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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

雲は秋色

2014年08月31日 21時26分30秒 | 祈り
流れる雲は秋の色、
昼間はむし暑さがぶり返している感もありますが、夜は秋の虫の音色が聞こえてきます。


夏休みの終わりと共にまたちょっと緊張感が高まってきています。
一個人の力ではどうすることもできないので、苦しいですが辛抱の時は続いていきます。
雨の日も、風の日も、暑い時も、寒い時も、ずっと心の中で血を流すような思いでがんばってきた日々があります。
平日はまだまだヘンな感じで過ごしているけれど、今はどこからも必要とされていないけれど、きっと大丈夫と言いきかせます。
今あらたな自分探しの日々。

モバイルパソコンは画面が小さいせいか、またちょっと視力が落ちてしまいました。
でも今は気持ちが休めないので、お休みできないですね。

振り返ってみると20年前の私も自分探しを一生懸命していました。
今と変わらないなあと思ったり、自分で自分の書いていることに驚いたりしながらの振り返りです。


「1995年7月29日

自分の性格で悩むことと、自分を考えることとはちがう。
わたしは今まで大きなカン違いをしてきたようだ。
こんなわたしでなにが悪い、
もっと自分を信じてあげなくちゃ可哀想だ。
こんなわたしにできることをさがす努力をしよう。
自分のテーマをみつけられないから苦しいのだと思う。
それがつまり、自分探しの旅、ということかな。
手探りでも書いていくこともひとつの手かもしれない。
小手先ではなく、大きなことを。
わたしにしか書けないものが、きっとある。
いろんなことを経験することだ。
答えを見つけるために悩んでいる今がある。
自分に忠実でありたい。
今頃、こんなことに気づくなんておかしいね。
M先生がお話してくださって、TCSで相談にのっていただいて、少し気持ちが楽になった。」


ちひろ美術館に行ってきました

2014年08月30日 22時15分26秒 | いわさきちひろさん
東京のちひろ美術館に、たぶん18年ぶりぐらいで行ってきました。
事前に申し込んでいた閉館後のイベントにも参加してきました。

名称が「いわさきちひろ絵本美術館」から「ちひろ美術館・東京」へと変わり、
3階建てだった建物が2階建てに変わっていました。

2階の展示室には、ちひろさんが愛用されたというソファが置かれていました。
沈むようにそこに坐り、グラフィックデザイナーの佐藤卓さんが選ばれたちひろさんの
絵に包まれながら、いろいろと思いを巡らしていると涙がにじんできました。
なつかしい心の場所に帰ってきたような心持ちでした。


『万葉のうた』『宮沢賢治花の童話集』『たけくらべ』『赤い蝋燭と人魚』
手元に持っている本から何点も展示されていました。


ちひろさんの絵がもつ力強さ、悲しみ、慈しみ・・・、
ようやくわかってきたのかもしれません。


ちいろさんが亡くなられてから40年、東京にちひろ美術館が開館してから37年、
当初自宅の半分を壊して建てられた小さな美術館は、ちひろさんが残したものも全部使い果てしてきつい状況だったそうですが、増改築を繰り返しながら今も続いている、ちひろさんの絵が今も生き続けているのは、子守唄と同じようにその思いを感じる人たちが伝え続けてきているからではないかーちひろさんの長男で、ちひろ美術館常任顧問の松本猛さんがイベントでそんなことを話されました。


なんだかおかしいなあという社会は、あらためてちひろさんの絵を必要としているように思います。


ちひろさんは20歳の時に意にそぐわない結婚をされ、大連に渡って旦那さんが亡くなったことにより帰国、25歳の時に再び満州開拓団の花嫁たちの習字の先生ということで渡り、数ヵ月後戦況悪化に伴い帰国されました。26歳で東京大空襲にあい長野県松本市に疎開。
27歳で上京されています。


先日、満州で終戦を迎えたたくさんの方々が日本に帰ることができずに命を落とされたという史実に基づいたドラマが放送されました。今になって理解できる歴史のことも学び直したいと思います。


こどものしあわせを願い続けたちひろさんは、今の社会をどんな思いでごらんになっていらっしゃるでしょう。いろいろと考えさせられます。

まだまだ書きたいことがありますが今はここまでです。



夜携帯で撮ったので見づらいですが、入り口の看板。
佐藤卓さんはちひろ美術館のシンボルマークをデザインされました。




庭を眺められるカフェでいただいたケーキセット。
(ささやかな自分へのご褒美、感謝しながらいただきました。)




ちひろさんが愛したお庭。




ちひろさんの絵の前に佐藤卓さんがオブジェを置いたものが箱に収まっているという、
企画展示をやっていました。どう受け取るかは鑑賞する人の想像力次第。
わたしの大好きな『ゆきのひのたんじょうび』の表紙の絵+オブジェです。


『ちひろのことば』より_大人になること

2014年08月29日 16時53分15秒 | いわさきちひろさん
「人はよく若かったときのことを、とくに女の人は娘ざかりの美しかったころのことを何にもましていい時であったように語ります。けれど私は自分をふりかえってみて、娘時代がよかったとはどうしても思えないのです。といってもなにも私が特別不幸な娘時代を送っていたというわけではありません。
戦争時代のことは別として、私は一見、しあわせそうな普通のの暮らしをしていました。好きな絵を習ったり、音楽をたのしんだり、スポーツをやったりしてよく遊んでいました。けれど生活を支えている両親の苦労はさほどわからず、なんでも単純に考え、簡単に処理し、人に失礼をしても気付かず、なにごとにも付和雷同をしていました。思えばなさけなくもあさはかな若き日々でありました。ですからいくら私のすきなももいろの洋服が似合ったとしても、リボンのきれいなボンネットの帽子をかわいくかぶれたとしても、そんなころに私はもどりたくはないのです。ましてあのころの、あんな下手な絵しか描けない自分にもどってしまったとしたら、これはまさに自殺ものです。

 もちろん今の私がもうりっぱになってしまっているといっているのではありません。だけどあのころよりはましになっていると思っています。そのまだましになったというようになるまで、私は20年以上も地味な苦労をしたのです。失敗をかさね、冷汗をかいて、少しずつ、少しずつものがわかりかけてきているのです。なんで昔にもどれましょう。

 少年老いやすく学なりがたしとか。老いても学は成らないのかもしれません。でも自分のやりかけた仕事を一歩ずつたゆみなく進んでいくのが、不思議なことだけれどこの世の生き甲斐なのです。若かったころ、たのしく遊んでいながら、ふと空しさが風のように心をよぎっていくことがありました。親からちゃんと愛されているのに、親たちの小さな欠点が見えてゆるせなかったこともありました。いま私はちょうど逆の立場になって、私の若いときによく似た欠点だらけの息子を愛し、めんどうな夫がたいせつで、半身不随の病気の母にできるだけのことをしたいのです。これはきっと私が自分の力でこの世をわたっていく大人になったせいだと思うのです。大人というものはどんなに苦労が多くても、自分の方から人を愛していける人間になることなんだと思います。」

(いわさきちひろ『ちひろのことば』昭和53年発行講談社文庫、68頁より引用しています。)


***********


20代前半の頃、繰り返し繰り返し読んでいたちひろさんのことば。今あらためて噛みしめています。
色んなことがあって少しはわたしも大人になり、若かったころにはわからなかったことが少しはわかるようになり、深く心に沁みこんできます。




急に涼しくなった8月の夜に・・・

2014年08月28日 21時56分27秒 | 日記
平日はやっぱりヘンな感じで相変わらず慣れません。
一生懸命に走り続けてきたので、ためこんできたものをひたすら整理する日々。
何カ月も気持ちが少しも落ち着かず休まっていません。
たぶんかなり疲労がたまっているんだろうと思います。
でも今はこのまま行くしかありません。

長時間労働の毎日が自分にとって正解だったのか、不正解だったのか
それはわかりません。生活のために歯を食いしばり続けました。
食いしばりすぎて歯がボロボロ。
よくしてくださる知り合いの旦那さん(歯医者さん)に心から感謝です。

月末になってきたので家賃を払うとみるみる・・・・。
出かければ交通費もばかになりませんが、でもずっと部屋にいることはできない。
かといって、納得できるかたちがみえてこなければ、やっぱり身動きをとることは
できないんだとわかりました。
考えが甘いかもしれませんが、どこまで自分が納得できるか、まずはそこをきちんと
やり通すことを目指します。
きついですが、このまま辛抱、辛抱・・・。

夏のプリンス・エドワード島への旅_三日目

2014年08月28日 13時48分56秒 | プリンスエドワード島への旅
2009年7月14日(火)

PEI3日目。ベッドが合わず、あまり眠れなくて相当きつい。
ここは不思議な所だ。
昨日は朝どしゃぶり。昼間は晴れて紫外線もかなりきつい。
かと思うと、夜8時過ぎ、夕暮れをみに出かけると、夕立ち。
今日も晴れわたっているのに、天気雨がふる。
一人で徒歩なので、緊張する。
春も夏も秋もいっしょくたにくる感じで、雲がでてくると、寒くなる。
アンの時代、電気もなく、暮らしていくのは大変だったのではないだろうか。
でも、モンゴメリさんはこよなくこの島を愛した。
モンゴメリさんと同じ風の音、木のささやき、海のざわめき、リンゴの木の葉がゆれる音・・・
モンゴメリさんがみた時と変わらないであろう景色を身体で感じて、アンに込められたその息使いを
いくらかでも感じとれているのではないだろうか。
PEIの、しかもキャベンディッシュにいることで、モンゴメリさんの世界がぐっと近くなった。
昨日は、モンゴメリさんが結婚するまで暮らした家の跡を歩いていたら、なんとNHKに登場された
親戚のマクニールさんにお会いした。
庭の花をのぞきにこられた上品な女性がそうだった。
ひどい英語、一緒に写真をとっていただいたり、ちょっと失礼なことをしてしまったのではないかと
反省している。ていねいに話してくださっているのに、ちゃんとはききとれない。
自分のことばもでてこない。
もどかしい。それでもいくらかは伝わったかな。
モンゴメリさんと同じ自然を体験することの大切さを話してくださったように思う。
私は非常にラッキーだったのではないだろうか。
いいこともあるかな。

モンゴメリさんが愛したリンゴの木の葉は、雨上がりの風にざわざわと揺れていた。
何をささやいていたのだろう。
モンゴメリさんが歩いたのと同じ道を歩いた。

お昼をとったあと、再びグリーンゲイブルズをウロウロして、陽射しの中、コーヒーを飲みながら、
お化けの森の風の音をきいた。
しつこく、お化けの森と恋人たちの小径を往復する。

夜は再び夕陽が沈むのをみようと海辺へ。
Hollowをくだって、のぼって、けっこう歩く。
ここPEIは本当にあちらもこちらもHollowのある丘の島だ。
向こうがみえない。

銀色の海に沈んでいく夕陽は、夕立でいったんホテルの部屋に帰ったが、再び出かけて、
橙色からあかね色へとゆっくり変わっていき、水平線が空と海の間にくっきりとみえてきた
様もみた。
赤土も陽が落ちてくると、色が変わってきて、海と空と赤土と緑、他ではみられないようなコントラストをみることができる。
これからモンゴメリさんの大げさとも思える自然描写がリアルに感じられるのではないだろうか。

それにしても本当に何もない。
食料を買えないのはきつい。
レトルトのごはんで食いつないでいる。
栄養のあるものは殆ど食べていない。
わかめスープと春雨スープの持参を忘れた。
不覚。避暑地だからコテージが多いんだな。
こういう経験もまた大事か。
本当に何もない。
ただ自然があるだけ。



上の写真は、マクニールさんのお庭です。

暗いですがモンゴメリさんが使ったタイプ・ライターです。



モンゴメリさんのスクラップブックの複製です。



グリーンゲイブルズです。




夏の終わりの曇り空の下で・・・

2014年08月27日 16時07分35秒 | 祈り
「私たちは、人間として生きるべきだ。私たちは労働する。日常生活は、労働の生活であるし、また余暇を活用する生活でもある。余暇という言い方が消極的ならば、自由時間の創造的活用、という表現をとりたい。仕事が奪われてしまったならば、私たちの存在証拠が失われてしまうだろう。労働によって人間が間化されることを望む人はいないはずだ。労働を通じて、私たちはおのれを社会的世界に関係づけるのであり、 また労働を通じて人間同士の人間的な触れ合いが、私たちにもたらされなければならない。余暇についていえば、いかにそうした余暇を創造的に活用し、自己発見を可能ならしめるかということが問われるはずである。

 どのようにして毎日を過ごすか、金銭をどのように考えるか、労働をどのようにとらえるか、生活時間あるいは時間資源 をどのように活用するかということは、いずれも生活態度にかかわることである。こうした生活態度は、人生観や世界観とも密接な関係を有している。私たちは人生を、また自然や他者たちの中における私たちの位置を、どのように考えているのだろうか。

 生活の目標、生活の方向づけ、生活の設計などに根拠を与えてくれるような信念、生活理念を、生活哲学(いわば人生や生活についての考え方や見方)と呼びたいと思う。そうした生活哲学は、特定の形式で一般化されて私たちに与えられているものではない。世代から世代へと継承されてきた社会的知識、いわば暮らしの知恵は、たしかに日常生活を営む私たちにとって思考や行為の指針・基準となるものだといえる。生活哲学の独自性は、そうした人々によって共有されているものの見方、知識、問題解決についての 標準的手順という点に見出される。同時に、一日一日を生きる私たち自身の生活についてのそれぞれの見解、あるいは個別的な経験的な生活態度にも見出される。


(山岸健著『日常生活の社会学』NHKブックス、74-76頁より引用しています。)


卒業論文を書いた際の参考文献からまた拾ってみました。
わけわからないまま、社会から追放されて接点を失って気が付いたら何か月も経っていました。
まだ精算が終わらないので、やっぱり今は身動きをとることができないんだと思います。
現実をちゃんと受け入れられていないし、わたし自身の気持ちの整理がつくまでにもまだ時間がかかりそうです。
中途半端にずっと組織に属してきたので、帰属集団をもっていない状態が不安で仕方ない私がいます。
でも新しく踏み出していくだけの準備はできておらず、勇気を持てないでいる私がいます。
きついですが辛抱の日は続きます。私という丸ごとの正直ベースで生きていきたいですが苦しいですね。

職場だけではない、いくつものつながりを持ってきたことが今の私を孤立化から救ってくれています。
そういうことを考えて、あちこちに顔をだしてきたわけではないのですが、そうしてきたことが結果的に
救いとなりました。
今の社会を生きていくのに、接点をいくつも持っていることは大切なことだと感じています。
ここ一週間ほど学生に戻って大学で社会学の講義を受けていました。
そんなことをあらためて考えさせられる内容で、このタイミングでの受講は本当によかったと思います。

前に進んで行くためにまた過去の情けない自分に出会い直します。

「1995年7月23日(日)

まだ視界が十分でないせいか、ちょっと、どっかずれているような、ぼうっとした感じである。
さすがにいっぱい眠ったせいか、さほど眠れなくて、すごく眠い。結局、今日もぼうっと過ごしてしまった。

テーブルクロスとランドリーBOXをデパートで買う。
少しずつ、自分の暮らしが作られていくようで、少し嬉しい。
夕暮れの散歩をしたら、油絵の具のキャンパスのような夕焼け空に、遠く富士山?だろうか。
なんだか嬉しかった。

今また、大きな精神的危機の波。
明るく、さり気なく、気負わず乗り切りたい。
前だけみよう。
昨日もノートに書いた、誰にも言えないこの思い。
Yクンは考え方がかなり違うみたいなので、そんなに暗いことばかりきかせては悪いし、わたしだけの想いがある。
自分の中で、どう抱き続けていけばいいのか、すっかりもてあまし気味である。
ともすれば、マイナス方向にばかり考えが進んでいって、どんどん閉鎖的になっていく自分がわかる。
かたくなになって、人がこわくなって、だれにも会いたくない、ひとりでいいやと思ったり、ほんとは人が好きなくせに、淋しがり屋なくせに。
己は弱くて小さい者であると認めること。
神ってのが、ほんとにどこかにいるなら、すがりつきたいと思うこの頃である。
家族は? きょうだいは? 胸につきささる質問である。
Mちゃんがわたしを頼ろうとしてくれたのに、答えてあげなかったことは、今も胸をしめつける。
知らない人と知り合うのがこわいなと思ったり、
でもパートナーはほしいなと思ったり、
ともあれ、明日からまた仕事に復帰だ。」


「1995年7月27日(木)

ここは黒姫高原。ログハウスペンションGOOの中、
沢の音が聞こえてくる。
いつもとちがう時間を過ごしに来た。
小高い丘の上に立つ童話館、黒姫山の眺望。
レンタサイクルしながら輝く野尻湖を楽しみ、
汗をいっぱい流して、心地よい風に吹かれた休日、
ひとときの安らぎ、ひぐらしの鳴き声をずっときいていたような気がする。
かな、かな、かな・・・とー。
夜の風はさすがにひんやりとしている。
満天の星空、木のにおいのする部屋。
なにもない時・・・。
明日のことは、明日考えよう。」


こうして振り返ってみると、苦しい中で自分をなんとか立て直していこうと必死でしたね。
一人の暮らしでほんとによくやっていたと思います。
黒姫高原のペンションの木のにおいがするお部屋と星空をなんとなく今も思い出します。

この時から20年が過ぎて、ようやく人に自分の立場を言えるようになりました。
自分の経験を機会があれば人に伝えていくことは大切だと今は感じています。



曇り空のプリンス・エドワード島、季節は春(6月)です。

『御巣鷹山と生きる_日航機墜落事故遺族の25年』より(2)

2014年08月23日 20時34分10秒 | 美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』
「2013年1月15日(火)

人が生きていく営みーそれは、先に逝った命、今生きている命、これから生まれてくる命をひっくるめて命なんだと思う。」


6月30日付で紹介させていただいた頁と流れが前後してしまいますが、紹介させていただきます。

「1986年の1月29日に開かれた、東京地区の集会でのこと。
「社長室の前で灯油を被って死にたい」と、子供を二人亡くした女の人が、泣き笑いのような、投げ出したような表情で語った。

 集会の席でそういう発言をすることは少しも不自然ではなく、むしろ、そういう声をうけとめあうために集まっている、とも言えた。誰かが励ましの言葉をかける。普段の生活では周りに遠慮して言えないようなことを正直に言える貴重な場所だった。その同じ集会で、刑事告訴の話も持ち出された。

 そして、翌月の2月15日、大阪市立勤労会館で、遺族の集まりを持った。242名が参加し、椅子が足りなくなるほどだった。東京で少人数が集まり、顔をつき合わせて話しているのとは、勝手が違う。とにかく身を寄せ合おう、と会を結成した時の雰囲気とも違う。

 どの人も、あの事故以来、何ごとにも疑い深くなって、身を固くしている感じだった。そんな人が大勢集まって、一つのことを話し合おうとしている。集会の後半では日航幹部が出席し、遺族の質問に応じることになっていた。

 集会で話し合う内容は、遺族へのアンケートの結果に添ったものだった。

 アンケートを発送したのが、1月19日。「連絡会でやっていきたいことはなんですか」という質問をした。結果は、「刑事責任の追及」が一番多かった。父を亡くした26歳の女性は、「亡くなった人たちの声をこの世の人たちに届けられるのは私たちしかいない」と書いていた。

 午後1時に始まった集会は、最初から独特の緊張した雰囲気に覆われた。はたして、話し合いがスムースに進み、今後の会の活動指針が固まるのか、私は不安だった。

 しかし、それは取り越し苦労におわった。事前に作成した告訴状の原案を配布する。たくさんの真剣なまなざしがあった。うれしかった。

 その後の日航の社長らとの話し合いでは、遺族側の振り絞るような訴えに、彼らは、「社会の常識、通年というものに基づきまして」、「お気持ちは分かっておりますので、考えさせていただきます」、「誠心誠意・・・」といった決まり文句に終始した。この言葉を聞きながら、出席した多くの遺族が、「この事故は人災であったのだ」という思いを強くしていった。そして、ますます、事故の悲惨さ、死んだ人たちが味わった苦しみ、それを招いたことの重大さにふさわしい形で責任をとってもらいたい、と思ったのではないか。刑事告訴をするという提案は、そんな遺族の気持ちと一致したのだと思う。




 全国にちらばった遺族は、たまたま家族が同じ飛行機に乗り合わせた、同じように愛する人を失ったというだけの縁である。顔も知らなかったし、もちろん、者の考え方も様々のはずだ。その遺族たちが、何か一つのことをしようとしているのである。何かできる。そんな気がした。

 会には、遺族に寄り添う弁護士たちがいた。まさに、手弁当での支援をしてくれた。なかでも、海渡雄一弁護士と梓澤和幸弁護士は、遺族と同一の目線で話をし、8・12連絡会の集会に毎回来てくれた。詳細は後述するが、事故原因を究明する目的で作られた8・12連絡会の原因究明部会も引っ張ってくれた。

 遺族にとって、支援してくれる弁護士たちは、多くの「なぜ」を共に考え、解決していくために有難い存在だった。不安な遺族を元気にしてくれた。事故にあうまでは、弁護士という特別な存在と考えていた。だが、彼らは、多くの支援をしてくれ、いつもこころよく相談にのってくれた。会を無償で支援するこの弁護士たちがいなかったら、何事も前には進まなかっただろう。

 今、様々な事故で、被害者に寄り添う若い弁護士に出会う。民事訴訟に至らない段階で支援をしてくれる弁護士は、経済的にも負担が大変だと思う。私たちのように刑事訴訟となると、さらに長い時間お世話になる。彼らは、本当の意味での遺族支援をしている。

 2月15日の大阪集会の日から4月12日の第一回刑事告訴の日まで、事務局は、弁護士を交え、その準備に追われることになる。告訴状は、連絡会の顧問弁護士4人と遺族が夜を徹して作成にあたった。

 事務局ではこんな話をしていた。
「あれだけの人が死んでいる事故でしょう。普通、交通事故でも刑事事件でしょう。あれが刑事事件じゃないってことのほうが不自然」と、父を亡くした若い女性。「この問題が刑事事件にならないはずがない、絶対やりましょう」と、娘一家を亡くした初老の男性。「刑事事件になれば、多少でも真相がはっきりして、再発防止につながるんじゃないか」と言った人は多かった。また、父を亡くした大学生は、「刑事事件にするという認識、概念が、僕はなかったですよ」。夫を亡くし、小学生の子供がいる女性は、「刑事事件と民事事件の違いをはじめて知りました」と話す。

 私たちは、新聞やテレビで聞きかじった言葉の意味を弁護士に説明してもらったり、すでに告訴をしていた羽田沖事故の遺族会の例を聞いたりするうちに、誰でもが使える方法が準備されていることを知った。もう二度と同じ事を起こさないため、誰かが、苦しい、悲しい思いをしないためにも、使える方法を使い切ることが、私たちに与えられた責任のような気がした。

 この告訴について、後に海渡弁護士は、「群警が捜査をやっていたが、このまま放っておいたら起訴までいくかなという不安はあった。だから、遺族がバックアップ、つまり告訴をしないと前に進まないんじゃないか、と思い、勧めた」と話す。梓澤弁護士は、「事故原因を究明するためには、一番いい方法だとおもいましたね」と言う一方で、「乗員組合などが一貫して、刑事責任の追及に反対していることが気になっていた」という。

 米国などでは、事故原因の追及を優先するために、航空機事故の関係者に限っては刑事責任が免責される。決して責任を問わないから、本当のことを言いなさいというわけである。当時、私たちはまだそういったことを知らなかった。また、日本では制度も違う。被害者と航空関係者、事故の再発防止という願いは同じでも、そこに至るまでの道が互いを邪魔することもある。

 しかし、このとき告訴・告発をしたことは間違っていなかったと思う。この件について、会では折にふれて論議した。最終的に、「刑を与えるのが目的ではない。捜査機関、事故調にたいするプレッシャーになる、黙って見ているのではなく、これだけの遺族が見張っているという、意見表明としての告訴である」と、この告訴を位置づけた。

 刑事告訴をするにあたり、遺族は、告訴に賛同する周囲の人々に、告発人という形で参加をよびかけた。よびかけ文にはこうあった。

「わたしたちは、真実が明らかにされ、正当な裁きのもとに世界の空が安全になることを望みます。520の御霊が安らかなるために」

 告発人として署名をいただくことは、遺族にとってつらい作業でもあった。しかし、全国各地で、遺族は、告発人の署名集めに奔走した。激励の言葉をいただく一方で、「権力に盾つくと後で損をする」と言ってペンをとってくれない方もいて、少し悲しかった。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、49-52頁より引用しています。)



心を大きく揺さぶられた一文を紹介させていただきます。


「そして、私は、悲しみは乗り越えるのではないと思っている。亡き人を思う苦しみが、かき消せない炎のようにあるからこそ、亡き人と共に生きていけるのだと思う。」


(美谷島邦子著『御巣鷹山と生きる』2010年6月25日新潮社発行、238頁より引用しています。)

夏のプリンス・エドワード島への旅_出発&二日目

2014年08月22日 15時04分40秒 | プリンスエドワード島への旅
はじめてプリンス・エドワード島を訪れたのは2009年の夏でした。
それから両親とのお別れ、東日本大震災・・・といろんなことがあり、ずいぶん時がたったような気がします。

私自身も思い出をたどっていきたくて、旅日記を書き始めてみようと思います。


『赤毛のアン』を原書で読むセミナーに行くようになってどうしても行きたい気持ちが高まってきていました。お正月明け早々に、JTBの個人向けツアーを予約して、それからプリンス・エドワード島に旅することが心の支えになりました。


2008年に続いて、『赤毛のアン』誕生100周年のイベントが続いていました。
イベントといっても、スタンプラリーや島を訪れた証明書がもらえるなど、プリンス・エドワード島らしい、穏やかさに満ちたものでした。


その頃の手帳を振り返ってみると、二人分労働がすでに何年にもわたって続いており、限界を感じてこわれそうになりながら、がんばり続けていました。
言葉で説明のしようのない、人に理解されづらいストレスを抱え続ける毎日でした。
思い出すとその時の苦しさがよみがってきてしまい、それでも生活があるのでがんばり続けた日々を思い出すのは辛くもありますが、旅はすでに始まっているので、出発の少し前の振り返りからスタートします。


2009年7月2日(木)

昨夜は二度も目がさめて5時間ねてないなあ。ぼうっとしている。やっと木曜日。イラつく自分への自己嫌悪感。いつも同じではいられない自分への嫌悪感、カナダ、大丈夫かな。こわれてしまうかもしれない不安・・・。ストレスのふきだまりで自分がおかしくなってきているような気がする。逃げ出そう、早く。私は大丈夫だ。ストレスをためながら一人ぼっちで坐っていると、たまらくみじめな気持ちになる。変なストレス・・・。PEIが待っている。


2009年7月3日(金)

午後セキこみはじめたら止まらなくなって、手足がしびれてきて、ソラナックスで落ち着いた。
一人でストレスをためながら留守番している自分がすごくミジメに思えて、たまらなくなる。
この気持ちは誰にもわからない。カナダ行くぞ・・・。


2009年7月4日(土)

こわれそうになっている。こわれる前に逃げ出さなければならない。蒸し暑さと冷房の差はこたえるなあ。PEIが待っているぞ。いくしかない。やるしかない。



2009年7月9日(木)

AMまたもやセキこみはじめたら止まらなくなった。前回と同じ。
小さい体にはこたえる。気力でカバーしきれない。スタミナの限界。
あと2日でPEIという実感が全くない。

2009年7月10日(金)

無事に有給休暇。


2009年7月11日(土)

トロントまで約12時間。

トロントからモントリオールまで約1時間。フランス語圏でわけがわからなくなる。
荷物をいったんピックアップして、入国審査を受けて・・・。
この時点で日本では翌日のお昼頃にあたったのだろうか。相当な疲れ。
シャーロットタウンまでの飛行機でシートをまちがえているのに気づかない。
英語がききとれない。

モントリオールからシャーロットタウンまで約1時間。
明るい乗務員のお兄さん(といっても30代後半?)に元気をもらった。
PEIの夜の灯りが見えてくる。すでに24時。雨で寒い。
やっと着いた-!
遠かった-!


2009年7月12日(日)

あまりねていないのと時差で、半分ねている状態のままアン観光。


ケンジントン駅舎跡



フレンチ・リバー



銀の森屋敷(グリーンゲイブルズ博物館)・輝く湖水
今もそこに住んでいらっしゃるキャンベルさんが購入した本とDVD(『赤毛のアン』シリーズの映画のセット)にサインをしてくれた。



モンゴメリさんの生家
小さな家だが中は意外と広く感じた。モンゴメリさんのウエディングドレスのレプリカをみる。
靴は21㎝。小柄な人だったんだ。



キャベンディッシュ教会・グリーンゲイブルズ郵便局



モンゴメリさんのお墓
ここだけ国立公園できちんと管理されている。



グリーンゲイブルズへ。
いったんホテルにチェックインしてここでツアー参加は終わり。
何度もグリーンゲイブルズの中をみて、お化けの森散策。

100年前の調度品がていねいに整理されていて、その暮らしぶりの細かさ・家事の大変な
重労働であったろうことを肌で感じる。

夕方、といってもすでに6時半をすぎていたと思うが、トレイルを歩いて国立公園の浜辺
(キャベンディッシュ・ビーチ)。
赤い土の荒削りな崖と紺青色の海とだいだい色の夕陽。
銀色に輝くようにみえる海に、ゆっくりゆっくりと陽が沈んでいく。
他では見られないであろう、美しい光景だった。
8時半にはトイレに行きたくなって、ホテルに戻った。

全ての景色が想像以上におだやかで、人もやさしくて、
ゆっくりと時間が流れていく。
なにも急ぐことはない。


*************

モントリオールの広い空港の中で、シャーロットタウン行きの飛行機の搭乗口は端っこ。
飛行機の中でほとんど眠れていない状態だったので、一人で手荷物を持って延々と歩き続けながら、こんな誰も知っている人がいない所で行き倒れてしまったらどうしょうと思った記憶があります。時差で日本では朝方にあたる頃でした。

シャーロットタウンへ向かう飛行機の中で、ようやく島の灯りが見えたときは本当に嬉しかったです。乗務員のお兄さんの英語もちゃんと聞きとれなかったですが、私が疲れ果てて坐っていたので、島の灯りがみえてくると、ほらあれがプリンス・エドワード島だよ、というようなことを言って、元気を出してとお茶のティーバックをいくつか持たせてくれました。嬉しかった。やっときたんだ、プリンス・エドワード島・・・涙がでていました。


写真はケンジントン駅舎跡です。
2012年の秋に訪れた時にはパブができていました。


しとしと雨の銀の森屋敷です。



輝く湖水です。






寺田寅彦著『天災と国防』より(4)

2014年08月21日 14時59分27秒 | 寺田寅彦著「天災と国防』
「非常時」というなんとなく不気味なしかしはっきりした意味のわかりにく言葉がはやりだしたのはいつごろからであったか思い出せないが、ただ近来何かしら日本全国土の安寧を脅かす黒雲のようなものが遠い水平線の向こう側からこっそりのぞいているらしいという、言わば取り止めのない悪夢のような不安の陰影が国民全体の意識の底層に揺曳(ようえい)していることは事実である。そうして、その不安の渦巻の回転する中心点はと言えばやはり近き将来に期待される国際的折衝の難関であることはもちろんである。

 そういう不安をさらにあおり立てでもするように、ことしになってからいろいろの天変地異が踵(くびす)を次いでわが国土を覆い、そうしておびただしい人命と財産を奪ったように見える。あの恐ろしい函館の大火(1934年)や近くは北陸地方の水害の記憶がまだなまなましいうちに、さらに9月21日の近畿地方大風水害(同年の室戸台風による)が突発して、その損害は容易に評価できないほど甚大なものであるように見える。国際的のいわゆる「非常時」は、少なくも現在においては、無形な実証のないものであるが、これらの天変地異の「非常時」は最も具象的な眼前の事実としてその惨状を暴露しているのである。

 一家のうちでも、どうかすると、直接の因果関係の考えられないようないろいろな不幸が頻発することがある。すると人はきっと何かしら神秘的な因果応報の作用を想像して祈祷や厄払いの他力にすがろうとする。国土に災禍の続起する場合にも同様である。しかし統計に関する数理から考えてみると、一家なり一国なりにある年は災禍が重畳(ちょうじょう)しまた他の年には全く無事な回り合わせが来るということは、純粋な偶然の結果としても当然期待されうる「自然変異」(ナチュラルフラクチュエーション)の現象であって、別に必ずしも怪力乱神を語るには当たらないであろうと思われる。

 悪い年回りはむしろいつかは回って来るのが自然の鉄則であると覚悟を定めて、良い年回りの間に充分の用意をしておかなければならないということは、実に明白すぎるほど明白なことであるが、またこれほど万人がきれいに忘れがちなこともまれである。もっともこれを忘れているおかげで今日を楽しむことができるのだという人があるかもしれないのであるが、それは個人めいめいの哲学に任せるとして、少なくも一国の為政の枢機に参与する人々だけは、この健忘症に対する診療を常々怠らないようにしてもらいたいと思う次第である。

 日本はその地理的の位置がきわめて特殊であるために国際的にも特殊な関係が生じいろいろな仮想敵国に対する特殊な防備の必要を生じると同様に、気象学的地球物理学的にもまたきわめて特殊な環境の支配を受けているために、その結果として特殊な天変地異に絶えず脅かされなければならない運命のもとに置かれていることを一日も忘れてはならないはずである。

 地震津波台風のごとき西欧文明諸国の多くの国々にも全然無いとは言われないまでも、頻繁にわが国のように劇甚(げきじん)な災禍を及ぼすことははなはだまれであると言ってもよい。わが国のようにこういう災禍の頻繁であるということは一面から見ればわが国の国民性の上に良い影響を及ぼしていることも否定し難いことであって、数千年来の災禍の試練によって日本国民特有のいろいろな国民性のすぐれた諸相が作り上げられたことも事実である。

 しかしここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。

寺田寅彦著『天災と国防』2011年6月9日講談社学術文庫、9-12頁より引用しています。)


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続きはまた近いうちに書きたいと思います。 

ミュージカル『レディ・ベス』(1)

2014年08月20日 08時50分28秒 | ミュージカル・舞台・映画
2014年4月13日から5月24日まで帝国劇場で上演されました。

『エリザベート』を創り上げたミヒャエル・クンツェさん(脚本・歌詞)、シルヴェスター・リーヴァィさん(音楽・編曲)、一路真輝さんの宝塚退団公演から日本版『エリザベート』を演出している小池修一郎さんが手掛けた世界初演の舞台。やはり裏切りませんでした。


何か月も前からチケットを取っていたのは、5月5日だけでしたが、また観たくなってしまい、5月15日は当日券で観てしまいました。車椅子用のスペースを席にしたところで安くはないのですが、心のエネルギー補給が必要でした。キュッキュッと頭の中の今まで使ったことのないところを使った打ち合わせが終わった後で(今もそうですが・・・)、そのまま帰ることはできませんでした。


ヘンリー八世の娘エリザベス一世(在位1558-1603年)の20歳から、25歳で戴冠するまでの若き日々を描いた物語。


『赤毛のアン』ともつながっています。第24章「ステイシー先生と教え子たちの演芸会」で、アンがスコットランド女王メアリー・スチュアートの詩を暗唱する場面があります。
メアリー・スチュアートは、スコットランドの内乱の後、イングランドに逃れ、王位を要求。そのため、エリザベス一世によって投獄、19年間幽閉され、1587年に処刑されました。
(松本侑子訳『赤毛のアン』文春文庫、訳者によるノートより引用しています。)
このエリザベス一世が若き日のベスです。


シェイクスピアの生まれた1564年はエリザベス一世治世の7年目。シェイクスピアはいわゆるエリザベス朝時代に生きた人と通常いわれています。
1603年(シェイクスピア39歳)彼女の奉ずるまでは、たしかにエリザベス朝時代でした。
(中野好夫『シェイクスピアの面白さ』新潮選書、より引用しています。)


イギリスでは、王位継承権を持つ女性しかプリンセスの称号で呼ばれない。エリザベスが3歳にも満たないときに、母アン・ブーリンが父ヘンリー八世に処刑され、エリザベス女王は
庶子の烙印を押されてレディ・エリザベスとなった。賢い王女は境遇の変化を察知し、養育係に「昨日までプリンセスだったのに、今日からレディと呼ばれるのはどうして?」と尋ねた。
養育係は絶句した。みな、不貞のとがで処刑されたアン王妃が存在しないかのように振る舞った。
(『『レディ・ベス』とクンツェ&リーヴァイの世界』日之出出版、より引用しています。)


史実は血なまぐさいものがありますが、舞台は架空の詩人ロビン・ブレイクをベスの恋人として登場させることで、今のわたしたちの日常にぐっと身近な世界へと引き寄せています。
1人の女性の成長物語として描かれているのでわかりやすい舞台になっていました。



5月5日(月)

レディ・ベス:花總まり
ロビン・ブレイク:山崎育三郎
メアリー・チューダー:吉沢梨絵
フェリペ:平方元基
ロジャー・アスカム:石丸幹二


5月15日(木)

レディ・ベス:花總まり
ロビン・ブレイク:加藤和樹
メアリー・チューダー:吉沢梨絵
フェリペ:古川雄大
ロジャー・アスカム:山口祐一郎

ベス役は、Wキャストですが、花總まりさんを選びました。


宝塚入団一年目に演じた『白夜伝説』のミーミルから、エリザベート、マリー・アントワネットまで、花總さんの数々の娘役のほとんどを観ていると思います。
2006年の退団公演は観ていないので、2005年の『ホテルステラマリス』『レビュー記念日』の舞台以来、10年ぶりでしたが、花ちゃんは変わりませんでした。
『エリザベート』のシシィ、
ラストのベスが戴冠式を迎える場面の後姿で魅せる演技は、ベルばらのマリー・アントワネットを思い起こさせました。
気品ある演技、美しいドレスの着こなし、かわいらしさ・・・
随所に宝塚時代の娘役の雰囲気を感じさせつつ、歳を重ねてさらに深まった演技と歌を堪能することができました。


涼風真世さん演じるベスの養育係キャット・アシュリーが声量豊かに歌います。

 「大人になるまでに通る
 道のりがある
 喜びもあれば
 傷付くこともある
 生まれてきた意味
 見つけて
 自分を知ることが出来る」



シングルキャストも贅沢な配役でした。

やっと書けました。
今日はここまでです。


5月5日のキャストボード



5月15日のキャストボード



山崎育三郎さんロビン



加藤和樹さんロビン



5月15日の入り口ボード