たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

黒井千次著『仮構と日常』より(2)

2014年05月11日 12時25分23秒 | 黒井千次著『仮構と日常』
詳しく書くことはできませんが前進しています。動いています。
最後の大きな我慢のしどころ。
平日の居心地の悪さは相変わらずで苦しい時は続きますがここまできました。
心配してお昼を誘ってくださる方がいて心からありがたく思います。
なんだかヘンな感じですが、十数年己に鞭打って一生懸命に働き続けてきたのですから、
お休みの時間があっても許されますね。心はまだなかなかお休みできません。

卒業論文の参考資料から、かなり長いですがまた記載してみます。
よろしかったら読んでみてください。


「勤め人にとって<労働>が重要な要素であるからといって、ぼくがそれが栄光に満ちたものであるとか、生きる手応えを与えてくれるものだとか言うつもりは毛頭ない。むしろぼくの経験をもってすれば、それは常に食うためにやむを得ず我が身に引き受けるものであり、厭わしいものであり、腐触液の風呂に日々身を浸すような気持ちすらするものであった。
しかしそれと同時に、ぼくのなかにはいつも一つの問いがあった。食うために働いていることに間違いはないのだが、そして報酬は、少なくも働いて多く受け取るのが一番良いにきまっているのだが、もし次のように質問されたら自分は何と答えるだろう。

 「君は今の仕事が自分の思い通りにできるのと、給料が上がるのと、どちらか一つを選べと言われたらどちらをとるか?」
ぼくは恐らく「仕事」を選ぶだろう、とその度にぼくは思った。
ということは、ぼくらが日々苦痛に感じ、そこからの脱出を願っているのは、労働そのものではなく、現在の労働または現在の労働のシステムなのではないか、ということを現している。
事実、ある瞬間、気付いてみると自分が一つの仕事に熱中してしまったという経験は誰にもあるのではないだろうか。そして自分が熱中する方向に仕事を推し進めようとするのを阻む者に対して激しい怒りを感じてしまうという経験が。その時自分の中に渦巻いてしまっているものは、けっして報酬への期待でも、昇給への欲求でも、同僚に対する競争意識ですらなく、純粋に労働そのものへののめりこみとでも言うような他に表現のしようのない何者かであるように思われる。
 
 問題はここで二つ出てくる。一つは、その奇妙な時間に一体何が起こっていたのか、という点であり、他の一つは、そのような熱中がなぜ瞬間的にしか成立しないのか、という点である。第一の点について言うならば、そこにあったのは人間と労働との真の出会いであり、労働という行為がその中に本質的に持っている創造機能が、瞬間的でもあれ活動していたのではなかろうか。第二の点について言えば、もし外部からの力が加えられないとしても、その労働の結果について少しでも考え出したとたんに、たちまち熱中は自己崩壊してしまうからである。なぜなら、ぼくらの労働からは目的が奪われているのだから。非常に単純化して考えた場合、労働とは人間が人間の生活にとって必要なものを作り出す(自然に対して働きかけてそれを変質させる)過程だといってよいだろう。しかし今日これ程多くの商品に取り巻かれて生活していながら、ぼくらの生活にとって真に必要なものをぼくらが得ているとは決して言えないだろう。
 それは当然のことなのだ。なぜなら、ぼくらは供給者としては生活に必要なものを生産しているのではなく、売れるものをつくっているのだから。どんなに生活に必要なものであっても、それが採算ベースに乗らない限り、または乗る見通しがない限り、特別の性格のものでない一般企業体は作り出すことができないのだから。逆に必ずしも人々の生活にとって真に必要ではないかもしれないものであっても、売れるものである限りぼくらはそれを作ることになるだろう。
(略)
 
 労働の目的を奪われているというのは、たとえば今述べたような事情をさしている。つまり、自分が熱中して遂行した仕事が果たしてどのような意味があるのか、を考え始めた時、自信を持って答えられる環境の中でぼくらは労働に従事しているのではない。
 
 別の側面から言えば、自分の仕事について対社会的な責任させ負い得るのかどうかも疑問な状況の中でぼくらは働いている。たとえば、自分の属する企業が欠陥商品を市場に送り出したことが判明した場合、それは俺が悪かったのだ、と言い切れる人間が果たしているのだろうか。商品を消費者に手渡したセールスの人間は、相手の怒りや困惑にじかに接するだけに恐縮したり、悩んだりはするだろう。しかし心のどこかでは、こんな商品を作りやがって、という製造部門への憤懣を抱いているに違いない。この憤懣のすぐ裏側には、本当に悪いのは俺ではないという声が口まで出かかって辛うじて飲み込まれている。
 
 製造部門は製造部門で、俺達に技術屋としての良心を満足させ自分で納得できるような仕事をさせなかったのは誰なのだ、と低くつぶやいている。(略)ここで重要なのは、この空回りが当事者達の単なる責任転嫁によって起こるのではないという点である。責任転嫁せざるを得ないような構造の中でしかぼくらは働いていないのだ。つまり、どんなに力みかえって反省しようと思っても、非を悔いたいと願っても、ぼくらは消費者に対しては常に部分的にしか責任をとることができない。なぜなら、ぼくらは一つの商品の生産に関わる労働に部分的にしか参加していないのだから。危害を与えられた相手は、その商品の部分によって損害を受けているのではなく、全体によって痛めつけられているのだ。そして部分の積み重ねが常に全体であり得ない。(略)
 
 言いかえれば、ぼくらは自分達の労働の全体が見えていないのだ。全体が見えなければ部分を正当に把握することもまた不可能となる。企業活動における各機能の把握とは、いわば抽象的な視点を企業内に据えたものであるのに対し、労働を見つめる視点はむしろ具体的な個人の中に根ざしている。労働の主体である個人の中にありながら、その視線は個人を越えて直接的に生産者と消費者を結びつけてしまう。その視線の中に初めてぼくらの労働の全体像は浮かび上がる筈なのに、この目を労働の細分化の中でぼくらは覆われているのだ、と言わなければならない。個人が組織の中の歯車でしかないという現象も、実はこの労働の在り方に深く根ざしている。
 
 このような環境が、わが労働の場であるならば、ぼくらは常に行き止まりの路地を歩いていることになる。両手を縛られ、目隠しされたまま日々働いていることになる。労働への熱中というものが、ある時、人を捉えたとしてもそれが長続きするものではなく、たちまち崩壊してしまうのはむしろ当然のことだろう。何らかの形でぼくらは常にこのような労働の空しさを本能的に感じとっているのだから。我を忘れる仕事への埋没の瞬間とか、この仕事は俺がやったのだという創造の手応えなどというものは、日々の労働の中に咲いた徒花でしかない。 にもかかわらず、いやそれだからこそ、ぼくには瞬間的なものであれ、この労働への熱中が重要な意味を持つものだと思われてならない。

 後でふりかえれば自分でも気恥ずかしくなるような労働への熱中がなぜそれ程までに重要なのか。その短い時間にあったものが、労働の空しさの対極に位置するからである。その短い時間の終わった瞬間に、ぼくらは熱中を梃子にして初めて労働の空しさを完全に自分のものとして感じとることができるからである。
 
 今日の労働に従事するものが、労働を嫌悪し、またはそこに空しさしか感じていないということは、種々の働きがい調査や勤め人の意識調査などからみて明らかである。その現実は覆うべくもないのだが、しかしそれと同時に、自らの労働は空しいと感じ続ける人々の内部で、その空しさそのものが果たしてどれだけ意識化され、どれだけ深刻に自らの問題として把握されているかについては、改めて検討してみる必要があるのではないだろうか。
 
 労働が空しいとするのは、いわば現代の常識である。この常識にあまりにも安易にもたれかかりすぎている点がぼくらにありはしないだろうか。わけ知り顔に労働の空しさをあげつらい、それですべて事は終わったとかんがえてしまう傾向がありはしないだろうか。結論はわかっているのだから、と言って問題の入り口で立止まってしまうことが多すぎはしないだろうか。たしかに結論はでているだろう。しかしその結論を自らに対し認めるか認めないか、あるいはその結論からさらに出発して自らをどこに向けて押し出していくかは、結論にたどりつくまでの過程如何にかかっている。
 
 先日、(金融サービス業に属する大手企業に勤めている)友人からこんな話をきいた。ある時、その会社で大規模なセールスキャンペーンを実施した。そのキャンペーンを通じて、友人は一つのことにきがついた。キャンペーンが追い込みにはいり目標達成への締め付けが厳しくなるにつれ、特に若い社員達の間に一種の昂揚が生じ、奇妙な感動さえともないながら彼らは働いたというのだ。
 
 その時感激して働いた若い社員にしても、その充実感をキャンペーン後の日常的な業務の中で永続させることは困難であったろう。キャンペーンの成果は企業に高収益をもたらすことはあっても、おそらく彼ら自身に真に納得できるような形の労働の大目的はなかった筈なのだから。つまり、客観的にはうまくおだてられ、働かされてしまったに過ぎない。にもかかわらず、彼らがずるずると昂揚の中にひきずりこまれていってしまう過程には、おだてられ、踊らされたのだと言ってすませてしまうことのできぬ何かがある。(略)
 
 気に食わない上役に監視され、ケチをつけられ、食うために止むを得ず従事している筈の強制労働に、ある瞬間するすると魅入られるようにして自分の方から入りこんで行ってしまう。その時、初めて僕らは本当に自分に対して<労働とは何か>という問いを突きつけることができるのだと思う。その熱っぽい悪夢のような時間の中で垣間見たものは果たして何だったのだろうか、と。そして夢から覚めたこの砂漠のような日々の労働とは一体何なのだろう、と。つまり<悪夢>の視点で醒めた日常を凝視する時、その時にだけぼくらは今日の労働の空しさを自分のものとして獲得できるのだ。そのようにして痛みとして我が身に引き受けた労働の空洞であるならば、所詮働くとはこんなものさ、と諦め顔に寝転がっていることはできなくなるに違いない。少なくともそこまで自分を追い込んでみることが、まず問題の出発点に立つということであるだろう。考えてみれば、労働の空しさを真に感じ取ることさえ困難な環境の中で、ぼくらは日々働いているのかもしれない。
(略)
 
 必要なのは、<悪夢>と醒めた日常とを同時に生き続けることなのだ。その時、人はおそらく二つのものに引き裂かれる自分を感じないわけにはいかないだろう。しかしこのような時代を生きる人間にとって、分裂は別に珍しいことではない。分裂の中からしか新しい生を獲得することができないのがむしろぼくらの生きる姿であるに違いない。
 
 <悪夢>の中ではその時ひらめく血の稲妻で日常の空洞を赤々と照らし出し、日常の中では苛立ち焦りつつ<悪夢>への熱いあこがれを身に漲(みなぎ)らせ、この二つのものの間に自らを橋としてかける時、初めてぼくらは自分の日々の惨めさと、その中に潜んでいる可能性とに真っ向から対面することになるだろう。
 
 この<可能性>が果たしてどのようなものであるかを、ぼくはまだ明らかにすることができない。今言えることは、それが今日の労働の貧しさと惨めさを乗り越えようとするものである以上、当然現代社会における労働の衰微の原因を取り除くものであると同時に、未来の社会における労働までを視野におさめたものでなければならない、という点である。(略)
 
 しかし労働の細分化の中でぼくらが見失っている労働の全体像は、分業の問題が克服されない限り依然としてぼくらに与えられる保証はない。資本主義社会であれ、社会主義社会であれ、分業がある以上工程の一部を分担する労働者は来る日も来る日も一本のネジをしめ続けることに変わりはないし、伝票をめくり続けることも同じだろう。その時、この生産物は人民の利益になるのだからといった抽象的な観念によって、人々が繰り返し労働の単調さから救われるとはとても思われない。
 
 しかし、そこまで見透かすことのできるものでない限り、労働の中に、生きることの力を探り出す<可能性>とはとても言えないだろう。問題はあまりに大きく容易に論じられない。<可能性>の入口で立ち止まったところで、再び<サラリーマン>の問題に戻っていうならば、管理社会と呼ばれる巨大組織の中のまた特に緻密な組織を持つ企業の中で働く人々にとって、行方不明になった自分の情熱を探すこと、いや自分自身を探すことはほとんど絶望的な作業であるように思われる。国民のすべてに番号を振って行政管理の合理化をはかろうとする社会の中で、企業というものは常に尖兵的な存在である。そこでは、入社と同時に従業員には職番が振られ、既に遥かなる以前から番号による人間の管理が行われていたのであるから。しかし別の方向から光をあててみるならば、いわば管理社会の小典型である企業組織の中でこそ、人間はどのように生きることを望むものであり、どこにその手がかりを得ることができるかが、先駆的に問われているのであり、その答えが求められているのだとも言える。
 
 ぼくらにとって決して生きよくはないこの組織の網の目の中で人間として直立するためには、まず自らの労働に目を向け、そこに自己の原点を探りなおし、その地点に突破口を見出す以外にないのではなかろうか。そのためには、<サラリーマン>という曖昧な言葉の中に自分を閉じ込めることを拒否すること、<サラリーマン>という表現を認めることによって意識面で労働から逃げ出すことを自分に拒絶することからすべては出発するのだ、と思われてならない。」

(黒井千次著仮構と日常』1971年、河出書房新社発行、64頁~より抜粋して引用しています。)

黒井千次著『仮構と日常』より(1)

2014年05月01日 11時00分15秒 | 黒井千次著『仮構と日常』
詳細を書くことはできませんが、辛抱の時は続いています。
かなりきついです。
もう限界だと何度も何度も思いながらここまで来ました。

同じような状況になっても、泣き寝入りするしかなく、ここまで来ることができない人たちの方が多いと聞きます。その人たちの分までふんばりたいと思います。誰かが声を上げていかないと何も変わっていきません。
ここまできたので、結果はわかりませんが最後までやり抜こうと思います。



卒業論文の参考資料からまたひろってみました。

長いですが、よろしかったら読んでみてください。
1970年代に書かれたものなので、お勤めする人を男性のみ想定して書かれてはいますが、
あらためて考えさせられます。
お勤めするとは自分にとってどういうことなのか、考えたところで何かが変わるわけではないでしょう。やはりまたそうするしかないとは思いますが、この機会に少しだけ考えてみたくなりました。



黒井千次著『仮構と日常』より

「ぼくは<サラリーマン>という言葉が大嫌いだ。自分が会社勤めをしていた時、他人にそう呼びかけられる度に、ぼくは抵抗を感じたし、今でも他人をさしてその言葉を使う気になれない。これはぼくの個人的な好みの問題ではなく、より本質的なところに深い根を持つ問題のように思われてならない。
 (略)

 いわゆる平均的な<サラリーマン>に自分が接近し始めると同時に、ぼくの中にその言葉に対する警戒と嫌悪が生まれ始めた。それ以降、退社するまでの十年間は、ぼくにとって<サラリーマン>という言葉に対する嫌悪の確認と、この言葉を自ら引き受けることの拒否のための日々であったように思われる。
 
 これは、自分が小説を書いていたから、<サラリーマン>という一般的な呼ばれ方を快く感じなかったというような単純な理由によるものではない。むしろ、企業の中に身を浸しつつ、その場における自分は一体何者なのか、自分にとって、ここでの仕事とはそもそも何であるのかと考え続け、そのことをテーマとして小説を書き続けながら、ぼくが次第に接近していったある認識に根差しているに違いない。<サラリーマン>という言葉が嫌いだ、と書きつけることによってぼくはこの文章を書き始めたけれど、<サラリーマン>という言葉によって一群の人間を捉えることは間違っている、とあえて言い直した方が正確な表現であるだろう。
 
 <サラリーマン>-salaried man-を日本語になおせば、<給与生活者>となるのが普通である。給料を支払われて生活する者をそう呼んで悪いはずはない。しかし、一人の人間の生活の全体、または主要な部分をとりだしてそれに名を与える時、この呼び名はなんという衰弱した印象しか与えないだろう。たとえば、この言葉を、<農民>とか、<商店経営者>とか、<労働者>とか、<医師>とかいう言葉と比べて見た時にその違いは明らかである。<サラリーマン>という表現は職業を表すものではなく、いわば経済的な生活形態を表現するものであるのは言うまでもない。しかしこの言葉が使われ、それによって名指される一群の人々の問題が論じられる場合、決して経済的な生活形態のみが取り扱われるのではない。ぼくらの中には、すでに抜きがたい<サラリーマン>イメージが定着しているのだ。
 (略)

 <サラリーマン>と言った時、一番素直にぼくらの口をついて出てしまうのは、<哀歓>とか<悲哀>とかいう言葉ではないだろうか。
 
 なぜこのような貧血的なイメージしか湧いてこないのか。理由は明白である。<サラリーマン>という言葉には、結果についての表現しかないからだ。つまり、ある人間が給料を支払われるのは、それが労働の結果だからであるのに、この原因の部分が脱落してしまっているからだ。<労働者>という場合、その具体的内容はともかく、身体を動かし頭脳を働かせ神経を酷使している人間のイメージが頭に浮かぶ。<医師>といえば病人にあい対している白衣を思い描くことができるし、<商店経営者>といえば店舗の中で忙しく立ち働く人の姿勢が感じられる。それなのに、<サラリーマン>からは何の労働のイメージも生まれてこない。
 
 <サラリーマン>とはもともと経済的側面にウエイトをおいた概念なのだから、その中にサラリーマンの原因である労働を求めるのは見当違いだとする意見があるならば、次の場合はどうなるだろう。<サラリーマンの不安>と<給料生活者の不安>という表現とを比較してみよう。本来は全く同じ内容をさす筈の表現が、この二つの間でかなりニュアンスの相違を生み出してくる。<給料生活者の不安>という場合、<不安>はもっぱら生活における経済面の問題に絞られるのに対し、<サラリーマンの不安>の場合、<不安>がカバーする領域は、経済的側面よりむしろ精神的な面により大きなウエイトがかかっている。後者の表現の背後にぼくらが感じ取るものは、満員の通勤電車であり、転勤への恐れであり、単調な仕事の連続に対する嫌悪であり、理解のない上司への憎しみと蔑みであり、自分のことが自分で決められない一つの機構の中に埋め込まれた人間の苛立ちであり、持ち家や自家用車への憧れと果たされる望みであり、現在の日々への漠とした不安であり・・・といったものではないだろうか。
 
 そうだとすれば、<サラリーマン>という語は<給料生活者>と同義の言葉なのではなく、経済的にみれば月々の給料に依存している人々の生活の全体、またはほぼ全体に近いものを内容としていると言わねばならない。
 
 問題は、<サラリーマン>という言葉が本来の意味をはみ出して使われていること自身にあるのではない。(略)そのような言葉を使って一定の労働に従事している人々の問題を論ずるところに間違いがあるのだ。一日24時間のうち、人間が最も活動的である昼間の7,8時間をそれにあてている<労働>の部分が抜け落ち、もっぱらその結果(報酬)だけに焦点を合わせた、<サラリーマン>という語を用いて論ぜられる<サラリーマン論>とは、常に誠に奇妙にして不毛な論議なのではあるまいか。そこには消費のイメージはあっても生産のイメージは拒まれている。うずくまる悩みの湿気を感じることはあっても、ダイナミックな苦しみや怒りの熱を見出すことは困難である。
 
 考えてみれば、しかしこのような奇妙な現象がおこるのは、それなりの必然性があるからだとも言える。つまり、<サラリーマン>の実生活において、<労働>とはそのように意識面から追放されている。または追放することが熱望されているものであるからに他ならない。会社を一歩出たらもう仕事のことは忘れたい、という思いは多くの勤め人がもっているものであるけれど、そしてそれは生活の知恵であり、ぎりぎりの健康維持法であるけれど、まさにその受身の疲れた姿勢こそが<サラリーマン>論を異常に肥大させる原因となっている。
 
 たとえば、よく言われる機構の中の小さな歯車だとか、組織の中の一つのネジでしかないという企業内の人間の捉え方も、どこかこの<サラリーマン>イメージの敗北性に関係あるにちがいない。たとえ現象面ではその通りのことがほとんどであるとしても、その問題を自己の正面に据え、それの克服の道を探ろうとする時、<サラリーマン>という言葉から出発する限りは何の実りも生み出すことができないのではなかろうか。機構といい、組織と呼ばれるものにしても、それが人間の管理そのものを目的とすることはあり得ない。企業体の目的を遂行するために機構はあるわけだし組織は生み出されるわけだ。その機構なり組織なりが本来の目的から独立して動き出してしまうところにもまた問題が生まれてくるわけではあるけれど、この問題の解決も常に本来の目的に立ち戻るという形で修正され続けることに間違いない。そうだとすれば、組織の中で生きる人々の問題を生身の人間の側から考えていくためには、組織が作り出された目的そのものと人間との関係を明らかにしなければ、ただ問題の周辺をぐるぐると廻り続けることにしかなるまい。
 
 組織の発生点、組織の機能点、言うならば組織の原点と人間の原点をぶつかりあわせるところにのみ問題克服の微かな可能性がぽっと点(とも)っている。この両点の接触の場、というよりむしろ衝突の場にあるものが、<労働>なのではあるまいか。そして<サラリーマン>という言葉の中からは、不思議にこの<労働>の部分だけがするりと脱け落ちている。ここに<サラリーマン>という語の欺瞞性がある。
 
 つまりぼくが言いたいのは、純粋に<給与生活者>を指す言葉として使うのでない限り、自分を<サラリーマン>であると認めた時、あるいは<サラリーマン>と他人に呼ばれることを自らに許した時、彼は自分で自分を騙したことになる、ということなのだ。なぜなら、その時彼は自分の<労働>から逃げ出して、無責任にも自分を曖昧模糊とした<サラリーマン>という名の影に売り渡したことになるのだから。彼がどのように巧妙に自己を欺いたとしても、朝になれば彼は職場に出かけて行くのだし、二日酔いであろうが寝不足であろうが出勤すればそこに厳として彼の労働が彼を待ち構えているのだから。


(黒井千次著『仮構と日常』1971年、河出書房新社発行、159-172頁サラリーマンの原点より抜粋して引用しています)