詳しく書くことはできませんが前進しています。動いています。
最後の大きな我慢のしどころ。
平日の居心地の悪さは相変わらずで苦しい時は続きますがここまできました。
心配してお昼を誘ってくださる方がいて心からありがたく思います。
なんだかヘンな感じですが、十数年己に鞭打って一生懸命に働き続けてきたのですから、
お休みの時間があっても許されますね。心はまだなかなかお休みできません。
卒業論文の参考資料から、かなり長いですがまた記載してみます。
よろしかったら読んでみてください。
「勤め人にとって<労働>が重要な要素であるからといって、ぼくがそれが栄光に満ちたものであるとか、生きる手応えを与えてくれるものだとか言うつもりは毛頭ない。むしろぼくの経験をもってすれば、それは常に食うためにやむを得ず我が身に引き受けるものであり、厭わしいものであり、腐触液の風呂に日々身を浸すような気持ちすらするものであった。
しかしそれと同時に、ぼくのなかにはいつも一つの問いがあった。食うために働いていることに間違いはないのだが、そして報酬は、少なくも働いて多く受け取るのが一番良いにきまっているのだが、もし次のように質問されたら自分は何と答えるだろう。
「君は今の仕事が自分の思い通りにできるのと、給料が上がるのと、どちらか一つを選べと言われたらどちらをとるか?」
ぼくは恐らく「仕事」を選ぶだろう、とその度にぼくは思った。
ということは、ぼくらが日々苦痛に感じ、そこからの脱出を願っているのは、労働そのものではなく、現在の労働または現在の労働のシステムなのではないか、ということを現している。
事実、ある瞬間、気付いてみると自分が一つの仕事に熱中してしまったという経験は誰にもあるのではないだろうか。そして自分が熱中する方向に仕事を推し進めようとするのを阻む者に対して激しい怒りを感じてしまうという経験が。その時自分の中に渦巻いてしまっているものは、けっして報酬への期待でも、昇給への欲求でも、同僚に対する競争意識ですらなく、純粋に労働そのものへののめりこみとでも言うような他に表現のしようのない何者かであるように思われる。
問題はここで二つ出てくる。一つは、その奇妙な時間に一体何が起こっていたのか、という点であり、他の一つは、そのような熱中がなぜ瞬間的にしか成立しないのか、という点である。第一の点について言うならば、そこにあったのは人間と労働との真の出会いであり、労働という行為がその中に本質的に持っている創造機能が、瞬間的でもあれ活動していたのではなかろうか。第二の点について言えば、もし外部からの力が加えられないとしても、その労働の結果について少しでも考え出したとたんに、たちまち熱中は自己崩壊してしまうからである。なぜなら、ぼくらの労働からは目的が奪われているのだから。非常に単純化して考えた場合、労働とは人間が人間の生活にとって必要なものを作り出す(自然に対して働きかけてそれを変質させる)過程だといってよいだろう。しかし今日これ程多くの商品に取り巻かれて生活していながら、ぼくらの生活にとって真に必要なものをぼくらが得ているとは決して言えないだろう。
それは当然のことなのだ。なぜなら、ぼくらは供給者としては生活に必要なものを生産しているのではなく、売れるものをつくっているのだから。どんなに生活に必要なものであっても、それが採算ベースに乗らない限り、または乗る見通しがない限り、特別の性格のものでない一般企業体は作り出すことができないのだから。逆に必ずしも人々の生活にとって真に必要ではないかもしれないものであっても、売れるものである限りぼくらはそれを作ることになるだろう。
(略)
労働の目的を奪われているというのは、たとえば今述べたような事情をさしている。つまり、自分が熱中して遂行した仕事が果たしてどのような意味があるのか、を考え始めた時、自信を持って答えられる環境の中でぼくらは労働に従事しているのではない。
別の側面から言えば、自分の仕事について対社会的な責任させ負い得るのかどうかも疑問な状況の中でぼくらは働いている。たとえば、自分の属する企業が欠陥商品を市場に送り出したことが判明した場合、それは俺が悪かったのだ、と言い切れる人間が果たしているのだろうか。商品を消費者に手渡したセールスの人間は、相手の怒りや困惑にじかに接するだけに恐縮したり、悩んだりはするだろう。しかし心のどこかでは、こんな商品を作りやがって、という製造部門への憤懣を抱いているに違いない。この憤懣のすぐ裏側には、本当に悪いのは俺ではないという声が口まで出かかって辛うじて飲み込まれている。
製造部門は製造部門で、俺達に技術屋としての良心を満足させ自分で納得できるような仕事をさせなかったのは誰なのだ、と低くつぶやいている。(略)ここで重要なのは、この空回りが当事者達の単なる責任転嫁によって起こるのではないという点である。責任転嫁せざるを得ないような構造の中でしかぼくらは働いていないのだ。つまり、どんなに力みかえって反省しようと思っても、非を悔いたいと願っても、ぼくらは消費者に対しては常に部分的にしか責任をとることができない。なぜなら、ぼくらは一つの商品の生産に関わる労働に部分的にしか参加していないのだから。危害を与えられた相手は、その商品の部分によって損害を受けているのではなく、全体によって痛めつけられているのだ。そして部分の積み重ねが常に全体であり得ない。(略)
言いかえれば、ぼくらは自分達の労働の全体が見えていないのだ。全体が見えなければ部分を正当に把握することもまた不可能となる。企業活動における各機能の把握とは、いわば抽象的な視点を企業内に据えたものであるのに対し、労働を見つめる視点はむしろ具体的な個人の中に根ざしている。労働の主体である個人の中にありながら、その視線は個人を越えて直接的に生産者と消費者を結びつけてしまう。その視線の中に初めてぼくらの労働の全体像は浮かび上がる筈なのに、この目を労働の細分化の中でぼくらは覆われているのだ、と言わなければならない。個人が組織の中の歯車でしかないという現象も、実はこの労働の在り方に深く根ざしている。
このような環境が、わが労働の場であるならば、ぼくらは常に行き止まりの路地を歩いていることになる。両手を縛られ、目隠しされたまま日々働いていることになる。労働への熱中というものが、ある時、人を捉えたとしてもそれが長続きするものではなく、たちまち崩壊してしまうのはむしろ当然のことだろう。何らかの形でぼくらは常にこのような労働の空しさを本能的に感じとっているのだから。我を忘れる仕事への埋没の瞬間とか、この仕事は俺がやったのだという創造の手応えなどというものは、日々の労働の中に咲いた徒花でしかない。 にもかかわらず、いやそれだからこそ、ぼくには瞬間的なものであれ、この労働への熱中が重要な意味を持つものだと思われてならない。
後でふりかえれば自分でも気恥ずかしくなるような労働への熱中がなぜそれ程までに重要なのか。その短い時間にあったものが、労働の空しさの対極に位置するからである。その短い時間の終わった瞬間に、ぼくらは熱中を梃子にして初めて労働の空しさを完全に自分のものとして感じとることができるからである。
今日の労働に従事するものが、労働を嫌悪し、またはそこに空しさしか感じていないということは、種々の働きがい調査や勤め人の意識調査などからみて明らかである。その現実は覆うべくもないのだが、しかしそれと同時に、自らの労働は空しいと感じ続ける人々の内部で、その空しさそのものが果たしてどれだけ意識化され、どれだけ深刻に自らの問題として把握されているかについては、改めて検討してみる必要があるのではないだろうか。
労働が空しいとするのは、いわば現代の常識である。この常識にあまりにも安易にもたれかかりすぎている点がぼくらにありはしないだろうか。わけ知り顔に労働の空しさをあげつらい、それですべて事は終わったとかんがえてしまう傾向がありはしないだろうか。結論はわかっているのだから、と言って問題の入り口で立止まってしまうことが多すぎはしないだろうか。たしかに結論はでているだろう。しかしその結論を自らに対し認めるか認めないか、あるいはその結論からさらに出発して自らをどこに向けて押し出していくかは、結論にたどりつくまでの過程如何にかかっている。
先日、(金融サービス業に属する大手企業に勤めている)友人からこんな話をきいた。ある時、その会社で大規模なセールスキャンペーンを実施した。そのキャンペーンを通じて、友人は一つのことにきがついた。キャンペーンが追い込みにはいり目標達成への締め付けが厳しくなるにつれ、特に若い社員達の間に一種の昂揚が生じ、奇妙な感動さえともないながら彼らは働いたというのだ。
その時感激して働いた若い社員にしても、その充実感をキャンペーン後の日常的な業務の中で永続させることは困難であったろう。キャンペーンの成果は企業に高収益をもたらすことはあっても、おそらく彼ら自身に真に納得できるような形の労働の大目的はなかった筈なのだから。つまり、客観的にはうまくおだてられ、働かされてしまったに過ぎない。にもかかわらず、彼らがずるずると昂揚の中にひきずりこまれていってしまう過程には、おだてられ、踊らされたのだと言ってすませてしまうことのできぬ何かがある。(略)
気に食わない上役に監視され、ケチをつけられ、食うために止むを得ず従事している筈の強制労働に、ある瞬間するすると魅入られるようにして自分の方から入りこんで行ってしまう。その時、初めて僕らは本当に自分に対して<労働とは何か>という問いを突きつけることができるのだと思う。その熱っぽい悪夢のような時間の中で垣間見たものは果たして何だったのだろうか、と。そして夢から覚めたこの砂漠のような日々の労働とは一体何なのだろう、と。つまり<悪夢>の視点で醒めた日常を凝視する時、その時にだけぼくらは今日の労働の空しさを自分のものとして獲得できるのだ。そのようにして痛みとして我が身に引き受けた労働の空洞であるならば、所詮働くとはこんなものさ、と諦め顔に寝転がっていることはできなくなるに違いない。少なくともそこまで自分を追い込んでみることが、まず問題の出発点に立つということであるだろう。考えてみれば、労働の空しさを真に感じ取ることさえ困難な環境の中で、ぼくらは日々働いているのかもしれない。
(略)
必要なのは、<悪夢>と醒めた日常とを同時に生き続けることなのだ。その時、人はおそらく二つのものに引き裂かれる自分を感じないわけにはいかないだろう。しかしこのような時代を生きる人間にとって、分裂は別に珍しいことではない。分裂の中からしか新しい生を獲得することができないのがむしろぼくらの生きる姿であるに違いない。
<悪夢>の中ではその時ひらめく血の稲妻で日常の空洞を赤々と照らし出し、日常の中では苛立ち焦りつつ<悪夢>への熱いあこがれを身に漲(みなぎ)らせ、この二つのものの間に自らを橋としてかける時、初めてぼくらは自分の日々の惨めさと、その中に潜んでいる可能性とに真っ向から対面することになるだろう。
この<可能性>が果たしてどのようなものであるかを、ぼくはまだ明らかにすることができない。今言えることは、それが今日の労働の貧しさと惨めさを乗り越えようとするものである以上、当然現代社会における労働の衰微の原因を取り除くものであると同時に、未来の社会における労働までを視野におさめたものでなければならない、という点である。(略)
しかし労働の細分化の中でぼくらが見失っている労働の全体像は、分業の問題が克服されない限り依然としてぼくらに与えられる保証はない。資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、分業がある以上工程の一部を分担する労働者は来る日も来る日も一本のネジをしめ続けることに変わりはないし、伝票をめくり続けることも同じだろう。その時、この生産物は人民の利益になるのだからといった抽象的な観念によって、人々が繰り返し労働の単調さから救われるとはとても思われない。
しかし、そこまで見透かすことのできるものでない限り、労働の中に、生きることの力を探り出す<可能性>とはとても言えないだろう。問題はあまりに大きく容易に論じられない。<可能性>の入口で立ち止まったところで、再び<サラリーマン>の問題に戻っていうならば、管理社会と呼ばれる巨大組織の中のまた特に緻密な組織を持つ企業の中で働く人々にとって、行方不明になった自分の情熱を探すこと、いや自分自身を探すことはほとんど絶望的な作業であるように思われる。国民のすべてに番号を振って行政管理の合理化をはかろうとする社会の中で、企業というものは常に尖兵的な存在である。そこでは、入社と同時に従業員には職番が振られ、既に遥かなる以前から番号による人間の管理が行われていたのであるから。しかし別の方向から光をあててみるならば、いわば管理社会の小典型である企業組織の中でこそ、人間はどのように生きることを望むものであり、どこにその手がかりを得ることができるかが、先駆的に問われているのであり、その答えが求められているのだとも言える。
ぼくらにとって決して生きよくはないこの組織の網の目の中で人間として直立するためには、まず自らの労働に目を向け、そこに自己の原点を探りなおし、その地点に突破口を見出す以外にないのではなかろうか。そのためには、<サラリーマン>という曖昧な言葉の中に自分を閉じ込めることを拒否すること、<サラリーマン>という表現を認めることによって意識面で労働から逃げ出すことを自分に拒絶することからすべては出発するのだ、と思われてならない。」
(黒井千次著仮構と日常』1971年、河出書房新社発行、64頁~より抜粋して引用しています。)
最後の大きな我慢のしどころ。
平日の居心地の悪さは相変わらずで苦しい時は続きますがここまできました。
心配してお昼を誘ってくださる方がいて心からありがたく思います。
なんだかヘンな感じですが、十数年己に鞭打って一生懸命に働き続けてきたのですから、
お休みの時間があっても許されますね。心はまだなかなかお休みできません。
卒業論文の参考資料から、かなり長いですがまた記載してみます。
よろしかったら読んでみてください。
「勤め人にとって<労働>が重要な要素であるからといって、ぼくがそれが栄光に満ちたものであるとか、生きる手応えを与えてくれるものだとか言うつもりは毛頭ない。むしろぼくの経験をもってすれば、それは常に食うためにやむを得ず我が身に引き受けるものであり、厭わしいものであり、腐触液の風呂に日々身を浸すような気持ちすらするものであった。
しかしそれと同時に、ぼくのなかにはいつも一つの問いがあった。食うために働いていることに間違いはないのだが、そして報酬は、少なくも働いて多く受け取るのが一番良いにきまっているのだが、もし次のように質問されたら自分は何と答えるだろう。
「君は今の仕事が自分の思い通りにできるのと、給料が上がるのと、どちらか一つを選べと言われたらどちらをとるか?」
ぼくは恐らく「仕事」を選ぶだろう、とその度にぼくは思った。
ということは、ぼくらが日々苦痛に感じ、そこからの脱出を願っているのは、労働そのものではなく、現在の労働または現在の労働のシステムなのではないか、ということを現している。
事実、ある瞬間、気付いてみると自分が一つの仕事に熱中してしまったという経験は誰にもあるのではないだろうか。そして自分が熱中する方向に仕事を推し進めようとするのを阻む者に対して激しい怒りを感じてしまうという経験が。その時自分の中に渦巻いてしまっているものは、けっして報酬への期待でも、昇給への欲求でも、同僚に対する競争意識ですらなく、純粋に労働そのものへののめりこみとでも言うような他に表現のしようのない何者かであるように思われる。
問題はここで二つ出てくる。一つは、その奇妙な時間に一体何が起こっていたのか、という点であり、他の一つは、そのような熱中がなぜ瞬間的にしか成立しないのか、という点である。第一の点について言うならば、そこにあったのは人間と労働との真の出会いであり、労働という行為がその中に本質的に持っている創造機能が、瞬間的でもあれ活動していたのではなかろうか。第二の点について言えば、もし外部からの力が加えられないとしても、その労働の結果について少しでも考え出したとたんに、たちまち熱中は自己崩壊してしまうからである。なぜなら、ぼくらの労働からは目的が奪われているのだから。非常に単純化して考えた場合、労働とは人間が人間の生活にとって必要なものを作り出す(自然に対して働きかけてそれを変質させる)過程だといってよいだろう。しかし今日これ程多くの商品に取り巻かれて生活していながら、ぼくらの生活にとって真に必要なものをぼくらが得ているとは決して言えないだろう。
それは当然のことなのだ。なぜなら、ぼくらは供給者としては生活に必要なものを生産しているのではなく、売れるものをつくっているのだから。どんなに生活に必要なものであっても、それが採算ベースに乗らない限り、または乗る見通しがない限り、特別の性格のものでない一般企業体は作り出すことができないのだから。逆に必ずしも人々の生活にとって真に必要ではないかもしれないものであっても、売れるものである限りぼくらはそれを作ることになるだろう。
(略)
労働の目的を奪われているというのは、たとえば今述べたような事情をさしている。つまり、自分が熱中して遂行した仕事が果たしてどのような意味があるのか、を考え始めた時、自信を持って答えられる環境の中でぼくらは労働に従事しているのではない。
別の側面から言えば、自分の仕事について対社会的な責任させ負い得るのかどうかも疑問な状況の中でぼくらは働いている。たとえば、自分の属する企業が欠陥商品を市場に送り出したことが判明した場合、それは俺が悪かったのだ、と言い切れる人間が果たしているのだろうか。商品を消費者に手渡したセールスの人間は、相手の怒りや困惑にじかに接するだけに恐縮したり、悩んだりはするだろう。しかし心のどこかでは、こんな商品を作りやがって、という製造部門への憤懣を抱いているに違いない。この憤懣のすぐ裏側には、本当に悪いのは俺ではないという声が口まで出かかって辛うじて飲み込まれている。
製造部門は製造部門で、俺達に技術屋としての良心を満足させ自分で納得できるような仕事をさせなかったのは誰なのだ、と低くつぶやいている。(略)ここで重要なのは、この空回りが当事者達の単なる責任転嫁によって起こるのではないという点である。責任転嫁せざるを得ないような構造の中でしかぼくらは働いていないのだ。つまり、どんなに力みかえって反省しようと思っても、非を悔いたいと願っても、ぼくらは消費者に対しては常に部分的にしか責任をとることができない。なぜなら、ぼくらは一つの商品の生産に関わる労働に部分的にしか参加していないのだから。危害を与えられた相手は、その商品の部分によって損害を受けているのではなく、全体によって痛めつけられているのだ。そして部分の積み重ねが常に全体であり得ない。(略)
言いかえれば、ぼくらは自分達の労働の全体が見えていないのだ。全体が見えなければ部分を正当に把握することもまた不可能となる。企業活動における各機能の把握とは、いわば抽象的な視点を企業内に据えたものであるのに対し、労働を見つめる視点はむしろ具体的な個人の中に根ざしている。労働の主体である個人の中にありながら、その視線は個人を越えて直接的に生産者と消費者を結びつけてしまう。その視線の中に初めてぼくらの労働の全体像は浮かび上がる筈なのに、この目を労働の細分化の中でぼくらは覆われているのだ、と言わなければならない。個人が組織の中の歯車でしかないという現象も、実はこの労働の在り方に深く根ざしている。
このような環境が、わが労働の場であるならば、ぼくらは常に行き止まりの路地を歩いていることになる。両手を縛られ、目隠しされたまま日々働いていることになる。労働への熱中というものが、ある時、人を捉えたとしてもそれが長続きするものではなく、たちまち崩壊してしまうのはむしろ当然のことだろう。何らかの形でぼくらは常にこのような労働の空しさを本能的に感じとっているのだから。我を忘れる仕事への埋没の瞬間とか、この仕事は俺がやったのだという創造の手応えなどというものは、日々の労働の中に咲いた徒花でしかない。 にもかかわらず、いやそれだからこそ、ぼくには瞬間的なものであれ、この労働への熱中が重要な意味を持つものだと思われてならない。
後でふりかえれば自分でも気恥ずかしくなるような労働への熱中がなぜそれ程までに重要なのか。その短い時間にあったものが、労働の空しさの対極に位置するからである。その短い時間の終わった瞬間に、ぼくらは熱中を梃子にして初めて労働の空しさを完全に自分のものとして感じとることができるからである。
今日の労働に従事するものが、労働を嫌悪し、またはそこに空しさしか感じていないということは、種々の働きがい調査や勤め人の意識調査などからみて明らかである。その現実は覆うべくもないのだが、しかしそれと同時に、自らの労働は空しいと感じ続ける人々の内部で、その空しさそのものが果たしてどれだけ意識化され、どれだけ深刻に自らの問題として把握されているかについては、改めて検討してみる必要があるのではないだろうか。
労働が空しいとするのは、いわば現代の常識である。この常識にあまりにも安易にもたれかかりすぎている点がぼくらにありはしないだろうか。わけ知り顔に労働の空しさをあげつらい、それですべて事は終わったとかんがえてしまう傾向がありはしないだろうか。結論はわかっているのだから、と言って問題の入り口で立止まってしまうことが多すぎはしないだろうか。たしかに結論はでているだろう。しかしその結論を自らに対し認めるか認めないか、あるいはその結論からさらに出発して自らをどこに向けて押し出していくかは、結論にたどりつくまでの過程如何にかかっている。
先日、(金融サービス業に属する大手企業に勤めている)友人からこんな話をきいた。ある時、その会社で大規模なセールスキャンペーンを実施した。そのキャンペーンを通じて、友人は一つのことにきがついた。キャンペーンが追い込みにはいり目標達成への締め付けが厳しくなるにつれ、特に若い社員達の間に一種の昂揚が生じ、奇妙な感動さえともないながら彼らは働いたというのだ。
その時感激して働いた若い社員にしても、その充実感をキャンペーン後の日常的な業務の中で永続させることは困難であったろう。キャンペーンの成果は企業に高収益をもたらすことはあっても、おそらく彼ら自身に真に納得できるような形の労働の大目的はなかった筈なのだから。つまり、客観的にはうまくおだてられ、働かされてしまったに過ぎない。にもかかわらず、彼らがずるずると昂揚の中にひきずりこまれていってしまう過程には、おだてられ、踊らされたのだと言ってすませてしまうことのできぬ何かがある。(略)
気に食わない上役に監視され、ケチをつけられ、食うために止むを得ず従事している筈の強制労働に、ある瞬間するすると魅入られるようにして自分の方から入りこんで行ってしまう。その時、初めて僕らは本当に自分に対して<労働とは何か>という問いを突きつけることができるのだと思う。その熱っぽい悪夢のような時間の中で垣間見たものは果たして何だったのだろうか、と。そして夢から覚めたこの砂漠のような日々の労働とは一体何なのだろう、と。つまり<悪夢>の視点で醒めた日常を凝視する時、その時にだけぼくらは今日の労働の空しさを自分のものとして獲得できるのだ。そのようにして痛みとして我が身に引き受けた労働の空洞であるならば、所詮働くとはこんなものさ、と諦め顔に寝転がっていることはできなくなるに違いない。少なくともそこまで自分を追い込んでみることが、まず問題の出発点に立つということであるだろう。考えてみれば、労働の空しさを真に感じ取ることさえ困難な環境の中で、ぼくらは日々働いているのかもしれない。
(略)
必要なのは、<悪夢>と醒めた日常とを同時に生き続けることなのだ。その時、人はおそらく二つのものに引き裂かれる自分を感じないわけにはいかないだろう。しかしこのような時代を生きる人間にとって、分裂は別に珍しいことではない。分裂の中からしか新しい生を獲得することができないのがむしろぼくらの生きる姿であるに違いない。
<悪夢>の中ではその時ひらめく血の稲妻で日常の空洞を赤々と照らし出し、日常の中では苛立ち焦りつつ<悪夢>への熱いあこがれを身に漲(みなぎ)らせ、この二つのものの間に自らを橋としてかける時、初めてぼくらは自分の日々の惨めさと、その中に潜んでいる可能性とに真っ向から対面することになるだろう。
この<可能性>が果たしてどのようなものであるかを、ぼくはまだ明らかにすることができない。今言えることは、それが今日の労働の貧しさと惨めさを乗り越えようとするものである以上、当然現代社会における労働の衰微の原因を取り除くものであると同時に、未来の社会における労働までを視野におさめたものでなければならない、という点である。(略)
しかし労働の細分化の中でぼくらが見失っている労働の全体像は、分業の問題が克服されない限り依然としてぼくらに与えられる保証はない。資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、分業がある以上工程の一部を分担する労働者は来る日も来る日も一本のネジをしめ続けることに変わりはないし、伝票をめくり続けることも同じだろう。その時、この生産物は人民の利益になるのだからといった抽象的な観念によって、人々が繰り返し労働の単調さから救われるとはとても思われない。
しかし、そこまで見透かすことのできるものでない限り、労働の中に、生きることの力を探り出す<可能性>とはとても言えないだろう。問題はあまりに大きく容易に論じられない。<可能性>の入口で立ち止まったところで、再び<サラリーマン>の問題に戻っていうならば、管理社会と呼ばれる巨大組織の中のまた特に緻密な組織を持つ企業の中で働く人々にとって、行方不明になった自分の情熱を探すこと、いや自分自身を探すことはほとんど絶望的な作業であるように思われる。国民のすべてに番号を振って行政管理の合理化をはかろうとする社会の中で、企業というものは常に尖兵的な存在である。そこでは、入社と同時に従業員には職番が振られ、既に遥かなる以前から番号による人間の管理が行われていたのであるから。しかし別の方向から光をあててみるならば、いわば管理社会の小典型である企業組織の中でこそ、人間はどのように生きることを望むものであり、どこにその手がかりを得ることができるかが、先駆的に問われているのであり、その答えが求められているのだとも言える。
ぼくらにとって決して生きよくはないこの組織の網の目の中で人間として直立するためには、まず自らの労働に目を向け、そこに自己の原点を探りなおし、その地点に突破口を見出す以外にないのではなかろうか。そのためには、<サラリーマン>という曖昧な言葉の中に自分を閉じ込めることを拒否すること、<サラリーマン>という表現を認めることによって意識面で労働から逃げ出すことを自分に拒絶することからすべては出発するのだ、と思われてならない。」
(黒井千次著仮構と日常』1971年、河出書房新社発行、64頁~より抜粋して引用しています。)