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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『大地のような女たち』_『木靴の樹』より

2014年10月31日 22時00分29秒 | 映画『木靴の樹』
1990年公開映画パンフレット(フランス映画社発行)より引用します。

「今、エルマンノ・オルミ監督『木靴の樹』を見終わった。三時間七分が過ぎたとは思えない。まだ北イタリアの農村風景の中にいるようだ。時間が止まったような中で、静かで深い感動がじわっと湧いてくる。ドラマチックなストーリーではないから、瞬間的に感動したり、胸踊ったり、強烈なショックを受けたりはしないが、ミレーの名画を見ているような感動だ。

 物語は十九世紀末、北イタリア、ベルガモの郊外を舞台に、ある分益小作農場に暮す貧しい四家族に起る出来事を、四季のめぐりの中で淡々と描いている。

 神父の強い勧めで、利発な息子ミネクを小学校にあがらせたばかりに、十二キロにも及ぶ通学で、一側しかない木靴を割ってしまった息子のために、地主の立木一本を伐って木靴を作ったバティスティ一家が無一文になって土地を追われる。

 しかしそんなに貧しく、理不尽に虐げられた農民の生活の中で、私が感じたのは女性の強さだ。

 夫の心配をよそに、産婆もなしに子供を生み、無一文になって農場を追われても、静かに堂々とそれを受け入れるバティスティの妻。その表情は悲しみより一家に安心感を与えるものだ。洗濯女として六人の子供を養っているルンク未亡人は、雪の日でも小川で洗濯し、唯一の財産の牛が病気になり、獣医に「手おくれだから早くして銭にした方がいい」と云われても、強い意志で、礼拝堂に参り、そのわきを流れる小川の水を汲んで、病気の牛に飲ませて直してしまう。ブレナ一家のマッダレーナは美しい娘で、ひかえめな意志表示で青年の愛を受け入れるが、完全に結婚のイニシヤティブを握っている感じだ。そして地主が、ホームパーティーでピアノを弾く息子と、脇に立って見守る母を一人窓から覗いているシーンは、夫の疎外感を思い起こさせ、現代を見るようで不思議な場面だ。

 大地にしっかり根をおろした女の強さ。現代のようにウーマンリブ、フェミニズムなどと声高に云わなくても、日々の生活をしたたかに生きている様子がこの映画の女たちにはある。これ以上気弱な男たちを叩きのめさなくても、昔から女たちは充分に強かったのだ。

 ミネク少年の可愛らしさいじらしさは、とても私の拙い筆術では表現出来ない。『ミツバチのささやき』や『都会のアリス』などを見てもそうなのだが、その子供の表情や仕草だけで一本の映画ができあがってしまう程だ。

 自分の割ってしまった木靴が原因で農場を追われ、明日から小学校に行けなくても、母親の縫ってくれた学校用のカバンをしっかり抱いて荷馬車に乗るミネク。もう足長おばさんになってあげたい。胸がキューンと痛むシーンだ。

 そして夕闇の中、小さな明りをつけた荷馬車が農場を後にする。この悲しみの一家に誰れ一人声をかける者もなく、見ないように家の中でじっと息を殺していた農場の人々が、やっと外に出てきて、遠ざかって行く小さな明りを祈るように見つづけている。幻想的で、リリカルなラストシーンがとても印象的だった。


                             澁澤龍子(エッセイスト)」

信じつづけていくしかない

2014年10月30日 09時15分05秒 | 祈り
気持ちが落ち着かなくて疲れます。
パソコンやスキャナーを使っている音もつつぬけになっているみたいなので疲れます。
あっちのどたばたもこっちのどたばたも聞こえてきてしまいます。
古いものを洗い流して、引っ越もして出直して行きたいです。
でもまだ身動きとれません。許してくれません。普通には理解できないこと。
布団に入ってからも、悔しくって涙が出て、薬を飲んでいてもすぐには眠れませんでした。
一定の方向性がみえてきてはいるそうです。
もう少し頑張るしかありません。
その先にどうやったらごはんを食べていけるかもきっとみえてくる、
妹が、父と母が守ってくれていると信じつづけるしかありません。
今はこれが精一杯です。

「1995年8月25日(金)

ほんとは、今日から仕事をしている筈だったのに、キャンセルになってガクッ。
保険証もないし、中途半端な状態だ。
昨夜は重苦しくいやな夢をみた。
吐き出してしまった方が楽かもしれない。
でもなお暗くなるかもしれない。
忘れよう、努めよう。
ただ、冥福を祈ろう。
自分に忠実であればきっとみえてくる。」

『ミス・サイゴン』(3)

2014年10月29日 08時05分29秒 | ミュージカル・舞台・映画
「アメリカを訪れた、イギリスのチャーチル首相が1946年フルトンの大学での講演で使用した「鉄のカーテン」という言葉に象徴されるように、第二次大戦終結から、1989年12月地中海のマルタ島でソ連のゴルバチョフ書記長とアメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領が会談し、終結を宣言するまで、世界はアメリカを盟主とする資本主義(自由主義)の西側陣営、ソ連を中心とする社会主義(共産主義)の東側陣営の二極対立の緊張状態が続いていた。まさに、お互いに核兵器をつきつけてのロシアンルーレットのような緊張を生んでいたのである。これが東西冷戦といわれる状態であり、ヨーロッパの東西で睨み合い、様々な途上国で大国の覇権をめぐる戦争や紛争が続いた。
 ベトナムも例外ではなく、ホー・チ・ミンのベトナム民主共和国は、ソ連と中国がベトナムを正当な政府と認め、武器援助をし、一方アメリカは、フランスとインドシナ三国に武器援助をした。特にアメリカは、「一国が共産化されれば周辺諸国も共産化する」という、猜疑的な「ドミノ理論」という考えを持っていた。」

(『ミス・サイゴン』公式プログラムより引用しています。)


なかなか『ミス・サイゴン』の観劇ブログを書き切れないでいますが、まずは市村正親さんが、無事に11月-12月の『モーツアルト』で舞台に復帰されることになってほっとしました。

市村さんの代役でエンジニアを務められた筧利夫さんのことは、8月13日に書きました。
7月29日、8月13に共に同じ役者さんでみたキャストのことを少し。


クリスは原田優一さん。昨年の『レ・ミゼラブル』では、原田さんマリウスを観ていないので、2011年のレミゼ以来でした。歌、演技力、安定感はさすがだなと思いました。共感するのはむずかしい役だなというのが正直なところですが、彼のように心の傷を背負わなければならなくなったアメリカ兵はたくさん実在するということなんでしょうね。
罪つくりだと思ってしまいます。

クリスと結婚したアメリカ人女性エレンは、木村花代さん。
二幕バンコクのホテルでクリスを訪ねてきたキムと鉢合わせした後に戸惑う気持ちを歌った場面が印象的でした。

クリスの親友ジョンは岡幸二郎さん。
陥落前のサイゴンのクラブで、ジジを冷たく突き放す場面など、共感しやすい感はあります。
二幕始めに、「ブイドイ」を歌われる場面の凛々しさが印象的でした。
歌の上手さはいうまでもありません。
ブイドイの援助活動に従事するジョンを演じられたことをきっかけに、岡さんは基金を立ち上げ、ボランティアもされているそうです。
アメリカ兵とベトナム人女性の間に生まれた混血児のことを歌っています。

 名はブイドイ
 地獄で生まれたゴミクズ
 我々のすべての罪の証拠だ
 忘れない
 彼らはみんな我らの子

 壁に囲まれて
 逃げ場のない子だ
 秘密は隠せない
 彼らの顔

 こんな私でも
 教えられたのだ
 生まれながらに背負う
 罪はないと

 
ジジは池谷祐子さん。『レ・ミゼラブル』ではファンティーヌと取っ組み合いをして工場から追い出してしまう女性を演じられていました。こんなに歌が上手い方なんだとあらためて思いました。
衣装の露出度が高いのにちょっとびっくりでしたが、「我が心の夢」が心に届いてきました。


なんとなく書き足りない感があるのでもう一回書ければと思っています。



8月13日、帝国劇場内の市村さん降板のお知らせ。




8月13日、帝国劇場前です。




『日本株式会社の女たち』より(5)

2014年10月28日 16時06分08秒 | 竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』
 米国系化粧品会社の日本法人「エイボンプロダクツ」の大熊映子マネージャー(36)は、入社後、上司の面接を受け将来の希望を聞かれた。同社には年に一度直属の上司が部下全員に人事考課の結果を説明し、将来の向上に何が必要か、昇進の希望があるなら何をすべきか助言する仕組みがある。部下のキャリアアップは、「管理職の義務」なのである。大熊さんは、英語力を強化するよう助言され、週二回ほど、仕事のあとで語学学校に通った。会社から8割の授業料補助が出た。
「こんなふうにして欠点を補い、何を次にすべきか考えているうちに管理職になっていた、ということです」と言うのである。

 ここには、形式的に回ってくる異動希望を前に立ちすくむ、(日本の上場企業の主任)大川のような姿はない。残業も「しないほうが当り前」。仕事が残れば仕方がないが、残業が毎日のように続くとすれば、それは管理職の仕事の配分が悪く、一人に偏り過ぎているか、一つの部に集中しすぎているか、または、仕事の割に人員が少なすぎるか、いずれかが原因というのである。こうした点を是正するのも管理職の責任になる。

 どれだけ周囲の人に自らを合わせ、どれだけ長い時間を会社のために費やすかより、一定の時間でどれだけ効果を上げられるかが問われる。「知恵の勝負」である点、より厳しい要求とも言えるが、同時に、家庭責任を果たしたい人間でも「知恵」があれば昇進は可能、ということでもある。

 まず女性をあらかじめ競争の圏外に振り分け、次に有り余る男性たちを競わせ、競争についていけない部分を振るい落していく人海戦術風の戦後日本の人事管理では、会社はひたすら自分の要求を一方的に設定して、これについてこられない人間はただ置いておけばよかった。同じ水準の多数の人間の中から、会社の規格により適した人間をえり分けるだけなら、この方式で十分だったのかもしれない。作れば買ってくれる米国などの大市場があったから、常に会社の外の情報に触れ新しい市場の創出に神経を使う必要もない。特に管理する側に人間の配分を計画的に行う近代的ノウハウが備わっていない職場の場合には、いつも近くにいてくれて呼べば駆けつける長時間会社滞在型の社員は確かに便利である。

 しかし、こうした従来の「管理」の前提となる条件は、今や大きく変化してしまった。中でも、看板だけでは人を集められず、良い人材を早急に育てねばならない新しい企業の場合は、こんな慣行を続けてはいられない。

 さらに、「女性も昇進できる制度」は、①日本人の男性②社命への無条件服従③自己主張しない家族、の三条件を満たさない人でも昇進できる評価制度を意味する。そして、この三条件を持たない労働力が、現在の日本では急速に増えているのである。


(竹信三恵子著『日本株式会社の女たち』1994年、朝日新聞社発行、114-117頁より抜粋して引用しています。)

「大草原の小さな家」への旅_2日目(ミネソタ州)

2014年10月26日 14時12分18秒 | 「大草原の小さな家」への旅
2013年9月5日(木)

時差に体がついてこず、やはり2-3時間おきに目がさめてしまう。
インターネットをつなごうとしたりするから朝起きられず、腰はガチガチ。
ちょっと曇り空。朝は寒い。

7時半モーニングコールで起床。
荷造りに1時間ぐらいかかってしまう。
朝食の時間があるようでなくて急ぐ。

9時半ホテル出発。

ぺピンの街の中心にある歴史博物館を見学する。

ローラ・インガルス・ワイルダー・パーク。
夏のキャンピングカー用の公園、特に何もない。


ぺピン湖畔で『大きな森の小さな家』の場面と同様に小石拾い。
湖畔のショップは殆どClose。
(湖畔は磯の香がした。)

アメリカ大陸を横断する列車を3回見ることができた。
①穀物を運ぶ列車 ②貨物車 ③各国からの輸入品を運ぶ列車

車輌の数も多くてすごい迫力だった。
豪快に汽笛を鳴らして走って行く。
これぞアメリカ。

ミネソタ州内ワバシャの街でハンバーガーの昼食。
お肉が苦手であることを伝えてあったので、私だけベジタブルバーガー。
すごいボリュームだが、おいしのでなんとか完食。
ワバシャは、西部劇のような街並み。
収穫祭の準備らしき飾り付けが見られる。
渇いた感じが、アメリカっぽい。

バスで大草原の中をひた走る。
こんな所を昔は馬車で移動したんだ。
アメリカの開拓民の原点に触れた思い。

途中大型マーケット、WallMartで買い物タイム。
庶民生活の一部を垣間見る。

ニューウルム(ミネソタ州、ドイツ系移民の街、街並みがドイツっぽい)の
Holiday Inn泊。
食事もドイツ料理、街で一番古いレストラン。
私にはサーモンとポテトを用意してもらっていて、おいしいが大きすぎて食べ切れずに
残念。

それにしても、包丁だけでも何種類もある、繊細な日本料理ってすごいな、と
お昼を食べながら思ったのでした。

復習-ローラはウィスコンシン州ぺピンに生まれる。ミネソタ州に7才で移り住み、移動を繰り返す。ごっちゃになっている。


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一日目の写真がまだ少しありますがまた後日載せますね。






復元された丸太小屋の看板。
(丸太小屋があるのはウィスコンシン州、ローラが生まれたのはウィスコンシン州)





ぺピン湖畔歴史博物館より、『大きな森の小さな家」の初版本(1932年)。




お祭り

2014年10月25日 23時04分32秒 | 日記
今週の日曜日はコミュニティハウスのお祭りでした。
小ぢんまりとしたものですが、いろんな人たちが関わって創りあげていったもので、
あの時あの人たちがこうしていたものは、こうなっていったのかとわかったことが
いくつかありました。
わたしはバザーの品を分けるのと、終わってからの片づけと打ち上げ、
そして月曜日も片づけとバザーで残ったものを無料でお分けするお手伝いをさせていただきました。
記念の手ぬぐいを用意していただいたので、消しゴムはんこを押しました。
会社の時とは全く違う、なんというかお互いを大切にしあうつながり、
大人になってから利害関係なしに一緒に何かをすることはめったにないことなので楽しい時間でした。
久しぶりに体を動かして仕事をした感でした。

気がついたら、ちっちゃい子たちが会うたびに成長していく姿に目を細める親ばか状態になっていました。人が成長していくその姿にエネルギーをもらっています。


『赤毛のアン』を原書で読むセミナー(第2章マシュー・カスバートの驚き)より

2014年10月24日 21時37分14秒 | 『赤毛のアン』
先週の土曜日(18日)のセミナーから、あっという間に一週間が過ぎようとしています。
お隣の電話の話し声だけじゃなくて内容まで聞こえてきてしまうような落ち着かない環境の
なか、パソコンの重さが体にきていることもありきついですが、今週もなんとか乗り切りました。苦労して家賃払っていてなんだかなあと思いますが、今は仕方ないです。
今まで積み上げてきた引き出しを総動員して、丸ごとの自分で、全身でぶつかっていかないと乗りきって行くことができない困難なこと。きっとこれからは好転していくと信じています。

アンはいつだって全身丸ごとのアンでどんな人にもどんなことにも全力でぶつかっていって、泣いたり笑ったり怒ったり・・・、そんな女の子なんだとあらためて感じるものがあります。

どんな人と出会うかによって人生は変わりますが、手違いによって、マシューとマリラに出会ったことで、アンも、マシューとマリラの人生も好転していきます。

第2章は、春の日、マシューが孤児院からプリンス・エドワード島へやってきた「男の子」を迎えに馬車を走らせる場面から始まります。
マシューは駅で待っているのが、女の子(アン)とはまだ夢にも知らず、この章ではアンの名前も明かされません。
原文を写経のようにルーズリーフに書き写していますが長い章です。
モンゴメリさんは、本当に楽しみながら書かれたんだろうなと思います。


”The little birds sang as if it were

The one day of summer in all the year."

「小鳥たちは歌っていた。あたかも今日が
 一年でただ一日の夏の日であるかのように
   ーローウェル『サー・ローンファルの夢想』より

 晴れわたった春の午後、よく手入れされた農園、すがすがしく香るもみの林、白い花をつけたすもも、いい匂いがする林檎園をすぎゆき、馬は気持ちよく進んでいく。

 ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(1819-91)、マサチューセッツ州ケンブリッジ生まれ。アメリカの詩人、批評家、外交官。

 この詩『サー・ローンファルの夢想』は、サー・ローンファルが聖杯探索に出かけるところから始まる。
 
 聖杯とは、キリストが最後の晩餐につかった杯だ。キリストが磔(はりつけ)にされた後、
十字架の下で、アリマタヤのヨセフがキリストの血を受けたとされる神聖なものだ。中世のアーサー王伝説では、円卓の騎士たちは、この聖杯を探し出すことを悲願としていた。だから騎士サー・ローンファルも、意気ごんで出かける。

 マシューがアンを迎えに行くときの、うららかな日よりの描写として使われている美しい二行は、騎士が聖杯探求に出発する前の晩に見た、夢の場面だったのだ。

 詩では夢の続きで、サー・ローンファルは乞食で出会う。寒い冬の日、キリストのためにと思って、凍った氷をくだいて乞食に水を与えたところ、それは赤いワインに変わる。金貨をやり、持っていたパンを半分にわって与えたところ、まばゆい光がさし、天の扉がひらいてキリストが現われる。なんとその乞食は、キリスト本人だったのだ。

 キリストの聖杯は、特別な場所に特別な物としてあるのではなく、困っている人に、親切心から物を分け与えるすべての器こそが聖杯になるのだとキリストに教えられる。そこでサー・ローンファルは聖杯探索に出かけるのをやめる、という内容だ。

 詩の内容をつかんでみると、アンを迎えに行くマシューは、キリストの聖なる杯を探しに行く騎士と重ねられていることがわかる。また貴重な聖杯は、この地上に身近にいるアンである、という示唆もある。

 聖地エルサレムや欧州各地を探さなくても、日々の暮らしのなかで、困っている人に対して、優しさと慈愛の気持ちで物を分け与える器、その心がけこそが聖杯なのだと教えられる。

 その観点からすると、サー・ローンファルが乞食に出会い、施しをして真の愛を知ったように、マシューもまた、アンという愛に飢えた貧者に出会い、引き取るという施しをすることで、逆にマシュー自身が、キリストのいう真実の愛にめざめ、神とアンの愛をうけていく、という暗示がある。」

(松本侑子著『赤毛のアンに隠されたシェイクスピア』2001年集英社発行、301-306頁より抜粋しています。)


 本当は男の子を迎えに来たことを言い出せなかったマシューは、ひとまず女の子を馬車に乗せてグリーン・ゲイブルズへと戻ります。春真っ盛り、花にあふれた島の美しさに感激した女の子(アン)のおしゃべりは続き、原文ではいろいろな文法が入りまじっています。アンは難しい文法を使って話す言語感覚にすぐれた女の子として描かれている、マシューはこういう英語を全く喋っていない、という松本先生のお話でした。

 おぼつかない英語力ですが、原文でしか味わえないものがあるので、12月の講座も楽しみです。11月は学会の日程と重なってしまい残念ですが、欠席になってしまいます。


写真は、グリーン・ゲイブルズの台所です。
 

 



              

背中をおしてくれてありがとう

2014年10月23日 09時21分27秒 | 祈り
妹との突然のお別れ、母の病気、苦しいことから背を向けずに誠実に向き合って生きてきました。
今もすごく困難なことから背を向けずに立ち向かっています。
消えることのない苦しみや悲しみと一緒に生きているわたしだから、がんばれるのかもしれません。
昨日は、「ねえちゃんがんばれよ」と背中を押してくれていたような気がします。
忘れることなんてない、ずっと心の隅っこで思い続けながら私自身のために歩き続けています。

極度の緊張と寒さと気持ちの高ぶりで、昨夜は帰ってきてから軽く食事しようとしましたが、
添加物の入っている物は体が拒絶して吐いてしまいました。手作りの野菜スープは体にやさしい感じがします。


「1995年8月22日

ほぼ一カ月にわたる休みも終わろうとしている。
暑い夏を、こんなにのんびりとした形で満喫したのは、高校以来だろう。
テキストのリポートの下準備を中心にしてきたのでけっこう疲れた気もするけれど、
ふだんできない部屋の片づけをしたり、まあまあのんびりできたのだろう。

もう前しか向いていない。
具体的になにをすればいいのか、
みえてこないけど、自分を信じて歩いていこう。
10年前思ったはずではないか。
らせん階段を登る如くいこうと、思い出したよね。
わたし、無理しないでサいこうよ。」

雨の一日

2014年10月22日 22時14分11秒 | 日記
ふつうにはやれないことを体験してきました。
極度の緊張・・・。
昨夜は軽い入眠剤をのんだのでよく眠れましたが、
朝、隣の部屋か下の部屋かわかりませんが、携帯のアラームが鳴り続けているのがきこえて、
中途半端に目がさめてしまい、つらかったです。

すでにエネルギーが尽きている感じがするので、お昼は今の私にはぜいたくですが、
アフタヌンティーで、お気に入りのパスタランチとデザートもいただきました。
気持ちが別のところにいっているのでながら食事になりましたが、おいしいものを食べることは本当に大切。

急に寒いし、疲労からだと思いますがまだ奥歯が痛みます。

きっと妹も、「よくがんばっているよ」とほめてくれていると思います。


悲嘆と「時間」との関係、その時間を支える「食」の役割(2)

2014年10月21日 21時32分23秒 | グリーフケア
おせち料理のパンフレットが目に入る頃となりました。早いものです。
このまま本当に冬を迎えるんだろうか、このままで冬を迎えるのはきびしいなあ、という感じで毎日は過ぎて行っています。
私の記録が不十分で、辰巳さんのお話を伝え切れていないのがもどかしいですが、
昨日に続いて、グリーフ・ケアの講座でうかがったことを断片的にですが、書こうと思います。

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宇宙の研究がもっと進んできたら、モノと人間の兄妹関係が明らかになる。
モノも人間も、同じ一つの元素からできている。
キリストは亡くなる前の晩、一つになりなさいと繰り返している。
この一つは、宇宙的なことだと最近気がついた。

すごく悲しい気持ちはわからないので、あまり言葉を使わない方がいい。

みんな自分に何らかの力をつけておかなければならない、具体的に。
援助も生活レベルで、具体的に必要。
悲嘆に困窮と困難がくっついたら大変。
この三つがそろってやってくるのが戦争。

15年間結核で何もできたかったのはすごいこと。
テレーズ・マルタン(幼きイエスの聖テレジアの意)を手放した時、『夜と霧』(フランクルの著書)しか私を励まさなかった。
10年間動きがとれなくなった時、『夜と霧』に出会った。
『夜と霧』は、悲嘆・困窮・困難の三つがそろった時に励まされる。
テレーズ・マルタンでは間に合わなくなった。
困窮も困難もなかったが、抜け出せない、一つの拘禁状態。
父は「どうしていつまでも・・・」といったことを言ったが、母は言わなかった。
自然に言えなかったと思う、産んだ人だから。
仕事場(テレビ局の収録)に一緒に連れていかれるようになった時、それだけで母には十分
喜びだった。

(出身の)聖心女子大には、マザーとシスターという階級があった。
毎日通り過ぎる洗濯場で、山のような靴下を洗っていた女性の姿を今も覚えている。
海外から来て、毎日洗濯板で、カトリックなので黄色や色んな色があるわけではなく、
全部黒い靴下をひたすら毎日洗い続けている。その辛抱強い姿に励まされた。
ひたすら繕いものをしていた女性の姿も思い出す。すごいシスターたちがいた。

起こってから考えるのはたぶん役に立たない。
その時になってからでは何事も間に合わない。
「汝、幼き時に神を見よ」
小さい時からの積み重ねで、いざという時対処できる。
13年間スープの勉強をしたから、父が必要になった時、スープを作ることができた。

先生の友達の宮崎かづゑさんが書かれた『長い道』という本がみすず書房から出ているので、
読んでみてください。
ハンセン病で、10才で長島(国立ハンセン病療養所・長島愛生園)に送られた。
長島に行けば学校に行けると聞かされていたので楽しみにしていたが、そこでは
同じ病気の子供同士でいじめがあった。
子供たちの世話をしていた人たちもみんな同じ病気でやさしくなかった。
人間が人の身になって考えるのは学習が必要。
そのつもりになって自分を方向付けていかないといけない。
人間はおそろしい。


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つたない紹介になってしまいましたが、読んでくださった方、ありがとうございます。
旅日記やミュージカルのこと、心に残る本のことなどなど、あれやこれやとこれからも
書いていきたいと思います。
よろしかったらまた訪問してください。