たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

母が亡くなった翌年-2013年4月

2024年07月21日 01時18分56秒 | 祈り

「2013年4月5日(金)

忙しく働いてかなりの疲労がきている。

1985年6月19日、本を出版した前後の日記を捨てた。思い出すことができない場面ある。妹や母のことがでてくると辛い。もう忘れよう。

よくそんなエネルギーがあったもんだと思うが、一途な日々だったが、全ては過去だ。もう忘れよう。捨て去っていこう。新たに生き直していきたい。」

 

「2013年4月21日(日)

冬に逆戻りしたような寒さの終末。1992年5月、イギリスへの旅の日記を捨てた。ヅカのパンフも捨て始めている。『JFK&バロック千一夜』『国境のない地図』『忠臣蔵』『雪之丞変化&サジタリウス』もだったかな。20年近くたった今も出演した人達はそれぞれにたくましく生きている。私もいつまでも止まってはいられえない。前に進んでいくために捨てる。

原発事故の後、もし限られた荷物しか持てず逃げなければならないとしたら何をもっていくのか考えた。このまま全てを抱えて生きていくことはできない。だからっ捨てる。父と母の遺品を処分しながら考える。要らないんだなって。だから捨てる。軽やかになりたい。アケさんやりーりからの手紙も捨てていく。少しずつ。封印していたMちゃんからの手紙や葉書とも出会ってしまう。自分を責めるだけなので読み返すことはできない。いずれYくんと燃やそうと思う。いつかどこかでお別れしなければならない。人との出会いも、物との出会いも必ず終わりはくる。

「フタバから遠く離れて」を来往舎で途中からだったがみる。電気を使っていた関東の人間が何事もなかったかのように暮らしていて、電気を使っていなかった人達が避難している。なんとも違和感がある。貧しい海沿いの地域に原発をつくってリスクを背負わせて都会の人間があっちもこっちも電気をつけて暮らす。そういう仕組みになっていたことを愚かながら知らなかった。そんな豊かさは要らない。自分たちの手で制御できなくなるものを造ってはいけない。自分は何をすべきだろう。何ができるだろう。考え続ける。

もう少し落ち着いたらブログを始めようと思う。」

 

「2013年4月27日(土)

毎日どっちゃり働いているので疲れが出て辛い。それでも断捨離をやめることはできない。すごい数の日記、パンフ、勉強の資料。1986年頃の日記と写真。もう忘れたい。若かった私、愚かだった私にサヨウナラ。

高校時代の日記は今週捨てた。『二十歳の原点』に出会ってしまったのがよかったのかどうか、今となってはよくわからない。ただ私の気負いは助長されてしまったかもしれない。

妹と同じ部屋になった時のこと、母とケンカしたこと、父のがなっているのがよくわからなかったこと、妹の荷物が多くて帰りもおそくなって父が駅に迎えに行ったもののなぜか入れ違いになって3人で声を張り上げていたこと、きかん気だった妹を思い出す。信州に旅行に行って母は車酔いがひどくってほとんど食事ができなかったこと、母は病気になってからその時のことも持ちだして父に向って攻撃した、激しく。色々な場面がその後につながってしまって辛い。なぜなのか、なぜなのか。家は和やかだと高校生の私は書いている。私のなぜ?に対する答えはどこにもなく、いつまでも空をさまよう。求めてはいけない。

三人がこの世からいなくなって全ては終わった。私自身の幸せを考えよう。解放されたんだ、家から・・・。

もう少しすっきりしてきたら、ブログと哲学の勉強を始めたいと思う。

仕事は辛い。疲れたね・・・。」


母が亡くなった翌年-2013年5月

2024年07月06日 11時53分00秒 | 祈り

「2013年5月12日(日)

朝方冷えるし、毎日10時間ぐらい働いているしでへばっている。あんまり眠れていない。肝心のセミナーで眠気がきてしまって・・・。でも勉強になった。私がPSWの研修に行って感じた違和感の正体-当事者の声がちゃんと届いていない、きこえていない、っていうことなのかな。せまい世界の中だけでやっていて、広い世界に目が向いていない。横のつながりに視線が届いていない。

私の個人史を社会に還元していくためにブログを始めようと思う。母と妹のことがなければ出会うことのなかった数々の出会い。2人が教えてくれたことを発信していこうと思う。

私のすごい所は目をそらさないで一生懸命向き合おうとしてきたこと、そういう真面目人間に育ててくれたんだよ、お母ちゃん。今日は母の日。心を病むことの深さを教えてくれました。今は感謝です。憎んだ分だけ今は感謝です。

今日のフォーウィンズのシンポジウムでようやくW先生とまたお話もできて気持ちが整理できてきた。断捨離しながら新しく踏み出していこうと思う。」

 

「2013年5月18日(土)

 昨日はようやく国立西洋美術館のラファエロ展へ。(久しぶりの有給休暇)、今日はアンセミナー22章。それぞれに心豊かな時間を過ごせるが連日の上京はきつい。疲れがきてるなあ。

ブログのタイトルをなかなか決められないでいる。色々ともう出尽くしている感があるし、考え過ぎてしまっている。重いことを書こうとしているがタイトルは自分自身も重くならないような入りやすいものがいい。著作権のこともあるし、個人情報保護法のこともあるし、守秘義務もあるし、なにかと注意しなければならないことが多くて難しい。ぼちぼちいこう。

さっき思いついた「青空と緑の風の中で思うこと」、ウーン、ダメかなあ・・・。「青空を見上げて思うこと」「青空パレット」、ウーン、どうだろう。いざとなると決まらない。最初のページは赤毛のアン最終章からの引用。松本先生の了承をいただかなければ。

W先生が励ましてくださった。個人史を還元していこう。私は母を憎んだ。ちゃんと憎むこと、それも大事なことだとおっしゃった。憎んだ時間があるから今がある。心を病むことの深さを教えられた。結果的にそれは母との最後の出会いとなった。私がこうして今自分の足でちゃんと立っていること、それはお母さんがそういうふうに育ててくれたからだよ。伝えたい今はもうこの世にはいない。天に向かって伝えたいと思う。」

 

「2013年5月25日(土)

ようやくブログを立ち上げた。書き切るまでは死ねない、って大げさかな。布団に入る時よく眠れないとつらいけどこのまま目がさめなくてもこわいな、なんて考えてしまうこの頃。

毎日9時間ぐらい働いて5時間ちょっとの睡眠でよくもっているよなあ。少し前まで布団に入るのが2時の生活。もうありえないような。1時ぐらいには布団に入るようにしている。それでも朝5時ぐらいに必ず目がさめる。眠りの時間帯をずらすしかないか、なかなか難しいなあ。

発信の引き出しはたくさんある。あとは自分にどこまでそのエネルギーがあるかにかかっていると思う。発信しなければならない。その役割が自分にはあると思う。」

 

「2013年5月26日(月)

新演出版『レ・ミゼラブル』を観た。すごかった。完成度の高い、熱い舞台だった。役者さんたちが自分の役を愛していることが伝わってくる舞台だったあ。映像技術とよりわかりやすくなった展開で、より真っ直ぐにせつなく、それぞれの生き方が伝わってきて、涙、涙・・・。

フォンテーヌの夢やぶれて、エポニーヌの伝わらぬ思い、バルジャンの司教に救われて新たに生き直していこうとする場面、マリウスの無事を神に祈る場面、闘いに敗れて散っていった革命家と学生たちがマリウスの前に現れて灯りをともしやがて去っていくカフェソングの場面、バルジャンが天に召されていこうとしている、エポニーヌとフォンテーヌが迎えにきてフォンテーヌはわが子コゼットが美しく成長して愛するマリウスと寄り添う姿を見守っている、愛してやまなかった我が子の幸せになっていくその様子をちゃんと見届けているのだ。バルジャンの手紙を読むマリウスとコゼット、二人を先に逝った人々が民衆の歌と共に包み込む。その構図と光の入り方、歌、素晴らしかった。清史郎君のガブローシュ、元気いっぱいで歌は上手だし可愛かった。グランデールとの親子のような、仲間のような心の通い合いもほほえましかった。最後は討たれてしまう。その場面はシンプルになったが余韻は強く残る。バルジャン、フォンテーヌ、エポニーヌ、アンジョラス、学生たち、彼らの思いはマリウスとコゼットに受け継がれ、明日への希望となっていく。希望がなければこんなに長く続く舞台にはならなかっただろう。25年前に観た時は意味がわかっていなかった。よりわかりやすくなって、熱くなって、アンサンブルの完成度も高くて、ここまで創り上げるのは大変な作業だっただろう。よくできている。すごいなあ。演出は変わっても、底に流れる歌の力は変わらない。エリザベートもそうだが、日本語へののせ方もうまい。もう一回観たくなってしまう。キャストの変更などゴタゴタしたけれど、全てをふき飛ばす完成度の高さだった。キャストのみなさんが無事に千穐楽まで完走されることを祈りたいと思います。」

 


2014年9月を振り返る

2024年06月25日 17時08分44秒 | 祈り

「2014年9月20日(土)

昨日は自死遺族の会で自分のことを語ったぶり返しがけっこうきている。

母の病気、妹の死-受け入れられなくて自分をどうしたらいいのかわからなくて本当に苦しかった。母をみていてこの人から生まれた自分を好きになることができなかった。きつかったなあ、自分を責め続けてー。

子供が亡くなった第一発見者で「この子は私に最初にみつけてほしかったんだ」というお母さんの声をきかせていただいた。

私はMちゃんの現場をみていないが、姉としてはそれが背負いきれる限度だったんだと今さらながら気づいた。

母が発見した時にはヒモが切れて下に落ちていた。安達のおじさんに電話しておじさんとおばさんが駆けつけてくれてA生病院と警察がきてとそこまでは聞いている。

その光景をたびたび想像してしまうことがあるが、背すじが凍りつくのでそれ以上はやめようと思う。私が受け入れられるのはここまでだ。これ以上のことをきいてしまっていたらもっともっと私が大変で気も狂わんばかりになっていただろう。姉として受け入れていくには十分すぎる。背負い切れるのはここまでだったということだ。

母は病気だったし、父は話をきいてくれるような人ではなかったので、具体的な話が成立する関係ではなかった。だから父も母も私の苦しみは知らない。

終わってからS本さんがおっしゃられた。HPをリニューアルするので是非原稿を書いてほしい。親を亡くした人、子供を亡くした人の声はたくさんあるけれど兄弟姉妹で声を発信している人はほとんどいない。声を発信していてほしいとー。親は知らず知らずに子供を傷つけることを言っている。ここらへんに私のやるべきことがありそうだ。

私のやりたいことは書くことー。それでどうやってごはんを食べていくんだ。早くできるだけたくさん示談金ほしい。」

 

この後実際に手記を書き一定期間HPに掲載されていましたが、4年前郷里に馴染めず気がつけば人生の半分以上を暮らした地域に舞い戻ってきたのを機に削除していただきました。結局なにもできませんでした。

自分がわかっていなかっただけで生まれる前からの右足股関節脱臼に始まり、変形性膝関節症末期で終わろうとしている人生。股関節の痛みも足先の痛みも痺れもたしかに直接命に別条ありませんが歩くことができなくなったらどうなるのでしょう。ADLってやつが低下したらどうなるのでしょう。それはいつやってくるのでしょう。自力で歩けところまで生きるしかないと言い聞かせつつ、老いてきた見苦しい面をさらしつつ今のところまだなんとか生き永らえています。

 

 


父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年-2011年3月

2024年06月08日 16時51分55秒 | 祈り

「2011年3月3日(木)

吉村さんの講座振込期限。昨夜、やっと5時間いっぱい眠った。不安にとりつかれているせいか、あまり眠れなくてつらい。4時間半の睡眠で辛い。がんばってのり切った。

組織変更の内容を知ってまた不安。きびしい時に変化はこたえる。自分の居場所が不安。」

 

「2011年3月5日(土)

〇〇医院、時間がかかりそうだったので薬の処方せんのみ。教養センター『怒りと葛藤に向き合うワークショップ』①の終り頃から参加。終わってからA井さんとお茶。気づいたら3時間。たくさん喋ってしまった。」

 

「2011年3月6日(日)

川和G、5時半頃からシェイクスピア『真夏の夜の夢』のワークショップ見学。またイタトマでお茶(A井さん、T田さん) 

向精神薬は中枢神経に直接作用するという意味がようやくわかった。」

 

「2011年3月7日(月)

雪が降る、寒い。不安にかられている。誕生日だったがケーキも買い損ねた。」

 

「2011年3月8日(火)

今日も寒い。まだ余裕はあるが4月からの様子が具体的にわからなくて不安。」

 

「2011年3月10日(木)

晴れて寒い。不安神経症が辛い。家を出るまでに時間がかかるし、いない間に燃えてしまうんじゃないかと不安で仕方ない。早く部屋をすっきりさせて好きなだけ本を読みたいし、英語の勉強をしたい。フェルメール展とレンブラント展もあるようだ。要チェック。旅行代金の支払いを終わったら1万円ずつ積み立てしよう。マイナス残もうめなきゃ。本当に先の見通しが立たない世の中になったもんだ。」

 

「2011年3月11日(金)

14時46分、かなり揺れは続いた。繰り返し余震も起こる。電車が止まったので帰宅をあきらめ、一晩中ネットで情報をみながら眠れない夜を過ごす。」

 

「2011年3月12日(土)

朝帰宅。地震情報が流れて一時とまるが問題なく帰宅。ずっとTVを見続ける。気づいたら風呂の中で寝てた。」

 

「2011年3月13日(日)

整骨院で全身マッサージ、¥5,250

平常心ではない、やっと7時間眠った。まだ停電の影響はさほどない、呑気にドトールで本を読んだり英語を勉強したりした。」

 

「2011年3月14日(月)

計画停電の発表により、電車の本数が少なくなる。大混雑ですごいことになったので出社をあきらめる。部屋の中でずっとTVを流しながらネットでメールをチェックして仕事もできる範囲で行った。睡眠不足もあり疲れ果ててしまった。原発への不安高まる。」

 

「2011年3月15日(火)

おくれてPM出社。節電への影響は軽減。ネットで情報を見続けんがら仕事。ずっと揺れている感じがしてビルの中にいるのが恐ろしくて仕方ない。原発への不安、帰宅困難者になること不安、自分のもっている物を全てあきらめなければならないかもしれないという不安、計画停電の心配、落ち着かない。」

 

「2011年3月16日(水)

不安が続く。ずっと揺れていて揺れていないのに揺れているみたいだ。あまりのすごさに言葉もない。帰宅後はずっとスキャンを続けながらニュースをみる。

夕方大停電の怖れありのニュースに5時前に切り上げて帰宅。大混雑の一歩手前でパニックに巻き込まれずに済んだ。地元に戻ると計画停電中。信号も止まっている。日没前に部屋に戻ることができたが、心細くて不安が高まる。食べる物の買い置きをしておいてよかった。Y山先生とY本さんにTELした。なんだか落ち着かない。いくつも不安が重なるが、一番は原発だろうか、」

 

「2011年3月18日(金)

落ち着いた一日だった。ネットで情報を見続けながら仕事する。帰宅困難者になるかもしれない。停電も心配。でも被災した人達のことを思えば辛抱しなければならない。ボランティアの受け入れが始まったら何かしたい。気づいたら風呂の中で眠っていた。危ない。」

 

「2011年3月19日(土)

○○医院、ジョブスタ」

 

「2011年3月20日(日)

美容院でカット」

 

「2011年3月21日(月)春分の日

連休中は計画停電は実施されず少し落ち着いて買い物ができた。久しぶりに多めに眠れた。」

 

「2011年3月22日(火)

停電’15時20分~19時

夕方大きな余震がくる。夜半も揺れる。11日の恐怖感が体に刻まれてしまった。PTSDにあたるのだろうか。不安障害だろうか。軽度だがうつを伴って私の中に起こっている。冷静に、冷静に。人に話すことでいくらか緩和される。ガンバレ、わたし。NKの部署替えのハシゴからおりたい。今そんなわけにはいかないが。あまり眠れていないのできつい・・・。」

 

「2011年3月23日(水)

停電;12時20分~13時

東京都の救援物資受け付けに買い集めた物を送った。個人でやるとたいしたことない。でも今なにかしないではいられない。早く届くといいな。喜んでもらえるだろうか。東北はよく一人旅に行っていた場所だ。秋田、岩手、青森、仙台、色々と処分してしまったけど、記憶に残る東北はどうなってしまったのだろう。原発もおさまって一日も早く平和がきてほしい。今の現実はすごすぎる。何でみんな何事もなかったかのようにしているのだろう。そんなことないか・・・。」

 

「2011年3月24日(木)

停電;9時20分~13時 16時50分~20時30分

自分のもっているもので何かできないだろうか。」

 

「2011年3月25日(金)

停電;6時20分~10時

救援物資受付が27日で一旦終了というHPの情報、急いで荷造り。半分仕事になっていない。」

 

「2011年3月26日(土)

停電;18時20分~22時

こんな時にくだらない部署替えにつきあわなければならないのが歯がゆい。私にできることはないのだろうか。」

 

「2011年3月27日(日)

二〇川で免許証更新。寒いし遠かった。Y住先生のお宅に行きたかったが断念。でも話をきいてもらって少し落ち着いた。私が給料もらって消費する。それも大事なことなんだ。これからどうなっていくのか、ますますわからなくなってきた。私はどう生きていくべきなのだろう。新しいことを始める前に今もっているものを整理したい。ちょっとずつ、辛抱して・・・。義援金に4,000円出した。物資とあわせるとY君が送ってくれた分ぐらいは還元できたかな。ありふれた日常に感謝。当たり前のことは当たり前じゃなかったんだ。祈り続けるのみ。」

 

「2011年3月30日(水)

昨夜会社にいる間に余震があってからまだずっと揺れている感じで、夜布団に入ってからは体がふるえてしまってしばらくねつけなかった。ずっとインターネットやニュースを見続けている為、その映像が頭から離れなくなっている。PTSDっぽくなっているなあ。みなきゃいいのに、でも知らん顔できない。不安、不安だけがのる。不安神経症が強くなって辛い・・・。」

 

「2011年3月31日(木)

飲み会に参加した。3時頃就寝。今日で10年間親しんだ部が替わる。」

 

 

 

 

 

 

 

 


父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年-2011年2月

2024年06月03日 16時56分19秒 | 祈り

「2011年2月4日(金)

Yちゃんとビスタさんの壮行会に参加。」

 

「2011年2月5日(土)

サイエンスカフェ『プラナリアー性と死をみつめて』

 14時~16時;来往舎シンポジウムスペース

その後佐藤先生企画、ビデオアートのトークショー&上映会、

A井さんに会った、楽しかった。

 

PEIの時の記録や写真集を読み返したりして、しばし幸せな気持ちになることができた。」

 

「2011年2月6日(日)

川和G。だるくて体がなかなか動かなかった。休みに電車に乗るのは辛い。遺産相続のことをきいてもらって自分を肯定できた。でも人を上から目線でしかみることができないオジサンは勘弁してほしい。これも学びなのかなあ。生きてさえればきっとまたカナダに、PEIにいくことができる。吉村さんの写真集をみながら、アンを読みながら自分を励ます日々。希望をもとう。曲がり角の向うには、見えないがきっと新しい道が開けているんだ。」

 

「2011年2月7日(月)

チョコを父に供えてもらおうと思って送った。アケさんから何か届いている。どうしたものか・・・」

 

「2011年2月9日(水)

寒くなる、久しぶりに雨っぽい夜。昼間あったかいと中は冷房で寒い。夜寒くなる。いやなニュースとくだらない番組ばかりでテレビを消してしまう。」

 

「2011年2月11日(金)建国記念日

雨から雪。寒い。引きこもり。スキャンと家計簿と医療費控除がちょっとずつしか進まない。」

 

「2011年2月12日(土)

寒い。吉村さんの写真展に行こうとしていたが挫折。引きこもり。ドトールで細々とアン。」

 

「2011年2月13日(日)

整骨院40分コース¥5,050 体中ごりごりを自覚した。

アケさんから届いたのが子供服のようなインテリア、要らない、どうしよう」

 

「2011年2月14日(月)

連休中ずっとPCをみていたせいか、目がチカチカしてだるいし、なんだかネジが外れているような一日だった。夜雪、そのわりにはあたたか。

部屋の中を整理したい。物は要らない。アケさんから残る物が届いてしまった。不安神経症で家が火事になりはしないかと考えてしまう。写真と紙はできるだけ捨てたい。早くスキャナーこないかな。40代のうちにできるだけ身軽になりたい。」

 

「2011年2月15日(火)

朝ベタ雪の跡ですべる。電車は遅れる。すごく寒かった。昼間はあったかくなる。早めにコンタクトを外したらチカチカが少し楽。ドライアイがひどい。季節の変わり目。いやだね。

スキャナーの到着がまたれる。少しでも整理していきたい。」

 

「2011年2月16日(水)

毎日布団に入るのが2時頃でこんなことを続けているとそのうちこわれてしまうような気がするのにと思いながら無理を続けている。いつまで続いて、自分はどうなっていくのだろう。50歳を区切りとしたい。今は現状維持でいくしかないのかもしれない。」

 

「2011年2月18日(金)

飲み会があった。部の人たちはあたたかい。私によくやってくれているんだなというのはほんとにあるんだな。」

 

「2011年2月18日(金)

昼過ぎにやけにあったかくなるとだるい。毎日あまりねてないし、なんか自分がおかしいなあと思ったりしてしまう。会社の中で2人分ぐらい負荷を背負うために気張ってきた。その緊張感は半端なものではない。それを他の部の人達にわかってもらえず誤解されているのは辛い。決して変なつもりはないのになんだか結果そうなってしまったり。まあ職場だからいいんだけど毎日のことだし、相変わらずうまくなくって損をしている私がいる。」

 

「2011年2月20日(日)

フォーウインズセミナー 13時~17時30分ごろ、K大学病院セミナールーム

日曜日に通勤ルートをたどるのはきついが、自分の方向性とY先生との関わりを通して体の中にしみ込んでいることってまちがっていないんだとあらためて感じた。負の感情から逃げない、ごまかさない、ないもののようにしない、あるんだなときちんと認識していぅ。それは日本の風土の中ではなかなか許されないことだが、私は闘い続ける。自分も人も肯定する。希望の光を見出していく。私はこれでいいんだ。いつかセラピストになっているのかもしれない。ていねいに一歩ずつ。今の会社の中ではなかなかそんな私ではないけれどね・・・。気持ち悪いと感じているものは仕方ない。そう思う気持ちをねじふせたりしない。自分の完成を信じるのみだ。いいセラピストに出会えたこと。その瞬間から私はあらたに始まっていだんだ。」

 

「2011年2月24日(木)

日曜日の疲れを引きずりながらなんとか過ぎている。長い。休もうとしたがそれも疲れのでやめた。派遣会社が悔しいが今は現状維持でいくしかないことはわかっている。でも悔しいなあ。結局更新のメールを送れなかった。私の身体感覚が気持ち悪いと叫んでいる。ファーストフード的な、機械的なものにすごく苛立ちを感じている。」

「2011年2月26日(土)

あまり眠れていない。よくもってるよなあ。そのうち自分がこわれるかもしれない。Mちゃん手作りの洋服とアケさんから届いたインテリアらしきもの、カバンその他リユースショップに送ってしまった。スキャナーの使い方がわかってきたし、少しずつものを減らしてすっきりしたい。過去の自分の歴史がしみついたものを捨てるのは難しい。その時の自分を紙や物という媒体がおぼえている。少しずつ断ち切って次へと踏み出していくんだ。不安神経症がつらいがあせることはない。ゆっくりやればいいんだ。確定申告しなくっちゃ。がんばれ。」

「2011年2月28日(月)

きつい。不安神経症になってしまった。ガンバレ、私。NKに直接雇用してもらえる可能性があるかどうかたずねた。一緒に考えていきましょうという返事。派遣会社には更新のみ伝えた。これから具体的にどう動いていけるのか今はわからない。あまり眠れない。自分がこわれないようにしなくちゃ。2時に布団に入るのに6時とか6時半に目がさめてしまう。」

 

 


父が亡くなった翌年・東日本大震災のあった年-2011年1月

2024年05月23日 16時57分30秒 | 祈り

「2011年1月1日(土)

例年通り何もない新年、一応日吉神社に行った。あとは部屋の掃除。夜ウィンンフィルはみた。」

 

「2011年1月2日(日)

松本侑子さんのサイン本プレゼント、当選のメール。なんかいいことあるかもとうれしかった。夜、T崎さんにメールを送った。あとは部屋の掃除。

なんとなく気持ちがひきつったまま仕事に突入しようとしている。部屋の片付けは終わらない。眼の疲れがひどい。チカチカしてファイルの整理をしたいがこれ以上やれない。進捗表をやらないといけないのできつい。がんばれ、ワタシ。」

 

「2011年1月3日(月)

部屋の掃除。いつも通りの生活のペースがいい。この間までクリスマスだったのにすごい変化の速さだね。」

 

「2011年1月4日(火)

銀行・郵便局を回った。スカイスパ、マッサージ20分コース。煮つまっていたのがすっきりした。気持ちが切り替わっていってよかった。がんばった。」

 

「2011年1月5日(水)

仕事はじめ。8時過ぎまでがんばった。仕事のあるのが救いだ。このまま負担が続いてはもたない。」

 

「2011年1月6日(木)~7日(金)

8時過ぎまでがんばった。ホットフラッシュが起らなくなったことに気づく。」

 

「2011年1月8日(土)

〇〇医院、シニアジョブフェスタに登録。

T崎さんよりメールの返信有。地域包括支援センターと連携して訪問してくれるとのこと。」

 

「2011年1月9日(日)

Y君が送ってくれたパスタをお昼にいただく。うまかった。

川和G。久しぶりにはなちゃんが来ていた。ほっとする。17歳の女の子がお母さんを亡くしお父さんも余命1ヶ月。さぞかしきついだろう。なんとかやっていってほしい。」

 

「2011年1月10日(月)成人の日

部屋の片付け。カフェでセスクの資料を久しぶりに読む。慶応のレポートの手書き資料を電子化して整理しようとしたらすごく大変だった。これだけのことをやったんだな。」

「2011年1月11日(火)

色々考えていると夜中にすごく不安におそわれる。母は寒いのにちゃんと暖をとれているんだろうかとかはなちゃんどうしているんだろうなとか、鍵神経症、不安神経症も続いている。大丈夫だとわかっていても不安になってしまう。このまま一人もぶっそうだし心細いなあ・・・。

松本先生からサイン本が届いた。」

 

「2011年1月15日(土)

シニアジョブスタ、キャリアカウンセリング 16;00~17;00

はなちゃんお父さん急変。何もできない。祈るのみ。」

 

「2011年1月16日(日)

整骨院で全身トリートメント、4,000円」

 

「2011年1月18日(火)

朝方、寒さと乾燥で6時過ぎに目がさめてしまった、眠かった。」

 

「2011年1月19日(水)

カラカラの天気が続いている。はなちゃんはどうしているのだろうと気になりながら何もできない。」

 

「2011年1月20日(木)

お父さんのことを思い出したらすぐには寝つけなかった。連日5時間足らずの睡眠。よくもっているよな。なんだか時おりすごい淋しさにおそわれている。親がいなくなるというのは大きい。はなちゃんはどうしているのだろう。」

 

「2011年1月21日(金)

今日もいい天気。やっと5時間眠ったかな。なんとかやっている。母から解放される日はきっとくる。」

 

「2011年1月22日(土)

〇〇医院、漢方薬を減らした、花粉症の薬を出してもらう。ジョブフェスタ16;00~17;00ジョブスタ。美容院でヘアカット。自分自身のことはなにもできないまま終わった。

はなちゃんは元気にしているというY先生からのお知らせ。」

 

「2011年1月28日(金)

すごく寒い。今週はあwりと落ち着いた状況で仕事は進んでいた。4年前の今頃は国家試験でボロボロになっていたことを思い出す。よくやったではないか。自分をほめてあげよう。今やれることを一生懸命やる。それでいいんだ。」

 

「2011年1月29日(土)

キャノン吉村さん講演会、13時30分~15時 

『マジックアワー』写真展、品川駅徒歩8分、講演会のあとサイン会もあって、恋人たちの小路のポストカードとフォトエッセイ集を買ってサインしてもらった。PEIの写真はなかったがヨーロッパや北米の長い夕暮れの色はやはり美しい。」

 

「2011年1月30日(日)

はなちゃんを囲んでY倉さん、Y本さんの4人でランチ。その後Y先生の家でお茶とケーキをいただきながら過ごす。」

 

「2011年1月31日(月)

ゆうちょの相続書類と定期預金の新規書類を郵送。自分がすごく冷たいような気がしてしまってよっと辛い。わりきって考えるしかない。仕事は相変わらずやりにくく平日は5時間睡眠で進んでいる。すごいエネルギーで年のわりにはフットワーク軽くやれていると思う。50歳まではこのままなんとかいけるのかなあ。お金も貯めないとね。暖かくなる。12度C。病気らしき人を帰りの電車で見かけた。独語は統合失調症の特徴だそうた。」

 


母が亡くなった年-2012年11月~12月

2024年05月17日 20時35分47秒 | 祈り

「2012年11月18日(日)

本を書きたいと思う。何を書きたいって?わからない。ただ自分を生きるために、ひと区切りつけるために。そして社会に伝えていけることがあるのではないか・・・。自分の本を手にしたい、その一心で突き進んでいった21-22歳の頃のときめきとエネルギーをもう一度取り戻したい。20年以上が過ぎ、その頃には思いもよらなかったような体験をした。ずいぶん苦しんできたが、母の死によってそれは終止符が打たれた。これからは本当の自分を生きるために、自分の物語を綴っていく。そんなことができないだろうか。漠然とただ思うのみでどこからどうしたらいいのかわからないが・・・。」

 

「2012年11月22日(木)

人の悪口は言いたくないし、ずいぶんこらえて我慢しているつもりだ。でもそれは必ずしも人に伝わらない。残念ながら・・・。

こんなややこしい難しい中を私にはこれ以上無理だま。よかれと思ってやっていることが全て裏目にでる。私は目ざわりでジャマなんだ。これ以上辛抱してがんばったところで何かご褒美があるわけではない。もう終わりにしようと思う。収入は途絶える。家に帰ってゆっくり考えてもいいかな。ただし、Y君が何ていうかだけど、これ以上がんばっても、もうしょうがない。

コソコソ言っている人たちは自分たちでできるっていうことなんだからやればいい。やってみろ。私はもう知らない。

怒り・・・怒り・・・

表現するのはむずかしい。」

 

「2012年12月9日(日)

『赤毛のアン-最終章』(新刊本)はモンゴメリさんが晩年だんなさんの精神疾患に苦しんだ、その苦悩が色濃く現れている。第一巻とは全く別物で違和感がある。推理小説を読む感覚だが、第一巻からその後30年のモンゴメリさんの人生そのものだ。

-ドトールでケータイの通話の声がうるさかった。2人いて何となく単語が呼応しているのがおかしかった。それにしても便利になり過ぎて、非常識な人が増えた。どんな世の中になっていくのだろう。プライベートな内容が公衆に丸聞こえだというのは恥ずかしくないのだろうか。-

 

静かになったので再開。アン・セミナーのあとのクリスマス会、ローラの話題など楽しかった。絶対ツアーに行かなければならないような気になってきた。大人になって色々なことを経た今、ローラのドラマを再びみると、どんなことを感じるのだろう。いじわるネリーや必ずしもウマが合うわけでもない隣人たちと上手くつきあっていた。そことから学ぶものはあるだろう。読みたい本は尽きない。生きている間に、哲学、必ず勉強するぞ。

また自費出版したいと思うが今はまだ全くおぼろげだ。もう少し色々と整理してからだ。地震が続くと不安と恐怖にかられる。軽いパニック。まだ大きいのがくる可能性はある。一日一日無事に終わっていきますように・・・。

限りある私の時間。これからどこでどう生きていけばいいのか。答えは簡単には出ない。運も大きく左右するよな。」

 

「2012年12月17日(月)

土曜日にY市福祉保健事務所まで出向いて自死遺族の会にようやく行ってみた。意外と遠くてお昼も食べないまま、集中して話を聴いたし自分のことも話したので終わってみればすごく疲れていた。やはり人の話が深く入りこんでいてきついものがあったのだろう。夜は二度目がさめてしまった。それでもほんのぽっちり自分の体験が役に立つのではないか。そう思うわたしもいる。ほんのちょっとずつだけど発信していきたいと思う、社会の中へ。

雨ですごく寒かった。戻ってからデパートの中のアフタヌーンティーへ、眼科に行く気力はなかった。

色々思いはじめればきりがあない。でも、もう自分を責めたりなんでなんだろうと考え始めたりするのはやめようと決めたのでもうしない。

それにしても現実はドロドロとしたもので、色んな人がいて色んなことがあるんだな。お仲間がたくさんいることにあらためて驚いている。若い人は特にやりきれない。なんとも口惜しいものだと思う。

自民党圧勝。大震災と原発事故のあとなのに何も変わらない。希望がもてる社会になっていくのだろうか。

私も苦しかった。この体験を発信できないだろうか。あまりきつい話には耐えられないが、救急車のサイレンをきくたびに私にできることはないだろうかと思う私がいるのも事実だ。」

 

「2012年12月23日(日)

商業主義的なクリスマス一色にうんざりしている。そういえば赤毛のアンにクリスマスツリーは出てこない。いつからこうなったのだろう。

神経症が治らなくって、なんとなく余裕のないきびしい社会の中でこれ以上やっていくのは無理だと思う。不安にとりつかれたら、どうしようもない細かなことが気になってしまったり、声高なキイキイ声にすごく疲れてしまったり、人がわさわさするのに耐え切れなかったり、自分はこういう性分なんだから仕方ない。器質は持ち合わせているんだ。

誰が私を必要としているわけでもなく、自分一人で勝手にやらなければならないことがあるような思いにとりつかれている。今の仕事はもう少しセーブしていきたい。といっても家賃を払わなければならないし、旅にも出たいとなると残業しないわけにはいかない。辛いところだ。

ヨガに参加してそのあとお風呂。自分の体と向き合い静かに呼吸しているとバランスの悪いのがよくわかる。

喪中葉書を出していないがさりとて年賀状を出す気にもならず、もし届いたら寒中見舞いを出すにとどめようと思う。

被災した人達のために自分ができること、あるんじゃないか。でもやっぱりあまりきついことには耐えられないかな。家を離れる不安があるので、旅には出られない。今できることをほんの少しずつだけどやっていこう。本当の自分をこれからは生きていけばいいんだよ。無理すんな。ずっとあり得ない無理を自分にさせてきたんだ。」

 

「2012年12月31日(月)

2012年が無事に終わろうとしている。スタバにいると全く実感がない。一週間前はクリスマス一色の狂騒曲を奏でていたのに、25日の夜になるとたちまちお正月へとスィッチ。デパートやメディアに踊らされているようで、どうにもついていけないし、好きになれない。なんとも不思議な国だ。それでも一応ガスレンジ周りと本棚のほこりのすごい所も掃除した。要らないもの、行方不明だったものがでてくるものだ。あとはひたすらデジタル化。

けっこう疲れる。まだまだある。なかなか終わらないなあ。それでも減っているはずだあ。少しずつだがどこかで諦めて捨てられるようになった。いつか捨てなければならないのだ。今か30年後か。

夜になると母のことを考えてしまい、落ち着かなくなる。色々思い巡れば悔やみ切れない思いがよみがえってくる。でも、もう自分を責めるのはよそう。人の営みとはなんとも理屈では言いようのない、ゴタゴタとしていろんなものがゴチャゴチャに混ざり合っているものなのだ。これからどう生きていこう。辛くなったらいつでも逃げられる。そんな立ち位置で人の営みに関わっていくのがいいのかな。ひとつひとつは何でもないことのような積み重ねで日々の営みは続いていく。

子供に自死された人に希望をもってほしいなどと思うのは酷だよな。母の思いを想像力ではかっても私にはわからない。受けとめ切れない試練にさらされながら精一杯生きた。どうしてそうなったのか。

どこにも答えはないのでそれを追い求めてもどうにもならない。私は私の立ち位置で自分が幸せになる努力をすること、それだけだ、それでいいんだ。」

 


母が亡くなった翌年-2013年9月

2024年04月28日 14時52分06秒 | 祈り

「2013年9月27日(金)

朝日カルチャーセンター新宿

レ・ミゼラブルをより楽しむために

 川口竜也さん・𠮷原光夫さん

楽屋が一緒でいつもお喋りしている。

レミゼは3つの音から始まった。エポニーヌの「ひとり~」のシンプルな音に色んなバリエーションが加わってできあがっている。

バルジャンとジャベールはもとは一つ。生き方が違った。

バルジャンにとっての司教とジャベールにとってのバルジャンは重なりあっている。バルジャンにジャベールが許されるバリケードの場面、縄をとかれたジャベールはバルジャンの瞳に神の光をみる。

ジャベールが人間くさくなりこわれていく様子は服にも現れている。だんだんヨレヨレ。

ジャベールの自死に至る場面を演じるのはしんどい。

ジャベールはガブローシュに子供の頃の自分の姿をみている。ガブが討たれて近くに連れていかれた時の反応は演じる人によって異なる。映画ではアドリブでナポレオンからもらった紋章をガブの胸につけるが、舞台の短い時間でガブへの思いを表現するのは難しい。

下水道でバルジャンとジャベールが出会う場面、演じる人に任されているが𠮷原ジャベールは駆け込んでいく、4人それぞれ。

𠮷原さん、ジャベールを演じる日はだれとも喋らない。カンパニーもわかってくれている。逆にバルジャンに戻る時はたくさん喋る。役替わりはきつい。

ガブの討たれる場面がああなった時は本当におどろいた。

𠮷原さん、2011年版のオーディション、レミゼをみたことがなく大劇場にでてみるといわれてアンジョルラスで応募。イケメンぞろいですぐに違うと感じて気づいたらジャベールの列へ。アンジョルラスの歌は歌わないままおわった。イギリス人スタッフはリラックスムード、その後方で日本人スタッフがすごく難しい顔をしてすわっている。どっちの温度にあわせればいいの?

川口さん、ティナルディエで応募、スターズを歌ってみてと言われて歌ったらもういいよと言われたのでダメなのかと思った。ティナルディエの歌はすごく練習していったが全く歌わなかった。

𠮷原さん、2011年、オーディションの段取りが耳に入っておらず、自分が歌い終わったらさっさと出ていってしまってすごく怒られた。

旧演出のレミゼは白黒、アンティーク、暗いと言われたのは照明も小さな劇場で使うようなシンプルで地味なもの、光をかなり落としていた。

ジョン・ケアードのこだわり、シェイクスピアの手法をとりいれている。さすがロイヤルシェイクスピアカンパニー(𠮷原さん)

新演出はカラー。

エピローグ、ファンティーヌとエポニーヌがバルジャンを迎えにきて最後アカペラコーラス、楽器の音を抑えて声を小さくしてひとつひとつを細かくていねいに演じていく。かなりきついが最大の見せ場。「人を愛することは神さまのおそばにいくこと」に全てが集約されている。

プロローグ、バルジャンが市長になって登場するまでの展開が早くてよくわからないのは演出家の意図。最後でああこういうことだったのかと観客がふりかえってくれればいい。

レミゼの中で一生懸命生きていない人はいない。19世紀の話だが今のわたしたちの日常と同じ。だからレミゼは続いている。生きることは毎日が闘い。職場でも他の場でも・・・。

体調、気持ち、お客さんの反応によって演技はちがってくる。

進化しないようにしている。同じことをいかに色あせることなく演じていくか。

人間として成長した姿で11月帝劇にもどってくる。カンパニー、一人一人きっとみんな思っている。

アクシデントもさらけ出してやってきている。最初、バルジャンは吉原さん一人だったので緊張していておぼえていない。ひたすら家と劇場の往復のみ。

川口さん、初日プレビュー、すごくうれしかった。

演じていて自然に涙がでてきてしまうことはある。意図して流すことはない。

ムダはセリフはひとつもない。

音楽がすごくいいので、無理に自分でどっか変えてやろうとせず、のっかっていけばいい。むずかしい楽曲に逆に助けられている。

吉原さん、やりたいのはコゼット、(他にあるとすれば・・・)

バルジャン、エピローグ、早替わりの連続、バタバタ。市長になるところは2分40秒、メイクもよごしをおとしてし直すのでマネージャーに靴をはかせてもらい、衣装をきせてもらわないと間に合わない。

ジャベールはプロローグは余裕がある。

吉原さん、「いやなこといっぱいあるじゃないですか」、子供が電車に乗ってきて2人分の席に3人ですわろうと騒ぐのでひっぱたいた。3人がおりる駅で一緒におりて話をしたら3人ともちゃんと悪いってわかっている。のど飴をあげて別れた。体罰はその前後にある背景も考えるのが大事ではないかと思う。

吉原さんの坊主頭は演出家の意向。

イギリス人と通訳を介しながらコミュニケーションとるのはなかなかむずかしい。細かいニュアンスが伝わらなかったり・・・。

体調管理で気をつけていることは特にない。毎日同じ動線でうごく人もいるが、逆にそうしなかった時になんか失敗するんじゃないかと不安になるので、そういうことはしない。(吉原さん)

 

レミゼ深い。夜は帝劇のジャベールの場面がよみがえったり、色々。死生観、宗教観、学ぶところがたくさんある。エピローグ、バルジャンの旅立ち、前向きに演じてほしいといわれた。死生観のちがい。そこが希望になっているんだな・・・。」

 

「2013年9月30日

アメリカへの旅とレミゼ・チケでなんだかすごくあわただしく過ぎている。

ドライなオートマティックなアメリカ式って日本には合わない。私の感性にも本当になじまなくって辛い。なんか世の中ヘンだよなあ。結局弱い立場の人間がバカみてる場面が多いように私は感じてしまうのだがどうだろう。

自分はどこへ行くべきなのか、結局わからないまま時はどんどん過ぎていく。ヘンなストレスにまみれて私の人生は終わっていくのだろうか。

本を読んで色々考えたい。哲学を勉強したい思いはかなえられるのか。

くやしくってくやしくって涙がにじむ毎日である。」


母が亡くなった翌年‐2013年3月

2024年04月09日 13時12分45秒 | 祈り

「2013年3月2日(土)

 もうすぐ〇〇才。まだまだやれる。まだ若いし体力もある。やりたいことをやっておきたい。大学行きたいなあ。旅したいなあ。ほんのいくらかでも人の力になれたらなあ。現実には何もできないけど、大会社に振り回されてても仕方ないなあ。少しずつ抜け出して切り替えていけないだろうか。伝えたいことをちゃんと伝えるのって難しいなあ。もっともっと文章力を高めたい。本を読みたい。読んでいる、少しずつ・・・。

大きな地震はやがてまたどこかで突然くると思う。

1986年、木曽路、東北、塔の、仙台へと旅をしている。被災地となった場所を訪れていたのはこの頃だった。丁寧に私はとっていたんだなあ、記録を。

パンフレットを残して捨ててしまう。父と母の残したもの、Mちゃんの残したものを思うと捨てていかなければならないと思うのだ。そしてまた新たにスタートしていきたいと思うのだ。まだ幸せになれるだけの時間はある。ゆっくりゆっくりいこう。」

 

「2013年3月3日(日)

1992年の日記を捨てた。8月、帰省した時のMちゃんの幼さにがく然とし、また心配だと書いている。自分にはどうしようもないことも書いている。10月、家の中のぎくしゃくに耐えられずもう帰りたくないと書いている。もうすでに何か大きくこわれていた。でも私は若かったし、何も知らなかったし、ただ逃げた。何もできなかった。誰のせいでもない。何故なのかもわからない。血のつながりって何だろう。私は模索し始めていたことが読み取れる。時を取り戻すことはできないので、ただ今は先に逝った人の分まで自分が生きるのみ。私自身もどこに向かえばいいのかわからなくてひどく不安定だったようだ。全ては崩れ落ちた。鉄ケンをくらった感じだ。まさか死んでしまうとは思わなかった。自分を責めるでないぞ・・・」

 

「2013年3月17日(日)

マニュアル通りは無論大切だが、あまりにも心がこもっていないと気持ち悪くって仕方ない。マクドナルド式が増えすぎてあたたかさがなさすぎる。”自己コントロールの檻”を読み返したいと思う。

1989年の日記。私は自分がどこへ向かえばいいのかわからず道に迷っていたようだ。今と同じか・・・。

宝塚ステージアルバムの1992年のものもデジタル化して現物は捨てる。あきらめていくしかないのだ。

金曜日の夜、すごく疲れていたからだろうか。布団に入るとふいに父の声がきこえてくる。母の顔が浮かんでくる。昔の場面を断片的にさまざまに思い返す。こんなふわふわした状態はまだ続いていくだろう。父も母もこの世にいないのだという実感がもてない。

会社は馬鹿げている。でも他にいったらもっとひどいかもしれないし、おかしいのはどこも同じだろう。被災して住むところも仕事も失った人達がたくさんいることを思えば今は耐えるしかない。非常勤で月一回のペースでなにかできないだろうか。福島で自殺する人が後を絶たない様子をブログで知る。なにかしなければならない、できることがあるのではないか、ついそんな思いが沸き立つ。何もできないのだが、あんまりきつい話には耐えられないのだが・・・。熱いものが自分の中に流れ始める。現実の私は専門家たちの中で何を発信すればいいのか、今もわからないでいる。哲学を勉強したい・・・。」

 

「2013年3月22日(金)

なんかおかしい、なんか気持ち悪い。わたしの感性がそう叫んでいる。便利になり過ぎた分、人として退化している。おかしな人が多過ぎる。なんかみんな小さい画面ばっかりみてて内向きだし、色んなものを見過ぎている分、肝心なことが見えてないんじゃないかなあ。

震災なんてなかったかのように過ぎているが、実はみんな震災でおかしくなっているんじゃないか。

会社にこれ以上いたくないし、早く荷物を整理して今の場所から逃げ出したいが、まだまだ時間がかかりそうだ。あー、早く逃げ出したい。私はどこに行けばいいのだろう。相変わらずわからない。」

 

「2013年3月23日(土)

1992年1月から3月の日記を読み返す。私はずいぶん切羽詰まっていた。自分で自分をがんじがらめにして追い込んでいた。何が私をそこまで追い込んだのか、今となっては自分でもさっぱりわからない。Mちゃんの死によって自分を縛っていたものは音を立てて崩れ落ちた。もう忘れよう。捨て去って新しい一歩を踏み出していこう。まだ人生の時間はあある。幸せになりたい。あの会社にはこれ以上いたくない。どこかもっと自分の力を尽くすべき場所があるのでええはないか、思いが空回りするばかりで現実にはなにもできていないのだが・・・。自死遺族として専門家たちをみていると何かが違うと思うのだが何が違うのかわからない。何か発言できることがあると思うのだが、それが何か今はまだわからない。何を発信していけばいいのだろう。書くべきことがあるようにも思うのだが今はまだわからない。大丈夫、人生の時間はまだある・・・。」

 


母が亡くなった翌年-2013年2月

2024年04月07日 08時26分13秒 | 祈り

「2013年2月3日(日)

 美谷島邦子さんの『御巣鷹山と生きる』を拝読してから、あふれるような思いを伝えたくて、26日にメールをお送りした。心を込めて言葉を選んで、下書きをしてからメールをお送りした。

『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』を続けて、とりつかれたように、涙をにじませんがら読みふける。乗員名簿が巻末に掲載されている。簡単な一行、二行の行間から、一人一人の物語があること、無念さ、悔しさがにじみ出てくる。どれほどの恐怖と、悔しさと、自分の身に置きかえて考えることなど到底できないような状況があっただろう。遺族の体験もすさまじい。私なら耐えられるだろうか。『御巣鷹山と生きる』を読んでから、9歳とおぼしき男の子を見かけると、こんなに小さい子が一人で旅をして、夏休みの思い出になるはずだったのに、どれほど怖かっただろうと思うと胸がつぶされそうになる。知らず知らずに涙があふれてきてしまう。これだけ私の中にたまっているものがあるんだな。どうやって社会に発信していけるのか。

 私はMちゃんが亡くなった現場を幸いなことに見ていない。その分だけ、今も信じられない。普通に働いて、食べて、眠って、本を読んで、趣味の時間も持って・・・信じられないというのが一番だ。

やっと一歩踏み出していけそうだ。

中国旅行の日記、一人暮らしを始めようかと模索していた頃の日記、一人暮らしを始めて一年目頃の旅日記も捨てる。さよなら、愚かだったワタシ。少しずつ軽くなっていける。今まで重すぎだ。サヨナラ、若き日のワタシ・・・。」

「2013年2月4日(月)

あったかくてだるい。

変な時間に目覚めて目覚まし時計をけとばしてしまった為遅刻。すごく変な夢をみた。なぜか私がウサギの子を産み落とす。そこに心残りがあるのだろうか。もうおそい。残念ながら。かなわないことはたくさんある。仕方ない。人生はそうしたものだ。母の命日が近づいて色々と思いめぐらして不安定になっている。大変だった日々がよみがえってきてしまう。自分の幸せを考えよう。

 

1988年10月から89年2月の日記を棄てる。一人暮らしを始めようか迷った末、私は決断して家を出た。今思えばよくそんなエネルギーがあったものだ。その時母から逃げようとしているという自覚はなかったが、結果的にそれは私を救っている。身をすり減らすような思いで挑んだPSWの国家試験。何ができるだろう。どうやって思いを、経験を発信していけばいいのだろう。考え続けることをやめない。

母の病気も妹の自死も普通にはやっぱり言えない。私の中ではいつしか当たり前のようにしみこみすぎてしまった。事実は変わらないので背負っていくしかない。背負える自分で居続けるしかないのだ。

私は今普通に暮らすことができている。こうして普通にしていると全てが信じられない。夢であるかのように思える。自分の妹が自死なんてそんなことってやっぱりあり得ないんだ、自分の中で・・・。普通にあり続けることがいかに大変なことか、尊いことか。幸せになろう。自分が一生懸命生きる。それしかない。3人分幸せになろう。

母が解放してくれたんだ。背負いながら強く生きていこう。命はつながっていると思う。

隣のオジサンこわい。ドスンドスンとすごい音がするし、なぜか月曜日の5時半にすごい強い引き戸の音がする。なんだろう。夜、眠る前、部屋を出る時、不安になってついつい何度も確認してしまう。不安神経症だ。ちょっと辛いな。

早くきれいさっぱりしたいが、少しずつしか捨てられず、まだまだ時間がかかりそうだ。できれば日本を出てみたいとも思う。

『大草原の小さな家』を原文で読む。シンプルだが奥が深い。一日一日を生きることに命がけだったと思う。ローラは強くたくましく生きぬいていく。学ぶことが多くありそうだ。ゆっくり味わっていきたい。」

 

「1988年7月~10月の日記を捨てた。〇〇銀行を辞めて1ヶ月間スクーリングに出た。そのあとは家でゆっくり通信教育に取り組んでいた。母はすでに統合失調症を発症していて私は悩んでいたことが読み取れる。若くて何も知らなくってそのあと逃げることしかできなかった。それから25年が過ぎ、母がいなくなっても私の生活は変わらない。お金は慰められないが、そのことは私をとても救っていると思う。統合失調症って心の優しい人がなっちゃうのかな。今だから思える。

シルクロードの写真もようやく捨て始めている。ぴちぴちだけど愚かだったワタシにサヨウナラ・・・。すっきりして新たな一歩を踏み出していきたい。」

 

「2013年2月12日(火)

母の一周忌は終わった。昨年の今頃告別式が始まろうとしていた。今日と同じ、雪がちらすきそうな寒い日だった。今だ信じられない。実感がわかない。いつもの部屋で寝ていないのが不思議だ。Y君はすぐに救急車を呼ばなかったことを後悔している。自分を責めている。時が癒してくれるのを待つしかない。救急車で運ばれたら家で最期を迎えることはできなかっただろう。母の本望ではなかっただろうか。ただ傷のあったことは痛ましい。

父と母の衣類を整理していたらMちゃんの遺品が出てきた。母だろうか、細々とした物が箱にまとめられていた。Mちゃんがまとめた物を母がタンスの中にしまっていたのか、よくわからないが奥の部屋にあった。日記が出てくる。亡くなった年の5月6日から9月18日まで。私には辛いシロモノだ。ウツにとりつかれて幻聴も起こっていたようだ。自殺したいと思っていることが綴られている。私に相談事をしたことも綴られている。まともには読めなかった。やめよう今さら自分を責めるのは。その分まで一生懸命生きればいい。それでいい。それしかないんだ。言いきかせる。」

 

「2013年2月16日(土)

自死遺族の会に行った。日の浅い方が多くて、あふれるような思いを伝えることができなかった。言葉を失ってしまった。時間をかけて受けいれていくしかない、ということを伝えたかったのだがちゃんと伝えられなかった。人が多くていろいろな人の話をきいているうちにちょっと気持ち悪くなってきてしまったような感じもあって、私はNKでアホ大会社っていいながら働いて時々旅に出る。そんなスタイルがちょどいいのかな。家に暮らすのは辛くってできないかな、と思う。カナダで暮らすって無理かなあ。

母の病気と妹の自死-受けいれる自分であり続けるためにずいぶん無理を重ね続けてきた。自分を責めてもどうしようもない。写真に向かって、なんでこんな苦しみを残して逝ってしまったんだと話しかけても何も答えはかえってこない。ただ見守っていてくれると信じて、自分が一生懸命生きていくしかない。それでいいんだと思う。区切りをつけていこう。自分が幸せになっていくんだよ。」

 

「2013年2月18日(月)

悲しみ、苦しみ、辛さ・・・言葉に言い尽くせない色んな思いといつしか私は同化していた。それらはみんな私の体の一部になっていた。これらかも共に生きていかなければならない。なぜなのかはわからないが、背負うというよりも一緒に生きていく感じに今はなっている。

幸せになりたいと思う。天命を全うしたいと思う。ゆっくりいこう。あせることはない。できることを少しずつ・・・。

深く生きる人生になったことに感謝・・・。

土・日・祝日の予定が続いている。ちょっときついな。休みをとろう。

警察博物館の前を通りかかったので震災活動記録写真展をみた。私たち日本人は忘れっぽい。私は忘れないでいたい。こうして生きていることは当たり前ではなく奇跡なんだ。

『アンナ・カレーニナ』悲しい結末だった。なんともやりきれない思いが残るが舞台としてのグレードは高かった。一路さんのドレス姿が美しかったあ。男役の面影を残しつつ、すごく素敵に着こなしていた。最後は主人公と同化。すごいね、役者さんって・・・。」