たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

「大草原の小さな家」への旅_ミネソタ州ウォルナット・グローヴ(1)

2013年10月27日 11時21分35秒 | 「大草原の小さな家」への旅
9月の旅の写真をようやくパソコンに取り込んでいます。
少しずつですが、紹介できればと思います。
(旅日記はまだまだ先になります。)

ミネソタ州ウォルナット・グローヴは、テレビドラマ「大草原の小さな家」の舞台となった場所で、ローラ・インガルス・ワイルダー博物館には、ドラマの場面や登場した俳優さんたちの写真が展示されていました。


いじわるネリーを演じた女優さんの現在の写真とサイン



こちらもネリー
なぜかネリーが人気者のようで、お昼を食べたレストランは「ネリーズ・カフェ」でした




ドラマの場面_ローラとネリー



オルデン牧師 ネリーとピードル先生 
懐かしいです




こちらもネリーを演じた女優さんの現在
2010年8月とあります
ドラマの印象が強いので不思議な感じです




キャリーを演じていたのは双子ちゃんでした




今DVDでドラマを観てみると、10代の頃には全く気づいていなかった発見があったり、そういうことだったのかと納得したり、同じ場面を何度も観た記憶があるので、こんな場面あった、あったと懐かしかったり、色々です。
今はこれぐらいです。


ささやかなブログに訪問していただき、ありがとうございます。
少しずつ思い出を整理し、お別れしながらやっています。
一回一回魂を込めて書いているので正直疲労もありますが、まだまだエネルギーがある今、
書き切っていきたいと思っています。

仕事がほんとに忙しくてきつい面もありますが、こうしてブログを書いたり、本を読んだりすることで、キュッキュッとへんてこりんにねじれた心を真っ直ぐに取り戻し、自分らしく呼吸できるようにもなります。

私のような立場の者もこうして日々闘いながらどうにかこうにか生きている、一生懸命に生きている、そのことが誰かの励みになっていれば幸いです。

引き続き、よろしければおつき合いください。


コメント (2)

『東北学/文化と震災からの復興』=3回目

2013年10月26日 13時16分56秒 | 東日本大震災
2012年9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用。
3回目です。

<3>

瓦礫のなかで、くりかえし生き残った神社に遭遇した。

 三・一一から四週間ほどが過ぎていた。はじめていわき市に入り、津波に洗われた海岸をひたすら南下した。塩谷岬をめざしたが、辿り着くことはできず、その手前の薄磯という地区で茫然と立ち尽くすことになった。住宅街は津波に舐め尽され、火災も起こり、ほとんど壊滅状態だった。まだ瓦礫の処理はほとんど行われておらず、かろうじて緊急車両の移動を可能にするために道路から瓦礫が撤去されているだけだった。一面の瓦礫の海が眼の前に拡がっていた。言葉はなかった。ただ黙々と、破壊の跡を眺め、手を合わせ、カメラのシャッターを押し続けた。

 ふと、瓦礫のなかに、鳥居がぽつりと立っているのに気付いた。焼け焦げたビルを迂回し、瓦礫を掻き分けながら、近づいてゆく。石の鳥居が瓦礫に埋もれたままに、かろうじて立ち尽くしていた。狛犬は片方だけ、鳥居の向こうに身をよじるように立っている。かたわらに参道の坂道があり、高台に薄井神社が建っていた。そこから眺めると、海がすぐそこにあって、津波が低い堤防を越えて一気に住宅街を押し流した情景が思われた。神社は避難所として使われていたらしい。この地区で津波の難を無傷で免れたのは、この神社だけだったかもしれない。

 思えば、瓦礫の海のなかに、かろうじて鳥居や神社が生き残っている姿を見かけた。それがはじまりとなった。津波に舐められて跡形もない風景のなかに、気がつくと、鳥居と森と神社が孤高に立ち尽くしているのだった。高台にある神社に逃れて助かった人々の話にも、くりかえし出会った。五メートルぐらいの高さまで、参道の階段が流されたが、神殿に上がった人たちは助かったとか、集落のもっとも奥まったところに鎮座する神社の鳥居のを下まで津波が届いたが、狭い境内に逃れた人々はそこに焚き火をたき、一夜を明かした・・・といった話に耳を傾けた。

 津波の難を逃れた神社の姿は、多くの人によって語られてきた。神憑りの霊験譚を語りたいのではない。ある工学部の大学院生の研究によれば、同じくらいの数の神社が流されており、そこに特別な意味合いは存在しないともいう。きちんとした調査と研究が必要だが、私自身はそこには何らかの社会文化的な背景が隠されていると想像しているが、今は措く。


私自身の受講メモより

「東北学 
 
 ぼかしの地帯、あいまいさ。北と西の文化がつながりあう。
 その姿を浮き彫りにするのが東北学。
 ・北につながる東北ー縄文文化_東北の出土品の中に生きている。
  30万人の80%は北に住んでいた。
  ブナ林があったことによる。豊かな資源・狩猟。
   アイヌ・エゾ
  平泉、北につながる濃い文化。
  弥生、古墳文化は存在しない。
  東北に立つと北につながる文化がみえる。

 ・西につながる東北ー弥生文化、大和、稲作農耕


 遠野物語。120年前に書かれた。
 そのさらに150年前に、会津でキツネにばかされた物語などがあり、
 下地となっている。
 似ている物語が多い。」


1986年9月に岩手県遠野市内で撮った一枚です。
旅日記の記録によると「北川家、オシラサマ」



遠野市内、佐々木喜善の生家・水車小屋



旅日記の中で、「遠野市は全国で4番目に広い市だけれど人口密度の低さは3番目ぐらいだそうです」と私は書いています。

一連の講義の中で他の日時に他の講師の先生から遠野物語の話も聴きました。
若い頃は意味がほとんど意味がわかっていなかった。
もう一度読み返してみたいと思っています。


昨夜は2時10分に福島県沖で地震、揺れは長く続きました。
原発は大丈夫なんだろうか、不安になります。
原発はコントロールできているって世界に向かって言ってしまってよかったのだろうか。
何か違う方向に引っ張られてしまっているように思えてなりません。


26号の台風で行方不明の方々がいらっしゃいます。
神奈川県の海で行方がわからない男の子の捜索も続いています。
なんともせつなくてたまりません。
早く見つかりますように、今通過中の27号で大きな被害が出ませんように・・・。

日本列島に生きる私たちは大きな自然災害と背中合わせ。
3.11で思い知らされました。

東北学はまだ続きます。

 



秋のプリンス・エドワード島への旅_2日目

2013年10月20日 14時06分04秒 | プリンスエドワード島への旅
2012年10月14日(日)

さかのぼって書いている。
4時頃薬で眠ったが、6時頃一度さめて8時過ぎには目ざめてしまった。
移動の長さと時差、日頃の疲れの疲れに上塗りでかなりつらい。
薬のせいもあり、かなりだるい。かなり辛い。
口の中は渇き切っている。朝食はおいしかった。
ワッフルおいしくって食べ過ぎちゃった。

雨、ひどく寒い。
ほんとに寒い。骨の髄から寒い。
北海岸、ケンジントン駅舎はパブができていた。

銀の森屋敷、せっかくなので中に入る。
Pamさんが変わらずにいてくださった。来場者に説明し、本にサインを書き、上品で素敵だ。
私のことを覚えている(Pamさんとお会いするのは三回目だったので)といってくださったのは
本当かわからないがまた夏にくることを約束。

フレンチリバー、変わらない穏やかさ。
ケープ・トライオン。雨で赤土がぬかるんでいる。
曇り空の下、灯りがともっているのを始めてみた。
(たぶん、始めて気がついたということだったんだと思います。)

昼食が消化しきれなくて、胃薬も飲んでいなくて、水も飲まないままで辛くなってくる。
結局、キンドレットに着いた時吐いてしまった。みじめな気分。
体調悪すぎ。せっかくの赤土の景色の良い所もあまり入ってこないでテンションがあがらない。

おっと、インディアンリバー教会にも行った。
2年前屋根を修理中だったのでみたかった。
木造のあったかさ、12使徒が尖塔に彫られている。
紅葉も美しいがとにかく寒い。北の国の寒さだ。半端ではない。

そんなわけで、7時台にレトルトのカレーとごはん、わかめスープを本を読みながら時間をかけて流しこんでいく。
寒さと乾燥にやられている。
お風呂でどうにかあったまって10時45分頃ベッドに入る。

キンドレット泊
2回目がさめながら、7時間睡眠。

写真は、この日行った銀の森屋敷からの眺め、モンゴメリさんも大好きだったそうです。


銀の森屋敷のなかの展示品。
モンゴメリさんゆかりの写真です。
ナイアガラの滝の写真は合成だそうです。



同じものですが・・・。



フレンチ・リバー



おだやかでした





サマーサイドの駅舎、モンゴメリさんも利用したそうです。
今は島に鉄道は走っていないので使われていません。




キンドレット・スピリットのスイートルーム
お庭に面しているので、翌朝はカナダ・ギ―スの鳴き声を聞きました。




先に載せている三日目の旅日記から間隔があいてしまいましたが、翌日以降は体調も戻ってきて幸せ感に満ちた楽しい時間を過ごしました。ほんとに心の底から楽しく幸せでした。
島での幸せ感を思い出すと涙がにじんできます。心の宝物です。ほしいものはなにもない。
ただ旅がしたい。また島に行きたい。

4日目の旅日記は長くなります。
プリンス地区を走り、モンゴメリさんの赴任地3か所も通りました。
また載せていきたいと思います。

震災ボランティア

2013年10月20日 13時30分29秒 | 東日本大震災
2011年8月20日から21日にかけて石巻市に行きました。
作業は側溝の泥だしのお手伝い。
体力に自信がなくて行こうかどうしようかずいぶん迷いましたが、思い切って行きました。
ボランティアバスを利用して、車中一泊の日程。
ほとんど眠れず、他の人に迷惑をかけることにならないようにと必死でした。
軽登山靴・排気弁付き防塵マスク・保冷バッグに食料・凍らせたペットボトルなど色々と準備しました。

21日の午後帰る頃に陽が出て暑くなってきましたが、作業中は幸いなことに雲が隠してくれていて心配したほどの暑さではありませんでした。
私は土のう袋の口を開けてもっていて、他の方がスコップで泥(ヘドロ)を袋に入れるのを手伝い、満杯になったら引きずって運ぶという作業をしました。ほんとにささやかですが、こういう作業の積み重ねなんだと思いました。

簡単には終わらないと思います。
私自身の大切な記録として、そこに行かなければわからなかった空気感・匂い・感覚を忘れたくない、忘れてはいけないという思いをこめて、ようやく携帯の写真を取り込みました。

なかなか直視するのはきついですが、よろしかったらご覧ください。

東北は20歳前後の頃よくユースホステルに泊まりながら一人旅をしていました。
東北新幹線に乗って仙台・盛岡には何度も行っており、岩手県の沿岸部に泊まったこともあります。
リアス式海岸の三陸鉄道にも乗りました。

もう少し先自分自身の心の中が落ち着いてきたらまた旅してみようと思っています。





ボランティア活動の拠点となっていた小学校の校庭で、その頃は被災された方々が生活して
いらっしゃいました。
この小学校の校舎の時計は、3時50分ぐらいで針が止ったままでした。


今日も徒然_急に寒くなりました

2013年10月19日 12時46分04秒 | 日記
10月半ば過ぎだというのに今度は台風27号。なんだか落ち着かないのは私だけでしょうか。

26号が日本を通過した16日、朝電車が動き始めるのを待って出勤したので職場に着いたのは11時過ぎ。駅には人があふれかえっていて、あまりの人の多さに気持悪くなってきそうでしたが、有給休暇あるから休みたいなあ・・・と思いながら気力をふりしぼって人混みの中へ。一時間以上電車の中でした。大混雑の電車の中は、それぞれにお互いに黙々と耐えているのですから、なんだかすごいなと思いました。

私自身はこれぐらいでしたが、被害が大きかった所では今も捜索が続いています。私は今ここにいて祈ることしかできません。


いろんな命がある。天寿をまっとうして静かに旅立ちを迎える命もあれば、思いがけない事故や災害で幼くして旅立つ命もある。志半ばで旅立つ命もある。どうしてなんだろう、どうしてなんだろう・・・。つらつらと考えます。私は特定の宗教を信仰しているわけではないのですが神様っているような気がします。それは、物理的にここにいる、ということではないどこかに・・・。最近、。『ケルト妖精学』という本をようやく読み終えて、『「聖書」が分かる』という本を読み始めました

今あちこちハロウイーン。ヤフーで調べてみると、土着信仰の根付いていたイギリス・ケルト族の収穫祭がもとになっているようです。日本のハロウイーンはなんだか商業主義が行き過ぎているように思えて違和感を感じてしまいます。


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ハローウィン(はろーうぃん)
[ 日本大百科全書(小学館) ] .


本来は聖夜の意味。イギリスでは10月31日の夜、カボチャなどのウリ類をくりぬいて提灯(ちょうちん)をつくり、藁(わら)人形やムギの穂でさまざまの動物をつくり、仮面、仮装して行列し、広場のたき火の周りで歌ったり踊ったりし、最後に人形を燃やす。これは古いケルト人(ドルイド教)の祭りで、秋の収穫を祝い、悪い自然霊や魔女などを追い出す祭りである。ケルト人の暦では10月31日は1年最後の大晦日(おおみそか)であり、翌11月1日は新年である。ケルト人にとってこのハローウィンの一晩だけは、地上をうろつく悪霊たちをすべて動物に移しかえて追い出すことができる夜と信じられていた。ウェールズの若者は女性に変装して村中を歩き、子供たちも「お化け」「海賊」などと叫んで騒ぎ、御馳走(ごちそう)を食べ、お菓子をもらう。現在、キリスト教では11月1日は万聖節Hallowmassであり、ハローウィンはその準備の前夜祭となる。古いケルトの習俗をキリスト教文化に取り入れた祭りの一つである。アメリカに移ってからは、おもに子供の祭りとしてにぎやかに騒ぎ、御馳走を食べる収穫の祝いの行事となっていった。

[ 執筆者:植田重雄 ]

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ケルト族の宗教観・死生観のことはまたあらためて書きたいと思います。




今日もとりとめなく長くなります。
また過去の自分と出会います。


「2005年4月29日(金)

ヘンなストレスと疲れに支配さていることを身体が感じている。眼が寄って吐きそうでものすごくつらい。身体がいやがっていることをやらなければならないというストレス。


これ以上今の仕事を続けながら、国家資格を取ろうなんて無理なのではないか。分厚いテキストは遅々として進まない。
卒業論文を通して学んだことにつながるものがあって自分の選択は間違っていなかったと思う。なんとかやりとげたい。
社会的な仕事、専門職への足がかり。
おそくはない筈だ。今まで自分の中にたまった引き出しの数だけ私は人生を生きてきた。今経験している全てが糧になる。でも休日・・・何もしない時間もほしい。
頭がとっても疲れている。
よく眠れるようになりたい。問題のない人なんて世の中にはいない」


その後ずっと平日は職場にいながら、自分をだましだまし勉強を続けて試験にも合格しましたが(今は資格をもっていることに先を見出せないでいるのですが)、この頃から数字が悪くなって社内の仕組みも変わって、何年にもわたる1.5人分労働の日々が始まりました。私がなんとかやりこなしてしまっていたので、明らかなオーバーワークはずっと見過ごされ続けました。


パートタイマーで採用されて週二日働き始めてわけがわからず大混乱の専業主婦の方に、ランチを誘われて仕方なくご一緒した席でこう言われました。

「私はがつがつと稼がなくてもいいんです。ちょっと家計の足しになるお金と自分の趣味に使うお金を稼げればそれでいいんです。」


私はこの言葉をいまだに忘れることができません。
もちろんヘンな人ではなかったので私を傷づけるつもりなど全くない。ただ社会に目が向いていないだけ。その人自身が悪いわけではない。社会の仕組みがそうさせている。それを頭ではわかっていても、自分の生活をかけて歯を食いしばって砂をかむような思いで踏ん張って毎日何時間も働き続けている私にそんなこと言ってほしくなかった。なんとも言葉にいいようのないやり切れなさ。私の身体は怒りでいっぱいでした。



コンビニやファーストフードのコーヒー店に行けばやたらとあいさつの声は元気ですが心がこもっていない、どこに行ってもパターンは変わらない。スーパーやデパートも変わらなくなってきているように感じます。一生懸命に声をはりあげていてもお客さんの顔をみていない、ただ機械的にやっているだけで心がない、気持ち悪い・・・。ちょっと考えればちゃんとお客さんの顔をみていればこんなことはしないんじゃないと思うようなことがよくあります。小さなことですが、何かヘン・・・。いつからこんなふうになったしまったのだろう。労働の場で人が大事にされていない。自分の仕事に誇りと責任をもてなくなっている。


2000年に出版された本なので情報として古い部分がありますが引用したいと思います。


「雇用のマクドナルド化


1986年に「人材派遣業法」が施行されて以来、派遣業は順調に成長し、不況が続く中、派遣社員の需要は順調に推移している。(略)このように、人材派遣会社はますます多くの企業や労働者を巻き込んで雇用流動化に拍車をかけてきている。さらにこの勢いを後押しする動きもある。これまで人材派遣の対象業務は、ファイリングやソフトウエア開発、編集、アナウンサー、添乗員等、26職種に限られていた。その規制を緩和し、原則自由化を推進する労働者派遣事業法の改正が国会に提出され、1999年5月21日に衆議院を通過し、1999年12月1日から施行された。

「一億総派遣社員化」が実現されそうな勢いであるが、企業で就労する人がすべて派遣社員で賄われる事態にはならないだろう。(略) 企業の意志決定を担う「長期蓄積能力活用型グループ」は、従来どおり、正社員として雇用されていくと予測される。しかし、残りの業務はその場しのぎの社員としての派遣社員・パート・アルバイトがこなしていくだろう。2000年には企業における正社員の比率は60パーセントにまで低下するとの予測もある(『これからは人材派遣の時代』51頁)。

 これはいわば“雇用のマクドナルド化”である。なぜなら、マクドナルドは、少数の正社員と大多数のパート・アルバイトという従業員構成で、効率的に利益を収めることに成功してきたからである(『マクドナルド驚異の低価格・高利益戦略』)。


森真一著『自己コントロールの檻_感情マネジメント社会の現実』173-174頁
(2000年2月発行、講談社)


大学の通信教育で私に膨大な量の卒業論文を書かせたのは、「怒り」だと指導を担当していただいた先生がおっしゃられて、自分でなるほどと思ったことがあります。



「怒り」の感情ってとても大事。「怒り」についてもっと考えたいと思っています。
ネガティブな感情は決してマイナスではない。時には心のエネルギーに変わることもある。


父も母もいなくなった今、これからどこに向かって進んで行けばいいのかわからない。
ずっと考えていてもみえてこない。曲がり角の向こうに道はあると信じたいですね。


秋のプリンス・エドワード島_郵便受けと紅葉

2013年10月18日 23時44分02秒 | プリンスエドワード島への旅
またちょっと写真だけです。

心が痛かったり、折れそうになっていたり、なんともやりきれない気持ちになっていたり、落ち着かなかったり、そんな時プリンス・エドワード島の思い出は、幸せ感がよみがえってきてしばし穏やかな気持ちにさせてくれます。

ほんとに楽しかったなあ…。

色々と書きたい気持ちがまたあふれかえってきているのですが今は疲労困憊。
また更新できればと思います。

まだまだ暑い秋の日_徒然

2013年10月13日 10時58分21秒 | 日記
昨日は夏の終わりのように蒸し暑かったですね。
かかりつけの町医者に行ったらすごく混んでいて、調子を崩している人が多いということですね。
ヘンな天候、ヘンなニュース、なんだか気持がざわざわと落ち着かず、また大きな天災が起こるんじゃないかなどついつい考えてしまいます。

アベノミクスは何を目指しているのか、日本という船はどこにたどり着こうとしているのか・・・。


今年(2013年)の5月に乳幼児精神保健学会の国際シンポジウムを聴講しました。

また詳細はあらためて書きたいと思いますが、フィンランドの小児精神科の臨床に携わるカイヤ・プーラ先生の講義の中で、「フィンランド・オランダは個人の豊かさよりも社会全体としての豊かさを求める社会、だから高い税金も払う、優先順位が日本とは異なる」というお話が心に残っています。
なにか根っこの大切なことは置き去りにされたまま、また豊かさ?(それはお金やモノがたくさんあること?高層マンションに住めること?)を求めていこうとしているように思えてしまう。
何か違うという違和感がずっとあって、でも何が違うのか、なにが気持ち悪いのかわからない、うまく言葉にできず、簡単に書けることでもないので今はここまでにしておきます。

通勤電車の中は右も左も無表情でスマホや携帯、イヤホンの音漏れが平気だったり、カチカチとゲーム機に夢中になっていたり。
朝ホームで列に並んで電車を待っているのですが、我先にと席をゲットしようとする人も中にはいて、私の後ろにいたらしき男性が飛びかかるようにして坐ろうとして突き飛ばされたことがあります。大震災の後しばらくは電車の中も優しい雰囲気になっていましたが、何事もなかったかのようにすっかり過去のことになりました。それは仕方ないことですが、ほんとに電車の中だけでもなんとも気持ち悪くって通勤すらかなり苦痛です。

昨日は自死遺族の会に行こうかどうしようか少しばかり心が揺れていましたがかなりエネルギーを消耗するし、土曜日の13時にその場所に行くのもなかなかきついので見合わせていしまいました。もう少し余裕のある時にまた行きたくなったら行くかもしれません。

またつらつらと日記を読み返してみました。
国家試験受験直後の私が書いたものです。よろしければおつき合いください。

「2007年2月11日(日)

一年ぶりに「友・遊・勇」(カウンセリングスクールのエンカウンターグループ、今はやっていません)に行った。行けた。
おだやかな心持ちで自分を語ったが、話さなければ対峙しなくてすむ諸々のことが語ったことによって呼びさまされ、心が揺れて疲れたようだ。

PSWを受験し、ボランティアとして出発しようとしている今、このようなことはこれからも続いていく。私はそれを引き受けていかなければならない。
実習で感じた様々な思いが日々の中に埋没してしまい、五感を鈍感にしようとしてアパシーになってしまいそうな危機感があった。自分の中にある素直な感情を表現する場を求めていた。新しい第一歩の出発点のつもりで出かけた。

参加者は自分とKさんという女性。Y先生、Tさんと四人でいい雰囲気でグループは進んでいったと思う。私はいっぱい話した。実習で感じたこと、会社生活と実習先とのあり様の違い、妹のこと、母の病気のこと・・・。
O(実習先の地域生活支援センター)では最初がちがちにこり固まって、素直な自分を表現することができなかった。日頃、一生懸命自分の心にフタをしようとしているからだ。私の中にある喜び、怒り、不安感・・・そうしたものを外に出してはいけない、出さないで無表情に過ごすことが自分を守ることだと、やり切れない環境の中でいつの間にかそう思い込んでいた。そうすることがいちばん楽なんだと・・・。
だが実はすごいエネルギーを消耗していることに気づいた。私はこんなふうに自分を守ろうとしてがんばっているんだ。そう自覚することで楽になれた面とさらにつらくなった面と両方ある。

自分の中の感覚がとぎすまされた分、なぜ回りの人たちはこんなに無表情、無感動でいられるのだろうかと気持ち悪くなった。Oの利用者さん達は自分の気持ちにフタができなくなった人たちだ。
素直に自分を表現する。その中で自分だって壁をつくっていて過ごすことはできなかった。私は壁を作っている。
それはお金をいただくためにやむを得ないことだ。
アパシーにならないために、私は自覚し続ける。
つらい部分もあるが、素直な自己表現の場を求め続けて、私が個人として、一人の人間として尊重される場を求め続けながら、会社ではそうしてがんばり続ける。自覚していることは大切だ。

Kさんから何故PSWの勉強をしようと思ったのかたづねられた。私は話した。
妹を救ってやろうとしなかった自分を責め続けてきたこと、こうして苦しみながらもPSWを受験するまでがんばったことでようやくオトシマエをつけられた気がすること、話したあとの余韻で自分の中が揺さぶられ、苦しい感じが終わったあとでした。
こうしたことはこれからも繰り返し起こるだろう。
私はこれを引き受けていかなければならない。
こういう私で精神保健の世界に関わろうとしているのだ。
家に帰れないでいることもまた然りだ。
私が母のために何かしようと思う必要など全くない。
母は母の世界の中で生きているのだ、案外勝手に・・・。
そうわかってはいても、どこか心の中に罪悪感はあり続ける。自分の身内に還元できていないという罪悪感。それを否定はしない。自覚し、そうした私で関わろうとしていることを引き受けていく。

自分を語ったことで、Kさん、Tさん、それぞれが身内との関係で葛藤してきた世界に触れることができた。葛藤しながらも、ちゃんと自分の足で歩いて立って生きている。強いなあ。
人はすごい力をもっている。
私だってもっている。自分を信じて進むしかない。
これからも自分を語っていこう。そのことによって相手は反応し、その反応によって私の中での発見がある。そうやって少しずつ視野を広げていきたいと思う。
それにしても今は疲れちゃってるなあ。
もう頭を休めよう。」


試験の直後で半端じゃない疲れを引きずっていた頃ですが、私すごいエネルギーで書いていますね。自分でもびっくりです。
こうして読み返してみると、受験へのプロセスは自分自身と向き合うために私に必要な時間だったんだなとあらためて思います。
結局ボランティアするだけの余裕もなく、職場で凝り固まっているのは今も変わりません。
隣の部署のやはり長くいる派遣社員に、凝り固まっていると悪口言われているのが時々きこえてきますが言いたかったら勝手に言っていればいい、ぐらいの気持ちです。
口先だけの挨拶ができない、自分の中で本当にそうしたいと思った時にしかできないし、上手くはやれない。下手ですね、と今は退職してしまったとても頭のいい社員の男性に言われたことがありますが、変えられる器用さはない。
ほんとの派遣をやっていて派遣慣れしている人はすごく上手かったりします。
数カ月しかいなかったのに、あっちでもこっちでもいつの間にか上手におしゃべりしてお友達をつくっていたり、すごいなあと思います。あっちでこっちで働く間にいつの間にそういう術を身につけていくのか、もともと八方美人タイプの人がほんとの派遣をやっているということなのか・・・。
私の中でそういう人はいつどこで何を言っているのかわからないので要注意なのですが、いずれにしろ私には向いていないなあとほんとつくづく思いながらの毎日です。息苦しいですね。



企業・団体が起こす事故のほとんどは、技術的なことが足りなかったからではなく、その企業の有り様、人間関係により引き起こされるヒューマンエラーによるものである、という話を慶応義塾大学の公開講座で聴いたことがあります。
人の人生、人の命に関わる業務を行っている職場ではこんなこと言ってられないですね。
心の中では色々と考える毎日です。



長い徒然におつき合いください、ありがとうございました。


写真は、モンサンミッシェルの夕暮れです。
このあととっぷりと暮れた頃に灯りがともり始めてきれいでした。


こちらはモンサンミッシェルに行く道すがらの夕暮れです。
日本と違って、ゆっくりゆっくりと時間をかけて陽は暮れていきます。


震災チャリティー_プリンス・エドワード島の写真

2013年10月06日 22時18分54秒 | 東日本大震災
久しぶりに吉村和敏さんのブログをのぞいたら、震災チャリティーの写真販売のお知らせが載っていました。

被災した子供たちのためのチャリティーで、プリンス・エドワード島の8点の写真のいずれかを1点、
1万円で購入します。
昨年同じ企画で、ケープ・トライオンの灯台の写真を購入しました。
オリジナルプリントなのでとても美しいです。幸せな気持ちになります。
額に入っていて吉村さんのサインも書かれているので、よろしかったらご協力お願いします。

http://kaz-yoshimura.cocolog-nifty.com/blog/

注文の締め切りは10月31日とのことです。
私も乗り遅れないようにしないと・・・。



『レ・ミゼラブル』-3度目の観劇

2013年10月05日 10時57分20秒 | ミュージカル・舞台・映画
11月の凱旋公演を待ち切れず、10月2日(水)に休みをとって中日劇場で、『レ・ミゼレブル』(18時15分開演)を観てきました。
月初の忙しい時で、その日は名古屋のビジネスホテルに泊まり、翌朝早い新幹線で戻ってきて、重い荷物を抱えつついつもどおり何事もなかったような顔をして職場へ。またちょっと体は無理しましたが、感性を揺り動かされて心のエネルギーはフルチャージ。へんちくりんによじれていたのが真っ直ぐになりました。

普段の私は能面(Still face)、職場・電車の中・・・なんかヘン、気持ち悪くってしょうがないを堪えながら坐り続けるにはそうする以外に方法がわからない。心の中はいつも揺れ動いているけれど全てこらえる。そのためには能面、その分感性を揺り動かされるものに出会った時の感動も深くなります。

ここ3年ほどの間に両親とのお別れが続いて、何度乗ったか自分でもよくわからない新幹線のぞみ号ですが、今回は束の間の観劇旅行。久しぶりに穏やかな心持ちで乗りました。N700系のぞみってこんなにかっこよかったんだ・・・。

中日劇場は1988年にオリジナル版の初演を観た場所で、それ以来です。
島田歌穂さんエポニーヌの歌う「オンマイオウン」に体が震えたのをおぼえています。
でも作品全体はよくわからなかった。
いろんな葛藤を経た今だから気づけることがたくさんあります。

私の席は2階A列2番、バルコニー席のような感じの最前列の角っこで、舞台が驚くほど近く、オーケストラボックスを見下ろすこともできました。2幕でバルジャンとジェベールの花道の対峙場面もかなり近かったです。
あっという間に3時間15分の舞台は終わってしまったように感じましたが、あとになっていろんな場面がリプライズしています。

ジャン・バルジャン  福井晶一
ジャベール      鎌田誠樹
マリウス       田村良太
コゼット       若井久美子
テナルディエ     駒田一
マダム・テナルディエ 浦嶋りんこ
エポニーヌ      昆夏美
ファンティーヌ    里アンナ
アンジョルラス    野島直人
ガブローシュ     加藤清史郎
リトルコゼット    清水詩音
リトルエポニーヌ   北川真衣


この日は福井バルジャン、鎌田ジャベールの初共演で、カーテンコールでは福井さんが鎌田さんに左足かけまでして初共演を喜び合っていました。

対決が続いていく二人ですがもともとは一つ。ただ生き方が違った、というように原作者は描いたそうです。(お話は朝日カルチャーセンターで吉原さんと川口さんから聴いた内容です。)
正義感の塊のようなジャベールは最初制服のボタンの乱れひとつない姿で登場しますが、物語が進むにしたがってだんだんと人間くさくなり最後は崩壊して自死にいたります。その流れは服装にも現われていてだんだんヨレヨレになっていきます。

プロローグで盗みを働いたバルジャンと捕えられた彼を許した司教様、この出来事でバルジャンは新しく生き直すことを決意します。
この場面と2幕バリケードの花道でバルジャンに許されるジャベールとの関係は重なりあっていて、バルジャンの瞳の中にジャベールは司教様(つまり神様)を観ているそうです。仲間を装って革命を起こそうとする学生の中に紛れ込んだジャベールは、ガブローシュに正体を見破られて捕えれていましたが、バルジャンが密かに彼を許して逃します。

オレを殺すことだってできるのにージャベールはバリケード戦で負傷したマリウスをかついで自分を捕えるまでの猶予を乞うバルジャンを許してしまい、許した自分に耐えられずに最後は崩壊します。

ジャベールがセーヌ川に身を投げる場面をどう受けとめればいいのか、毎回ドキドキしています。
先もみえない、行くあてもない、もう他に行く場所がないー心が痛みます。原作では、亡骸はセーヌ川にかかる二つの橋の間の洗濯女の船の下から見つかることになっているようです。
演じる役者さんたちにとってもかなりきつい場面で、二役をこなす吉原さんはバルジャンを演じた翌日ジャベールを演じる時は、カンパニーの誰とも喋らず役に入り込んで行くそうです。

最期は自死によって終わりますが、最後の最後まで自分を信じて一生懸命生きた人として、ジャベールを受けとめたいと思います。

この物語の最後にあるのは希望、バルジャンが天に召されていく場面を、イギリスの演出家に前向きな気持ちで演じてほしいと言われたそうです。
死生観、宗教観の違いもありますね。

ガブローシュとジャベールとの関係、エピローグのこと、また書きたいと思います。

キャスト
 
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劇場内のタペストリー一種類目です。
 
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下手な写真ですが劇場内ジャベール役の紹介です。
鎌田さんには終演後たまたまですがロビーでサインをいただきました。
舞台では厳しい役ですが、素顔はとってもいい人な感じでした。
鎌田さんジャベールを私が観るのはこれ一回なので貴重でした。

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これより下の写真は、東宝のレミゼ公式フェイスブックから転用しています。


プロローグ


プロローグ バルジャンとジャベール


パリ市内貧民街 ガブローシュ


ジャベール

小さな花

2013年10月02日 12時10分50秒 | 祈り
「2007年6月17日父の日

4年5カ月ぶりに帰省した。ゴールデンウィーク中に父の顔がはれたとしばらく前にきいて、一週間前に二度と会えなくなる夢をみて、急に不安になって会いたくなっての帰省だった。
結論からいうと身体はきついが帰ってよかった。父と母の元気そうな顔をみて安心したし、Mちゃん(妹)の仏前にもう自分を責めることはやめると約束した。
いろいろと頭の中で考えていたことがどうでもよくなった。
親子の関係はいくつになっても永遠に変わらない。
慶応の学位記とPSWの登録証をみせることができた。
父も母も私ががんばってきたことを理解できたようだ。
えらかったな、大変やなって言ってくれた。
なにかをしてあげればいけない、と無理に思う必要などない。
逃げているような負い目をずっと感じ続けてきたが、こうして少し離れた所で一生懸命生きていること、それが一番大事なんだなと、それでいいんだなとようやく素直に思える。理屈ではない、私の心がそう感じているのだ。
母は幻聴がきこえているようだが、病気がどこまで認識できているのかわからないが、薬は素直に呑んでいる。身体は元気なようだ。食欲もあるようだし、外に出ていないのでがりがりだったのが太ってきている。
5時になったら、さっきまでお腹がすいていないと言っていたのに、お腹がすいてきたと言い出してごはんを食べる。あとはお風呂に入って横になっているだけ。
病気がそうさせているのだろうか、毎日が同じリズムでないと不安になってしまうようだ。
それで母のリズムがあり、生活できている。それでいいではないか。
特にやりたいこともないという。自分でも不甲斐ないという思いはあるようだが、どうにかこうにか生きている。それでいいじゃん、って頭をなでてあげた時の母は少し涙ぐんでいたようだ。
母がお豆腐を切って入れたというお味噌汁のお豆腐の大きさ、切り加減は昔と変わらなかった。
わたしにはできない。嬉しかった。病気でありながらも母の中で世界は生き続けている。母には間違いなく幻聴がきこえている。私にはわからないけど、きこえているんだなと、と思って一緒にいることができた。
気がすんだ。
PSWの勉強を通して学んだこと、そして合格という結果がついてきたこと。家族にとって大切なことなんだな。
明日からまだどうにかこうにか私を生きていこう。
父はお正月には会えんかもしれん、なんて言っていた。
心不全をおこしたことで、自分でも不安になっているのだろう。
好きなお酒をたしなみながら、またお正月に元気であえるようにと祈るばかりだ。」

母に急性期の病気の症状が出てから20年あまり、国家資格のための勉強をとおして、精神医学の知識を少しばかり学んで、地域生活支援センターでの実習を経てようやく病気を受け容れられるようになった私がいます。自分で忘れてしまっていることもあって読み返して自分で驚いたりしています。
ほんとにがんばったんだなあ。
過去の自分にエールをもらっているような気がします
昨今のニュースに釈然としないものを多々感じて、なにかすごくヘンだなあと思って、不安ばっかり先立ってなんにも報われていないような希望がもてないような感じにとらわれることが多い
です。

大イベントでお金を回すことを考えるよりも震災からの復興、原発事故の収束が先なんじゃないかと思ってしまうのは私だけでしょうか。


職場は雇用形態の違う人たちが入り混じっているので、同じように働いていても、差別か区別かわからない納得できない場面にたびたび遭遇します。
一生懸命に働いている人たちを思うとなんともやりきれない複雑な思いがします。
ドライなシステムには、違和感を感じ続けています。
お給料をもらう会社は違っても、毎日働いて一緒に苦労しているのは職場の人たちで、
たまにお給料をもらう会社の人の顔をみても全く心が動かない。ドライな関係でそれ以上でも、それ以下でもない。
抜け出したい、でも今はどうしていいかわからない。自分自身歯がゆさもあります。
こうして少しずつ自分の気持ちを整理していくことでいつか抜け出せる日がくるのか。

『レ・ミゼラブル』の舞台は19世紀、今よりもずっと生きることが命がけだった時代。
この舞台で一生懸命生きていない人はひとりもいない。今のわたしたちと気持ちは変わらない。
職場など毎日が闘いであることは今の私たちも同じ。そこに観る者は共鳴し長く続いているのではないか。
バルジャン・ジャベールの二役を演じている吉原光夫さんの朝日カルチャーセンターでのお話でした。

自分の感性を信じて一生懸命生きていくしかありませんね。

今日はこれから出かけるためにお休みをとっています。
(時間があるのでちょっと緊張しています。)
お読みいただきありがとうございました。

上の写真はプリンス・エドワード島、ブリザーブカンパニーのお庭です。



春のオーウェルコーナー歴史村
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