たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

行きたかった・・・

2016年01月31日 16時46分46秒 | ミュージカル・舞台・映画
 実家から動けなくなり、結果的にチケットを取ることができていたらあわててしまったことになりますがツィッターをみているとすごく楽しそう。東宝と宝塚の名だたるミュージカルの名曲が目白押しなんでしょうね。行きたかったです。がんばれば新幹線で日帰り往復できる距離なのに帰省していると日比谷がすごく遠いです。

 コメント映像で涼風さんがやせちゃってるのが気になりましたが今年の『エリザベート』では皇太后役。期待しています。




緊張してきました

2016年01月30日 17時10分26秒 | 日記
 繰り上げ採用となった○○市から宅配便で必要書類と分厚いマニュアルが届きました。(実家に送っていただくようにお願いしました。)初日の研修場所が、応募書類を駆け込みで提出した場所と同じようなのですが、こうなるとは思わなかったので年末に地図も含めて関連書類はスキャナーで読み取った後全部廃棄してしまいました。不合格通知が届いた応募書類をそのままもっていたくはないですよね。必要書類のフォームを独自に用意している自治体だし、民間企業とはまたちがう独特のものがあって、応募書類もそうでしたが全部揃えていくの手間がかかります。ほんとに急な話なのでなんだかドタバタしてきました。

 名字が書かれたストラップに臨時職員とは記入されていないので、内部では雇用形態によってストラップの色が区別されているのかもしれませんが、外部の方にはわからないですね。誓約書には日本国憲法という言葉が・・・。民間とは違いますね。守秘義務を負うし、なんだか緊張してきました。研修は初日だけ。これでわかった人のように対応していかなければなりません。一年と10カ月のブランク。労働紛争ですり減ってしまいましたと言えるはずもなく、自信がありません。

 13年間働いて使い捨てにされた大会社で働く前に、半年程鍵のメーカーで派遣社員として働きました。なんの商品説明もされないまま初日からいきなり苦情電話の対応をしなければなりませんでした。代表電話にかかってくる問い合わせや苦情電話が、なぜか私が働いていたリフォームサービス部という部署に全部回されてきたのです。電話の向こうのお客様に、自分は今日からきたばかりの派遣社員なのでそんなこときかれてもなんにもわかりません、とは言えず、さも知っているかのようなふりをして、社員が電話で話していることを即座に耳で吸収して真似たり、むずかしくて答えられない時には、電話を保留にして社員に平身低頭で質問しては答えたりしていました。すごく大事なことなのにこんないい加減でいいのかなというぐらいテキトーでした。2-3日経ってから電話対応のための資料を渡されたり、一週間ぐらいしてから製品説明を受けたりした記憶があります。課長の口利きで、当時住んでいた部屋の鍵を無償で交換してもらうことができたのだけはありがたかったですが、そこは高卒の新入社員を採用して一般職を補充していたので半年ほどで契約終了となりました。この時から15年ぐらいの時が過ぎ、年齢を重ねました。老眼が進んできているし、この時のような集中力とパフォーマンスが自分に戻ってくるでしょうか。今はやってみるという選択肢しかありません。

 自分の部屋に送る荷物をつくり、母が遺したノートをもう少しだけ整理したら明日ぐらいはだらだらとDVD観たりしましょうか。一週間でリカバリーして出直していかなければなりません。緊張してきました。

お別れの作業はひとまず終わりです

2016年01月30日 10時53分01秒 | 祈り
 今日はまた寒さが厳しくなっていますね。7時半ぐらいに町内の防災無線の呼びかけで目が覚めてしまったので寝足りない感じもあって気持ちがあがってきていません。想定外に、あと10日足らずで6時半前に起床して7時半過ぎには部屋を出ないといけない生活が訪れることになりました。私大丈夫でしょうか。最近は一時過ぎに寝て9時半、10時近くまで起き上がれない生活が続いていました。眠気がひどかったのは、歯の治療が中断しているため抗生物質と痛み止めを飲み続けてきたせいもあるようです。昨夜は抗生物質はなくなっていたし、痛みもなかったので薬を飲んでいません。飲んだ時と飲んでいない時ではこんなに違うということは、体によくないということなんでしょう。喉の渇きはひどいです。一度就寝がおそくなってしまうと、そのサイクルがなかなかとまらなくなります。どこかで修正して早寝早起きにしていかないといけない状況です。

 ほんとに想定外にまた忙しくなりそうなので月曜日には自分の部屋に戻らなければなりません。いろいろと準備しなければならないものがあり、戻らないと揃えることができません。区役所、美容院、証券会社、新しい靴を買う、老眼鏡を首からさげるためのアクセサリーを買うなど用事をすませて、スパで汗と汚れを流したらまた忙しい日々に戻っていくことになります。もう少し遺品整理と断捨離をし、ごろごろもしたいです。せまい自分の部屋に戻っていくのも、広い家で一カ月余り過ごした後ではきつくなりますが、先の見えないままこの生活を続けていくわけにもいきません。繰り上げ合格となった業務がいいとは思っていません。新しく始まったばかりの制度ですが早くも消滅していく運命をたどることになるのではないか、という声が出始めているようです。半年契約でスタートしますが、一カ月先がどうなるのか分からない状況だと正直思います。色々なことが分かり過ぎてしまったので内心苛立ったり怒りが湧いてくることもたくさんありそうですが、生活もあるし、勉強の機会がめぐってきたと思ってここはひとまずもぐりこんでみます。13年間クソ会社で働いていた時にも、矛盾が見えすぎて数え切れないほど口には出せない苛立ちや怒りをこらえ続けてきました。それよりもマシなのか、さらに大変なのか、もぐりこんでみないとわかりません。巨大な組織の一員になるということは、どこにいってもこういうことです。

 昨日は父が収集していた菓子折り一箱分の記念切手を業者さんに売りました。古銭を売ったのと同じ業者さんです。大阪万博、東京オリンピック、国体・・・1970年頃の高度経済成長期の入口に始まる記念切手の数々。丹念に収集していました。戦前のモノのない頃に子供時代を送った父は集めることが楽しかったんだと思います。戦後高度経済成長期に入ると、モノをたくさん持つことが豊かになることだという風潮に社会全体がなり、父のように切手や古銭を収集した人はたくさんいたようです。今私と同じように遺品整理をしてそうした収集物が業者さんに毎日のように業者さんに持ち込まれるそうです。ちょうど集めた世代が高齢になり、子供の世代が遺されたモノを整理する時期ですね。今は必要のないものは捨てる、できるだけモノを持たないで暮らすという考え方に変わりつつあります。記念切手を収集する人もすくなくなったそうです。業者さんは買い取ったものをまとめてネットオークションに出すと売れることがあすようですが、手間を考えると薄利ですね。それでも私のように親が遺したモノだと思うと捨てるに捨てられない人たちが持ち込んでいくので、業者さんは買い取っては商売にしているというわけです。記念切手など使わない限りとっておいても仕方ない、値段のつくものは売った方がいいですよ、と言われたのでそうしました。

 大阪万博の記念メダル、スタンプ帳、会場内の地図、入場チケット・・・記念メダルは本物ではないので売れませんでした。これらはいずれスキャンしたり写真を撮ったりして、現物は廃棄するつもりですが、我が家の歴史としてもうしばらく残しておくことにします。私も妹も小学校の低学年でした。日曜日、両親に連れられて行ったことをおぼろげにおぼえています。パビリオンで撮った写真が我が家のアルバムには残っています。写真を撮った場面もなんとなくおぼえています。私と妹、一緒にカメラにおさまりました。その時から25年ぐらいあとに、哀しみ、苦しみの時が訪れるなど予想できるはずもありませんでした。大阪万博の時に日本ではじめて原発が稼働をしたことを思うと、今日本で起きている色々なひずみは高度経済成長期のツケ払いだと思うと、あの頃はよかったと到底思えません。高度経済成長期は日本人にとってなんだったのか、考えていかなければならないと思っているので、複雑な思いが様々にめぐります。

 昨日は母の衣類引き出し一杯分もさらに整理。残念ですが全て汚れがあるのでお別れです。妹の衣類も既製品で着古しているものはまた少しお別れ。余り布や手作りの服で自治体のリサイクルに出せないものはコミュニティハウスに持ち込んで、イベントの時などに使っていただけるようにしようと思います。捨てることはできません。ささやかでも生かしてあげたいです。

 母が遺した40冊に及ぶ日記、20冊ほどの雑記帳・家計簿・・・。少しずつ読んでからお別れしていきたので今は保留にします。新聞の切り抜きはほぼお別れしました。平成元年から2年まで、中日新聞の今日の天気を書き写したノートもお別れ。今朝の言葉や中日春秋などエッセイを書き写したノートもまだまだあります。お別れする前にひととおり読み返すのでかなり疲れます。今回はこれにてひとまずくりぎをつけます。宅配便ぐらいの費用は出たので、自分の部屋に送る荷物の準備をしなければなりません。知らなかった父と母の思い出に出会い、お別れしていくことができてよかったと思います。まだまだ終わりませんが、今回の帰省ではこれで終わりです。一カ月後、半年後の私はどうしているでしょうか。安らかに眠りながら守り続けてほしいと祈るばかりです。

虐待のニュースが絶えません

2016年01月29日 21時58分25秒 | 気になるニュースあれこれ
NHKのウエブサイトのニュースは一週間から10日程できえてしまうのでここに転用します。
こうして載せるために読んでいても辛いです。守ることはできなかったのか・・・。

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http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160128/k10010388721000.html

3歳男児死亡 包丁を床に突き立て脅し暴行か
1月28日 12時01分

27日、東京・大田区に住む3歳の男の子が死亡し、母親の交際相手が逮捕された事件で、交際相手の男は包丁を床に突き立てて脅し、男の子に暴行を続けていた疑いがあることが警視庁への取材で分かりました。警視庁は執ような暴行が原因で死亡したとみて調べています。

この事件は、27日の未明、東京・大田区のマンションの部屋で、新井礼人くん(3)が意識不明の状態で見つかり、まもなく死亡したものです。警視庁は、礼人くんを殴るなどして頭に大けがをさせたとして、母親の交際相手で暴力団員の永富直也容疑者(20)を傷害の疑いで逮捕し、28日検察庁に送りました。
警視庁が母親から詳しい状況を聴いたところ、永富容疑者は包丁を床に突き立ててベランダのほうを指さして「死ね」などと脅し、1時間以上にわたって暴行を続けていた疑いがあることが分かりました。
ほかにも、正座をさせて平手打ちをしたり、体を持ち上げてガラスケースに投げつけたりしていたということで、28日現場を検証し、詳しく調べています。調べに対し永富容疑者は「にらまれたので頭にきた」と供述しているということで、警視庁は執ような暴行が原因で死亡したとみて調べています。

ようやく今年もよろしくお願いします、と言えます

2016年01月29日 10時47分57秒 | 日記
 先ほど繰り上げ採用の連絡をいただいた先ににやらせていただきますと電話しました。本当にいいかどうかはやってみないとわかりません。とりあえず、ようやく直接雇用で社会に戻るという課題をクリアすることができました。出口がみえず苦しかった長いトンネルを、やっと抜けた思いです。日中の居場所のないことがどれほど辛いことが今までになく深く学んだ一年と10カ月でした。

 年末に実家に戻ってきたときには疲れ果ててしまっていました。怒りと悔しさばかりで気力が失せてしまっている自分が情けなく、両親と妹が眠るお墓の前でさめざめと涙を流してしまいました。今一日おきに手を合わせに行っては守ってくれるようにと祈りづづけています。守ってくれていると思います。色々と準備があるので来週早々自分の部屋に戻ります。(4日までに登録に必要なものを返送しないとボツになっちゃうそうです。急な話なのでほんとに慌ただしい感じになります。)

 ようやく今年の手帳を買います。また忙しくなりますので失業中のようにあちこちと顔を出すことはできませんが、今までのつながりも大切にしたいので可能な時には顔を出したいです。病院のボランティアも月に一度でもやっていきたいと思っています。

おそくなりましたが今年もどうぞよろしくお願いいたします。


近況報告=迷い中

2016年01月28日 20時13分34秒 | 日記
FBに投稿した記事です。

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先ほど○○市の区役所から電話がありました。健康保険料・住民税のことかと思ったら、昨年の11月に面接を受けて「お祈り通知」(=不合格通知)を受け取った☆☆☆☆の業務に係る臨時職員募集で、欠員が出るのでやってみませんかという連絡でした。

7月より生活困窮者自立支援法の就労支援を利用していました。住まいの区役所の生活支援課のソーシャルワーカーに薦められて、あまり気乗りしないまま面接に行ったものでした。気乗りしていなかったのでお祈り通知が届いてもに大きなダメージはありませんでした。ただ面接でエネルギー削がれて気力が大きく失せてしまい、戻らないままでした。

合格した方々は1月4日から業務を開始しているはずですが、さっそく退職されたい方があるようです。退職の理由は個人的なことなので言えないとのことでしたが、私に連絡がきたのは不合格者の中でも上位にいたので、欠員が出て繰り上げ合格となったということなんだそうです。

 8時30分-17時30分。第二と第四土曜日は出勤(振替休日の取得有り)
 2月8日~6カ月。6カ月以内で契約更新の可能性有。
 時給1,080円で交通費は別途支給。○○市の福利厚生に加入。
 最初の一日だけ研修があり、翌日から業務開始。


☆☆☆☆の制度自体に疑問をもっているし、一日だけの研修で問い合わせに答えていかなければならないので大変だろうと思います。どんな方が窓口にいらしても、お怒りの電話があったとしても温和に対応していかなければなりまん。今までの業務経験でもそういうことは数知れずありましたが、わりと内部のことが多かったので一般相手となるとまた違ってくると思います。なによりも労働局から「開示」された文書が黒塗りだった件で厚労省に審査請求を行っている最中で、行政への怒りと悔しさのマグマがまだまだ噴火中の私が行政で働けるのか、13年間働いた会社(派遣先)から使い捨てにされ損害賠償を求めたら労働紛争とならざるを得なかった私が、それを横に置いておいて行政で働けるのか、などなどマイナスに考え始めたら切りがありません。

年末から実家に引きこもる生活を始めて一か月が過ぎました。このまま収入の道が途絶え、社会の中に居場所のない日々が続けていくのも苦しくてなりません。労働紛争で涸れきった心の井戸が十分に潤いを取り戻してきているとはいえず、遺品整理もまだまだありますがひと区切りつけて社会へ戻っていくタイミングなのかもしれません。病院のボランティアが遠のきますが、それでご飯を食べて行くことはできないし、全くできなくなるわけではありません。なによりもまずは生活の基盤を立て直すという最大の課題をクリアしなければなりません。

行政の内側を知るいい機会かもしれません。出口が見えなかった社会へ戻るという長いトンネル。やっとひとまず出口が見えてきたのでしょうか。市役所の求人などは給料が安くても安定を求めて応募する人が多いので合格するのは難しいともききます。迷うところですがやらないという選択肢はあり得ないのかもしれません。明日の午前中にお返事させていただきますとしています。

立ち止まっています

2016年01月27日 21時06分44秒 | 祈り
 引きこもりの生活を始めて一か月が過ぎました。アグレッシブにがんばって前に進むことが依然としてできないまま立ち止まっています。コンタクトレンズの眼に痛みがなくなったのはほとんど空調にさらされていないからでしょうか。それだけカフェ、デパート、電車の中、公共の場所など体によくないってことですね。クソ会社でも空調の風にさらされる場所に坐らされたことが多く辛かったことを思い出します。コンタクトの目も体もいつも悲鳴をあげていました。

 昨日は妹の洋服と少しお別れをしました。既製品の汚れがあるものと着古した感のあるものは「ごめんねMちゃん、お別れや・・・」と声をかけながらポリ袋に入れました。妹が手作りしたものは汚れがあってもお別れすることができません。たくさん残されている余り布とあわせてリサイクルしている業者に送ろうと思います。宅配便の送料がかかるので今回は箱にまとめていって保留にします。余り布、ゴミに出して捨てるのは忍びがたく、お嫁入り先がないかネットで探しましたが見つからずリサイクル業者に送るのが生かすには最善の方法のようです。

 妹とお別れの後、私は両親にあててこんな絵葉書を送っていました。ここに書いて現物とはお別れしていきます。突然のお別れから浅い日に、こうしてなんとか自分を立て直そうと必死になっていた自分とこうして再会するのがとても不思議な感じがします。



「毎日Mちゃんのことを思っています。この空のどこかにいるんだなあ、もう会えないんだなあと思うと、やっぱりさみしくて、しばらくはお酒なしでは眠れそうにありません。友達がささえです。1994年10月7日 たんぽぽ」


京都タワーの絵葉書を使いました。高校時代に遊びに行ったときに買ったものだと思います。




「19日に友達に手伝ってもらって引っ越しました。以前の部屋よりも少し不便になったけど、すごく静かで日当たりもいいです。あらたな思いでMちゃんの分も前へ進めたら、と思います。庭の梅の花がきれいです。春ですね。1995年2月23日(木)」

絵葉書は東大寺国宝・月光菩薩立像(三月堂)。
本尊の脇に合掌して立つ高さ2.25mの塑像で、もの静かで、おおらかな容貌はすべてを忘れ、一途に世の人々の幸福を祈るかのように見え奈良時代の人の精神的な美しさが感じられる。




「季節はめぐり3月になりましたね。
今日はとてもあたたかいです。
おひな祭りの日には、ちらし寿司をMちゃんに供えてあげました。
よろこんでくれたでしょうか。
いつも見守ってくれていると信じつつ、歩んでいきたいと思います。
引っ越しをしてよかったです。
以前より静かで落ち着けます。1995年3月5日」


絵葉書は遠野しし踊り。
“天神の山には祭りありて獅子踊あり。”(遠野物語序文)
遠野郷に伝わる数多い郷土芸能の代表的な踊りで、鹿の角をつけた面をかぶり、太鼓に合わせて勇壮な舞を見せる。350年も前から踊り継がれ、五穀豊穣の祈願の踊りでもある。



この頃引っ越した部屋にその後10年暮らしました。なかなか自分がどう生きていったらいいのかわからず、ハローワークの求人から身の丈に合わない就職をしては失敗して、アルバイトをやったり、派遣をやったり、右往左往のみっともない日々が続きましたが、だんだんと仕事が続いていくようになりました。半年派遣で働いた先から直接雇用の声をかけられて契約社員として一年間働いたこともありました。土日の二日間を開けただけで違う職場に移ったのでかなりしんどかったです。それは現場事務の仕事だったので、工期が終了すれば私の契約も終了となり、場所をかえて続けたいと思いましたが公共事業の数が減っていった頃で次の仕事はありませんでした。

 そこでまた目の前の生活があるので派遣に戻ってしまい、数カ月単位で二つほどの職場を経験しました。年齢が高くなっていったのでこのまま不安定な登録型派遣を続けていてはだめだと思い、女性の就労を支援する所でキャリアカウンセリングを受けるなどしました。そして奮起し、とらばーゆでみつけた契約社員の仕事に応募したら採用されました。その、採用された先というのが結果的に13年間も働いてしまったクソ会社の、グループ会社である特定派遣業者でした。社員に近い待遇の特定派遣なら登録型派遣よりも安定しているし、なによりもグループ会社なんだから本体である会社のことをよくわかっていて安心だろうと思いこんでしまいました。これが大きな間違いでしたが、全く気づいていませんでした。大学の通信教育の卒業論文にとりかかろうとしていたし、めでたく採用されたのだから生活のために今はここでがんばろうと決めてクソと書いている会社で働き始めました。ほどなくしてから、庭の梅の花を眺め10年暮らした部屋をはなれて引っ越しをしました。妹とのお別れを受けとめたいと必死にもがきながら、人生をやり直すようなつもりでした。

 それから13年間、特定派遣業者から派遣された本体の会社で働き続けました。採用されてから一年半ほどして特定派遣業者との間に行き違いがあって辞めることになり、また登録型派遣に舞い戻るという違法行為。さらには業務内容も違法状態のまま、そうとは十分に認識できないまま10年間働き続けてしまった結果、最後はモノ扱いの使い捨て。損害賠償を求めたら闘いとならざるを得ませんでした。

 このボタンの掛け違えのような日々を取り戻していくことができるのでしょうか。今自分の力を必要としてくれている所はどこにもないんだと思うと、社会の生産性になんら貢献していない要らない人間なんだと思うと情けなくって昨夜も涙が流れてしまいました。どうやって生活の基盤を立て直していけるのか、今はまだ本当にわかりません。

 連投の上の長文、読んでくださった方ありがとうございました。

2014年11月-12月帝国劇場ミュージカル『モーツアルト』

2016年01月27日 16時04分20秒 | ミュージカル・舞台・映画
2014年11月-12月帝国劇場ミュージカル『モーツアルト』


モーツアルトが誕生したのは1756年1月27日。
今のオーストリアのザルツブルク。
これを書いている今日はちょうどお誕生日です。
今週インターネットラジオOTTAVAでは月曜日から午後の番組でモーツアルトの楽曲が流れ続けています。
どれも聴いたことがある心地いい曲ばかり。
ほんとに天才だったんだとあらためて思います。

さびしがりやで一人では食事ができなかったモーツアルト。
世俗にはうとく常に危さと背中合わせだったモーツアルト。
幼い頃神童と呼ばれ、大人になってからは自身の才能を持て余していたモーツアルト。

「僕には才能があるんだ」という舞台の台詞がよみがえってきます。
舞台の終盤、自分の血がついた羽ペンで狂ったようにあふれだしてくる曲を書きとめていく
モーツアルトの姿を思い出します。

背がちっちゃくて、お姉さんのナンネールの方が背が高かったそうです。
舞台のモーツアルトは背が高く手足も長かったですね。

こんな本を読んでみたい

2016年01月26日 20時45分35秒 | 本あれこれ
積読がなかなか減らず新しく本を買わないようにしていますが、読んでみたいですね。
断捨離中でおっつかずまだまだ先になりそうですが・・・。

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若松英輔 ‏@yomutokaku · 4時間4時間前
東北学院大学の金関清さんと彼の元で学んだ学生たちが編んだ『呼び覚まされる霊性の震災学』(新曜社)を読んでいる。形式は一応、「論文」なのだが、そこを貫くのは、悲しみの詩学ともいうべきものである。心で書かれた文章は、心に直接届く。すばらしい文学。ひとりでも多くの方に読んで見て欲しい。






再会してお別れしていく

2016年01月25日 20時37分48秒 | 祈り
 パソコンを背負って徘徊する生活から離れてほぼ一カ月になろうとしています。電車にもバスにも乗ることなく、人と会うことも話すこともほとんどありません。失業中なので弟に対して肩身がせまく、色々と生活の細かいところで、自分のせまい一人用のマンションでの生活と同じようにやってしまって怒られても何も言えません。私にとって普段の生活の場所ではないので分が悪いですが、失業中なのでばかにするようなことを言われても言い返す言葉はありません。会社に行っていないってこういうことなんですね。だから、どんなにクソ会社でも自分から辞めることはできませんでした。

 昨日は母の衣類を一部整理しました。主に下着類と古い洋服。大きな収納ボックスの引き出し一杯分です。主にセシールとグンゼ。子供の頃から下着類は綿でないといけないという父の言いつけを母は守って下着類はほとんどグンゼの綿製品でした。今は夏場大量に汗をかいてそのまま冷房の効いている所に入ると体を冷やしてしまうので綿オンリーは避けられますが、綿でなければ・・・で大きくなりました。

 セシールは妹がよく利用していたようなので、一緒に購入していたのだろうと思います。妹の遺品の中にも大量のセシールで購入した長袖のTシャツ等があります。妹が亡くなった翌日だったと思いますが注文してあったセシールの洋服が届きました。私が着たおしてお別れしましたがダンガリーのシャツでした。お葬式をだした翌日ぐらいに妹あてにセシールから電話もかかってきました。「ご注文いただいた品は気に入っていただけましたか?」という電話でした。「妹は亡くなりました」と伝えると電話の向こうの男性は絶句していたと思います。静かに電話は終わりました。23年たっても忘れることができません。母が残したものも妹が残したものも私が使えそうなものは使いたいので、一枚一枚タグをみてはこういうものを買ったんだね、中国製だ、日本製だと心の中で話しかけながら使うものとお別れしていくものに分けていきます。お別れするものもたたみなおして袋に入れていくので時間はかかります。

 すでに書いていますが母は何十冊ものノート類を残しています。新聞の切り抜きをはったものはお別れしました。91(平成3)年の家計簿ノートをみると金銭の収支よりも毎日の小さな出来事や気持ちが細かくびっしり書き込まれています。私が今気持ちが辛くなるとメモ帳に書かないではいられなかったり、こうしてブログを書きはじめると止まらなくなってしまうのは母の血を受け継いでいるのでしょうか。母は統合失調症を発症し、一緒にいられなくなった私はすでに家を離れていました。お別れしようとしていた92年と93年の家計簿ノートと合わせてお別れすることができず、保留にします。

 今日は表紙に平成1(1989)年-3(1991)年の日付が書かれたノート数冊とお別れすることにしました。母は時間をもてあまし、新聞を丹念に読み込んでは気になった記事を書き写していたようです。病理をうかがわせる書き込みの仕方がみられるのはちょっと辛くなります。お別れするのも忍びないですがいつかどこかでお別れしなければならないので今お別れしていきます。私が一人暮らしを始めてから数年は時々両親あてに葉書や手紙を送っていました。自分でもすっかり忘れていましたが全部保管されていて、そんな過去の自分と再会することにもなっています。こうして再会してはお別れしていくのが喪の作業、本当のお別れのプロセスなのかもしれません。私が書いた手紙と葉書も今すぐお別れすることはできず保留にしますが、いずれお別れしていきます。

 日記・雑記帳と書かれたノートは明日以降みていきますが発症してからもまだ日常生活をなんとか送ることができていた頃、びっしりと書かれています。読もうとするとかなり時間がかかります。読めば妹が旅立っていく前、私も弟もいなかった頃家の中でなにがおきていたのか知ることができるのかもしれません。

 昨日ぺらぺらっとめくった日記の中にはこんな記述。まだ妹が存命の頃です。「お父さん、早く迎えてきてほしい、生き地獄・・・」。記述しているお父さんとは旦那さん(=私の父)ではなく、母のお父さん(=私のおじいちゃん)でしょう。おじいちゃんは、私が生まれる前に亡くなっているので、おじいちゃんといっても全くイメージできませんが、どんな人だったんでしょうね。私は父が亡くなった後自分を守ってくれていた大きな柱がいなくなってしまったような、すごく不安な感覚がありましたが、母にとってのお父さんもそんな存在だったのでしょうか。私の父は、妹がネズミ講にひかかって帰りの遅いことが多くなったことでかなりきびしく母を叱責していました。父と母のがなりあうような会話が辛くてたまりませんでした。子供の私が何も言うことはできませんでしたが、母は相当に辛かったと思います。お星さまになったお父さんに助けを求めたのでしょうか。今さら家の中で何が起きていたかを知ることができたところでなにがどうなるということでもありませんが、どうして妹は自ら逝ってしまったのか、やっぱり納得したいです。どうして私の家族なのか。年末からずっと考えている、自ら命を絶つことで突然お別れとなった自死遺族と、突然理不尽に命を奪われた事件・事故遺族は違うのか・・。正解も納得できるものもどこにもありませんがなにかしら輪郭のみえるものを求めないではいられません。

 今日お別れした新聞記事を書き写したノートの中に書かれていた詩のようなもの。母の言葉でしょうか。

平成2年8月8日
居間
娘がいる
息苦しくなる
外に出る
空を仰ぐ、なぜかほっとする
居間に娘がいない
心が安らぐ
暑い夏の午後
喉が乾く
氷を口に含む
息苦しくなる
すいかを食べる
頭が痛くなる
何にか口に入れればどこかが痛い
わが運命悲しい

平成2年8月9日
雑巾がけ
早朝の楽しい一時
タオルをギュ~としぼって
無心に押して走る
押して走る程
板と素足の感触が気持ちいい
このごろは息切れもしなくなった
またこれ楽しい
足だけは痛めないように気付けて
雑巾がけする
気分爽快

 
 家族はむずかしいです。血のつながりは残酷なものがあります。本来こうして人にさらけ出すようなことではない内輪のことをさらけ出してしまっています。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

 チャンネル一覧に出していますが『モーツアルト』の写真を整理しようとしています。帝劇で撮影したものを追加したいのですがもう少しお待ちください。