たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

旅の思い出‐モントリオール⇔ケベック・シティ

2024年02月17日 13時48分08秒 | モントリオールへの旅

旅の思い出-モントリオール-ダウンタウン

2002年1月2日(水)にモントリオール発のバスツアーにてケベック・シティを訪れました。一緒にいった中国人のスンさんが厚手のコートを貸してくれました。日本のわたしが着ているコートではとても間に合わず借りなかったら凍えてました。スンさんにはあとから考えるとバスの座席を窓際に代わってあげるべきでした。反省しています。謝りたいと思ってもわたしの英語がえぼすぎてどうにもならず、時間がたちすぎていますがこの場をかりてこの気持ちを成仏させます。どこかで無事に生きているでしょうか。

 雪がふりつもったケベック・シティ。断片的に思い出すのは石畳に並ぶお店にクリスマスツリーが飾られていてとても綺麗だったこと(1月いっぱいはクリスマスツリーを飾る習慣という話でした)、シャトーフロントナックをみあげながら、メープルシロップを雪に垂らして飴のようになったのを食べたこと、すごくおいしかったことをおぼえています。お昼を食べる店をきめるのに手間取り、食べる時間もいれるとあわただしい滞在でした。夏に訪れるとさらに美しい街なのだろうと思いました。

 

(『地球の歩き方-カナダ東部2012~2013』より)

「ケベック州の州都ケベック・シティ。ケベックはインディアンの言葉で「狭い水路」を意味するとおり、セント・ローレンス川が幅を狭める地点に位置している。北米唯一の城塞都市で、石畳の細い道や石造りの建物が連なる旧市街は、石畳の細い道や石造りの建物が連なる旧市街は、「ケベック・シティ歴史地区」としてユネスコの世界文化遺産にも登録されえいる。

 街の歴史は、1608年、フランス人探検家サミュエル・ド・シャンブランが、木造の砦をこの地に築いたことに始まる。以来、北米のフランス植民地、ヌーヴェル・フランスの要衝として、毛皮交易と布教を軸に発展を遂げた。しかし、その後勃発した英仏の七年戦争が植民地にも飛び火し、1759年にケベック・シティのアブラハム平原でフランス軍がイギリス軍に敗れると、ヌーヴェル・フランスは終焉を迎える。結果、イギリスはケベックを獲得するが、人口の9割以上を占めるフランス系住民の文化や伝統までも支配することはできなかった。連邦の成立とともに州都となったケベック・シティは、やがてフランス系住民による自治拡大の動きが活発化するなかで、その中核として独自の道を模索していくことになる。

 ケベック州の車のナンバープレートにも刻まれている「‘Je me Souviens(私は忘れない)」という言葉は、ケベコワ(ケベック人)が好んで口にするモットー。フランスの文化や伝統が刻まれたその美しい街並みも、大切に守り継がれてきた。ヨーロッパの香り漂うこの石畳の街を、思いおもいに散策するのが、ケベック・シティ観光の楽しみ方だ。」

 

 

 


旅の思い出-モントリオール-ダウンタウン

2024年02月06日 08時03分56秒 | モントリオールへの旅

旅の思い出-モントリオール

 日本語のない地図をみながら地下鉄に乗ったり通りを歩いたり。地下鉄は自動改札ではなくゆっくりと時間が流れているように感じました。B&Bの日本人女性オーナーが乗り間違えたら戻ってまたやり直せばいいと言ってくれました。断片的に思い出すのは、雪が降り積もっている中子どもをそりに乗せてお母さんが引っ張っている光景。可愛いかぎりでした。地下街が充実していました。外は極寒、中は暖房がガンガン効いていたので落差に体がちょっと大変だった記憶があります。外は厚手のコート、コートを脱ぐと軽装の方が多いという印象でした。旅行者は申請すれば物品に課せられた税金を還付してもらえるというのがあり教えてくれた窓口に行ってみましたが、英語を話せないのでどうにもならず、振り返ってみると小さい金額のものばかりだったので対象外だったのかなあと。そんな間抜けなことも今となっては思い出の一ページとなりました。カフェで岩波新書を読むだけという時間も過ごしました。

 

(『地球の歩き方-カナダ東部2012~2013』より)

「メインストリートはサント・カトリーヌ通り。この通りから北西と南東にそれぞれ1~2ブロック、地下鉄ピール駅Peelとマギル駅McGillに挟まれた一帯が、ダウンタウンで最もにぎやかなエリアだ。地上には高層ビルが建ち並び、地下にはおもな施設を結んでアンダーグラウンドと呼ばれる地下街が張り巡らされている。サント・カトリーヌ通りの一本南のレネ・レベック通り沿いにはドルチェスター広場があり、広場のすぐ近くには観光案内所もあるので、ここから観光を始めるのがいい。レネ・レベック通り、サント・カトリーヌ通り、その北を並行して走るメゾヌーヴ通りBoul.de Maisonnenve、シェルブルック通りRue Sherboookeなどが目抜き通りとなtっている。これらの通りを北東に進むと、若者の集まるカルティエ・ラタンやおしゃれな住宅街プラト-・モン・ロワイヤルがある。ダウンタウンはそれほど広くなく、徒歩で回れないこともないが、地下鉄での移動が便利だ。」

 

 

 

雑貨店で購入した押し花のレターセット。まだ捨てられません。この世を旅立つ直前まで捨てられないかも。この時購入したパジャマとコートはお気に入りで着倒したので2-3年前にお礼を言ってお別れしました。

 


旅の思い出-モントリオール-旧市街

2024年02月04日 08時50分14秒 | モントリオールへの旅

旅の思い出-モントリオール

2001年12月29日(土)モントリオール旧市街、今となっては自分でも信じられませんが宿泊したB&Bの日本人女性オーナーに教えてもらってこの地図をみながら、雪の中を地下鉄に乗り、訪れました。英語とフランス語。日本語があっても老眼進行中でもうみえません。まだ若さがありました。生まれ前からの右足股関節脱臼により軟骨が摩耗しつつあることも全くわかっていませんでした。ガシガシ歩いていました。今杖ないと歩くの辛いのがうそのようです。わかっていたらできないことだったのかもしれません。

 

ノートルダム大聖堂、荘厳な雰囲気でした。

(『地球の歩き方-カナダ東部2012~2013』より)

「ノートルダム大聖堂は、モントリオール出身の歌手セリーヌ・ディオンが結婚式を挙げたことでも知られる、モントリオールの旧市街最大の見どころ。1829年建設のネオ・ゴシック様式の重厚な建物で、天高く伸びる2本の鐘楼には、東塔に10個の鐘から成るカリヨンが、西塔にあは重さ11トンもの巨鐘が納められている。内部には、正面に柔らかなコバルトブルーのライトに照らされて浮かび上がる黄金の祭壇がある。バラ窓と美しいステンドグラスから差し込む光が教会内部を照らし、精巧な彫刻とエメラルド色の天井を映し出す。静かに祈りをささげる信者たちの姿と、何百本ものキャンドルの明かりが、厳粛な気分へ誘う。

 内陣には、7000本のパイプをもつ世界最大級のパイプオルガンがあり、年間を通じて定期コンサートが行われている。なかでも夏期に開かれるモントリオール交響楽団によるモーツァルトのコンサートは有名だ。また夜間にはAnd Then There音楽と照明によるショーを開催している。」

 

 

 

 

ガイドツアーに参加しました。英語なのでもちろん断片的にしかききとれず殆どわかりませんでした。雰囲気だけ。

 お昼をチャイナタウンの中の中華料理店でいただきました。数日ぶりの麺だったか米だったか、ちょっとほっとしました。アンティークなお店はシーズンオフでいずれもしまっていましたが、灯りがともされていました。ディスプレイされているお人形たちがみえるようになっていて、とても綺麗でした。セント・ローレンス川のほとりも少し歩いたんだったか・・・。

 この旅ではいた靴は山歩き用のもの。荷物に入れて飛行機に乗り、モントリオールの空港で履きかえました。かなりお世話になりましたが、もう履くことはないので昨年お礼を言って断捨離しました。

 

「ひとくちに聖書を読むと言うが、当時、書物はつくるに大へんなてまと金のかかる貴重品であった。(このことは、ローマ時代後期に「少数派」、言いかえれば社会の下積で貧しかったキリスト教徒によって書かれた各福音書が、極めて短い書物にならざるを得なかった事情をも説明する。当時の原稿用紙であった羊皮紙は、貧しい福音史家たちに沢山買えるものではなかったのである。) だから、多くの教会や聖堂は中世の中期ごろまで、写本(書く、写す→読み書きをし、かつ読み書きをおしえる)、造本製本(技術、装飾のアトリエ)、蔵書(図書館)、書物の研究(学問)の中心でもあった。創意ある人々は(たとえば石工)、ただ石を積んで集会所を建てるだけでは満足せず、聖書にテーマを汲むさまざまの彫刻をほどこし浮彫で飾ることを思いついた。ずいぶんの昔からエジプトやローマにすでに存在した「吹きガラス」の技術がゲルマンの中で精巧の域に達して来ると、ガラス職人たちはこぞって、ステンドグラスと言う美麗この上ないもの(装飾だけでなく、文盲の人々への絵本聖書であった)を考え出し、聖書のテーマを描いて、「自分たちの地域の中心・教会」の窓を飾った。教会の司祭(文字が読めたので、中世、彼こそは文化人であった)や、聖書の福音的共同生活をより善く生きようとする人々が創立した各地の修道会の修道者たちの中には、どうしたら堅牢で使いやすく美しい集会所(建築物)が出来るのかを研究し、力学工学を勉強して、その分野での指導者となる者も出て来た。ミサにはパンと葡萄酒が使われるし、地域共同体的社会の生活の基礎はそもそもパンであるから、修道者たちの少なからぬ者は農耕技術の専門家であり、技術指導者でもあった。」

(犬養道子『聖書の天地』9~30頁より)

 

 


旅の思い出-モントリオール

2024年02月03日 12時12分38秒 | モントリオールへの旅

旅の思い出-モントリオール植物園

旅の思い出_モントリオールへの旅(3)

旅の思い出_モントリオールへの旅(2)

旅の思い出 _ モントリオールへの旅(1)

2001年12月28日~2002年1月3日(木)

カナダ・モントリオールへの旅、往復したに過ぎませんでした。色々と反省すべき点もありますが、その後の自分の状況、現在の社会状況、世界の情勢を考えるとこの時しかなかったと思います。行きたい、行こうと決めた時チケットを予約して飛行機に乗る、それだけの若さがあったし、社会がまだ許される状況でした。コロナ騒動となってからワクチン接種を拒否したドライバーたちの銀行口座を凍結したトルドー首相はDSの手先、モントリオールの空港は多くの職員が離職してしまい、コロナ騒動が明けてすっかり変わってしまったという書き込みをみかけました。今はわかりませんが大好きだと思っていたカナダがという気持ちはコロナ騒動からずっと抱いています。

現地で一緒にパブへ入った日本女性から写真は送られてこず自分で撮ったわずかな写真は断捨離してしまったんだか一枚もありませんが心の引き出しには断片的に残っています。それでいいんだと思います。

雪のモントリオール、写真以上に美しい街でした。

(『地球の歩き方-カナダ東部2012~2013』より)

「モントリオール(フランス語発音でモンレアル)は、セント・ローレンス川の中州に発展したカナダ第2の都市。人口は330万人を数え、パリに次ぐ世界で2番目に大きなフランス語圏の都市である。石造りの歴史的な建物と近代的な高層ビルが調和した街並みは、ヨーロッパの都市を思わせる。街なかには地名の起源ともなった山のモン・ロワイヤルが緩やかなスロープを描く。

 1642年、フランス人のメゾヌーヴが現在の旧市街に建設したヴィル・マリーという小さな村がこの街の始まり。その後、ヌーヴェル・フランスの重要拠点として発展するが、18世紀半ばに「アブラハム平原の戦い」でフランスがイギリスに敗北すると、モントリオールの支配権もまたイギリス系へと移っていった。しかし、人口の3分の2を占めるフランス系カナダ人たちは、その後も自分たちの文化を守って暮らしてきた。街なかにはフランス語の看板があふれ、人々の会話もまたフランス語。しかし、すぐに英語に切り替えられるバイリンガルぶりが、街の歴史を物語っている。シェルブルック通りを北から南へ歩けば、街並みにもその複雑な歴史が感じられる。プラトー・モン・ロワイヤルからカルティエ・ラタンを越え、サン・ロラン通りを過ぎたあたりで、街は雰囲気を一変させ、マギル大学をはじめとするイギリス風の建物が現れる。

 モントリオールに住む人々のモットーは。フランス語で「ジョワ・ド・ヴィーヴル(人生楽しく)」。その言葉のとおり、街には博物館や美術館、劇場にレストラン、シュップが並ぶ。あらにF1(モータースポーツ)、NHL(アイスホッケー)などプロスポーツの観戦まで、あらゆる娯楽が楽しめるエンターテインメント・シティを成している。」

 

タクシーのチケット

 

地下鉄のチケット

植物園で買い物したときの手提げ袋

ダウンタウンで買い物したときの手提げ袋

カレンダーをプレゼントしてくれました

 

 

 


旅の思い出-モントリオール植物園

2023年01月08日 01時12分39秒 | モントリオールへの旅
旅の思い出_モントリオールへの旅(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/dd119b32e3416a6a3e899e873d4eefdd


2001年12月30日(日)に訪れたモントリオール植物園のパンフレット、



















チケット、






外は極寒、中は暖房が効いていてポカポカ、地元の方々は分厚いコートを脱ぐと中は軽装でした。子どもたちがとても可愛かったことをつらつらと思い出します。

広い園内、ゆっくり回って楽しいひとときを過ごしました。


『地球の歩き方』より

「ロンドン、ベルリンに次ぐ世界3番目の規模をもつモントリオール植物園Montreal Botanical Garden。10の温室と、高山植物が咲くアルプスガーデンや日本庭園、先住民族のファースト・ネーションガーデンなど30もの屋外庭園には、世界の植物が約3万種栽培されている。」



旅の思い出_モントリオールへの旅(3)

2014年06月04日 16時12分40秒 | モントリオールへの旅
「2002年1月1日(火)

はじめて異国で迎えた正月。
店は殆ど休みだが、飾りつけはクリスマスのまま。
日本と全く雰囲気がちがう。
昨夜は眠りにつこうとしたら、近所から大音響。
カウントダウンパーティをしていたらしい。
結局4時頃まで眠れず、こんなことなら参加すればよかったかしらと思う次第。

結局、ずっと睡眠不足状態でゆっくりできているんだかどうか・・・。
時間が限られていると思うと欲もでてくるし・・・。
おしゃれなcafeでゆっくりする時間を・・・なんて思ってたけど、なかなか店をみつける余裕もなかったし・・・。

旅行ではなくて、数か月暮らしてゆっくりじっくり味わいたい街だ。
スンさんがいたら、いろいろ話をきけたのに・・・と思うと、本当に残念だ。
また、必ずくる。
いずれ、園芸療法を勉強したいし・・・。
英語、がんばらないと・・・。

今日は本当に寒い。

決して楽とはいえない個人旅行。
フランス語ばかりなのでなおいっそうつらい。迷って考えて・・・。
日本とは勝手がちがうことばかりだし・・・。
地下鉄に、自動切符売り場はない。時間はゆっくり流れてる。
店は5時に閉まる。
いいことばかりではないが、慣れてきたら、合っている街かもしれないなあ。
アメリカ大陸にいるのに、ヨーロッパの街並み。きこえてくるのはフランス語。

いろんなことをがんばって、きっとまた来るぞ!」


「2002年1月3日(木)

5時;起床

6時:B&B出発

6時30分:空港にてcheck in

9時10分頃:モントリオールTake off(AC3111便)

11時40分:バンクーバー着(ただし時差が3時間あるので、5時間ぐらいかかっている)

雪のモントリオールを離れ、今バンクーバーにいる。いろいろと迷ったり失敗したりしながら、
あとは成田に向かうのみ。

昨日はスンさん、日本人のFさんと一緒にバスツアーに参加して、ケベック・シティに行った。
あまり時間がなくてあわただしかったが、雪のケベック・シティは本当に美しかった。
今度はHOTELに泊って、ゆっくり楽しみたい。
スンさんと一緒だったことが、本当に嬉しい。彼女も無理したようだが、喜んでくれた。
好きなことを、好きな人を大切にしようとしている彼女の生き方に感銘と共感をおぼえる。
自分が本当に何をしたいかを大切にしていけばいいんだ。

夢と希望をもち続けてわたしも生きたい。
スンさんと一緒にカナダで生活するなんて夢みたいな話だが、ありえないことではない。
先ず、卒論と英語をがんばろう。
また現実が戻ってくる。
受け取めよう。

今度はいつカナダに来ることができるのだろう。
もう少しいたかったな、なんて未練を残しながら、ちょっぴり淋しさを伴う。
今度は、スンさんのお友達やボーイフレンドと一緒に楽しみたい。
今の会社をやめないかぎり無理かもしれないけれど、必ずきっとまた来るぞ!
お風呂の問題がクリアできればカナダは私に合っているかもしれない。」


モントリオールへの旅日記はこれで終わりです。
12年前の自分はこんなこと書いてたんですね。
自分で驚いたりしながら振り返ってみました。

モントリオールの空港を離れる前、離陸を待って飛行機の中で待っていると
上からドサッ・ドサッと音が・・・。
なにごとかと思ったら、飛行機の雪下ろしをしていたのでした。

エスキモーの姿をロゴマークにしている飛行機が待機しているのが見えました。
真冬の北国への短い旅でした。

旅の思い出_モントリオールへの旅(2)

2014年06月01日 13時05分37秒 | モントリオールへの旅
「2001年12月29日

オールドシティ
午後、ノートルダム大聖堂を見る。旧港を少し歩く。

具合が悪くて午前中は動けなかった。
午後、おもい腰をあげる。
フランス語の世界に、地下鉄に乗るのも、お店でモノを買うのもドキドキ。
まだ慣れない。
緊張する。ひるんでいる。
それに、とっても寒い。
しかし、それだけに街がきれいだ。
ヨーロッパ風。
街全体が落ち着いていて
心なしか時間の流れもゆるやか。
クリスマスのイルミネーションも1月まで残っているらしくて美しい。
余分なものがなくて、本当にきれい。

観光目的ではなかった筈なのに、来てみると欲が出てくる。
Cafeでお茶する時間もほしい。
スンさん(中国人の当時友達だった女性、留学生としてモントリオールに
住んでいました)がいないなんて、本当に残念だ。
あと4日なんて足りない。
何度でも来たい街だ。」


「2001年12月30日(日)

9時頃起床、ゆっくり朝食。
植物園に行くも朝からの雪。
展内はとてもあたたかだけど、外は本当に寒い。
中国庭園をみるのがやっと。
あとは買い物しようと、マギルへ。
クライストチャーチをみたあと、デパートと地下街へ出向くも、
日本の感覚で考えていた私は、夕方5時で終わるなんて思ってなかった。
いろんなことが日本と違う。
すごくシンプルでゆったりとしていて、建物も人も街全体がArtみたいなもんだ。
明日も街歩きをしたい。
地下鉄の乗り方とか、少し慣れてきた。」


「2001年12月31日(月)

今日も朝から雪、お昼過ぎに晴れてくるが実に寒い。寒い中、けっこうstreetをてくてくと
歩いてしまった。

昨夜パブに行っておそくなったらかえって眠れなくて、やはり9時頃起床、ゆっくり朝食。
英語の会話に入れないもどかしさを感じる。
食後、Rue Saint Denisで買い物を楽しむ。
私好みも、ここにしかない店が並んでいる。小物を少しと、あるといいなと思っていた
コートを買う。
B&Bに戻ってあとは、Rue Sherbrookeを歩き、McCill大学へ。
この時本当に寒かった。芯まで冷えて、cafeでひと休みするも、なかなかあたたまらない。
あとは地下にもぐって再び買い物。
かわいいパジャマを見つけて、すっかり満足してしまった。
おみやげもたっぷり買う。
ただ、実家の分はまだ。難しい。

地図をみながら迷ったり、まちがえたり。
疲れるが、これぞ個人旅行・・・。
その分、街を実感できるというものだ。
さて、また少し街へ出るか・・・。」

旅日記はあと一回書こうと思います。
よろしければ引き続きおつきあいください。

旅の思い出 _ モントリオールへの旅(1)

2014年05月26日 23時01分52秒 | モントリオールへの旅
2002年のお正月はカナダのモントリオールで迎えました。
年末年始にかけて一週間程、一人で極寒の地に出かけました。
ただ行って帰ってきただけの旅ですが、ささやかな旅日記を載せようと思います。

まだ卒業論文を書く準備の真っ最中だったこともあり、長い休みを使ってしまうのは
どうかなとも思いましたが、職場は、年中人が海外に行ったり、帰ってきたり。
そんな中でずっと留守番していると、自分も時には外に飛び出したくなってしまい、思い切って行ってきました。

航空券だけをJTBに手配してもらい、日本人女性がカナダ人のご主人と二人で経営しているB&Bを自分で予約しました。

気がついたら終わってしまっていた職場に働き始めてまだ6カ月ぐらいの頃でした。
仕事納めの日、朝荷物を持って出勤し、夕方掃除などが済んだあと、そのまま成田空港に向かいました。
そういうことも含めて自分の中で整理をしていきたいと思います。

よろしかったら読んでやってください。


「2001年12月28日

日本時間の19時00分、成田空港出発、エアカナダ、AC0004便、バンクーバー行き

バンクーバー乗り換え、およそ3時間 AC3112便でカナダ時間の23時過ぎにモントリオール着(バンクーバーとの時差は3時間)

taxiでB&Bへ。外は雪景色。
時差ですっかり体がおかしくなってしまった。
エコノミー席の長旅、疲れる。
こちらに入ってからの荷物検査はきびしい。
会社からの直行。
Hardだ。
いい男をみつけてくるなんて大見得をきってしまった。」


モントリオールの空港に着いた時、時計はバンクーバー時間の午後7時のまま。
時差が+3時間あるということを全くわかっていませんでした。
空港の中が暗いのが不思議で、到着してしばらくたってから気がつきました。
広い広いカナダ、今思えば笑ってしまいますが、初めてのカナダ行きで
国内で時差があるということに考えが及んでいませんでした。
日本にいると、国内で時差があるという感覚は全くないですものね。


機内アナウンスがあったのかもしれませんが、聴き取れていなかったですね。
日本-カナダ間は、日本人の乗務員がいるし、機内アナウンスはフランス語・英語・日本語の三ヶ国語で案内がありますが、国内線に乗り換えれば、当然のことながら日本語のアナウンスはありません。
とても緊張していたことを思い出します。

写真は何点かあったのですが、断捨離していて捨ててしまったみたいです。
絵葉書が美しいのでスキャンしてみました。