たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

想いは秋の空高く

2017年09月30日 21時33分33秒 | 日記
 朝から曇り空の一日。明日から10月なんて早いですね。失業者となって一か月、ようやくまた働かねばという気力も戻りつつあり、一昨日と昨日で準備した書類をお昼を食べたうどん屋さんで最終的に封して、ポストに投函しました。この部屋の中ではやりたくたい、やれないので出来うる限り外で作業。そのあと、元気になりましたの報告をしたくて、二年ぶりにお寺さんのグリーフケアにお邪魔しました。フルタイムで働いているときはへばってしまって土曜日に片道一時間半余りの旅は遠いのでなかなか行くことができませんでした。失業中時間はあるのでようやく行くことができました。二年前、自分は自死遺族で父とも母ともお別れをしている身なれど、いちばん辛かったのは、話せる場がなくってだれかにきいてほしかったのは、13年も働いた会社から派遣だったために使い捨てにされ損害賠償を求めたら弁護士が出てきてズタズタにされ、心身ともにすり減りつくし、社会への怒りと悔しさのマグマが噴火しながらどうにも身動き取れなくなった辛さでした。使い捨てというかたちで日中の居場所と収入を失った辛さでした。住職に事前にそう伝えてお話させてもらいました。それから二年・・・。

 二年前の12月末、精魂尽き果て妹と両親が眠るお墓の前で毎日泣いていたこと、いつどうやって終わるのか全くわからなかったそんな日々は結果的に一か月で終わったこと、思ってもみなかったかたちで社会へ戻ることができたこと、10年前に合格した精神保健福祉士の資格を生かせる機会がめぐってきて今年はウルトラハードな仕事を経験し契約満了までなんとかやれたこと、家族への見方も変わってきて勉強になることが多いので、いやがられる仕事だし色々と矛盾もわかっているけれどまたハードな仕事をやろうとしていることなど話しました。最後に二年前死別ではないグリーフの話をさせてもらえたお礼をお伝えしました。昨夜も思い返していましたが、お寺さんとご縁がつながったのは使い捨てにされて労働紛争になってしまってからのわたしなのですり減った顔しかみせていなかったんですよね。こうしてなんとか一応社会に戻り、しかもかなりハードな仕事で戻り、元気になったわたしでまた二年前会った方々にお会いできてほんとよかったです。辛かったわたしの顔をおぼえてくださっている方々も、はじめてお会いした方々も、すごいですねえ、よかったですね、って声かけてくれました。なんだかほんとに不思議です。うまく言えませんが、なんでこれでもかこれでもかって試練がやってくるわたしの人生、なんだろうって思ったこともありますが色々あったことで色々と教えられました。妹も母もたくさんのことをわたしに気づかせてくれました。まだ傷は深いのでいいたくありませんが使い捨てにされ労働紛争まで気づいたらいってしまったことも、こんなことがなければ知ることのなかったことの連続。社会の色が違ってみえました。そんなわたしが、もちろん面接では一切言えませんが、結果的に援助職で社会へ戻る道にたどり着いたことに意味があるのかもしれません。振り回されている最中はそんなきれいなこと言ってられませんけどね、なにが幸せなのか、どう生きたら幸せなのかということはいつも考えさせられます。そんな仕事にもう少し携わってみることが妹の導きなのかもしれません。不安定だしほんとはアルバイトっていう雇用形態でやる仕事ではないし、これが正解なのかわかりませんけれど、そのあとは本書きたいなあ、絵本屋さんやりたいなあと絵空事を思い浮かべながらもう少し進んでみます。7年前の父との別れから試練の連続、はじめてのことばかりの連続。なんでこんな苦しいことばっかりなの、っていうわたしの人生。その分深く生きることができているのかな。楽しい時の幸せ感もまた深い。心の中のパズルがバラバラで無理に合わせようとしていたことはちぐはぐなままだったのか、気がついたらなんとなくあってきている感。まあなんとか体がもつ範囲でもう少し生き延びてみます。

 写真は秋のプリンス・エドワード島、曇り空のケープ・トライオン岬。ぐちゃぐちゃになっている写真、チェンネルに少しずつ整理中です。明日はまた思い出日記を書ければと思います。


 連日ブログの訪問者が100人を超えるようになりました。過去の記事を少しずつ読んでくださったりしているのかな。ありがとうございます。よろしかったらまた訪問してください。

『木靴の樹』シナリオ(20)

2017年09月29日 17時31分32秒 | 映画『木靴の樹』
(フランス映画社発行のパンフレットより引用しています。)

*紡績工場の外(夕)

 夕べの鐘が鳴る。小さな灯をつけた荷馬車が、若い男女の一段と共に通る。

*ポプラの並木道

 マッダレーナの前にステファノがあらわれる。

ステファノ「こんばんわ!」

マッダレーナ「びっくりしたわ」

ステファノ「どうして?」

マッダレーナ「なぜここに?」

ステファノ「君に会いたくて」

マッダレーナ「それなら、毎晩集会で会ってるわ」

ステファノ「それとは違う。みんなの中で会うのと、2人だけで会うのは違う」

マッダレーナ「今夜も寒いわ」

ステファノ「いや、水はもう凍っていない。もうすぐ聖母月がやってくる。君にキスがしたい」

 沈黙が流れる。2人の横顔。

マッダレーナ「そんなこと、だしぬけに言ってもだめよ。さよなら」

ステファノ「では、さよなら」

 期待は裏切られたが、恋心を打ち明けた喜びは大きい。マッダレーナを見送るステファノの顔は、心なしか晴れやかだ。


*バティスティの家・台所(夜)

 ミネクがノートをひろげ、勉強している。兄の姿をのぞきこむトゥー二。


木靴の樹 Blu-ray
クリエーター情報なし
紀伊國屋書店

宙組『神々の土地』_上田作品はあつい

2017年09月28日 18時56分17秒 | 宝塚
 先ほど集中して書類を作成し疲れてしまったので気分転換も兼ねて、一昨日の余韻が続いている宙組公演『神々の土地』のことを。

プログラムより、作・演出、上田久美子先生のことば。
「数年前に、”最後のロシア大公女”というタイトルの古本を買った。ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世の従姉妹マーリヤが、革命に翻弄された自らの半生を綴った自叙伝だ。

 マーリヤが数多の危険をくぐり抜けて二度と帰らぬ祖国を後にする最終章まで読んだとき、あああこんな壮絶な人生があるのかと、胸が震えた。ユーラシア大陸の大半を占める帝国を背負って生きる皇族たちの、目も眩むような富と栄光に包まれながらそれが破滅と表裏一体になっていることを生まれもって知っているような過酷かつ華麗な生き方はロマンチックで、とても想像をかき立てるものがあった。

 マーリヤはラスプーチン暗殺の首謀者の一人とされるドミトリー・パブロヴィチ・ロマノフ大公の実姉らしい。

 彼女の本の口絵には弟ドミトリーの肖像写真が載っていて、これが驚きのイケメンである。(略)なんというか、絵に描いたような王子ぶりにはちょっと笑ってしまうが、その人生をよく知ると、彼がただの華やかで放蕩なプリンスではなく、姉に共通する人間性と、ノブレス・オブリージュとでも言うべき高潔な精神を宿していたらしいことがわかってきた。国を憂い、過酷な運命に身を投じた貴公子、朝夏にぴったりだろうと思った。

 この憂国の青年を主人公に据えた今回の物語では、何を成し遂げるかではなく、どう生きるかが問題だ。成功や幸福よりも、己に恥じぬよう気高く生きることを描きたい。トップスターの人生にも通じるような、困難かつ華麗な人生を描きたい。そして皇族も農民も、全ての登場人物たちが舞台で生きた記憶のような作品にしたくて、ロシアの母なる大地に思いを馳せて脚本を書いた。

 宝塚の表層も刻一刻と変化してゆく。様々な力がロシアの地表の景色を変化させていったように。けれどもその地中の巌はいつまでも変わらない。宝塚がいつまでも、そこで懸命に生きた生徒たちのものであり続けますように。」

 全文ではありませんが引用してみました。『星逢一夜』、『金色の砂漠』についで、人間の葛藤と苦悩を描く上田先生の腕はお見事としたいいようがありません。上田作品には、弱くて愚かで危うさを秘めた人間へのあつくあたたかいまなざしがあり、人間の魂と魂がぶつかり合った時に発せられる熱量が観客の心を揺さぶり、しばらく頭から離れなくなります。『神々の土地』のラストシーン、どこかアジアの土地にたどり着いたドミトリーが、帰らぬ祖国への想いを馳せて歌いながら銀橋を歩いてはけていくところで終わりかと思いきや、幕が上がって舞台には皇族、貴族、活動家、民衆・・・登場人物たちがそろって歌うところでエンディング。みんなが心に残る演出はさすがたと思います。

 「第9場、アレクサンドル宮殿。ドミトリーとオリガの婚約披露パーテイ。マリラ(ニコライ二世の母)はドミトリーにしばし停戦だと握手を求める。オリガに促されてアレクサンドラも手を出そうとするが、ラスプーチンが現れてドミトリーの心の中には別の女性がいると言い放つ。ニコライがドミトリーに本心を尋ねた時、ペトログラード駅でイリナを狙った爆破事件があつたと将校らが駆け込んでくる。制止を振り切って駅へ向かおうとするドミトリー。そこヘイリナが現れる。ドミトリーは呆然としているイリナを抱きじめる…。」


 この場面、ドミトリーの心の中にはオルガではない、別の女性がいるとラスプーチンが言い放つと、オルガのことを愛しているか、オルガには愛してくれる人と結婚してほしいとドミトリーに問いかけるニコライ二世、ドミトリー本心を教えて、わたしを愛しているといって!と瞳が語るオルガ、ニコライ二世とオリガの前でイリナを愛しているとは言えず俯くドミトリー、それぞれの表情をカメラが鮮やかに映し出してくれて見事なカメラワークでした。カメラマンさん、グッドジョブ。中継カメラの腕も素晴らしかったライブビューイングでした。

 まだ書きたいことは尽きませんが今日はここらへんで。まだ書けていない作品があるのでぼちぼちとまた後日・・・。今日もオタクにしかわからない話を失礼しました。




春のプリンス・エドワード島への旅_フレンチ・リバー

2017年09月27日 22時02分20秒 | プリンスエドワード島への旅
 色々と書きたいことはありますが息抜き投稿。2010年6月7日に訪れたフレンチ・リバー。リバーと名付けられていますが、川ではなく入り江。吉村さんのお写真によく登場します。プリンス・エドワード島にはこんな入り江がたくさんあります。晴れ渡ったには、入り江がきらきらと輝いてどこもかしこも「輝く湖水」。プリンス・エドワード島は春も夏も秋もほんとにきれい。今度はまだ行ったことのない冬に訪れたい。この世にいる間に実現できるかな。

 今日は相談窓口を訪れて、また日中の居場所をみつけるべく少しの勇気と気力でもって今週中に書類をアップデートして提出することにしました。行ってみないと、やってみないとわからないのでスーパーウルトラハードだとわかりつつ漕ぎ出してみます。がんばりすぎずに、がんばれ、わたし。いつかきっとまたこの世にいる間にプリンス・エドワード島に、モンゴメリさんの眠る場所に、フレンチ・リバーに会いに行けるよ。

 大草原の写真をなかなかアップできずにごめんなさい。整理できていないものがありすぎて少しずつやっています。気長にお待ちいただければと思います。明日はまた宝塚のことが書きたくなるかな、他のことかな。こうして時間のある時に少しずつ、少しずつ・・・。

 昨日は電車に乗らずになんとか一日をやり過ごしました。ネットで調べて人気だという書き込みがあったカフェでランチ。値段のわりにはたいしたことなく個人の店はせまいのでそれはそれで居心地がいいわけでもなく、もう一度行きたいとは思いません。そのあと地図をみながら近くにあると知らなかった公園へ。湿気がすごかったですけど緑にしばし癒されました。そのあとはまたカフェで暗くなるまで過ごしました。明日はまた行くところがないんですよね。部屋にいないとやれないことたくさん、片付けたいことたくさんあるのに、苦労して家賃払っているのにずっと居ては危ない環境。いやあ疲れまする。外でPC立ち上げてやれることはできるだけ外で。明日は雨だしなんとか乗り切れるでしょうか。夜部屋に帰ってくると胃の痛みがとまらずの日々です。こんな生活していてはいけませんね。日本は今マニュアル通りの心がこもっていない「ありがとうございます」が多すぎてなんだか気持ち悪いし、希望がもてません。人懐っこいプリンス・エドワード島の人たちの笑顔がなつかしいなあ・・・。

















宙組『神々の土地』_調べてみました

2017年09月26日 18時59分17秒 | 宝塚
 まだまだ蒸し暑い秋の始まりの午後、色々と書きたいこと、やるべきことはあるのですが、昨日の宙組宝塚大劇場千穐楽ライヴビューイングの余韻を引きずっており、気になって調べてみました。大画面は苦悩する表情がくっきりとわかっていいですね。カメラワークによって作品自体の印象も変わってくると思いますがありがたいことです。

 朝夏まなとさんが演じたドミトリーという軍人。ウィキペディアの写真をみるとかなりのイケメン。こりゃ相当女性にモテたでしょう。相当モテたようです。現実にはなかったであろう叔母にあたるイリナ(史実ではエリザヴェータ?)との、成就しない恋愛があったと想像したくもなります。重い話を宝塚らしく美しく昇華し得たのは、しっかりとした脚本の上に朝夏まなとさんの、女性が演じる男性だから醸し出される美しさ(煙草を吸う場面の仕草も色気があり指先まで美しかったです)と、怜美うららさん演じるイリナの透き通るような美しさがあってのことだと思います。儚さを秘めた二人の並びは言葉にならないほど美しかったです。大画面で堪能。

 ロマノフ王朝の最後。史実はほんとに重くて苦しい。『ベルばら』も『1789バスティーユの恋人たち』も実在した登場人物たちの行く末の史実は重いですけどね・・・。


「ドミトリー・パヴロヴィチ

ロシア大公。最後のロシア皇帝ニコライ2世の従弟にあたる。。

1891年9月18日、モスクワ郊外のイリインスコエ村で、アレクサンドル2世の第6皇子パーヴェル大公とその妃、ギリシャ王女アレクサンドラ・ゲオルギエヴナの長男として生まれる。1歳上の姉マリア・パヴロヴナがいる。

母アレクサンドラは妊娠7か月目の頃、友人たちとモスクワ川河岸を散歩していたところ、ボートが彼女に向かって突っ込み転倒した。翌日、舞踏会に出席した母は突然激痛に襲われ倒れ込み、数時間後にドミトリーを出産。しかし、母は昏睡状態に陥り、母子は危険な状態となった。医師はドミトリーの生存を悲観視したが、伯父セルゲイ大公がドミトリーを脱脂綿で包み、温めたゆりかごで彼の体温維持に努め一命を取り留めた。しかし、母は昏睡状態のまま子癇前症で死去した。

1902年、父がオリガ・カルノヴィチ(皇女オリガとは別の女性)との再婚によりニコライ2世の怒りを買って海外に追放された。父は子供たちを連れて行くことを認められなかったため、ドミトリーとマリアはモスクワ総督を務めていた伯父セルゲイと伯母エリザヴェータ大公妃に引き取られ、モスクワで暮らすことになった。マリアは回顧録の中で、「伯父セルゲイは厳格な人で、伯母エリザヴェータは冷たく私たちを歓迎していないようだった」と記している。

1905年2月17日、伯父セルゲイは馬車で外出中、エスエル(社会革命党)党員イワン・カリャーエフによって暗殺された。伯父セルゲイの暗殺後、叔母エリザヴェータはそれまでの態度から一変してドミトリーと姉マリアを熱心に養育するようになった。姉マリアは1908年にスウェーデンのヴィルヘルム王子と結婚してエリザヴェータの元を離れたため、その後も彼女に対して良い感情を抱いていなかったが、ドミトリーは叔母エリザヴェータとの良好な関係を築いていった。

姉マリアがスウェーデンに旅立った後、ドミトリーと叔母エリザヴェータは皇帝一家の賓客としてツァールスコエ・セローのアレクサンドロフスキー宮殿で暮らすようになった。ニコライ2世はドミトリーの代理父として接し、彼のユーモラスな性格を気に入った。ドミトリーもニコライ2世の日課の散歩に同行して良好な関係を築き、ニコライ2世との生活を楽しんでいることをマリアに宛てた手紙に書いている。

魅力的な性格でハンサムだったドミトリーには、ニコライ2世の第1皇女オリガ大公女との縁談も噂された。なお、ニコライ2世のただ1人の男子であるアレクセイ皇太子が血友病を患っていたことから、オリガと結婚の噂のあったドミトリーは有力な皇位継承者と見なす向きもあるが、ロマノフ家ではパーヴェル1世によって制定された皇位継承法によって、女子の皇位継承権が否定されていたので、オリガとドミトリーの縁談はアレクセイの病状とは無関係である。

1909年、ドミトリーはサンクトペテルブルクに戻り、パーヴェルが残したベロセルスキー=ベロゼルスキー宮殿に居住した。彼はロマノフ家の慣習に倣ってロシア帝国陸軍に入隊し、ニコラエフスコエ騎兵学校を卒業後に近衛連隊に所属した。ドミトリーは騎兵将校として極めて優秀だった。


1914年、第一次世界大戦が勃発し、ロシアは連合国として参戦した。しかし、戦争の長期化により国民の間にはロマノフ朝への不満が募り、その矛先は敵国ドイツ帝国出身のアレクサンドラ皇后と、彼女の側近として国政に介入するグリゴリー・ラスプーチンに集中した。

フェリックス・ユスポフはロマノフ朝の権威を回復するためラスプーチンの暗殺を計画し、友人であるドミトリーも嬉々として計画に参加した。ユスポフはラスプーチンを油断させるため、治療の名目で数か月間ラスプーチンの元に通い、信頼関係を築いた。
暗殺決行の数日前、ユスポフは美貌の妻として評判だったイリナ・アレクサンドロヴナに引き合わせることをほのめかして、ラスプーチンを自宅のモイカ宮殿に招待した。しかし、この頃イリナは両親と共にクリミアに滞在していた。

1916年12月30日、ユスポフはモイカ宮殿にラスプーチンを招待し、防音設備が施された地下室に通した。上階には暗殺メンバーのドミトリー、ウラジーミル・プリシケヴィチ、セルゲイ・スホーチン、スタニスラフ・デ・ラゾヴェルトが待機していた。

ラスプーチンの暗殺後、ユスポフたちはラスプーチンの生存を偽装するための工作を行い、ドミトリーはプリシケヴィチとラスプーチンの衣服を身に付けたスホーチンを連れて車に乗りモイカ宮殿を後にした。ドミトリーたちはラスプーチンの衣服をプリシケヴィチの屋敷で焼却しようとしたが、プリシケヴィチの妻に拒否されたため、そのままモイカ宮殿に戻った。その後、ドミトリーたちはラスプーチンの遺体をペトロフスキー橋からネヴァ川に投げ捨てたが、遺体に重りを付けるのを忘れた挙句、彼の雨靴やコートが橋に落ちていることに気付かずに現場を離れた。


ラスプーチンの暗殺が発覚した後、ドミトリーは激怒したアレクサンドラ皇后によってペルシャ戦線に派遣という名目でロシアから追放された。しかし、結果的にロシアから離れたことにより、ドミトリーは二月革命、十月革命の混乱と、ボリシェヴィキ(共産党)による皇族虐殺の被害から逃れた。

ドミトリーはペルシャ方面司令官ニコライ・バラトフの勧めに従いテヘランに向かい、そこでイギリス外交官のチャールズ・マーリングと接触した。マーリングはドミトリーを次期皇帝候補と見做して、英国外務省に亡命を受け入れるように説得した。ドミトリーは数度に渡り拒否された後、1918年に亡命を認められた。

イギリスに亡命したドミトリーはロンドンに居住した。同時期にユスポフと再会を果たすが、その後、帝政復古をめぐり2人の間には懸隔が生じた。ユスポフの回顧録によれば、ユスポフがロマノフ朝の復辟に熱心であったのに対し、ドミトリーは帝政の復活について全く実現性がないと見なしていたという。


1920年にパリに移り住み、同じようにフランスに亡命していた貴族たち同様に生活費を得るため仕事を探し、シャンパンのセールスマンの職を得た。妹マリアは他の貴族令嬢と同様にファッション業界で仕事を見付け、シャネルからの仕事を引き受けた。

1920年代後半になると、ドミトリーは民族主義団体ムラドロッシと関わりを持つようになった。ドミトリーはロシア帝室家長キリル大公の顔を立てるためムラドロッシの活動に参加していたが、団体に加入することはなかった。1935年にはフランス全土でムラドロッシのために演説をしたが、やがてムラドロッシが君主制とソビエト体制の共存を掲げるようになると完全に関係を断ち切った。また、ドミトリーはアドルフ・ヒトラーとナチスも嫌悪していた。

1929年、ドミトリーは医師から結核と診断されたが、その後もポロ、競馬、テニス、ボブスレーなどのスポーツを嗜んでいた。1939年9月2日にスイス・ダボスのサナトリウム「シャッツァルプ」に入院し、1941年に死去した。

遺体はダボスに埋葬されたが、1950年代後半にボーデン湖にあるマリアの墓の側に改葬されている。


ドミトリーはプレイボーイとして知られ、ロシア社交界の中心でもあった。同性愛者という説もあるが、多くの女性と関係を持っていた。帝政時代にはナターリア・ブラソヴァ(英語版)やヴェラ・カラーリィと関係を持ち、パリに居住した後はカラーリィとの関係を再開している。

ドミトリーは関係を持った女性のことを日記に書き残しているが、その中でもココ・シャネルとの関係が最も印象に残ったと記している。シャネルとの関係は1921年から1922年までの1年間という短期間だったが、ドミトリーはロシア時代のコネクションで、シャネルの香水として有名な「NO.5」の調香・開発で知られるエルネスト・ボーを紹介するなど、彼女に少なからず影響を与えた。

1926年にはアメリカ人の女富豪オードリー・エメリーと結婚し、彼女はキリルから「ロマノフスカヤ=イリンスカヤ大公女」の称号を与えられた。2人の間には男子が生まれたが、1937年に離婚している。エメリーとの間に生まれた息子はポール・イリンスキーと名乗り朝鮮戦争に従軍し、1989年にはフロリダ州パームビーチの市長となった。ソ連崩壊後、王党派から帝政復古の活動に皇帝として祭り上げられるが、彼はこの求めを固辞している。」

 ウィキペディアから一部略したり補足したりしながらほぼ引用しました。ひとつひとつ、調べてみると時間がかかりますね。ロシア革命についても調べましたがなかなかにむずかしいです。中学生の頃、社会科の授業でアメリカとソビエト連邦との関係を「冷たい戦争」と習いましたがさっぱり意味がわかりませんでした。大人になって、こんな歳になってようやくわかりました。二つの大国の対立は世界中に影響を及ぼし、そこに欧州の利権が絡み、ベトナムを南北に分断しました。ソビエト連邦はなくなりましたが、今もアメリカとロシアという二つの大国の行く末は世界を揺るがすのではないかと。むずかしすぎてわたしの頭では理解できないことだらけですが考えさせられます。


 舞台では、ドミトリーがアレクサンドラ皇后のドレスの裾をもって歩くラスプーチンに向かって引き金を引く場面がひとつの大きな見せ場でした。宝塚らしく大階段に真っ赤な絨毯を敷いた上でドミトリーとラスプーチンが死闘を繰り広げる演出が見事。ラスプーチンの死に様が壮絶でした。

 東京宝塚劇場千穐楽のライブビューイング、こちらで申し込むか実家の方で申し込むか、ぎりぎりのところにいます。どちらで申し込むにせよ、当選できるといいなあ。生でと贅沢なことはいいません。せめてライブビューイングでみたいですがサヨナラ公演だし日曜日なのできびしいだろうなあ。きりがないので今日はこのあたりでおしまいにします。

宙組『神々の土地』『クラシカル・ビジュー』_また夢のひとときを過ごしました

2017年09月25日 19時36分03秒 | 宝塚
宙組宝塚大劇場千穐楽『神々の土地~ロマノフたちの黄昏~』『クラシカル・ビジュー』のライブビューイングを観劇。兵庫県の舞台を映画館で楽しめるなんてありがたい時代になりました。昨年末から宝塚観劇が復活し、こうしてライブビューイングが次々あるとお金かかりますけどね、座席料金に手数料がなんやかんやと上乗せされるのでばかになりませんけどね、3年半ぐらい洋服はほとんど買っていないし、二度とない人生の時間、二度とない瞬間(とき)のためにお金を使いたいです。宝塚という組織も生き物、組み替えと退団で常に動いています。今このメンバーでこの作品、この舞台という時は二度とありません。すべてはめぐりあわせで一期一会の出会い。2カ月前に雪組の早霧せいなさんの大劇場千穐楽を見届けたばかり。なんだか輪廻転生を感じました。20年前の宙組誕生から7代目のトップ朝夏まなとさんの退団公演。4月30日の東京宝塚劇場の千穐楽ライブビューイングに続いて二度目でしたが、太陽のように明るい方。背が高くて顔小さくって手足が長くって、素はおっとりとあったかく舞台の上ではとてつもなくかっこいい、初代トップのずんこさんDNAがこうして受け継がれていっているんだなと思うと時の流れを感じ、感慨深いものがありました。2002年入団、在団16年目ということになりますね。長い年月、お見事。わたしはチケットありませんが、東京公演も怪我なく無事につとめていただきたいです。

『神々の土地』は、ロマノフ王朝末期の史実にフィクションを絡ませた上田久美子先生の手腕が冴えわたる、『金色の砂漠』に続いて熱量を感じさせてくれる物語。登場人物の名前が一度では頭に入りませんが人間関係と物語の展開はよくわかりました。朝夏さん演じたロマノフの血をひくドミトリーは実在した人物とか。朝夏さん、長い手足に軍服姿がすごくお似合いで素敵でした。架空の人物イリナ大公妃を演じた怜美うららさんもこの公演で退団。色白で鼻筋が通っていて、横顔とドレス姿の美しいこと、美しいこと。セットは舞台道具の焚火だけという、凍てついたロシアの平原を散歩して、二人だけの登場シーンは終わります。その後亡命を拒んだイリナはロシア革命が起こると投獄されて亡くなったというドミトリーの声が流れます。二人の成就しない恋愛関係が余韻を残す描き方になっていて溜息がでました。真風涼帆さんのフェリックス、愛月ひかるさんのラスプーチンもお見事。皇女オリガの星風まどかさんの妹感はすごく可愛かったです。描きたかったのは、ドミトリーが何を成し遂げたかではなくどう生きたかということだとプログラムにあります。王族も貴族も民衆も誰もが生きたことを記憶に残したい、そんな思いを込めたそうです。上田作品は演者にとてつもないエネルギーを求めると思いますが、不器用にしか生きられない、矛盾と葛藤だらけの人間への愛に溢れている感じがして心に深く深く刻み込まれます。史実はむずかしいし、かなり厳しいですけどね・・・。またあらためてあれやこれやと書ければと思います。

『クラシカル・ビジュー』は朝夏さんと真風さん、男役同士が組んで踊る場面がいくつかあったのと終盤のシンプルな振付の燕尾服の群舞のダンスが印象的でした。曲はホルストイの組曲「惑星」かな。「はっ!」て掛け声があるところ、エリザベートのフィナーレダンスみたいで嬉しかったです。朝夏さんが一人一人と目を合わせるところ、真風さんへとバトンを受け渡していく場面も心に残りました。

 サヨナラショーの前に組長の寿つかささん、朝夏さんの経歴を紹介するとき声が涙ぐんでいらっしゃったかな。初舞台からの映像が流れましたが新人公演主演あたりで、望海風斗さんの姿があったのが花組で一緒だったことを最近認識できていたのでむねあつでした。サヨナラショーは、『王家の捧ぐ歌』の「エジプトは領地をひろげた」からスタート。観ていないですがこれはわかりました。観ていないので役柄の扮装で観ることができてうれしかったです。『VIVA!FESTA!』のソーラン節から、ソーラン宙組の場面は盛り上がりました。組子全員かな?が登場して朝夏さんを中心にして「ソーラン、宙組!」って叫ぶの。朝夏さん、客席下りされてました。すかっと爽快な気分にさせてくれる場面。4月30日の東京宝塚劇場千穐楽のライブビューイングを思い出しました。朝夏さんが退場されたあと、真風さんが客席を煽って「ソーラン、宙組!」を叫ぶ姿もかっこよく、声量ときれいな声に圧倒されました。こんな楽しいサヨナラショー、きっとお人柄がなせる組の雰囲気ですね。『王妃の館』の北白川先生になり、眼鏡の女性編集者が「頼まれていたお水です」って、ペットボトルのお水をもってくる場面も楽しかったです。燕尾服の真風さんが突然ルイ14世へとスイッチが切り替わり、え「世を主人公とした小説~」の台詞があり、編集者が「半年でずいぶん成長されましたね」だったかな台詞を言っている間、朝夏さんはずっとペットボトルの水を飲んでいる姿が可愛かったです。中盤の朝夏さんと怜美さんのデュエットダンスもすごく素敵でした。抱き合う場面もリフトもなく、シンプルでしたが二人の息の合った感じが最初で最後の儚さをもっていて溜息が出るような美しさでした。『エリザベート』から「最後のダンス」もありました。たぶん最後に歌われたのは、観ていませんが歌詞の内容からシェイクスピアかな。声のスィッチが切り替わっていたようにきこえました。次々と役柄がかわって、楽しいサヨナラショーでした。

 最後の挨拶は、袴ではなく、プログラムのポートレートと同じ白ネクタイの燕尾服で大階段を降りてこられました。同期のお花は星組紅ゆずるさんからお渡し。真っ赤な薔薇の花束。カーテンコールは5回だったかな。「みなさんから愛をいただいたお返しに」と投げキッスに客席から黄色い歓声があがっていました。最後は「またね!」がこれまたキラキラの明るい笑顔。本当に太陽のような方。同時退団される4人の娘役さんと銀橋をわたる姿もかっこよく、最後までご自身を貫かれている感でした。「無事千穐楽を迎えられてほっとしています」と挨拶されたのは公演中アクシデントもあったようなので本当にほっとされたんでしょうね。無事に楽を迎えられて本当によかったです。

 娘役さん4人、怜美さんは認識できるようになりましたが全員のお名前はなかなか認識できずです。ごめんなさい。紹介をきいていると3人が在団9年目、お一人が在団11年目。それぞれ挨拶されるとき納得の笑顔で輝いていました。10年前後という長い歳月を納得して悔いなく過ごせたなんて素敵なことです。心から拍手を送ります。

 心の中で拍手を送りながらまだ10年余りの歳月を悔いている自分がいることを思うと心が少し傷みますが、こうして社会から孤立していることを思うとやっぱり辛いですが今日はそんな話はやめにしましょう。二年前の今頃は立ち直っていく道筋が全く見えなかった自分がいたことを思うとここまでよくやってきました。こうして観劇の時間をもつことができているのだから幸せです。人生いろいろ。男役さんはすごく苦労されているので人にやさしいと聞いたことがあります。挫折もあったでしょうし、舞台ではわからない、いろいろなことを背負いながら今という瞬間(とき)があるんでしょうね。わたし、まだ自分の人生をあきらめていけない。くじけちゃいかんですね。現実的には、相談窓口に行くのは明後日なので明日は行くところがないんですね。外に出れば電車代やらお茶代やらかかります。でも部屋にはいられないので、心の健康を保つためにも外に出るしかありません。明日は明日で生き延びることを考えましょう。また戦闘服を着て仕事する気力も少しずつ戻って来たかな。今日は明るい太陽のような笑顔にいやされ、元気をいただきました。

 写真は9月18日、東京宝塚劇場にて。

2年前、帝劇で『エリザベート』に通っていたころ、宝塚のチラシをみながらスルーしてしまったのが悔やまれますがこうして少しだけでも間に合ってよかったです。



旅の思い出写真_ルーヴル美術館_アモルの接吻でよみがえるプシュケ

2017年09月24日 18時58分39秒 | パリから世界遺産を訪ねて
 わたし自身のための旅の振り返り、だんだんと記憶が薄れつつある2008年9月のフランスへの旅。ルーヴル美術館でどんな作品に出会ったのだろうかとまたようやく振り返ってみると、ありがたいことに公式サイトで臨場感たっぷりに作品をみることができます。当たり前のように日本語のサイトも用意されています。すごいですね。


http://musee.louvre.fr/oal/psycheJP/indexJP.html


 アクセスすると「ミケランジェロのギャラリー」の光あふれる中に展示されている所から作品をみることができます。思い出しました。ギャラリーに一歩足を踏み入れると、窓からの陽射しがたっぷりとあふれるなかで、大理石の作品が輝くように美しく、まるで命の鼓動が伝わってくるような生命感にあふれていたことを。不思議でした。惹き込まれました。幸せでした。表情豊かなのであちらからもこちらからもみたくて、周囲を二回か三回は回ったと思います。ずうっとそばにいたいような感覚にとらわれました。ガイドさんの声も弾んでいました。時間に限りがあるのが本当に残念でした。

 こんな解像度の低い、へぼい写真しか撮れませんでしたがこうしてネットで鮮やかな映像をみることができるなんてほんとにありがたい時代になりました。こうしてネットでいることができますが、作品の息づかいは飛行機に乗ってはるばるルーヴル美術館まで行かないと味わうことができないことにかわりはありません。かなり無理しましたが行ってよかったです。この世にいる間にまた行きたいな。もう一度会いたいな。


「アントニオ・カノーヴァ(1757年-1822年)
《アモルの接吻で蘇るプシュケ》
大理石 高さ1.55m、幅1.68m、奥行き1.01m

翼をつけた青年が、気を失った乙女が横たわっている岩の上に今降り立ったところです。これはラテン語でクピドとも呼ばれる愛の神アモルです。翼や、矢筒をもっているのことから識別できます。乙女の名はプシュケ、アモルの母である美の女神、ヴィーナスは、プシュケに冥界から瓶を持ち帰り、そしてその瓶を決して開けないようにと厳しく戒めます。

しかし、好奇心旺盛なプシュケは、瓶を開けてしまい、瓶から立ち昇る耐え難い臭気を吸って仮死状態に陥ってしまいます。気絶したまま横たわるプシュケを見たアモルは、プシュケの元に駆けつけ、矢の先でそっと触れて、まだ生きているのを確かめ ます。カノーヴァが捉えたのはまさに、この瞬間で、アモルは愛するプシュケを優しく抱き上げ、彼女の顔に自分の顔を近づけます。プシュケは身をゆっくりと後にそらし、けだるい動作で、恋人の首に手を回します。

カノーヴァは、古代ローマの作家、アプレイウスの『変容』に書かれた伝説をもとにこの像を作りました。そこには、神々が話し合いの結果、アモルとプシュケの結婚に合意し、プシュケに「魂の女神」という地位と永遠の命を与えたと書かれています。 」





24年が過ぎました

2017年09月23日 18時48分41秒 | 祈り
 昨夜から秋雨の涼しい一日、24年前の9月23日、突然旅立ってしまった妹を見送った時はすごく蒸し暑かったようが気がしますが、記憶はだんだんと遠ざかりつつあります。色々なことがありすぎました。七転八倒しながらここまで生きてきました。今のわたしはまた失業者で社会の中では何の価値もありません。父も母も旅立ったし、子供がいるわけでなし、わたしがいなくなったところで困る人は誰もいません。それでも自分のためにもう少し生き延びていきたい、わたしが生きることできっと妹の命も生き続ける、わたしが妹のことを語ることで妹の命も生き続けるという想いがあり、ちっそくしそうになりながらもなんとかこうして生き延びています。

4年前のわたしはクソな会社で強いストレスにさらされ続けながら耐えるだけ耐えていました。

2013年9月21日「秋の空に祈りを込めて」
http://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/7a0fc4ea071a8e413ac471fc2859de7f

3年前の秋のわたしは、クソな会社に使い捨てにされて半年後、気づいたら労働委員会での紛争になっており全く予想だにしなかった事態の渦中の中で、クソな弁護士に人としての尊厳を傷つけられて、さらに強いストレスにさらされ、体重は38キロを切っていました。

手帳にこんなことを書き綴っていました。その頃はブログに書くことができませんでした。

「2014年10月12日(日)

 今日も三度寝。7時頃人の話し声がきこえたような気がして目がさめてしまった。なんだったんだろう。わからない。たぶん、かなり疲れている。
 
 下北沢タウンホールで、サポコハウスオープン記念として、世田谷事件のご遺族の入江杏さんと世田谷区長の保坂展人さんの対談があった。断片的だが、記憶にあるところと自分の思いを書いてみたいと思う。

 入江さんは事件後6年間、事件遺族であることを隠し続けられたそうだ。6年後に本を出版された時、朝日新聞に大き写真が掲載され、初めて事件遺族の当事者として社会に顔を出された時、PTAのお母さんたちは、40人のうち3人しか気づいていなかった。「どうなってしまうんだろう」とドキドキしていたが案外人は気づかないものだ。社会に顔を出したりしたら、地域から孤立していくと忠告してくれる人もあったそうだ。

 〇月〇〇日の派遣法改正に反対する集会に行くとしたら、私はハケン切りにあった当事者としてどこまで堂々と社会に顔を出していける勇気があるか、行くべきか・・・、迷っている。もしメディアの目に留まって取材を受けることになったとしても、圧力がかかってくるので報道されるまでのハードルは高いそうだ。もし報道されるとしたら、メディアが求めるハケン切りにあった人間像になっていくんだろうな。私の思い、そのまんまということはあり得ない。社会の倫理観に訴えていくという意味でも必要ではあるが、当然賛成ばかりではない。むずかしい所だ。

 いじめで自殺した子どもの両親が納得できないと教育委員会に訴え続ける。最初は賛成だった社会が、いつの間にか、「あなたたちがゴチャゴチャ言わなければ話は終わるのよ」になって、無言電話がかかってきたり、嫌がらせを受けるようになる。いつの間にか、話は終わったことにされてしまい、なぜ子供は死んだのか両親は知ることができない、という話を保坂さんがされた。

 私は今回の雇い止めの件で、社会の仕組みがそうなっていることをすごく理解できる。当事者が真実を知るためには、はかり知れないエネルギーを消耗しなければならないのだ、こんなことでさえも・・・。同じ苦労をしている人は、世の中にたくさんいらっしゃるに違いない。

 グリーフ-仕事を突然失ったことも大きな喪失だ。13年間一生懸命働いてきて最後は部品のようにモノ扱いされて、使い捨てにされたというのは、やはり大変なことだ。このチャンスをどうこれからの人生に生かしていけるのか、私自身が問われていると思う。

 私は今自死遺族という私とハケン切りにあった「ワタシ」が社会の中でつながってほしくないと思っている。ハケンをやってきた「ワタシ」を上手く消化することができなくって、二人の私のバランスが自分の中でとれていない。悪いことしたわけじゃないし、別にいいのかもしれないが、どうなんだろう。よくわからない。ピンチはチャンス。両方の体験を統合して、生かしていくことだってできる。

 迷惑かけることは悪いことじゃない。困った時に、「助けて」、「教えて」といえる人間関係を持っていることが大切。迷惑かけたり、かけられたり、お互いさま。そういう場づくりとしてサポートハウスは必要というこどた。

 杏さんが、警察に対していちばんあるのは”怒り”だと最後に話された。私が★★会社で感じ続けてきて、でも一生懸命封じ込め続けてきて、でも封じ込めきれなくなった”怒り”という感情。利潤追求の企業社会の中では表現することが許されない感情だ。だからすごく息苦しかった。辛かった。”怒り”の感情と向き合う、ネガティブとされている感情と向き合う。表現することが許される場は限られている。どう向き合い表現していくのか-ずっと考え続けている。あらためて考えさせられる。自分の中にあって、見て見ないふりをできなかった”怒り”の感情-どう消化していくのか。手帳を読み返すと、怒りと辛さをずっと私は書いていて、★★会社で働くことが本当に苦しかったんだとあらためて思う。すごくねじれていた。これからどこでどうやって生きて行けばいいのか、答えは見つからない。

 一部上場の大会社を相手にしているので、示談に向けて、私が当事者として社会に顔を出していくしかない。ビラ巻きを私がやるのはつらいことを直接的ではないが伝えたら、ユニオンが私抜きでやってくれることになった。私はどこまでやれるだろう?やるべきだろう?わからない。雇い止めにあって、納得できないとがんばっていることで、今まで見えなかったたくさんのことが見えてくるようになった。きっとこれから生かしていけると思う。

「ハケンってそういうもんだってわかってやってきたんでしょ」、「自分の責任でしょ」、そういうの辛い。自己責任だけになってしまうのは苦しい。自死遺族という自分の立場を人に言えない、言ってはいけないような感じで長い間きたけれど、こうして今自己開示して受け入れられている。21年前はこういう社会ではなかった。場もなかった。そういう意味では社会は変わったんだと思う。いつの間にか変わっていた。21年は長い。貴重な日々・・・。」

2年前のわたしは擦り切れるだけ擦り切れて気力が尽き果てながら、社会への怒りと悔しさのマグマが噴火し続けるばかりでどうにもなりませんでした。あんなに働いていたのに、また働く自分の姿を想像することが全くできませんでした。

1年前のわたしは運とタイミングでご縁があった就労場所で働き、キイキイ声の上司に納得のできない怒られ方をし続けて耐えがたい日々なれど、一日一日で結果的に年末の契約終了までやり遂げました。

今年に入り、つながったご縁からさらに精神保健福祉士をもっていることで細切れですが仕事へとつながるご縁があり、スーパーウルトラハードな仕事を結果的に契約終了までなんとかやり遂げました。短期間でそれまで知らなかったたくさんのことを知りとても勉強になりました。父のこと、母のこと、妹のことの受け止め方も変わりました。そして今また仕事との縁が途切れている孤独な日々。ハードだとわかりつつ、スタミナもつかなという不安ありつつ、また同じ業務のアルバイトをやってみようかなという気持ちになってきています。一年がんばればいいんだし、がんばれなかったら逃げればいいだけのことだし、少しわかってきたことをやった方がまた一から全く知らないところでスタートしようとするよりも気持ちが楽だし、もう少し勉強してみたいという気持ちがあります。自死遺族支援に関わりたいとか、自殺防止に関わりたいとか、とりわけ3.11のあとは色々な想いがあふれかえりすぎるだけでなにができるわけでもない自分がもどかしくてどうしようもありませんでしたが、国家試験合格から10年余りが過ぎて、たまたま援助職のはしくれを経験しました。一般的には嫌がられるあまりいい仕事ではありませんが、お金をいただくための仕事としてどうしてもやりたいということはありません。だからというのもヘンなのかもしれませんが、資格が生かせるし、知らないところを手探りしながらさがしていくだけの時間もエネルギーもないのでせっかくご縁ができたところでもう少しやってみようかな。来週また相談窓口に行く予定なので、まだ間に合えばトライしてみようかな。

 24年が過ぎました。直後から自分を責め続けた、のたうち回るような日々が長い間あったことが遠いことのように思えます。杏さんにはブログにお名前を出して書いてかまわないということ、3年前に了承いただいています。3年が過ぎてようやく書けました。

 長文をお読みくださり、ありがとうございました。








秋のプリンス・エドワード島への旅_グリーン・ゲイブルズに別れを告げた朝

2017年09月22日 22時51分52秒 | プリンスエドワード島への旅
 秋のプリンス・エドワード島への旅、キャベンディッシュのキンドレットに3連泊したあと、いよいよシャーロットタウンへ戻らなければならないという旅の4日目、荷造りをすませると朝食前に大急ぎで、グリーン・ゲイブルズを訪れました。

 キンドレットのスィートルームに三連泊。シーズンオフだから叶った贅沢でした。靄がかかって、モンゴメリさんが描いているようにぴりっとかぐわしい朝でした。すごく寒かったですが荷造りしながら少しドアを開けて秋の朝の香りをすいこみました。カナダギースの鳴き声がきこえる贅沢なひとときでした。こうして書いているとあの朝の静かな光景が体の中によみがえってきます。幸せでした。

 キンドレットはグリーン・ゲイブルズから徒歩5分なのでこの旅の間何度訪れたでしょうか。今度いつ来ることができるのだろうと思うといつまでも立ち去りがたく、いつかきっとまた来ることができる、そう言い聞かせながら、モンゴメリさんの息遣いを感じたキャベンディッシュでの滞在は終わりました。3連泊の間にも紅葉・黄葉がどんどん鮮やかになっていって、お化けの森もいちだんときれいでした。

 写真を振り返りながら、これ以降プリンス・エドワード島を訪れていないことにあらためて気づきました。5年が過ぎました。早いですね。いつかまたこの世にいる間に訪れることはできるでしょうか。叶うならばルーヴル美術館とオランジェリー美術館にもまた行きたいし、マウリッツハイス美術館にもウフィツィ美術館にも行きたいです。まだまだこの世にいる間に行きたいところがあるし、楽しみたいことがあるのですが胃の痛みが止まらない毎日が続いています。大丈夫でしょうかね、わたし。何しているんでしょうかね、わたし。これからどうしていくんでしょうかね、わたし。あれやこれやと、書きたいと思っていたことがあったような気がしますができませんでした。自分の部屋にいられないような状況ってどうしようもないですね。疲れました。また明日・・・。


グリーン・ゲイブルズから眺めたお化けの森。
つたない写真ではお伝えしきれませんが見事な紅葉・黄葉でした。







時は流れました

2017年09月21日 19時20分38秒 | 日記
 1994年9月の妹とのお別れから何年が過ぎたことになるのか、数えれなくなってきました。それほどに時は流れました。直後から長い間自分を責め続けた日々のあったことが今は嘘のようです。自分を責め続けたことから、母が統合失調症だったことから心を病むということがどういうことなのか理解してくって、結果的に合格した精神保健福祉士という資格。スーパーウルトラハードだとわかりつつ、先般までやっていたのと同じ業務で11月初めごろから1年間、他でまたアルバイトを募集していることを知り迷い中。きついよ、すごくきつい。ちっそくしようになる。かといって全く知らないところにいって一からまたスタートするだけのエネルギーは沸いてこず、そこまでゆっくりさがしてもいられない。つらかったら辞めればいいだけのことなんだからまたトライしてみようかな。全然知らないことをやるわけではなく、そこまでなら気力をもどして書類の準備もなんとかできるかな。どうしてもやりたいという熱い気持ちがあるわけではなく少しの経験からやれるんじゃないかっていうそれだけ。生活あるし、舞台を観に行きたいし、社会から孤立し続けるの辛いしね。それがわたしに与えられた役割なのかどうかわかりませんが、せっかく縁ができた入口。今年に入って一緒にやった人たちとまた会える機会もほしいし、トライしてみるしかないかなっていう気持ちです。

 明日はいわさきちひろさんの絵に会いに行きたいと思っていますが遠いので迷うところ。昨日も睡眠不十分で目が覚めたのは外階段のカンカン、大きな足音だと気づいた次第。下の部屋で大きな音楽かけてるようにも聞こえましたが今朝の音でまたあのでかい足音だとわかりました。明日の朝はどうでしょうか。安心して眠れるかんきょうがほしいです。気力をふりしぼって福祉の仕事の相談窓口に行っていました。終わったらまた寄り道中。緊張しっぱなしで疲れますが帰りたいけれど帰りたくない部屋に帰りましょう。明日もなんとか生き延びていけますように・・・。


 フォトチャンネル、少しずつ整理中です。また仕事をできることになればほとんどストップします。ふらふらしている間にやれる範囲で思い出を整理中。まだまだぐちゃぐちゃ状態です。

 訪問ありがとうございます。