2016年12月28日 23時28分09秒 | 日記
 なんとか一日が終わり、無事に契約終了を迎えました。最後撤収作業を手伝った一時間は残業代つくのかな。毎朝のサービス残業を累計すると何十時間になるのかわからないし、もうどっちでもいいですが残業時間のカウントが一時間単位なんて時代にあわさなすぎます。それともサービズ残業をするのが当然という感じなんでしょうか。よくわかりませんが、幸いなことに忙しい一日で疲れました。とにもかくにもどうにかこうにかここまでたどり着くことができてよかったです。色々と勉強にはなりましたが、業務内容と労働環境は吐き気しそうでした。決してあっという間だったという感じではなく一日一日の積み重ねでほんとにほんとに長い時間でした。最後まで嫌味な言いかたはダメだったし、自分勝手に吠えるオバチャンには相変わらずあきれました。オバチャン、アルバイトとして残りますが正規職員に対しても仕切りたがるんでしょうか、指示的な言いかたをするんでしょうか。もう関係ないのでどうでもいいです。関係者のみなさま、お気の毒。キイキイ声の責任者の女性と自分勝手オバチャン。大変なことになるだろうなということは想像に難くありません。がんばってくださいという感じです。

 わたしにとってはこんな面白くない、吐き気しそうな業務内容と労働環境の中で11カ月、なんとか踏ん張りきることができたということが大切。一年前の今頃、労働紛争ですり切れたまま、無理して面接に行ってはみたものの社会への幻滅を感じることばかりで気力が失せてどうしようもなくなってしまいました。気力が失せて身動きとれなくなってしまった自分が情けなくって情けなくってどうしようもありませんでした。実家に帰省すると弟にごはん用意してもらうひきこもり生活。夕方両親と妹が眠るとお墓まで散歩に行っては、お墓の前で話しかけながらただただ泣き崩れる日々を送っていました。わたしにふさわしい道へと歩んでいけるように見守ってほしいと祈り続けました。今年の一月の下旬までそんな日々が続きました。他にどうすることもできませんでした。祈りが通じたのか、一月の終わり近くになって不合格通知が届いた組織体から欠員補充の話が舞い込んできました。本当にそれが幸いだったのかどうかはこれから次第になると思いますが、とにもかくにもズタズタのすり切れからここまで立ち直ってくることができました。わたしってえらいですね。よくぞここまでやれたと自分ながらに思います。ほんとにえらいよ、わたし。よく踏ん張りました。自分の中にある怒り、悔しさ、悲しさ、苦しさ・・・負の感情とされるものをないもののようにすることがわたしにはできません。下手なのかもしれませんができません。全部自分としてそのまま受けとめます。受けとめながらこんなわたしで何が悪いっていう気持ちで生きています。これからもたぶん、そんな生き方しかできない。めっちゃそんなタイプですけどね、これがわたしだからしゃあないです。次の就労場所はもう少し人にやさしい環境だといいですがどうでしょうか。業務内容からしてそんなにきつい人はいないように思いますがどうでしょうか。契約書が事前にはこないと知ってからめっちゃ不安ですが、まずは1月4日の8時30分までに出勤することを目指して態勢を立て直していきます。間に合うかなあ。色々と片付けたり、スマホとタブレット端末の購入を検討したり、乱視矯正のコンタクトをつくったり、いろいろ・・・。

 こうしてわたしが生きることで、妹と両親の魂も生き続ける。妹と両親の分までわたしが生きる。それがわたしに与えられた役割。そんな想いがわたしを支え続けています。誰にも会わずに医者と美術館と劇場に通い続けた11カ月。たくさん助けてもらった舞台の想いだし観劇日記は明日以降またぼちぼちと。とりあえず連日のグチ日記は終わります。読んでくださった方ありがとうございます。明日から六連休ぞい!おしまい!

年末という実感はありませんが・・・

2016年12月27日 22時48分34秒 | 日記
 例年通りにクリスマス狂騒曲が終わると、クリスマスなどまるでなかったかのように街はいっきにお正月。そんな中で年末という実感は全くありませんがようやく、どうにかこうにか明日最終出勤日を迎えようとしています。こんな頭がどうにかなってしまいそうな仕事。何か間違いがあると、誰がやったの?って犯人をさがしてつるし上げる空気。長くって仕方ありませんでした。今日の午後責任者の女性が、これは誰がやったの?って目の色を変えていたこと、結局犯人はわかったんでしょうか。誰かがやったんですよね。少なくともわたしも含めた三人は犯人ではないとわかったので安心しました。状況的に責任者御自身が犯人だったのではないかとも思われますがわかりません。こういうローテーション業務、二度とごめんです。こんなことに熟知して神経をすり減らしても仕方ないようなこと、二度とごめんです。相手の気持ちを全く考えず自分のイメージどおりに人が動かないと苛立ち自分勝手に振舞う人たちと一緒に仕事するのも二度とごめんです。カイシャの弁護士との一年ほどの闘いでズタズタにすり減ったわたしが、こんな空気の中でよくぞやり通しました。えらいですね、わたし。余談ですが、真っ黒なはずのものを、真っ黒でしょ、って図星で言われたら、いやこれは白いんだって言い切るためなら手段を選ばないのが弁護士のお仕事だって知らないですよね。普通はこんなこと知らないと思います。わたしも労働紛争を経験するまでは知りませんでした。白か黒かだけで、真実なんてどうでもいいんです、行間に込められている人の想いなんてどうでもいいんです。それが司法ってやつですかね。

 さてさて来年4日からのアルバイト内定したものの、その後健康診断の結果も契約書類も届かないので心配になってお昼休みに電話を入れたら、「事前に契約書が届くっていうイメージをおもちでしたか?」って言われました。そんなの当然のことですよね、そうしないと法的にもまずいはずなんですけど、って思いましたが、初日の朝出勤したら渡されるのが慣例になっているんだそうです。今までそうしてきました、もし事前にほしければ交通費を使ってとりに来てください的なニュアンスでした。契約日はたぶん4日付なんだろうなという気がします。就労開始前に1月1日付の契約書が郵送されてくるのが当然だと思っていたのですが、そうではない世界。この感覚のずれは大丈夫なんでしょうか。すごい不安になってきました。まあ行ってみてやれそうになかったらやめればいいだけのことですけどね、うーん、本来先駆けて見本にならなければならないような組織体がすごく古い。これでいいのでしょうか。色々と敬虔してきているだけに疑問におもってしまう自分がつらいです。四カ月だけですけどね、その後どうしていくのか、今は全く考えられません。

 明日最終日。一秒でも早く無事に終わりたいです。ツィッターをあれやこれやのぞいて息抜き。必要ないものを年内に全部片付けるのは無理なので、年末年始の休みの間に少しでも進められるといいな。まずは明日。黄色い声に辛抱しなければならないの、あと一日。できるだけ平穏に、無事に追われますように・・・。

 

あと二日だよ

2016年12月26日 22時58分07秒 | 日記
 お昼休み13時30分から、今日がラストでした。幸いなことに忙しい一日。他のことやらなくてすむので助かりました。他の人が間違えたことで、わたしが間違えていると勘違いした仕切り屋さんがわたしにすっごいきつい言い方して、ひとこと「ごめんなさいね」って言ってくれると気持ちいいのに、なんかそういうちょっとしたことが信頼関係なのに、なんでああかりかりきつい言い方ばっかりになるのかなあ。プライベートでストレスためてることは関係ないです。もう終わるからどうでもいいですけどね。

 今日はワンセグでひっそりとスマスマ最終回をみています。20年という歳月はずっしりとおもいです。いろんなことがありました。彼らの笑顔は日本の宝。さびしいです。

観劇納めは『クロスハート』

2016年12月25日 22時50分04秒 | ミュージカル・舞台・映画
 土曜出勤の翌日六本木に出向くのはつらいものがありましたが蘭ちゃんを見逃すの後悔したくなかったので行ってきました。駅から遠かったなあ。終わったら真っすぐ地元まで戻ってきていつものカフェでショートケーキとココアをいただきました。ありがたき幸せ。今こうして生き延びられていることに感謝のクリスマス。今この瞬間も生き延びることに必死な人たちがいることを忘れないでいたいと思うクリスマス。

 作品は現代の日本と100年戦争のフランスという二つの時間軸が交錯してわかりづらいところもありましたが、脚本がしっかりしているしキャスティングがいいので、味わいのある仕上がりになっていたと思います。生演奏だし、殺陣もダンスのシーンも満載。歌声はみなさんきれいで小粒ながらいい作品。わたしの坐った列は席が少し空いていて、もったいないこと。蘭乃はなさん演じるアルセーヌと中山優馬さん演じるセザールが最初に出会う場面。セザールがひとめでアルセーヌを好きにならずにはいられなかったのがうなずける可愛らしさと優しさと強さをもつアルセーヌ。蘭ちゃんの素にすごく合っている役柄かな。歌声もきれい。一幕のセザールとのデュエットシーン、素敵でした。もう少し声量が出るともっともっと歌で芝居ができる女優さんになっていけるかなと感じました。立ち姿もドレスさばきもダンスシーンも美しく、二幕の素手でブルゴーニュ派の剣をうけていくシーンは男前なかっこよさ。右手で剣を斜めにあげるところはオスカルみたいでした。初見でした。蘭ちゃんシシィをスルーしてしまったのを今さらのように後悔。歌い方にちょっと癖がある感じがするので好みはわかれるかもしれませんが声がほんとにきれい。もっともっと磨いていってほしいな。ティエリを演じる大湖セシルさんは今年宝塚を退団したばかりなんですね。男役から娘役へ転向したとプログラムに紹介されています。納得の殺陣とダンスとドレスさばき。殺陣とダンスで蘭ちゃんと対決するシーンが何度もあり、見応え十分でした。とにかく元タカラジェンヌのふたりがそれぞれに男前なカッコよさにあふれていました。カミーユを演じる唯月ふうかちゃんの優しさあふれる歌声は秀逸。女性陣はこの三人だけ。女性陣が素敵な舞台でした。男性陣のことも書きたいですがまた後日。どんなふうにおさまっていくのかと思いながらみていたら、リュックの脳を移植されたセザールの体が生きていて、最後アルセーヌの剣で自らを刺すという結末は衝撃でした。自由を手に入れると誓い合った二人がブルゴーニュ派とリベルテ派に分かれて対立していたのが最後は一人になる。リュックの想いをセザールの体が語る。タイトルのクロスハートの意はここにあったのでしょうか。展開はなかなかにむずかしいところがありました。カーテンコールで、男性陣はサンタ帽、女性陣はサンタ帽のアクセサリー?をつけて登場してくれました。クリスマススペシャルカーテンコールでした。

 さて明日のお昼は13時30分から、明後日は11時30分から、明々後日は12時30分から。考えただけで吐きそうになるので一日一日。どんだけキイキイ声で嫌味を言われても打ちのめされても、自分勝手な人たちに指示的なことを言われても三日辛抱すれば終わります。昨日わたしの間違いを指摘してきた役職者の目が死んだ魚のになっていて驚きました。間違えたのわたしではなかったのですが、それはいいのですが、4月に異動してきたときはやる気まんまんだった役職者がローテーション業務で間違いがあると誰がやったの?わたしじゃありません、ってなって犯人がわかるとつるしあげるような雰囲気の中で業務を覚えることもできないまま、ストレスでどうにかなってしまっていると感じました。こんな空気の中からいい仕事は生まれません。次の契約書がきていないので来年のことはまだわかりませんが、とにかくこんな空気の中から一日も早くおさらばすべし。あと三日、能面になって辛抱すれば終わります。能面でいいんです。なんとかやりすごすべし。辛くなった時はたくさん観劇した舞台のあれこれを想い出しながらなんとかやりすごすべし!
 

ようやくクリスマス・・・

2016年12月24日 23時09分52秒 | 日記
 ようやく待ちに待ったクリスマスがやってきました。ようやく契約終了の足音がすぐ近くできこえるようになりました。最後の土曜出勤がなんとか無事に終わり、残稼働日数は三日。来週の月曜日から水曜日までの、たった三日間を辛抱すれば終わりなんです。気持ちの中でたった三日間という感じはないのですが、ようやく、ほんとにようやくここまで。よくぞたどり着きました。えらいよ、わたし、ほんとにえらい。

 三連休中の今日は予想通り、忙しい一日となりました。朝一番から受付をしなければならなかったわたしは、朝食にバナナ一本、おにぎり一個、小さいデザートケーキをいただき、エネルギーチャージ。お昼は11時30分からでしたが、12時30分からの時と変わりなくしっかりいただき、食のおかげでなんとか乗り切ることができました。忙しい方が時間の過ぎるのが早くっていいです、ほんとに。土曜日は高齢の方が来所することはほとんどないので、流れもスムーズでとまることはほとんどありませんでした。最初の1時間で20人ほど受付したらあっという間に時間が過ぎていました。幸い責任者の女性からキイキイと怒られたり嫌味なことを言われたりすることもなく大きなストレスを感じることはありませんでした。こんな日も仕切り屋の二人には閉口しましたけどね。ほんとにまあ、自分のイメージ通りに人が動かないと、ほんのちょっとのことでも自分のイメージからずれていると、それぞれ人に対してものすごい言い方をしてきます、指示的だったり、言い方がきつかったり。この人たち、ここだからいいけど他では無理だよなあっていう気がします。もう少し、人の間違いや、人それぞれのやり方があるのを許せる幅がないと無理でしょ。それぞれ同じカイシャで20年前後正社員として働いてきたみたいなので、こうなってしまうんでしょうかね。前職のカイシャのわたしよりもオバチャンの正社員をみていても思いました。同じカイシャに長くいちゃだめなんだと、他では使いもののならなくなってしまうんだと。ほんとに、そんなキリキリときつい言い方をしなくてもいいのに、同じ立場のわたしたちに指示的な口調でものを言わなくてもいいのにと思います。けっこうカイシャは扱いに困っていたんじゃないかなあ、辞めてくれるのを待っていたんじゃないかなあ。わたしの勝手な推測。あと三日間が過ぎればもう関わることはないのでどうでもいいことですが。間違いのあった人をつるし上げるような空気がいやでたまらないので二度と関わることはありませんから。

 今年中にお別れできるものはしておきたくて、昨日も引き出しやら見回して衣類数点とお別れすることにしました。古くなってきた下着類や着古した洋服。前職のカイシャの苦労が沁みついているパンツともお別れしました。ネット通販で購入したストレッチパンツ。数えきれないほど身に着けました。決して高いものではありませんが、すぐれものなのでわたしの足にあわせてくれるようになっていつの間にかかたちがついていました。ほんとに長い間お世話になりました。さみしさもありますが、どこかでお別れしなければならないのでここらでお別れでした。他にもなんでこんなものを買ってしまったんだろうなっていう大物をようやく処分しました。少しすっきりですが、まだまだあります。28日を過ぎればゴミ出しも終わってしまうし、もう必要のないものと今年中にお別れしきることはとうてい無理ですが明日も少し整理。お別れの作業は頭を使うので少しずつ、少しずつ、まだまだ続いていきます。

 年の瀬という実感はありませんが、ほんとに色々なことがありますね。こうして一日、一日を生き延びていることができているのは奇跡。それだけで十分だし、すごいことです。今誰かの、なにかの助けを必要としているひとのもとに、助けの手が届きますようにと心から祈ります。明日も寒く、乾燥した一日。無事に過ぎていきますように、無事に28日を迎えられますように・・・。



宝塚はたのしい!

2016年12月23日 22時01分46秒 | 宝塚
 連休二日目。十数年ぶりに宝塚を観劇。梅田芸術劇場で上演された年に一度の宝塚スペシャルを近くの映画館の大画面でみることができるというライブビューイング。大阪に行くのは無理なのでありがたや。日本全国のみならず、台湾と香港にも中継されたそうな。台湾の中国語と広東語でトップスターさんが挨拶されていました。男役のトップスターさんは少しわかるようになりましたが、ほとんどお名前を知らないままの観劇でしたが、楽しめました。浮き世を忘れて非日常的な世界にひたれる宝塚はやっぱり楽しい! 

 20年ぐらい前雪組を中心に、東京宝塚劇場によく通いました。新しくなってからは数回行ったかなあ。朝海ひかるさんがトップで上演された『凱旋門』『デパートメントストア』が最後かな。チケットやら本やらCDやらいろいろと処分してしまいましたが、舞台の想い出は心の引き出しにのこっているので大丈夫、大丈夫。今なら動画でみることができそうですね、そのうちに・・・。

 一番うれしかったのはエリザベートコーナーで轟悠さんの「キッチュ」を聴けたことかな。日本初演から20年目。団員の中にはまだ生まれていなかった人もいるそうな。そりゃそうだよなあ。日本ではじめてルキーニを演じた轟さん。今でもわたしが観劇した中で轟さんのルキーニがいちばんだと思っています。初演の時のインパクトはすごかった。一路さんに高嶺さんに香寿たつきさん、なつかしい雪組時代の轟さんは濃いキャラクターな印象でしたが、年月をへてなんというか研ぎ澄まされましたね。理事になられても変わらない男役の衣装の着こなし。さらにスマートにすっきりときれいに着こなされているようにお見受けしました。轟さんが真ん中に立っている舞台。なんだか嬉しかった。

 エリザベートコーナーは、「キッチュ」に続いて、トップ娘役4人のメドレーで「わたしだけに」、トートとルドルフを男役二人が組んでメドレー(お名前はわからずです)、「最後のダンス」はトートを演じた経験のある明日海りおさんと朝夏まなとさん(最近名前をおぼえました)のメドレー。わたしの中で一路さんと姿月さんのトートがよみがえってきますが、誰がいいとか比べることができないのがエリザベートという作品の楽曲。こんなふうに歌いこなされているんだと思いながら拝聴しました。

 新しい作品の歌は全くわかりませんでしたが、再演されている作品もあるみたいで、耳になじみのある歌だなあと思ったら、「仮面のロマネスク」「激情-ホセとカルメン」のナンバー。懐かしかったし今も歌い継がれているのが嬉しかったです。後半はエリザベートコナーに続いて、寺田瀧雄先生のコーナー。没後17年だそうです。セマニフィーク、タカラヅカオーレ・・・、なつかしの耳になじんだナンバーがいくつもあって嬉しかったなあ。

 懐かしいばっかりじゃなくて、終盤で男役が赤い燕尾服を着こなして歌っているのがわたしには斬新で爽快でした。轟さんとトップスターさんはシルクハット。娘役のトップさんは大きなリボンがついたドレスが素敵で夢の世界。こういうところが幸せ感を運んでくれます。OGコンサートでも歌われる「すみれの花咲くころ」「フォーエバータカラヅカ」。夢の世界につれていってくれる宝塚はこれからも続いていくんでしょうね。時代の流れの中で、新しいものを模索しながら、宝塚にしかできない夢の世界を紡ぎ続けていってほしいなとお思います。男役(女性)が娘役(女性)をリフトできるなんて、たぶん宝塚だけ。女装した男役を男役がリフトしている場面をみてすごいなあと思いました。男役はかっこいいし、娘役は素敵だし、これが宝塚なんだなあ。男役のトップスターさんたち、左の耳に大きなイアリング、左手に指輪もしていておしゃれ。ショーの時はずっとそうだったのかな。大画面でみてはじめて気づきました。しばし日常を忘れた時間。明日のことがよぎってしまうとちょっと緊張しましたけどね、普段能面で過ごしているので、能面でいないとやっていくことができないので笑顔あふれる舞台を大画面で観劇したのは貴重な時間でした。心まで能面になってしまわないためにこういう時間は必要・・・。

 残り4回というところまできましたがまずは明日。最後の土曜出勤。三連休中ですが、わたしも含めて接客業のみなさんは出勤ですね。デパートがクリスマスケーキやらチキンのから揚げやらであふれかえっていてびっくり。なんかこういう正しいクリスマスの過ごし方は、シングルのおばさんには縁がありません。肉が食べられないのでチキンの匂いに吐きそうになりました。売れ残ったケーキは店員が自腹で買い取ったりしないといけないのかな。働く方は大変でしょうね。わたしの明日もたぶん大変。お昼が11時30分からですが、午前中はたぶん声を張り上げ続けることになります。小さな体がすり減っていくような業務内容。事務のはずだったのにふたをあけてみたら完全な接客業。わたしには合いません。お腹でっぱった自分勝手な方とイライラと当たり散らすキイキイ声に我慢するのもあと4回。それで終わります。まずは明日。今日は20度。明日は12度。地下は冷え込んで、あったかいものをのむことはできないのでまた体が冷える辛い一日になることでしょう。これで土曜出勤は終わりです。

 昨日眼科に行ったらわたしの乱視は60度でみている状態だそうな。免許証の字よりもさらに細かい字を見なければならない毎日。見づらいのは当たり前。精神的な緊張感も眼にきているので苦しいのは当たり前。技術が進んでこんな乱視矯正用の使い捨てソフトコンタクトレンズが今はあるんだそう。お取り寄せになるので28日までこのままでいきます。あと少しじゃ、あと少しじゃ。

 25日は『クロスハート』のチケットを当日引き換えで予約しました。六本木の、駅から距離のある行ったことのない劇場にたどり着くだけの気力があるかな。蘭ちゃんシシィを見逃したことを後悔しているので後悔したくないと思って予約しましたがどうでしょう。クリスマスは、苦しい境遇の中で一日一日を必死に生き延びている人たちのために祈りたいと思います。世界中の子供たちが笑顔でいられるようにと祈りたいと思います。特別はことはなにもありません。今わたしにできることに尽力するのみです。

 

『説き語り「源氏物語」』より_あとがき

2016年12月23日 08時57分32秒 | 本あれこれ
 「紫式部は女性の復権を叫んでいる

 平安時代以前、飛鳥、奈良の女性像といえば、私どもは高松塚古墳の壁画や樹下美人図しか知りませんが、その絵の中の女性は、背すじをすっきり伸ばして、髪を上げ、フレアースカートではがらかに立っています。立っているということは動いていることですわね。それは室内ではなく、戸外の明るい太陽を受け、人々の息吹きを感じるということ、つまり″ 社会の中にいる女″という姿で描いてあるわけです。

 それなのに平安時代の絵巻物などでしる女性たちは、動きも自由にならない十二単(ひとえ)に長い髪。そして坐った姿ばかり。ひき目かぎ鼻にしても、不自由なわが身をうつむいて考えている姿ですよ。″ 眺める姿勢″というわけですけど、眺めるというのは高い床の家に坐って庭をみつめて考えているということ。「女ってどうして不幸せなんだろう」、こう考えている姿に変ってくるんです。

 これを花にたとえれば、もっとはっきりするでしょう。飛鳥、奈良の乙女は、花でいえば椿、やぶ椿です。椿は花も葉もつややかに輝いていて、ふっくら、生き生きとしています。素朴な力強さに満ちています。それでいて、”しべ”はつつましやかです。あるいは、桃の花といってもよいでしょう 野性的で力強く、それでいて女らしい桃の花です。

 ところが、平安時代になると、力強さが消えて、河原撫子(かわらなでしこ)になってしまうのです。洗練されてきたかわりに、強さを失い、はかなさ、たよりなさ、かれんさが求められる花になってしまうのです。

 頭のするどい紫式部という作家は、この変化をみつめないではいなかった。といっても絵をみたわけではなく、『万葉集』の中にあらわれる飛鳥、奈良の乙女の生きざまを観察しているわけです。

たとえばあの額田王(ぬかたのおおきみ)の歌、

 あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 
 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る


また、巻一の最初の歌、
 
 籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち 
 この岡に 菜摘(なつ)ます児(こ)……


など、狩りの場にいる官女であったり、岡で若菜を摘んでいる娘であったり、乙女たちは皆、実に明るい自然の中で、生き生きとした姿で描かれています。

 さて紫式部の周囲をみると、女はうつむいて坐って、家の中に閉じこめられてしまってい
る。

  強さを失い、はかなく、たよりなくなってしまった女たちは、ひとりでは立っていられなくなります。当然のことながら、男に依存しなければ、生きていかれなくなります。そこからどうして自己が生まれ、確立されていきますか。女だって人間なのに、という思いは、ここから発せられたものでしょう。

 わずかの間に遂げたこのような変化を、紫式部の知性は敏感に感じとったのでしょう。何かそこには大きな社会の変化があったのではないかと考えたのですね。

 忘れてならないことの一つに、経済の問題もあります。大地に足をつけて立っていた飛
烏、奈良の乙女たちは、野に出て働いていました 生産に従事していたのです。けれども、
国家の体制が整うにつれ、社会が変わっていくにつれ、上層階級の女たちは、御簾(みす)の 奥深くへ追いやられ、生産とは無縁の生活をすることこなります。

 生産手段をもたないことは、経済的な裏づけを失うことにほかなりません。それはとりもなおさず、男に依存することになります。

 男に依存しなければならない女が、ものをいえなのは、当然すぎることでした 男にとって都合のよい女にしかなれないのです。

 つまり男と女の立っている地平線の高さに違いができてしまった。平等の社会が、男が上位に、女が下位の社会に変ってきたために、男の都合のよい女がつくられることになったというわけです。

 だから紫式部は、”女がつくられたものになっていくことの不幸”を書いたのです。

 ボーヴォワールは『第二の性』の中で、”女はつくられた″といいました。皆びっくりしましたが、私は驚きませんでした。紫式部はそれよりも九百五十年も前に、言葉こそ違え、「女はつくられた。それゆえに不幸なんだ」といっています。


 女だって人間なのだから、あれがいい、これが悪いという意見だってもっています。意
見をもっていれば発言したいのに、女はすべて控え目にして黙って暮らせといわれる。これがいったい人間らしい生活なんだろうか。女も自分で考え、自分で価値判断をして、自分の意見を自由にもち、はっきり自分の口で表明し、態度で表現する自由があってこそ、 人間として生きがいがあるのではないか、と。

 これは女であるがゆえに気がついたことかもしれません。私はこの紫式部の考え方を追求していく意味で、源氏物語を読み、語り続けたいと思っています。


 生産に直接たずさわらないまでも、一条天皇の中宮彰子につかえて、経済的にも自立していた紫式部には、男に依存する女の不幸が、よく見えたのでしょう。


 同時代に生きて、今日に残る作品を残している清少納言、和泉式部もともに中流の自分の基盤をもった”職業婦人”でした。この人たちのように経済的裏づけがあってはじめて、ものが見え、ものがいえたんです。


 時代の空気を敏感に感じとり、これでいいのか、と考えた紫式部が、五十四帖の長い物語の底に流れる意志、つまリテーマにしたことは、ほかならぬ人間復権だったのです。飛鳥、
奈良の乙女のもっていた人間性を、生気を、ほがらかさを、力強さを、女たちにとりもどすことだったと思います。

 けれども、残念ながらやがて時代は武家社会になり、中流女性たちの生活にも男性支配が広がり、女は完全に家庭の内に閉じこめられ、長く自主性を奪われてしまうのです。

  戦後、女性をとりまく社会的条件が変わり、原則として女は男と同じ地平に立つことが出来るようになりました。そして今、紫式部の時代から千年がすぎて、あなた、本当の意味で人間復権してますか。自分自身に問いながら読んでほしいと思いますよ。」


 「人間とは何か-女が女を描く恋愛物語-

 作者の紫式部は、なかなか類型にわけるのが好きな女性です。”うつくし”という言葉で表現される藤壺と紫の上、”はかなし”の夕顔と女三の宮、浮舟、”あはれ”の明石の上 、あさがおの君、玉鬘など、タイブに分けることができます。

 たよりなげで、性的にもろい女というと、夕顔、女三の宮、浮舟と一本の線の上に並びますし、逆に知性と理性を持ち合わせ、自分というものをもっていた女は、空蝉、あさがお、大君と続きます。この女たちを追って気がつくのは、それぞれ時代が進むにつれて、確実に女たちが成長していることです。

 同じように知性をもった女でも、空蝉とあさがおの君をくらべると、あさがおの君は最初から結婚に懐疑的で、だれとも結婚していません。さらにあさがおの君を大君とくらべると、あさがおの君が源氏と主に時候見舞いのやりとりしかしなかったのに対して、大君はもう一歩進んで薫と宗教や人生論をかわし、価値観を共有するところまでいっています。

 たよりなげな女たちにも、同じことがいえます。女三の宮の出家は、現実からの逃避ですが、浮舟の出家は、自分自身をつきつめていった結果でした。出家することによって浮舟は強い女に生まれ変わります。このこともやはり、紫式部の女への期待なんです。

 あらためて、紫式部が女であったということを、かみしめてほしいものです。いうまでもなく、主人公の光源氏は男ですが、登場人物約三百七十人のほとんどが、女です。女が女を描いた文学が、源氏物語なんです。

だからこそ、私もひとりで楽しんだり、考えたりするのではなく、多くの女の人と楽し み、考える方法はないのかしらと考え、読んで語ってきたのです。

 物語が書かれた時代から今日まで、生活環境は大きく変わりました。言葉も変わり、源氏物語がどんどんむずかしくなっているのも事実でしょう。しかし人間の心は、千年の昔も今も少しも変わってはいません。紫式部に見つめられ、分析された源氏物語の登場人物たちの心理は、そのまま今の私たちの心理に通します。千年の昔に人の心が、これほどまで鋭い感性でつかみとられていたのかと思うと、恐しいばかりです。私たち日本の女は、西洋の文芸や哲学にも先がけてすばらしい遺産を持っているわけです。

 これほどにすばらしい遺産が、一部の研究者だけのものであっていいわけがありません。紫式部と同じ女にこそ、日々の暮らしの中で喜び、悩んでいる女性にこそ、親しんでほしい物語です。」

(村山リウ『説き語り「源氏物語」昭和61年5月15日第一刷発行、講談社文庫より。)


 高校生の頃、文学少女だったわたしは、図書館で借りた田辺聖子『新源氏物語』、谷崎純一郎『源氏物語』を読みました。手元にあるのは、村山リウ『源氏物語』三巻。高校生以来読んでいません。今のわたしでゆっくりは無理ですが、読み返してみたいと思います。

説き語り「源氏物語」
村山リウ
講談社

『クリスマス・ツリー』

2016年12月22日 09時06分08秒 | 本あれこれ
「大きな街をおとずれてみました。
 広場には、背の高いクリスマスツリーが置かれ、
 そのまわりに、クリスマス市とよばれる箱形のお店が連なっていました。
 このクリスマス市、昔、宗教行事で人が集まるときに、
 農民や職人がそれぞれの生産物を売ったのがはじまりだといわれています。


 おもちゃおかし、ツリーのかざり、帽子、セーター、キリスト誕生にちなんだ人形、
 サンタクロースの刺しゅうに、たくさんのかご・・・いろいろなものが売られています。
 売る人からも買う人からも、えがおがこぼれていました。」

 (写真・文吉村和敏『クリスマスツリー』2010年11月25日初版発行、アリス館より。)


 昨日のアクセス5位のこちらの記事、自分でも読み返しました。ありがとうございます。

2016年4月29日「バスティーユの恋人たちより」(2)
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/e3ce64ef0b2c8c00290127dba71871f0?fm=entry_awp

 ドイツのクリスマスマーケットが襲撃された事件のニュースをみながら思ったのはこの記事に書いていることと同じなのであらためては書きません。世界のカオスは深まるばかり。今は飛行機の乗ることも、ヨーロッパやアメリカ大陸に行くこともおっかなくてもできません。なかなか旅日記が終わりませんが、2007年と2008年に無理して、ドイツ、フランスに旅しておいてよかったと思います。ユーロがすごく高い頃でした。ちょっとした買い物でも円換算すると何百円にもなっていたと思います。 

 わたし、労働紛争の経験から社会の黒い部分の一端を思い知ることとなりました。権力を手にしたものがいかに愚かでみにくいものか思い知りました。日本も、世界も、弱い立場の人々を踏みつけにした犠牲の上に強いものが繫栄していくような、そんな社会ではなくなっていくことを心から願わずにはいられません。 

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若松英輔 ‏@yomutokaku 12月10日
クリスマスはイエスの生誕を祝う日だ。彼の生涯は、さまざまな形でしいたげられていた者たちに寄り添うことにささげられた。教会に行ってミサに参加するのもよいだろう。だが、自分を必要としている人のもとに行く、あるいは助けを必要としている未知な人々のために祈る、そんな一日でもよいのだろう。


若松英輔 ‏@yomutokaku 12月10日
クリスマスは何かを得るだけではなく、わずかでもイエスに何かを贈らねばならない。よき行いをした者、偉大な事をした者はそれを差し出せばよい。しかし悲しみと苦しみのなかで生きる者は、その砕けた心をささげるのがよい。イエスは共に苦しみ、彼の眼から流れる涙は、私たちの心の傷をも癒すだろう。



クリスマスツリー
吉村 和敏
アリス館